●『藤井永観文庫の優品展』
校法人立命館所蔵の古美術品の展覧で、同大学文学部出身の藤井孝昭氏(1913-83)が集めたものだ。副題は「生涯を古美術蒐集に捧げた精華」。2日に細見美術館で見た。



d0053294_018859.jpg京都市生まれの藤井氏は働きながら同大学で学び、祖父の代から伝わった骨董品の管理をやがて任され、自らも生涯にわたって蒐集を続けた。没後は遺族が財団法人藤井永観文庫を設立して作品を保存して来たが、このたび解散となってコレクションはすべて立命館に寄贈された。同大学はそのまま「藤井永観文庫」の名を継承し、後世に伝えて行くこととなったが、今回所蔵品の一部が細見美術館で展示された。藤井氏はサラリーマン生活であったから、骨董を買い集める資金は決して潤沢とは言えなかったが、持ち前の研究の熱意によって貴重な美術品を数々と手に入れた。氏は宸翰、墨蹟、経典に特別な思いを抱き、それらがコレクションの主体を成しているが、今回の展示からは絵画も少なくないことがわかる。また、戦前中国で暮らした時には中国美術の蒐集も行ない、それも今回は若干展示された。生前から抱いていた「永観文庫」の構想は、遺族の寄贈によって消失したことになるが、母校である大学がそのまま名前を継いで保存してくれるのであれば、それもまたよしとせねばならない。生涯をかけて集めたコレクションでも、身内に理解者がなければコレクターの没後に売り飛ばされるのが落ちで、まだそれをしなかった氏の遺族は立派だ。美術を保存する財団法人の運営にどの程度の資金がかかるのか知らないが、掛軸の表具代ひとつ取ってみてもとても馬鹿にならない金額を思えば、よほどの経済力がなければ不可能だ。今回の寄贈の理由がそこにあるとは言えないが、常識的に考えて蒐集した人以上の熱意や根気を遺族に求めるのはほとんど無理であるし、大きな機関に一括寄贈するとの考えは理解出来る。そうすれば少なくとも散逸だけは免れる。また、寄贈先にはいくつも候補があったと思うが、たとえば京都国立博物館ではなく、学んだ大学というのがいい。もっとも、同博物館では重文クラスの作品はいいとしても、他の作品全部を含めてとなると、寄贈されるのもありがた迷惑なところがあるだろう。寄贈を受けたところで展示場所がなく、ほとんど死蔵するしかないからだ。一番大事にしてもらえるのは市場に放出して人に買ってもらうことだが、それをすれば藤井氏の生涯は意味がなかったことになる。とにかくコレクションは同大学に落ち着いたが、美術大学ではないため、今後どう公開や保存、研究をして行くか、あるいは特別の人材はあるのかと、一抹の不安も覚える。まさか立命館がなくなることはないはずだが、少子化が続けば学校法人の経営も苦しくなるし、コレクションの将来も100パーセント安定とは言えないだろう。
 天皇が書く「宸翰」や禅僧が書く「墨蹟」に特別の思いを寄せたという点はいかにも京都人らしい。こうした書の作品が中心では地味な内容と思われがちだが、藤井氏は表装裂に凝った人で、本紙に見合いつつ、時として特別のものを使用したから、作品全体として見所がある。そこからは美意識に敏感な人柄が伝わるが、驚いたことに辻が花を初めそれ以降の江戸期の小袖裂に強い愛着を抱いていたようで、最後の第3室ではそうした染織品を見せるために掛軸に仕立てた作品がずらりと並んでいた。本紙は無地のままで表装裂に桃山や慶長の小袖裂を使用したもの、あるいは本紙にもそのまま時代裂を使用したものなど、とにかく珍しい染織の美を見せるために作られた掛軸で、これは染織愛好家でない限りほとんど例がない。小袖裂の美しさは京都人ならば比較的身近に感じられるもので、また入手もしやすいが、今ではめったに辻が花裂は市場に出ないはずで、いかに氏が古くからそうした染織品に目をとめていたかがわかる。古美術の掛軸作品において表装は無視出来ない問題で、いくら中身の本紙がよくても、それに釣り合った表装裂を用いていなければ作品の価値は半減する。入手した掛軸の表装が使用に耐えない場合は多く、改装は必然であるが、そこに所有者の好みを反映させる余地があって、それもまた所有者の楽しみのひとつとなっている。氏はそのことをよく承知し、愛蔵する作品にふさわしい表具を時に楽しんだようだ。作品は所有者が死亡すれば人手にわたる運命にあるし、また表具は消耗するものだが、自分の所有する間に好みの表装裂で本紙を飾れば、それは一時期確実に自分が所有したとの思いが抱けることでもある。ましてや氏のように法人組織を作って作品を保存しようというのであれば、個々の作品に対する思い入れはひとつの筋の通った美意識でまとめられなければならなかったはずだ。何を買ってどういう系統的なコレクションを作り、さらにはそれらをどう飾り立てるかという一連の行為の中でコレクターの優劣も定まって来る。
d0053294_019127.jpg 細見美術館は1階から地下2、3と順に階下に進んで3つの展示室を見るようになっている。以下順に展示品について述べる。まず「近世風俗画」。江戸前、中期の比較的小さな作品が6点並んでいたが、みな古色を帯びていい味わいが出ている。「かるた遊び図」は部分図がチラシに使用されたが、LPサイズ程度の小さな作品だ。一見して「彦根屏風」に共通する作風で、こうした作品を個人が買えた時代があったことが信じられない気がする。書の作品は比較的安価で買えるが、絵画でしかも江戸前期以前となるとそう優品は簡単には買えないだろう。だが、祖父の代から蒐集していれば、いい出物に出会える機会はいくらでもあったと思う。根気よく蒐集を続ける人の手元に貴重な作品がやって来る機会は必ずあるもので、そんな運命的な出会いを氏がいくつも重ねたことは展示品からよくわかる。「室内遊楽図屏風(加賀屏風)」は2曲1双で、「かるた遊び図」のような遊女ではなく、高位の武家の女性たちを描く。衣桁の梅鉢紋から前田利家夫人と伝える。「石曵図」は名古屋城築城の様子を描く小品で、修羅で大きな石を運ぶ人夫たちの様子が躍動感豊かに表現されている。「近世風俗画」の向かい側の壁面は「宸翰」で、10点ほど展示された。鎌倉、室町、桃山といったかなり古いものが中心だが、筆者は知識がないためありがたみがわからない。それでもせっかくなのでメモから引用しておく。後深草天皇(1243-1304)は宸翰様の端緒を開いたと評価される書風で、淡墨で筆力が逞しい消息が展示された。伏見天皇(1256-1317)は歴代天皇の中でも屈指の能筆で、宸翰様書風成立の母体となった。「歌集断簡(広沢切)」が展示されたが、広沢切とは御製集の断簡を指す。次に後祟光院(1372-1456)による「冬十首和歌」、後土御門天皇(1442-1500)による大幅の「女房奉書」、そして正親町天皇(1517-93)による七夕の和歌会の題の触廻しを指示した消息「女房奉書」が並んだ。同天皇は戦乱による窮乏期に即位し、信長や秀吉の援助によって御所修復や朝儀の復興や整備を図った。続いて、後陽成天皇(1571-1617)による新春に当たっての天下泰平、国家豊穰などの祝辞を述べた「消息」で、同天皇は学問や文芸を好み、古今集秘話の消滅を恐れて木活字の慶長勅版を版行するなど、文化史上に大きな足跡を残した。明正天皇(1623-96)の消息は、山科の十禅寺再興に尽くした住持江玉真慶に宛て、守本尊の製作を依頼した内容だ。後桜町天皇(1740-1813)は史上最後の女帝で、染紙に書かれた和歌は流麗な書風を示す。後奈良天皇(1496-1557)は一扇に2枚ずつ、計12枚の短冊が貼られた6曲1双屏風が展示された。かつて久曽神昇氏が京都の門跡寺院で75枚の同天皇の短冊を発見し、散逸を恐れて全点を写真で紹介したことがあり、そのうちの12枚がこの屏風に貼られる。ということは、やはり散逸したわけで、居場所を変転する美術品の命運が本作から伝わる。
 次の部屋に移って、まず「墨蹟」で、最初に虎関師錬(1276-1346)による「檀渓字号」(重文)があった。堂々たる風格で、春に大阪市立美術館で見た『書の国宝墨蹟展』を思い出した。虎関が弟子に与えたもので、晩年の大字の優品だ。虎関は京都生まれで8歳で仏門に入り、10歳で比叡山で登壇受戒した。本覚国師が勅謚号を与え、東福寺第15世および南禅寺の第15住持をつとめた。五山学芸の興隆に寄与したとされる。江戸前期の風外慧薫による墨蹟は仙厓を思わせるさらりとした味わいがあり、その隣にかかっていた「慈雲飲光達磨自画賛」は黒々とした墨と筆致は白隠を連想させた。次は東寺伝来のいくつかが並んでいたが、これらは本来は東寺にあるもののはずだが、明治期に流出して市場に出たものと思えるが、これまた京都人の藤井氏が入手して手元に置くべきと思ったものであろう。「現図曼荼羅四角八葉事」は東寺菩提寺伝来で、鎌倉時代の作だ。「現図曼荼羅」は両部曼荼羅の代表格で、空海の流れを受けた最も正統的なものとされ、「現図」は「現に流布している図」の意味がある。本巻は金剛九会の構造についての問答や各尊の説明などが記されるが、背紙文書には平安末から鎌倉のごく初期に筆者された「白氏文書」が多く見られ、藤井氏はその一部を掛軸に仕立てた。それは今回白氏文集断簡『華原馨』として隣に展示された。「白氏文集」は、唐の白居易(白楽天772-846)の75巻よりなる詩文集で、「白氏長慶集」「白氏後集」「白氏続後集」を合わせて称する。845年に成立し、71巻が現存している。平安初期に日本にも伝来し、「長恨歌」「琵琶行」はよく知られ、貴顕の必読書として認識された。「鑑真和上三事」(重文)は東寺観智院伝来の一巻で、826年に鑑真法孫の唐招提寺五世豊安が上奏した鑑真の行状記だ。平安時代に遡る唯一の写本とされ、軸付紙に観智院僧正賢賀の修補記がある。観智院伝来としてはさらに「東寺長者補佐」「護身法事」(ともに重文)が展示された。この2点は「典籍」という小パネルがあった区画での展示だが、区分ははっきりとわからなかった。明確に「典籍」とわかるのは、光悦の「謡本」3冊で、表紙の雲母摺の文様に見所があった。その隣の「神泉苑請雨経法指図」も観智院伝来で、1273年の祈雨修法の際の仮屋指図を醍醐寺理性院仙覚が筆写したものを1393年に観智院の賢宝が写したものだ。神泉苑は禁苑として出発し、祈雨修法の場として確立したのは9世紀半ば以降で、10世紀初めから真言僧による祈雨会が相次ぎ、中世には真言僧が独占した。
 さて、残りを駆け足で説明する。「中国絵画」では南宋時代の「花卉草虫図」(伝趙昌筆)、何と西太后による「牡丹図」、そして伝渡辺崋山による巻物「李著筆漁楽図模本」のわずか3点で、これは厳選したためか、あるいは展示場所に限界があったためか、永観文庫の全貌を知りたいものだ。「仏教絵画」は室町から鎌倉にかけての「束帯天神像」「地蔵菩薩来迎図」「阿弥陀如来一尊図」「羅刹天像」「釈迦十六善神図」の5点で、いずれも時代を示す古色は風格があった。「阿弥陀如来一尊図」は背景が紺色で、そこに金泥の光背がよく似合っていたが、これをうんと安手にして小さくすれば大津絵になる。「釈迦十六善神図」はかなり大幅で、左右対称性が強調された構図に緻密に描き込まれている。これらは平安仏画に比べて質も劣るように見え、飛び抜けた名品とは言えないが、今では市場には出ない貴重な作ではあろう。「染織」のコーナーは前述したので割愛して、最後に「経典」。奈良や平安、鎌倉と、そうとう古いものが集まっていることに驚く。「伽那山頂経」「紺地金字観普賢経」「紫紙金字大般若経 巻第五七七」の3点は扉絵のすぐ左下隣、経文の冒頭下端の位置、つまり巻首下部に永観文庫の角印が捺されていて、数百年も経てばそうは見えないだろうが、何とも生々しかった。蔵書印と同じで、自己の所有を示す気持ちはわからないでもないが、所蔵家は作品の命よりはるかに短いし、1点限りの文化遺産へのこうした行為は美的価値を損ないかねず、慎んだ方がよいように思える。「紫紙金字法華経巻第一」(重文)は平安時代の作で、紫紙に金字は遺品が少なく、早い時期の遺巻として貴重という。「華厳経巻第紙四十(泉涌寺焼経)」は藍紙に墨書したもので、巻首下部に複郭朱方印「泉涌寺常住」が見え、全体に揉み箔が少し散らしてある。上下の焼損痕はちょうど前述した「後奈良天皇宸翰和歌短冊」に見られるような装飾の波模様にも思え、独特の美しさをかもしている。処分されても仕方のないようなこうした断片的なものでも、長年伝わり続けてきっちりと表具されれば堂々たる美術品になる見本がここにある。「紺紙金泥般若心経 足利氏満筆」は、尊氏の孫である氏満(1359-98)32歳の書で、そう思って字を追うとまた趣があって印象も強い。宸翰や墨蹟、経典は興味のない人には無価値に思えるが、自分の知らないところでも美が存在していることは認識しておくべきだろう。
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by uuuzen | 2006-07-11 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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