飛行機の窓から下を見ると、白い大きな観音像がはっきりと見えた。2年前の夏に韓国へ行った帰り、関西空港へ下り立つ15分ほど前のことだ。
同じような観音さんは静岡だったか、東海から関東にかけての海辺にあったはずで、一瞬飛行機がそっちの方面を飛んでいるのかと思ったが、どう考えても眼下は瀬戸内海だ。帰宅後ネットで調べると、小豆島にあることがわかった。越前大仏のように大きく宣伝していないこともあって、ずっと知らないでいた。筆者は淡路島でさえまだ1度しか訪れたことがなく、小豆島はさらに意識からは遠い。船で高松まで一旦行った後、乗り換える必要があり、京阪神からではそう簡単には辿り着けない。また、何か特別に見たいものがあるわけでもないので、なおさら行く機会を持たない。香川県に所属する小豆島は、瀬戸内海では淡路島に継いで面積が大きい。牛を横から見たような形をしていて、小学生の頃から意識の中にはあるが、それには壺井栄の小説「二十四の瞳」も重なっている。今夜取り上げるこの映画は、小学校時代から存在は知っていた。だが、小説とともにずっとまともには知らないままでいた。おおよその内容は知ってはいたが、そのおおよそで充分という意識があった。これはどのような古典的名作と言われる作品でもそうだ。中身を自分で確認せずとも、知人の噂や評判を小耳に挟んだり、また批評家の文章を新聞や雑誌で斜め読みすることの積み重ねの中で、あっと言う間に2、30年は経ってしまい、作品内容を自分でじっくりと確認しないまま評価を定めてしまっていること多い。いや、ほとんどその連続が人生と言ってよい。古典と世間では評価があることに一応の敬意を抱いている、あるいは抱かねばならないような気はしていても、本当のところは流行しているものばかりを追うのがほとんどの人の実態だ。その方が気楽であり、時間潰しには持って来いであるからだ。古典が必要なのは、たとえば定年退職して時間がありあまっていて、なおそのうえに自己を高めたいと殊勝にも思っている人か、あるいは古典知識の蓄積によって現在流行しているものを分析し、それで意見を発表するなど、何らかの野心がある人だ。大多数の人にはそんなカビの生えたような古臭いことはどうでもよい。『古いことを知って何になる? 古いことを知ってそこから学び、将来に活かしたという事実なんか、まずあったためしはない。古いものはみんなゴミ箱に捨てて、ただ今あるものだけを楽しめばよい』と、こんな意味のことを言った友人がかつてあった。
8日に文化博物館で『印象派と西洋絵画の巨匠たち展』を見た後、30分前に映像ホールに行ってよい席を確保した。展覧会は大入りであったのに、珍しくもホールは半分ほどしか入らず、しかも大半が6、70代の男性だ。やはり古典は若い人には人気がない。2、3週間前からこの映画を見ようと決めていたが、それは5月に俳優の田村高廣が亡くなり、「追悼特集・田村高廣を偲ぶ」として8年の作品が7月に上映されることを知ったからだ。2、3本見てもよかったが、結局1日だけ出かけることに決めて本作を選んだ。数多い田村の出演作のうち2作目に相当する。言うまでもないが、田村は名優坂東妻三郎の長男で、京都の太秦に生まれた。映画撮影所のあるところなので、これは別に珍しくはないが、本人は太秦に特別の思いを抱いていたろうか。同志社を出て東京でサラリーマンをしたから、あまり京都に特別の思いはなかったのではないだろうか。田村は寡黙で変わった俳優という印象がずっとあったが、今手元にあるフィルモグラフィを見ていて目がとまるのは1978年の『愛の亡霊』だ。たぶんこの作品のはずだ。当時のTV番組「11PM」の新作紹介のコーナーで予告編映像を見てぞくぞくした記憶がある。カラーの時代劇で、筆者がよく記憶する場面は、水が枯れた井戸の底から見上げたカットに田村がいて、何か切り紙のようなものをぱらぱらとうえから落とすところだ。不倫の関係に落ちた男女が村にいられず、よその地に行こうとするのだが、現在とは違ってそんな駆け落ち生活が可能なはずはない。そこで田村は女を殺すのか、とにかく恐くて悲しい物語だったと思う。30年近くも前、しかもほんのわずかな紹介しかされなかったのに、筆者にとっての田村の代表作はその映画のように思える。81年の名作『泥の川』は2、3度TVで見たが、田村がどういう演技をしたのか全く記憶にない。そのためもあって、今回の映像ホールでの特集はちょうどいい機会になった。だが、出演した約180本から8本だけとはあまりに少ない。それでも文化博物館が所有するフィルムがごく限られているので贅沢は言えない。『愛の亡霊』はまたの機会を探すしかないが、そう思っている間に人生は終わりとある。
『二十四の瞳』は12人の小学生と担任の女の先生の物語で、これは誰でも知っている。昭和29年(1954)のモノクロ作品で155分もある。2時間半は今の感覚ではかなり長い。だが、あまりそう感じなかったのは、名作たるゆえんだろう。壺井栄の小説を読んだ木下恵介はただちに総勢100名あまりを引き連れて小豆島に赴き、100日のロケを敢行してこの作品を撮った。物語の設定は昭和3年、その6年後、そして終戦の翌年という18年間で、それを可能にしたのは舞台がすべて小豆島であることと、子役を綿密に選んでキャスティングしたことだ。昭和29年において昭和3年の風景をそのまま呈しているところとなれば、都会では無理であった。また小学1年と6年の子役が同じ人物が演じるのは無理があるので、6組の兄弟姉妹を監督は選んで採用した。これは見事に効果があって、本当に5年を経過したように見えるほど顔がそっくりだ。小説では小豆島とははっきりと書かれていないが、壺井が同島の出身であるため、自然とその島での物語と認識された。小説が書かれる前、壺井の妹は同島で小学校の教員をしていたが、そのことが小説の大きなヒントになった。小説では大石先生という、女学校を出たばかりのモダン・ガールさながらの女性、これを高峰秀子が演ずるが、島の分校に赴任して来て、男5人、女7人の計12人の小学1年生を受け持つ。スカートにジャケット姿で自転車に乗り、9キロ離れた向こう岸からやって来る姿から映画は始まる。島では見られないそのモガ振りに島の人は眉をしかめるが、やがて子どもたちに気に入られ人気者になる。ある日子どもたちの悪戯によって浜に作られた落とし穴に落ち、先生は骨折する。入院している間、老いた男の先生が代わりに教えるが、子どもたちは面白くない。そしてある子の提案によって先生を見舞うことにする。9キロの、しかも初めての道のりは遠い。歩きながら何人か泣き出すが、バスが追い越して行く時、子どものひとりがその中に先生の姿を確認して叫ぶ。バスは停まり、松葉杖をついた先生が下りて来て子どもたちをバスに乗せる。そして先生の家で昼御飯を食べさせる。子どもたちを船で対岸に帰す前に先生は写真屋を呼んで、浜辺で全員で記念写真を撮る。この下りは実に美しいエピソードでよい。当時はまだまだ写真は珍しかったし、物語としても自然だ。写真はその後成人するの子もどたちにとって意味のある記念の品となる。小説は読んでいないのでどうかは知らないが、映画ではこの写真はとても効果的に使用されていた。
足が癒えた先生は本校に転任するが、6年生になった時にまた本校で会えると子どもたちを諭す。先生はやがて結婚する。相手は瀬戸内海を遊覧する船乗りだ。なかなかの男前で、結婚式を覗きに行った子どもたちはあの人なら大丈夫と言い合う。6年生になった12名はみな純真な心を持ちながらも、貧乏や病気などの事情から不本意な人生に送る者が出て来る。ちょっとしたお金で解決出来ることならまだしも、先生にもどうしようもない。それにもうひとつの大きな問題は軍国主義の日本がプロレタリアを弾圧し始めたことだ。大石先生は共産主義思想に別に染まっていたのではないが、授業の使用した文集が取り締まりの対象になっているとの情報を得た校長は、先生を呼んで注意し、文集を目の前で焼く。これは戦前の歴史に詳しくない人が見てもぴんと来ないかもしれない。12人の子の入学年を昭和3年に設定したのは、卒業年を昭和9年にする必要があったからだ。昭和8年には小説家の小林多喜二が検挙されて警察で虐殺されるという事件、それに長野では教員の一斉検挙があり、赤の思想を抱いていると危ないという意識が小豆島にも広まっていた。校長は大石先生を呼んで、「危ない、危ない」と言うシーンがあったが、下手に行動すると検挙されて殺されかねない時代が来ていたことをよく示している。校長はまた大規模な防空演習があったことも語っていたが、近畿に防空演習があったのは昭和9年7月のことだ。堂々と自分の思いを児童に教えることも出来ない状況に嫌気をさした大石先生は、きっぱりと教員をやめることを決心するが、修学旅行として栗林公園や金比羅参りに行くことを提案する。ここは映画ではひとつのハイライトだ。子どもたちの乗った船と、先生の夫の船がぎりぎり擦れ違うシーンがあるが、夫の乗る船では男数人のジャズ・バンドがそれなりに派手なステージ衣装で演奏し続ける。昭和9年ではまだそういう姿でジャズを演奏することは許されていたのだ。だが、楽しいこととは別に悲しいこともある。12名のひとりが大阪に奉公に出されたというのに、先生はたまたま食堂でその子が働いていることを知る。彼女は修学旅行に来たみんなを物陰から涙で見送るのだった。卒業して何になりたいかという先生の質問に対し、男の子は兵士になると答える。先生は子どもを3人生むが、幼い長男次男の夢も兵士になることだ。日増しに戦火が強まり、やがて小豆島からも出兵する。割烹着を着た先生は小旗を振って彼らを見送る。立派に成人したかつての教え子は真っ直ぐに前を見て歩み去り、そしてやがて骨となって帰って来る。そして先生も夫を亡くし、娘を事故で失う。みんな戦争の犠牲者だ。そして戦争が終わって先生はまた同じ小学校で教えることにする。かつての12名の児童の子どもや妹弟が代わって教室を埋めている。涙もろくなった先生は泣き虫先生とあだ名される。そしてある日、教え子たちが集まって先生を交えて同窓会を開く。5人いた男は3人が戦死し、ひとりは盲目となっていた。この盲目の青年磯吉は田村高廣が演じている。出番はごくわずかだが、それでも晩年の芸とほとんど変わりがないような印象的な姿を見せる。わずか第2作目にして田村独特の芸が存在していたと思えるほどだ。同窓会の宴席で、ある者がかつて浜辺で撮ってもらった写真を持参する。磯吉はその写真を手にしながら、自分はどこに誰が写っているかはっきりと見えると言う。それほど子どもたちにとっては美しい先生を中心に天真爛漫に学び、遊んだ頃の記憶が詰まっているのだ。大人になった先生たちはお金を出しあって先生にプレゼントを用意していた。それは1台の自転車だ。映画の最後ではその自転車に乗った先生がまた18年前と同じように、雨の日も風の日も学校に通っているシーンで終わる。
小説をかなり忠実に映画化しているはずだが、戦後にこういう小説が書かれ、すぐに映画化されたことは高く評価すべきだ。女石先生は、どんな苦境にも耐え、何事も運命として受け止める古風な母性として表現されていて、それ以上の積極的な国家の動向に関する抵抗の姿勢は見られない。だが、先生をきっぱりとやめるという行動は、最大限の抵抗の表明であるし、当時としてはそれ以上を求めることは出来なかったであろう。今もし日本が昔のように治安維持法が制定され、赤思想を抹殺することになったとして、この映画や小説は反戦行動家にとって何らかの積極的な意味を持って導きの灯し火としての役目を果たすかと言えば、それは全く望めないであろう。その意味で、この映画は反戦映画とは言えず、むしろ運命に対しての諦念を植えつけるものとさえ思える。だが、声高に反戦を叫ばず、戦争の虚しさをじんわりと知らせるためには大きな効果を持つ作品だ。たとえば物語の最初の方に、天皇陛下の写真が押入れに入れてあるとする下りがあるが、これも見方によってはかなりの含みが見て取れる。意識の下にゆっくり沈んで、その後長く効き目が持続する反戦映画との見方も可能だ。そしてそれが本物の反戦思想には効力があるかもしれない。だが、筆者が興味深かったのは、モノクロではあっても、映画の全編にみなぎる小豆島の美しさだ。戦後そうした風景が日本中から失われたことに溜め息が出る。その頃の小豆島が見られるならば、今夜の激しい大雨が過ぎた後、すぐにでも行ってみたい気がするが、すでに美しい日本の風景は50年以上前の映画にしか残っていない。だが、古いものが何でもいいとは限らないし、快適なホテルに泊まってリゾート気分を満喫したい人の方が多いから今の小豆島になった。『古いことを知って何になる? 古いことを知ってそこから学び、将来に活かしたという事実なんか、まずあったためしはない。古いものはみんなゴミ箱に捨てて、ただ今あるものだけを楽しめばよい』との声が聞こえて来そうだが、時には長年気になっている古い古いものを自分で確認することはよい。古いことを忘れてしまえば現在を深く味わえないし、おそらく未来の理解も出来ない。