新聞配達店から先月招待券をもらった。神戸方面の展覧会をまとめて見る時についでに見ればよいと計画し、そして実行した。雨の日は出かけるのは好きではないが、17日しかつごうのいい日がなかった。
小磯良平記念美術館を訪れるのは、去年夏に『植物画世界の至宝展』以来だ。阪神の魚崎だとばかり思っていたが、そこからまだ六甲ライナー(ポート・ライナーではない)に乗り換える必要がある。2駅目なのに片道240円もかかる。これはかなり高いが、他の公共交通機関はないので仕方がない。それに恐らくそれくらいの料金でもかまわない人々が六甲アイランドには住んでいるのだろう。それにしてもなぜこんな殺風景な人工島に美術館を建てたかと思うが、一番の理由は適当な安い土地がなかったのだろう。その六甲アイランドにもたくさんのマンションが建ち、駅前から東を見ると、200メートルほど先のマンションの塊が軍艦のように見えた。まだまだ建つようで、美術館前にもカラフルな高層のが建築中だ。それらは昔のように1色ではなく、少なくても2色、場合によっては1棟で5、6色も使用する。色だけ見ればフンデルトヴァッサー並みだが、形はただの直方体で、まだまだ味気ない。価格が高そうなので筆者には住めないが、住めと言われても拒むだろう。下町感覚が皆無で、スーパーくらいはあるのだろうが、何となく何もかも消毒されているような気がする。人もまた消毒され切っているのでなければよいが、たくさんのマンションがあるというのに、誰も歩いておらず、駅にもやって来ないから、昼間でも夢ではないか思えるほど変な街だ。だが、雨天でもあるし、住民はみな自家用車に乗って日曜は三宮界隈に出かけるのだろう。美術館からの帰り、駅前で遠くのマンションの森の写真を撮っていると、その方向からひとりの20代前半の背の高いジーパン姿の女性が歩いて来た。電車が来ているようなので、こっちは切符を買って急いで階段をのぼったが、その女性は全く慌てず、後ろをゆっくりと階段を上がって来る。思ったとおり、電車はすでにホームに着いていて、筆者は慌てて入ったが、すぐに発車せず、30秒ほど待ちがあった。女性はそのことを知っていたので慌てなかったのだ。つまり、六甲アイランドの住人だ。そのことは雰囲気からわかった。すらりとして背の高い美人だが、つんと澄まして全く無味乾燥の雰囲気だ。経済的にはさほど困らず、品もそれなりによいのだろうが、ただそれだけのことで、感情が欠如した人形のように見えた。そしていかにも六甲アイランドのマンションにぴったり似合っていることだ。そうした住民がたくさん住むところによくぞ小磯良平を記念する美術館を建てたものだ。前にも書いたように筆者は小磯の絵にはさっぱり関心がない。きれいな絵だが、魂が入っていない人形のように見えるからだ。
石阪春生の絵は兵庫県立美術館で1、2点見たことがある。緻密に描き込んでいて、一度見ると忘れない印象深い絵だが、若い人が描く雑誌か何かのイラスト以上には思えないところがある。それはどこか小磯の絵に共通するもので、もっと言えば神戸人気質なのかもしれない。神戸というところは、大阪や京都に対して住むには最適とよく言われる場所で、洒落た感覚が昔のモダニズムの時代から今に伝わり、大阪や京都にない西洋的なものがよく似合う上品さが横溢している。関西における一般的なイメージはそうだろう。神戸の言葉は大阪弁とは違い、大阪人の耳からでも独特の柄の悪さを感じさせるが、その点から見れば乙に澄ました神戸も一皮剥けば別にどうってこともないものに思える。だが、神戸もいろいろで、六甲の山の手から浜べりの工業地帯にかけては住む人の層も違い、当然のことながら山は上品で、浜は柄がいささかよくないということになるのだろう。そんな神戸も六甲山が迫って土地が少ないから、山を削った土で海を埋めて土地を増やし、そこに街を作ることをずっとやって来た。六甲アイランドはそうして出来た街だが、そうしたところに住む人は、かつての山や浜という区別とは関係なしに住む新しい層が多いはずで、表面的にはもう上品か柄がよくないかはわからなくなっている。それでも街、あるいはマンションをきれいに保つためのルールはいろいろとあるはずで、スラム化したような場所は努めて排除される。だが、人間は垢を絶えず出す動物であるし、それに見合った部分が街中のどこかにあるのが自然で、消毒されたような街では、人々の垢じみた思いがどこでどう解消され得るだろうか。きっとマンションの1室ずつで案外野蛮なことが行なわれているのだろうとつい皮肉に想像してしまう。そして、前述の女性の無味乾燥な表情がそこに重なる。
今回知ったところによると、石阪は小磯の親友で神戸を代表するモダニズム詩人の竹中郁の甥に当たり、叔父の紹介で小磯に支持した。昭和4年(1929)生まれで、製粉業を営む家に生まれ、高校生の頃から絵画に興味を示し、関西学院大学の絵画部で本格的に油彩画を描き始めた。また、これは見たことはないが、神戸のタウン情報誌の表紙画を長年描いていて、神戸ではよく知られているという。今回は小磯良平記念美術館に寄贈された作品と、各地にある代表的な作品を合わせた70点ほどを展覧するものだ。初期から現在までの作風がよくわかるようになっていた。筆者の下の妹が昔よく言っていたが、俳優の石坂浩二の描く絵の構図や女性ポーズなどが、少女時代に読んだ週刊の女性漫画誌の表紙絵にとてもよく似ているそうだ。妹はそうした漫画を盛んに模写し、いろいろと分析してよく知っていたのだ。妹の意見が正しいかどうかはわからないが、石坂浩二の描く緻密なペン画による女性像を見ても、それが芸術的価値があるとは思えない。イラストとして見ても面白くないもので、描かない方がどれだけいいだろうとさえ思う。だいたい芸能人の描く絵はすべてそうだ。昨今の芸能人で本物の画家の顔と思わせるような者がひとりとしているだろうか。ま、それはさておき、「さか」は「さか」でも「阪」の石阪氏の絵が、その石坂氏の絵とだぶって仕方がない。もちろん印刷したものにしろ、並べ比べてみたことはないが、脳裏の中では印象がだぶるのだ。これは長年描いて来ている画家の石阪氏にすれば迷惑なことだ。それでも表面的にどことなく似ているというのは、石阪氏も石坂氏もその絵を好きという人は共通しているのではないだろうか。だが、石阪氏は画業の初めから現在のような作風ではなかった。そこに至るまでには紆余曲折がある。近年の作の1、2点だけを見て好悪を言うのはまずいということだ。そして石坂氏の方はそんな本格的画家としての長い道のりを辿っていない分、絵がよりイラスト的、いや単なる軽いイラストそのものでしかあり得ないとしても当然な話だ。
展示された75点は油彩とコラージュだ。油彩は、1「抽象表現主義の時代(1956-65)」、2「線描様式によるイメージの復活(1966-70)」、3「<翼の城>と女のいる風景への序章(1971-75)」、4「女のいる風景(1976-85)」、5「女のいる風景2(130号大作の始まり)(1986-1990)」、6「女のいる風景3(1991-97)」という6つのコーナーに分かれていた。コラージュは12点で、そのうち11点が1994年の作品だ。これは雑誌の切り抜きあるいは自分で撮影したものかもしれないが、神戸の建物や船などのカラー写真を用いて貼り合わせ、そこに水彩絵具やインクで加筆してある。サイズはみな40×55センチほどだ。とてもかっちりとした構成と仕事振りで、そのカラフルで密度の高い表現は、まるでエルメスかどこかの伝統ある洒落たスカーフの模様に連なって見える。また、色合いには独自の感覚があり、色彩に鋭敏なところをはっきりと伝えてくれる。油彩画との関連はさほどはっきりと見出せないが、それは油彩は油彩、コラージュはコラージュと分けて考えているためであろう。また、これらのコラージュはどこかデジタル時代にとても似つかわしい複雑な構成と繰り返し表現があり、大きく拡大して見ても面白い味わいが出るだろう。具象イメージを用いながら、どこまで抽象表現が可能かを楽しんで実験している風で、そこはこの画家の油彩の画業を概観すればよく納得の行くものだ。ふたつの部屋を使用して作品が展示されたが、筆者が面白いと思ったのは最初の部屋だ。先の区分で言えば1から4までの仕事だ。それ以降は際限のない再現の繰り返しの感がして、いささか食傷気味になり、足早に作品の前を素通りした。それは芸術家としての霊感が枯渇したためとも言えそうだが、描き込みの密度は高いままを保っていて、その点では手抜きはない。枯れた表現とはもっと別種のもので、氏はまだまだ枯れたとは言い難い。だが、まるで記号と化した女性像を、あたかもハンコを押すがごとく毎回繰り返して描くことはどうしてだろう。その女性は大抵は横向きの顔を見せているが、その顔がまた上唇の高さが異常にあって、ほとんど漫画的表現だ。思わず絵の前に立って描いてみたほどだ(下に画像を掲げる)。だが、誇張はしていても、こうした唇を持った代表的な女優はたとえば石坂浩二の夫人であった浅丘ルリ子で、石阪氏はひょっとすれば昔ファンであったのかもしれないと穿ったことを考えてしまう。つまり、とても古風で、言うなれば昭和のモダニズムの香りがする。骨董と言い換えてもよい。実際氏はこの記号的女性像を骨董品とともによく描く。
コーナー1の抽象絵画は、マーク・ロスコの例の画面を上下に分けて矩形を描くものや、ニコラ・ド・スタール張りのカラフルで太いタッチが見られるなど、それなりに時代の影響を感じさせるが、それでも氏独自の味わいが立ち昇っている。それは一言すれば香りのある女性的と言えばいいかもしれない。どこか繊細で、そして緻密な計算による仕上げ、洒落た色の感覚といったことが特徴だ。たとえばアンフォルメルの動きに反応したような作風のものもあったが、氏の場合は抑制された範囲内に収めることで、自分の作風を守ろうという意識が見られる。ポロックのドリッピングの技法を模した箇所もあったが、これもそのまま模倣するというものではなく、ある一定の限度にとどめている。全体としてこの時期の作品は独自の抽象世界を見出しているとは言い難いが、「ある旗手の碑H」(1965)では横長の画面の真ん中に文字や記号の集合が描かれ、確実に作風を進めていることがわかる。コーナー2では、そうした文字や記号の集合体とは別に、はっきりと何かとわかるイメージが入って来る。それはルネサンスやバロック時代の彫刻の部分の写実だが、やがてそれが主流となって文字や記号は用いられなくなる。この抽象から具象への橋わたしの過程において、実際の人物写生ではなく、彫刻という一種のオブジェを用いたことは、この画家のその後の仕事を決定づけている。コーナー3ではついに着衣の女性の全身像が登場するが、「文字盤と二つの人形」(1975)のように、時に西洋人形と一緒にそれは描かれるのは大いに示唆的だ。氏におけるトレード・マークとなった若い西洋人的風貌の女性像は、人形的であり、記号的である、つまり抽象的な存在ということなのだ。それが本物の人間のような血の通いを感じさせなくてもかまわない。氏はそんな意味でこの女性を描いているのではない。では何かとなるが、女性の本質を突き詰めて行くと、男にとってはそれは全く捉えどころのないものであり、文字や記号と同じように謎めいているのだ。女を描こうと思うほどに身動きが取れず、同じことの繰り返しになる。理想の型はすでに手に入れているが、それは型であって本物とはまだ乖離がある。いや、永遠にそうだろう。だが、どうすることも出来ない。氏の描く絵は伊東深水の美人画とは全然違うものだが、それでも女の核心の何かを描こうとしている点では共通しているように思える。しかし、氏の描く理想の女性像は筆者にはいささか古いタイプに思えて共感はない。それは世代が違うことによる避けられない定めだ。最後になるが、氏が繰り返し描く女性の存在する雑多な静物画ないし風景画と呼んでよい絵は、グリザイユに多少の淡彩な施したようなタッチの点においても、藤田嗣治の作品に強く影響を受けている気がする。また鉛筆による女性像のデッサンは素晴らしいもので、氏の素描力が師の名を汚さないものであることがはっきりとわかる。