アルバム・タイトル『IMAGINARY DISEASES』は、収録される同名の曲の引用だが、この曲名は72年の小ワズー・ツアーの時点ですでに決まっていて、後でつけたものではない。
だが、この言葉が最初にファンの間で広く知られるようになったのは1974年3月発売の『APOSTROPHE(’)』に収録される「STINK-FOOT」の歌詞においてだ。「IMAGINARY DISEASES」とは、たとえば足の臭さを気にすることを指すが、誰しも思い当たるように、ひょっとすれば自分のどこかが臭っているかもしれないと内心思うことだ。「気の病」と訳せば精神病に受けとめられることもあって少々まずいが、「今痔なる病気」と訳すよりかはよい。いずれにしろ、ザッパはアルバム・タイトルや曲名としてなかなか特徴的なものを考えつく能力に長けていたことを示す好例で、この曲名はたとえばジャン・リュック・ポティの『IMAGINARY VOYAGE』に影響を与えたことも考えられるが、同アルバム名にはたいした含みがない点でいかにもポンティらしく、ザッパの造語感覚からは遠かった。ところで、本アルバムでは歌詞を持つ曲がないため、本アルバムだけではこのタイトルの意味の理解は及ばないが、この曲が「STINK-FOOT」とつながるかと言えばそうではなく、調性が異なるため、同曲のギター・ソロとしても機能しない。ここがまたいかにもザッパらしいところで、「STINK-FOOT」と「IMAGINARY DISEASES」の2曲の間にまた別の曲が想定され、それらを含めて「IMAGINARY DISEASES」のひとつのより大きな世界の存在が浮かび上がる。それはもしザッパがもっと生きていたならば手をつけて拡充したプロジェクトになったかもしれない。同じことは本アルバムの4曲目「FARTHER O’BLIVION」にも言える。この曲はなかなかややこしい。まず『APOSTROPHE(’)』で、「FARTHER」からRを取り去った「FATHER O’BLIVION」と題する歌詞つきの短い曲が発表されたが、それはRつきの本曲とは全く異なる。歌詞があることで曲名の意味がわかるから、Rなしの曲こそが決定稿であったと一応は見てよい。ところがまたらにややこしいことに、生前のザッパはRなし曲をさらに発展させてRつきのタイトルで73年6月に演奏し、それを『オン・ステージ第6巻』に収録した。だが、その曲は本アルバムのRつき曲と同じタイトルではありながら、内容にはつながりが見出せない。これらRなし1曲とRつき2曲の間には、「IMAGINARY DISEASES」の曖昧模糊としたのと同じような、ファンにとっては悩ましい実情が横たわっているわけだが、それらの分析作業はマニアに任せておけばよいと思うのは問題だ。ザッパ作品の神髄はマニアになることでしかわからないと断言してよく、ザッパが他のミュージシャンと違っているとするならば、そうした細部の複雑な事情にこそ存在する。
本アルバムの全7曲は奇数がザッパの楽譜に書いたメロディが存在する曲、偶数がそうではなくてソロのみという対比で、曲の流れは実際のコンサートであるかのような曲の配置でそれなりによく考えられている。1曲目「ODDIENTS」は「奇妙なオーディエンス」という造語だが、これはザッパが観客に向かって例の両手の動きによって発声の指示をしている様子を伝えるものだ。普段はメンバーに対して行なっていることをここでは観客にさせていて、これはほかでは見られない「アドリブの音楽行為」で、それなりに貴重な録音だ。2曲目「ROLLO」は、その後他の曲の一部として盛んに演奏されるようになったが、このヴァージョンが最も古い、しかも独立した形で、その点において貴重。3「BEEN TO KANSAS CITY IN A MINOR」は、カンザスシティのみでの演奏であったようだが、アメリカ南部にふさわしいブルース曲のサービス演奏で、これも珍しい。この曲以降ザッパはたまに12小節のブルース・コード循環進行のソロ曲を演奏したが、記憶にあるところではイ短調は演奏されなかった。イ短調のブルースは実は71年6月にジョン・レノン、オノ・ヨーコを迎えてのフィルモア・イーストでのライヴで演奏している。おそらくその思い出の反映ではないだろうか。いきなりソロから始まるので、本当は曲冒頭に主題演奏があったとも思えるが、資料によれば当時の小ワズー・ツアーではイ短調で同じテンポの曲は見られず、最初から12小節のブルース曲であったと考えてよい。トニー・デュランのギターを最大限に聴かせてくれる曲であることも楽しいが、大ワズーでは彼はかなり熱演していて、その発表が待たれる。アルバム中央の4曲目「FARTHER O’BLIVION」は最大の長さで16分もある。最初と最後に、後年「グレッガリー・ペッカリーの冒険」で使用される「速記場」の主題、そして中間部のタンゴでは「ビパップ・タンゴ」の主題がそれぞれ用いられている。それらの主題を各メンバーのソロでつないで行く演奏で、同じ手法は「キング・コング」以降あらゆる曲で行なわれた。5曲目「D.C.BOOGIE」は特徴あるベース・リフとザッパのギター・ソロが絡む演奏で、後のギター・アルバム収録曲の前哨的な趣がある。73年発表の「モンタナ」のギター・ソロを思い出させる音だが、同曲はF♯、本曲はEであるので調性が異なる。この曲もまた主題はなく、ソロ専用の独立した曲であったようだ。6「IMAGINARY DISEASES」ももっぱらギター・ソロを聴かせる曲だが、最初と最後に特別に書き下ろされた主題がある。それは「グレッガリー・ペッカリーの冒険」や他の大曲の一部としては使用されなかったもので、よく印象に残るほどの仕上がりではない。ザッパのギター・ソロは、同じく「APOSTROPHE(’)」後半のザッパのギター・ソロ部分ときわめて似ているが、どちらもロ短調だ。となれば、本アルバムは『APOSTROPHE(’)』と組にしてLP2枚で発売されてもよかったものかもしれない。同アルバムはジャケット裏面にたくさんのメンバー名が記されている割りにはそれを裏づける演奏ではなかったが、どうせなら本アルバムの曲を加えてさらにメンバー・クレジットを増やしてもよかった。本曲は最後にザッパによる観客への来場への感謝の言葉があって、一応のコンサート最後の曲であることがわかる。となると次曲はアンコールの位置づけになるが、もちろんこれはCDをひとつのコンサートと仮定した曲配置で、実際とは異なる。また、本アルバムは『オン・ステージ』のシリーズとは違って1曲ごとに観客の拍手が入り、そのたびにコンサートの終了を感じてしまうが、それがアルバムとしての一体感をそいでいる。だが、小ワズー・ツアーは、後年のような曲を完全につなげたセイグウェイによる演奏ではなかった。7曲目の「MONTREAL」は、3、5曲目と同じく演奏の地をタイトルにしたもので、ソロ曲であることがわかる。1曲目と同様、ほとんど海賊盤のような音質だ。調性Dのギター・ソロだが、主題を持った曲であったかどうかはわからない。それを気にすると切りがないが、ザッパ・ファンはみなそんな「気の病」を持っているものだ。
●2001年9月24日(月・祝代休)夜夜。今日は天気がよく、また午後から河原町に出た。昨日もそうだったが、連休のために人出が多く、道はゆっくり歩かざるを得ないほどであったが、そんな雑踏の中、火のついたタバコを振りながら歩くアホがいて、火がこっちの服に危うくつきそうで、実に不愉快。後ろからバケツで水をかけてやろうかという気になるが、女にもそういうのが増えていて、無神経は狂牛病のように伝染するものらしい。その一事を除けば今日は気持ちがよかった。京阪に乗ってまた伏見稲荷駅で降り、神社境内入口の朱色の鳥居前の本町通りを石峰寺とは反対の北に歩いた。丹嘉がどこかは知らないが、この旧街道沿いであるとのことで、とにかく道を行くと、5分ほどで右側に大きな木の看板を入口横に下げた店が目に入った。築100年は経っているような平屋建で、間口は4間ぐらいか。しかし入口上部に「本日休業」の札。一組の若い男女もせっかくやって来たのにという表情をしていた。入口左右に飾り窓があり、伏見人形の大きな馬が2体、これは丹嘉の代表作のようで、ごく小型のものも売っている。他には相撲取りや婦人、宝船、それに先日の東寺の弘法さんで3000円で見かけた布袋と同じ形のものや、まだ着色していない武者など、10点ほどが左側の大きな飾り窓にはあった。右の方の飾り窓の壁面には50ほどの土鈴が番号札とともに整理されてぶら下げられていた。おそらく番号を指定して店内で買い求めるのだろう。それぞれに独特な形で、いくつかほしいなと思わせるものがあった。その古くて斬新な造形は日本の芸術のなみなみならない力を伝える。柳宗悦がさて伏見人形に言及していたのかどうか忘れたが、本が大阪の母のもとにあるので今は確認できない。大津絵には確かに言及していたが、伏見人形は記憶にない。もしこの日本最古の土人形を無視していたとするならば、柳の民芸論とどう相いれなかったのか、考えるべきことは多い。2頭の馬以外、飾ってあるものはみなそうとうに古いもののようで、価格も記されていなかった。店は風格があり京都市からの老舗指定の証書が2、3あった。伏見人形の由来を墨書きした茶色の木札は墨が半分以上消えて読めず、しかも木の方が風化して墨より下方にえぐれているから、50年やそこら前のものどころではない。時が止まったかのような空気がその店の周りには漂っていた。地方の田舎に行くとまだこういう感じの家は多く残っているだろうが、入口左右全面を占める飾り窓内の目立つ人形はここでしか見られないはずで、この伏見街道沿いに建つこの店の200年前の様子が想像できる気がした。写真を2、3枚撮って河原町に戻り、黒の画用紙をようやく探し当てて買い、レコード店でザッパの紙ジャケCDを見た。まだ1枚も売れていない様子であった。背が白地で、しかも通常のCDケースのような厚みがないので目立たない。2000枚限定がどれほどの期間で、ザッパ・マニアの数が予想できるかもしれない。この不況、さてどうなるか。
その後は近くの例の土産店に行って、ついに大きな伏見人形を買った。1万円以上したが、それでも1割少々まけてくれて消費税なし。やりくりが大変な妻は呆れているが、ま、喜んでいる姿を見れば仕方なしと諦め顔。これを書くすぐ横に飾っている。高さは25センチほど。同じ価格でもう一体ほしいものがあるが、来月にでも買いたい。ほとんどサイズが変わらないか、もっと小さくても5、6万円するものがあるから、おそらく新しく作ったものほど価格が高くなっているのだろう。その意味で今日はとても安い買い物をしたと思う。「丹嘉ではもうこの値段ではありませんよ」という店員の言葉は本当のはずだ。伏見稲荷の土産店では小さなものが数万円していたからだ。今日買ったのは大黒天だが、布袋さんのように上半身が裸で、黄色の米俵の上に座り、やや上を向いて笑っている。打出の小槌はちゃんと手にし、黒の頭巾も被っている。わずかに見える衣がレンガ色だが、これは本当は真紅だったに違いない。おそらく10年ほどは売れなかったものではあるまいか。昨夜店の主は、昔は注文して持って来てもらっていたが、今は年に一度出向いて何個か仕入れ、携えて帰って来ると語っていた。それほどに売れないのに、目立つ場所に展示しているのは矜持というものだ。買った大黒はどうにも奇妙な姿で、まるで布袋とのフュージョンだ。大黒はインド伝来の仏教神であるし、布袋は中国の和尚。どちらも日本では七福神の一員だが、これが合体してさらに変形した姿は何だか大雑把で愉快だ。外来の神をみな受け入れて、しかもそれらを合体融合させる民間パワーは頼もしい。それはありがたいものを何でも受け入れる寛容さ示す。イスラム教もそうであれば原理主義の過激さもないのだが。大徳寺の一休和尚の歌に「西行も牛もおやまも何もかも土に化けたる伏見街道」というのがあるそうだが、江戸期の伏見人形があらゆるものを人形にしていたことがわかる。3000種もあったというのだからそれもうなずける。現代のプラスティックの代用をしていたことになる。西行の人形も有名らしいが、写真ですらまだ見ていない。今日のTVでは、大阪の出水美術館で西行絵巻が展示中だと報じていたが、伏見人形でいったいどうやって西行の顔を表現しているのやら興味がある。何でもありであった伏見人形を調べることで、現代の音楽の分析もできるのではないかと思うが、もう新しい形のものを生まなくなっている伏見人形の現在をたとえば欧米のロックやポップスに当てはめると、どういうことが見えて来るだろう。いや、そこまで考えずとも、筆者の本職を振り返るだけでもそういった比較はできるか。そしてそこにザッパの音楽を併置する……。