牡丹はとっくに枯れて葉だけになっているが、ようやく東洋陶磁美術館に17日に行った。雨は降らず、蒸し暑く、眩しかった。中之島は地下鉄で梅田の次の駅にあり、いつも歩くことにしている。
アメリカ大使館手前の老松通りを東に進み、裁判所の裏手に出て、そこから鉾流橋をわたれば左手が美術館、右手が公会堂だ。美術館の前の通りは大阪女子国際マラソンのルートになっているが、土佐堀川沿いの公園は去年から長らく工事中で、以前にあった野外ステージやテニス・コートがどうなるのか、今しばらく工事は続きそうだ。館の北面、堂島川沿いには薔薇園があるが、すでに散っているので立ち寄らなかった。話を戻して、老松通に入る時、角にあったはずの古美術店がなくなっていた。それに、もう少し先にあった古風な石造りの建物も、その中に入っていた八百屋も消えていた。少し見ない間に次々と街は変化する。一遍に一変しないので、同じ通りとはわかるが、それにしても変化が速い。この美術館はよく訪れているが、さきほど調べてみると、前回は2004年でブログを始める前であった。つい半年ほど前と思っていたのでまた驚いた。本当にここ数年は2、3年間が20代の頃の半年に相当する感じだ。これはそれだけ考えの成長がないことを示すのだろう。老いるほどにその成長速度は鈍り、さらには下降する。いや、もうそれは始まっている。若い世代は若さを無敵の魅力と思っていて、それは一面正しいが、人生の下降線の中でしか見えて来ないこともある。でなければ、人生の意味はそもそもない。話は変わるが、10年ほど前にK先生と女性観についてちょっとした話になった時、先生はしょんべん臭い若い女よりも、大人の女がよいと語った。その頃の先生はちょうど今の筆者の年齢だ。先生の意見に同感したものだが、一方で筆者の友人には10代の女性にしか興味のないのがいて、そのロリコン趣味はさっぱり理解出来ない。50代で10代の女性がいいと言うのは、人間としてちょっと頼りないと言うか、異常なことに思うが、これは歳相応に自分の老いを恥じるがよいとの意味からではない。むしろ逆だ。10代の子どもなどアホらしくて相手に出来ないという意味だ。若いことに絶対的価値を置かない見方で、たとえば20代の美人が自惚れて歩いているとして、「それがどうした」という思いだ。若い女性のその若さを男が讃えるのは当然としても、女は若さだけが魅力ではないことをもっと男が知らせるべきではないか。したがって、50代の男が10代の女をいいと言うことなど、女を馬鹿にしていると思うのだ。
牡丹の花は女にたとえると文句なしに大人の女だ。40代、いや50代でなければ出て来ない風格を持った花とも言える。若い女には到底似合わない。蕪村のあまりに有名な「牡丹散りて打ちかさなりむ二三片」の句は、その豪奢な牡丹がさらに花弁を落としている図で、これは崩れ行くものに内蔵する美を見事に描写している。女で言えば40代、50代だ。江戸時代ではもう少し若いだろうが、「大人の女」であることには変わりはない。だが、ここで誤解してもらっては困る。どんな4、50代の女でも女の魅力をふんだんに撒き散らすかと言えば全くそうではない。むしろその方が少ない。男でも女でも同じことで、大人の魅力をたたえるには、それなりのたゆまぬ努力が欠かせないし、性質性格もある。心持ちが悪ければたちまち醜悪さが露になるだろう。花弁を散らす牡丹にしても同じことで、それがそれなりに美しく見えるのは牡丹の心がいいからだ。あれっ、これは違うか。そう思い込む人の心が美しいからか。いずれにせよ、蕪村はK先生のように、大人の女の魅力をよく知っていたと言いたいのだが、今回の小展覧会は、そんな文学における牡丹の紹介も含めて、今までにない工夫の見られる企画展になっていた。もちろん蕪村の先の句の紹介もあって、それが部屋の正面、天上近い展示ケースの上面に白い文字で大きく書かれていた。今回はこの館が所蔵する牡丹をモチーフにした陶磁器の名品と、それ以外の資料によって牡丹の魅力を多角的に紹介する内容で、これは館蔵品を主体にする点において経費がかからないこともあって、後は添え物でどうにか多様さを工夫しようとの考えによるものだ。同じようなことは他の美術館でも近年はよく見られる。館蔵品を違った切り口で展示すると、目先が変わってまた作品の新たな見方も引き出されるし、それなりに話題となって客集めも出来る。これは学芸員の手並みの発揮のしどころとも言え、所蔵する美術品の新しい解釈の仕方の提示にもつながって、いつ行っても同じ展示の常設展よりかははるかに意義はある。
東洋陶磁美術館であるので、所蔵品は大部分が中国と朝鮮、そして若干日本のものもある。牡丹をモチーフに描く陶磁品もこれら3つの国のものが並んだ。2階に上がってすぐ右手の特別展示室は正方形に近い30畳ほどの部屋で、そこに並べられる作品数は21点とごく少ない。だが、選り抜きのものを並べることで充実感を持たせていた。それに今回は出入口手前に牡丹のカラー写真のパネルが10点ほどかかげられて華やかさを演出し、さらに陶磁器の展示の合間の壁面には牡丹の実物標本が数点かけられた。これらは1990年4月1ら9月にかけての鶴見緑地での「花の万博」に出品物を標本にしたもので、大阪市立自然史博物館から借りて来られた。牡丹の標本は初めて見たが、大きくヴォリュームのある花なので、押し花にするのは無理があるように思うが、どうにかぺしゃんこになっていた。室内は時計と反対回りに見るようになっていて、1「牡丹のあれこれ 基本編」、2「牡丹のあれこれ 中国編」、3「日本編」、4「韓国編」の4つのパートに分けられていた。各パート毎に牡丹にまつわるちょっとしたエピソードが書かれたパネルがあり、牡丹をモチーフにした陶磁器の背景がわかる仕組みだが、実際は展示品はこれらのパートとは何の関係もない。パネルは単なる息抜きだ。また、出入口の正面向こうの陳列ケースには、京都建仁寺の龍の天上絵を描いた小泉淳描く「墨牡丹」の掛軸が江戸期の有田焼「色絵牡丹文八角壷」の左隣にかけられていたが、これも単調さを破る試みで、あくまでも豊かな牡丹の世界を演出するためのもので、それ以上の理由はない。だが、欲を言えば、村上華岳の牡丹を持って来て展示してほしかった。「墨牡丹」は個人蔵であったが、華岳の適当な良品で個人蔵は見つからなかったのだろう。各パネルの説明を以下にまとめる。まずパート1の「牡丹の名の由来」。明の名医李時珍(1518-93)の中国本草学の集大成「本草綱目」(1596)に「牡丹以色者為佳、雖結子而根生苗、故謂之牡丹」ある。これは「牡丹は色の紅いものがよい、種は結ぶが新苗は根から生ずることから牡丹と言われる」との意味だが、「牡」の字は種は結ぶが単独で苗を生ずる点で性繁殖のないオスを示すことを知る必要がある。上田秋成の「胆大小心録」にもこのことは出て来るが、牡丹がオスならば、牝丹があるはずで、それは何かとなるが、これは芍薬を言うようだ。「牝丹」を筆者はいつも「メタン」と発音してメタン・ガスを連想してしまうが、実際芍薬はひどく臭い。また、学名のPaeoniaはギリシア神話の医の神Paeonに由来する。牡丹の呼び名はさまざまで、「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」以外に、「天香国色」「深見草」「二十日草」「鎧草」という耳慣れないものもある。
パート2のパネルは、「牡丹名人と牡丹狂騒曲」と題して中国での牡丹人気を説明していた。唐の長安では玄宋皇帝(在位712-56)が牡丹栽培の名人、宋単父(ぜんふ)を洛陽から招き、驪山の御苑で優良種牡丹1万株を栽培させた。それらはすべて違う品種であったとされ、皇帝は単父に金千両を贈り、単父は「花師」と呼ばれた。しだいに牡丹は民間に広まり、見頃の旧暦3月15日前後の20日ほどは長安城内は花見客で賑わったが、そのことは白居易(772-846)の「花開き花落ちる二十日、一城の人皆狂うがごとし」(「牡丹芳」)や、劉禹錫(772-842)の「ただ牡丹のみ夏の国色あり、花開く時節に京城を動かす」(「牡丹賞」)といった当時の詩人の作からわかる。中国では牡丹が国花であったが、1929年中華民国政府は梅を国花とし、20年後の人民共和国は公式の国花を廃した。去年のネット投票では梅が35、牡丹が38パーセントの支持率を得、2008年のオリンピックまでに国花が決まる予定となっている。続いてパート3。日本では天平5年(733)完成の「出雲風土記」に薬草として初登場しし平安時代の日本最古の百科事典「和名類聚抄」(源順編)には草類編として「牡丹和名、布加美久佐」の記載があり、「枕草子」では「殿などのおわしまさで後」の条で「台の前に植えられたりける牡丹などのをかしきこと」と牡丹を愛でている。「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」のたとえは、天明年間(1781-9)の「譬喩尽」にすでに見られるが、いずれの花も婦人の薬草であるところが面白い。パート4。新羅の善徳女王(632-47)に唐から牡丹の絵と種が伝わり、それを見て女王は「この花は香りません」と言ったが、実際に植えているとそのとおりで、女王は家臣の質問に対し、絵に蝶が描かれていなかったからと答えた。牡丹に香りがないのは事実ではないが、薔薇よりははるかに香らないと思う。高麗時代の詩人李奎報(1168-1241)の詩「折枝行」に、牡丹と女性とどっちが美しいかと問われる話がある。もし花と言うならば、今宵は花と寝て下さいと女性はやり返す。朝鮮時代(1392-1910)では婚礼の席に牡丹図屏風が欠かせない調度となって、貧しい人でも使えるようにと村にひとつはあったという。牡丹は夫婦の豊かな未来を約束する象徴であった。
次は展示品。「緑釉黒花牡丹文瓶」(重文)は、北宋から金にかけて(12世紀)の磁州窯で、白地掻き落としにさらに低火度の緑釉をかけて再焼きしたものだ。牡丹は縦長の胴体に収まるように描かれていて、文様化が著しく、牡丹と言われなければそうとは見えないと言ってよいが、不思議なことにこうした堂々たる文様の花は牡丹以外には考えられない。それほど牡丹は他の花からは図抜けて豪華ということだ。牡丹の文様化は獅子のたてがみのそれとかなり共通する部分があるが、百獣の王とのセットとしてはそうも当然であろう。となれば、いつか陶磁における獅子の表現をテーマに企画展がなされるかもしれない。次の「白釉劃花牡丹文面盆」(北宋12世紀)は同じく磁州窯で、今で言う大きな洗面器だが、その底に大きく牡丹がデザインされる。味気ないプラスティックの無色の洗面器もうもう少しデザイン的に工夫する必要があるだろう。「紅緑彩牡丹文碗」(重文、金・秦和元年1201年の在銘)は、白化粧をして透明釉をかけて焼き、さらに赤と緑で上絵つけして再焼きした民窯らしい素朴さを持ったもので、今まで宋赤絵と呼ばれて来たが、近年の調査が金時代以降と判明した。磁州窯系で個人蔵だ。「三彩印花牡丹文盤」(遼11-12世紀)は、金銀や木製品の写しとされるが、杯を載せるお盆であることが同時代の壁画からわかる。横長楕円の中、中央に牡丹、両側に蝶が飛ぶ絵を表わす。「白磁刻花牡丹文瓶」(北宋10-11世紀)は、北宋五代名窯のひとつである定窯のもので、中国白磁のひとつの頂点を示す作。元々うすく厚みであるところに深く文様が彫り込まれているた驚くほど軽いという。凛々しい気品に満ち、1000年前の職人の技術に驚くほかないが、それが完全な形で伝わっているところがまた奇跡に思える。「白磁銹花牡丹唐草文瓶」(重文、北宋11-12世紀)は、全体に鉄泥を塗り、文様の輪郭や細部を線刻して背景を掻き落として白磁の白に鉄銹色を浮かべたもので、定窯では珍しい技法が見られる。「青磁刻花牡丹唐草文瓶」(同)は、耀州窯のオリーヴ・グリーンの釉色とそれを生かす独特の彫文様に特徴があり、世界的名品となっているものだ。よく見慣れているものだが、改めて別の文脈で見ると印象がさらに深い。「青磁刻花牡丹唐草文梅瓶」(元14世紀)は、龍泉窯の厚くたっぷりとかかった釉はきれいなグリーンを呈している。「清香美酒」銘の例もあることから酒を入れたと考えられている。「青花牡丹唐草文盤」(重文、元14世紀)は、景徳鎮窯でコバルト顔料の濃淡で表現される。東畑謙三氏の寄贈。「釉裏紅牡丹文盤」(明、洪武年間1368-98)は、元に誕生した釉裏紅が洗練された形と文様に発展した時期のもの。釉裏紅は黒ずんだり色抜けが多いが、この作も中央部分以外は褪色したように見える。「瑠璃地城花牡丹文盤」(重文、明、宣徳年間1426-35)は、ダーク・ブルーの深みある青地に白抜きの一枝の牡丹が表現される。「五彩牡丹文盤」(明、万暦年間1573-1620)はコバルト顔料の青に上絵具の赤、黄、緑を加えて4輪の牡丹を表現している。時代を追うごとに華やかさが増して来ることがはっきりとわかる。次に朝鮮のものとして、高麗時代12世紀の「青磁象嵌牡丹文陶板」「青磁象嵌辰砂彩牡丹文壷」「青磁象嵌牡丹文壷」、朝鮮時代15世紀の「粉青象嵌牡丹文扁壷」、そして民芸風の趣がたっぷりな李秉昌博士寄贈の「青花辰砂牡丹文壷」(京畿広州官窯19世紀)、安宅昭弥氏寄贈の「青花辰砂牡丹文瓶」(同)が並んだ。ふと見ると、出入口入って正面のパネル背後のケースには「黒釉刻花牡丹文梅瓶」(北宋11-12世紀)があった。白地黒掻き落としを基本にさらに白泥を地に埋め込んだ磁州窯系の作だ。こうして書いていても、実物を見ない限り、どうにもならない。梅田からも近く、市役所のすぐそばで、ずっと西にある国立国際美術館よりはるかに立地はよい。ぜひ大阪見物に来た人には立ち寄ってもらいたい施設だ。