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●『住友コレクション 近世の花鳥画』
屋博古館にようやく会期最後の日に訪れた。何度も機会がありながら、そのたびに雨が降り、足元が悪いために出かけるのを躊躇した。



●『住友コレクション 近世の花鳥画』_d0053294_044763.jpg2日はさいわい天気がよく、時間的にも余裕を持って家を出たのでじっくり鑑賞出来た。この日はまず細見美術館で見たがそれは明日にでも書く。今回の展示の目玉作品は若冲の「海棠目白図」だ。これがポスターに大きく印刷されて阪急電車の駅ホームに貼られていたが、若い女性が立ち止まって熱心に見つめている姿を何度か目撃した。この館はあまり人が訪れないが、今回は普段よりよく人が入ったと思う。筆者が館を後にしたのはちょうど午後4時であったが、タクシーが1台玄関を入って来るのに出くわした。後方の座席に若い女性がひとり座っていた。きっと若冲のこの絵が目的でやって来たのだろう。うかうかしているともう閉館の時刻になるので、タクシーを拾ったに違いない。住友コレクションにおける近世日本の絵画の全貌は知らないが、若冲はおそらくこの1点だけではないだろうか。この絵の存在が初めて公表されたのは1996年10月のことで、それからまだ10年しか経っていないから、蔵の中には調査が進んでいない絵がまだまだあって、若冲作品も眠っている可能性はある。蔵の中に何が保存されるのかわからないと言えばまさかと思われるかもしれないが、大金持ちではあり得る話だ。池田の逸翁美術館は小林一三が生前収集した美術品の大半が所蔵されるが、開館後30年を経た頃にようやく所蔵品の全面的な調査された。それもひとりの研究家が蔵に入って調べただけであるし、一三の買った作品のすべてがそのまま伝わらなかったことや、同館の所蔵にはならなかったものもあるといった理由のため、ひとくちに全貌と言っても一筋縄で行かない問題がある。住友家から今も作品が寄贈され続けているこの博古館ではさらに事情は複雑だろう。それでも調査が済み、展示にも支障のない作品のリストは完備しているはずで、そうした中から今回は若冲を中心にした花鳥画を見せようというわけだ。「海棠目白図」の展示は、2000年の京都国立博物館における若冲展以降ではなかったろうか。表具は真新しく、何度も広げていないことが一目瞭然でわかったが、おそらく10年前の所蔵公表直後に改装されたのだろう。
●『住友コレクション 近世の花鳥画』_d0053294_11115697.jpg
 この館は中国青銅器と鏡鑑の常設展示が一応のメインで、それ専用の建物が玄関に近いところにある。そこから中庭を挟んで北側に新館があって、そこでたまに企画展が開催される。前にも書いたが、新館は天井の高い平屋建てで、小学校の講堂ほどの大きさだ。内部はうす暗い。今回の展示の後、内装工事のため来年3月まで閉館になるが、東京の分館に巡回するかどうかは知らないが、いつも東京展は京都には来ないようで、東京と京都は独自に企画をしているようだ。今チラシを確認すると、6月3日に辻惟雄による講演会があった。かなりの力の入れようと言ってよい。相変わらず続いている若冲人気にあやかろうという思惑も多少は見えるが、普段なかなか見られない作品を静かな環境で楽しめるのはありがたい。残念ながら図録の制作はなかった。それからしても来場者が少ないことがかわる。これはどうでもよいことだが、筆者は指定がない限り、展示室に入った時はすぐに右の壁に向かい、時計と反対方向に作品を見て回る。三条寺町の平安画廊でもそうで、最後に芳名帳に記入することになる。だが、同画廊を訪れる人を見ていると、最初に名前を書いて時計方向に見て回る人の方が圧倒的に多い。そのため、途中で人とぶつかることになる。この新館では一応時計と反対回りに見るように作品が並べられていると考えてよいだろう。で、最初の作品は狩野探幽(1602-74)の「桃鳩図」だ。徽宗皇帝(1082-1135)の国宝になる同じ題名の作品の模写だ。500年の開きがあるので、ありがたみもその分探幽画にはうすいが、足利家に伝来したこの作品を探幽が見て模写した事実は名画というものの変わらぬ香りを伝えて面白い。現在のように印刷技術や情報が発達していなければ、さらに探幽の描いたものを模写する人があったことだろう。この国宝の名画はLPレコードのジャケットよりひと回り小さいサイズで、個人蔵になっているが、個人で所有するのに邪魔にはならない大きさだ。探幽は画面左下に印を捺しているが、国宝には同じ場所に義満の蔵の印がある。探幽は羽の文様や嘴をより現実的に描写し、鳩に輪郭線を用いている。2点を並べて見てはいないので何とも言えないが、後者の差によって徽宗の絵の方が柔らかい感じがするだろう。
●『住友コレクション 近世の花鳥画』_d0053294_044441.jpg 彭城百川(1697-1752)の「梅図屏風」は金箔地に水墨の6曲1双屏風だ。元・明画を研究して新たな文人画の様式を開拓したとされるこの画家は、蕪村(1716-83)が内心勝負を挑んだ先達で、あまり作品を見る機会がない。のたうつ龍を描いたような荒々しい筆致で、蕪村とはまた感じが違う。この次に若冲の「海棠目白図」があった。動植綵絵の1幅かとも言われるこの作品は40代に描かれ、まだ空間が広く取られた表現のため、目白が枝に目白押しに並んでいてもさほど暑苦しく感じない。それは海棠の花弁が透き通るような胡粉のぼかし具合によってどこかセロファンに見えるところからも影響しているだろう。この作品が最初に新聞に掲載された時はもっと背景の地は脂っぽかった。経年変化で絹地がそのように変質していたのだが、今はそれが今ベージュ色になっている。これは改装段階で洗われたためと思うが、その時に多少ぼかし部分の胡粉は落ちたかもしれない。また、一方でこの絵の最初に描かれた時の絹の色は当然もっと白かったはずで、そこに白い花や目白の白い胸の表現であるから、現在とは違ってもっと晴れやかな感じが漂っていたはずだ。絹が年月を経て色が茶色に変化して行くのに対し、胡粉はずっと白のままであるから、先の徽宗の国宝画も描かれた当初は白々した感じでありがたみはうすかったかもしれない。時を経て絵が変化し、それが汚くなるのではなく、逆に風格を増すというのは神の恩寵だ。次の作品は崋山(1793-1841)の弟子、椿椿山(1801-54)の「玉堂富貴・遊蝶・藻魚図」(1840)で、3幅対だ。長さはみな同じで、中央の作品の本紙幅は両端のものより1・8倍ほどある。「北宋人に学ぶ」とあるが、一見して清朝の花鳥表現に近い色合いと精緻さが見られる。椿山はとても真面目な絵を描く人で、この作品にもそれはよく表われ、清楚で女性的な雰囲気がある。牡丹は富貴、玉蘭(白木蓮)と海棠は玉堂(棠と堂は同じ発音)を表わして、ともに富裕の象徴としてよく描かれた。左右幅が蝶と魚で、その発音が長寿、豊穰を連想させてこれも題材として好まれた。蝶はさまざまな種類のものが10頭ほど乱舞し、また右幅では藻が雲で、魚が空気中に輪になって踊るかのような描写のため、どこかシュルレアリスムを思わせるところがある。次の円山応挙の長男応瑞(1766-1829)の「牡丹孔雀図」は、今描かれたばかりのような保存のよさと絵具の生々しさがあった。すでに型として完成の域に達した題材で、華麗な雰囲気はたっぷりとあるが、面白味は乏しい。その隣は椿椿山による崋山の「渓間野雉図」(重文)の模写だ。右上の竹林に藤が絡まる様子、下部の渓流にいるつがいの雉の雄が水を飲もうとしているところ、さらに岩陰につつじの花が咲いているところなど、師の作と変わらないが、師と違って輪郭線をあまり用いていない。よくある花鳥画に見えるが、雉が流れに首を傾けている表現がどこか温かくてよい。森狙仙(1745/7-1821)の「孔雀図」は2幅対で、先の応瑞の作に似るが、隈取り線が濃く、よりリアル感がある。61歳で改名したが、その前に「祖仙」と記名していた頃の作品だ。
 薮長水(1814-67)の「花鳥図押絵貼図屏風」は、2メートル四方ほどのふたつ折り屏風で荒い光沢のない生地に絵が貼られている。沈南蘋風の立体表現ながら柔和な表情があるが、癖がなくてあまり印象に残らない。長水は大坂で長崎派の絵を学び、その後に号を長水と改めて画風も変えた。長堀の住友家近隣の在住で、父の儒者薮鶴堂の代から同家と交流があった。もう1点展示された「玉堂富貴図」(1865)は、住友家12代友親の家督相続祝いとして贈られたものだ。竹籠にピンク色の牡丹、白木蓮、白の海棠が盛られ、先の椿山の同じタイトルの作と似た感じがしつつ、より文様的な表現が見られる。乾山(1663-1743)の「椿図」(18世紀前半)は、水墨による白椿を2輪描いた小品で、簡単な絵ながら琳派の持ち味が堪能出来る。80年後に抱一が出版した「乾山遺墨」に収録されたので、それなりによく知られた作品であったのだろう。部屋中央のガラス・ケースには巻物などが展示されたが、呉春(1752-1811)の「蔬菜図巻」は今回の展示中、最も圧巻な作のひとつだ。去年もこの館で見たが、その時は全体は広げられなかった。今回は落款印章は確認出来なかったが、絵は全部見られた。若冲とはまた違った付け立てに技法と淡彩による表現は、手慣れた水墨画の技術がここまで自在な境地に到達したかと思わせるほどに天才を伝える。そのあまりのうまさがかえって呉春の名を現在軽んじている理由ではないだろうか。だが、現在の日本画で最も求められるのは、こうした描き直しがきかない、真剣勝負の鋭さをひしひしと伝える技術力ではないかと思う。題材は右端より、ナズナ、セリ、ヨメナ、レンコン、カンゾウ、ボウフウ、ツクシ、ワラビ、フキ、ミザンショウ、ゴボウ、ワサビ、ソラマメ、シソ、ズイキ、タケノコ、ササゲ、キュウリ、シロウリ、カモナス、ナス、ハショウガ、トウガラシ、エンドウ、ナンキン、ナタマメ、オヤイモとなっていた。田能村直入(1814-1907)の「花卉図巻」(1854)はもっと精緻に描かれた花の図鑑としてよい巻物で、「蔬菜図巻」にあるような遊び心はなく、真面目一徹な態度を伝える。四季の花が手折られた状態で卓上の盛り花のように順に並び、右からラン、モモ、コウシンバラ、ヤマブキ、コブシ、カイドウ、キリ、リンゴ、シャクヤク、ケマンソウ、アジサイ、カンゾウ(か)、カザグルマ、フヨウ(白とピンク色)、アサガオ(青)、キク、ハゲイトウ、サザンカ、ナンテンといずれも中国の文人好みの花を選んでいる。
 長山孔寅(1765-1849)の「四季花鳥図巻」は「蔬菜図巻」と同じ淡彩で、同作の影響がそうとう強い。全部は広げられていなかったが、やや荒い表現のため、「蔬菜図巻」のような完成度は感じられない。秋田出身で京都で呉春に絵を学び、森徹山らと画名を競ったが、大坂に住んで同地の四条派の中心となった。春夏の花鳥、秋冬の花鳥、そして鳥類の計3巻からなるが、花鳥の巻は小動物や虫をまじえて季節順に描く。浦上春琴(1779-1846)の「蔬果蟲魚帖」(1834)は画帖で、紅葉した落ち葉に群がる虫を描いた1点だけ広げられていた。小品ながら細密画的表現で、虫の格好を見ればよく観察していることがわかる。他には野菜、ざくろ、仏手柑など文人好みの吉祥モチーフの絵が12ページにわたって貼られている。抱一(1761-1828)の「椿棗書状」は、依頼によって描いた漆器の棗の簡単なデザイン画を添える手紙だ。それにしたがって作られた原羊遊斎の「椿蒔絵棗」が横に展示されていたが、簡単なデッサンからよく作り上げたと思う。会場向かって左壁は、土佐光起(1617-91)の「木瓜鶉・菊鶲図」の対幅や「菊花図」、探幽の甥、狩野常信(1637-1713)の「白鷹補鴨図」、森徹山(1775-1841)の「檀鴨・竹狸図」の対幅、狩野養信(晴川院)(1796-1846)の「鳴鶴図」の2幅、そして伊年印の6曲1双の「四季草花図屏風」が陳列されたが、最も面白かったのは「鳴鶴図」だ。この真正面に若冲の「海棠目白図」が位置していた。これは意図的だろう。「鳴鶴図」は相国寺に伝わる明代の文正筆の作の模写で、若冲も行なっていることは有名だ。だが、ここでは狩野派に伝わった紛本を元にして描いたとされ、鶴は原本より華奢な感じが漂う。また、左幅の月は画面隅で4分の1を見せるのではなく正円を描き、右幅では波のうえに雲が顕著にたなびかせるなど、アレンジの跡が見える。常信は探幽より平明で装飾性を強めた画風で保守層に人気があったが、その幕府奥絵師の木挽町狩野家を継いだ養信も似た作風であったことがわかる。代を重ねるごとに狩野派は洗練度を高めたかもしれないが、引き換えに女性的でか弱さを内蔵させるこになった。それはさまざまな画人の作の縮図を描いて蓄積した探幽にそもそもその発端があった。資料主義に陥ると形骸化はいずれやって来る。とはいえ、何も参考にしないで描くには人生はあまりに短い。その迷いの中で若冲も描いた。
by uuuzen | 2006-07-10 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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