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●『オリバー・ツイスト』
高健は子どもの出る映画は好まないと書いていたが、この映画はオリヴァー・トゥイスト(Oliver Twist)という名の小さな男の子が一応主人公で、ほかにもたくさん子どもは登場する。



●『オリバー・ツイスト』_d0053294_0145284.jpg映画は子どもから大人までが楽しめるように作られているが、映画と同名の小説を書いた原作者ディケンズは、20世紀ドイツのケストナーのように児童文学として書いたのではない。子どもの運命を握るのはあくまでも大人であり、オリヴァーを取り巻く、さまざまな階層の善悪含めての大人たちを描くことにディケンズの目論見はあった。そのため、オリヴァーは操り人形のような無力なところがあって、そこがマーク・トウェインが後に書くトム・ソーヤーやハックルベリ-・フィンの冒険小説とは趣を異にする。それはイギリス対アメリカでもあるが、アメリカを未開で野蛮と見ていたイギリスでも、弱者に対しては酷い仕打ちが横行していたことは変わりなく、それは今でも世界中どこにでも見られることと言ってよい。その意味でこの作品に描かれるオリヴァーの身の変転ぶりは人類にとって永遠の問題を突きつけてもいる。この映画について先日から書こうと思いながら、今もあまり気が進まない。映画を見た直後はとても面白く感じて名作を見た気がしたが、えてしてそうした感動はすぐに消失し、後に何も残さない。毎日報じられるニュースにあまりにも子どもが関係したものが多いことにもよる。そしてそれらはこの映画のハッピー・エンドからはほど遠く、原作の小説から150年ほど経って誰もが豊かになったはずの日本において、なぜこうも凄惨な事件が多いかと思ってしまう。今日も24歳の阪大生が母親を殺したことを白状したが、パチンコ好きを責められたためだという。先日は医者の息子の16歳男子が家に火を放って母親や妹を焼き殺してしまったが、一方で親が幼い子どもを殺す事件も続発している。豊かであるはずの日本で何かが狂って来ているとしか言いようがない。だが、今日は昼のワイド・ショーでは北朝鮮でのホームレスの子どもの映像が流れた。それを見ると貧困社会でも子どもが犠牲になることが変わりないことを痛感する。だが、それはむしろ古典的な形相で、ディケンズが生きた19世紀半ばのイギリスでも事情は大差なかった。その後イギリスは植民地政策の恩恵もあって豊かになったが、この映画に描かれるオリヴァーのような貧しい子どもたちは今度はインドやバングラ・デシュなど、アジアの経済的後進国に慢性的に見られるようになって今に至っている。
 ここから見える構図は、人類が地球的規模に交流するようになっても、相変わらず一握りの金持ちと多くの貧困層に分かれるという現実だ。イギリスは紳士の国だとよく言われるが、裏に回ればどの国でも同じような汚いことを平気でやって来ているのであって、そのひとつの見本を案外この映画の原作が喝破して描いている。人間はいつの時代も変わらないもので、この映画に登場する無慈悲な大人たちはどの時代のどの国にでもいる。その意味でもこの小説は普遍的と言えるが、ディケンズは凄惨な現状に絶望するのではなく、神の恩寵によってか、ドン底から這い出て幸福な人生を歩む存在があるとして、それをオリヴァーという孤児に当てはめた。それが全くあり得ない作り話とは思えないのは、ディケンズ自身の半生がかなり色濃く反映しているからだが、天才と言ってよい彼が自分を見本としてこの物語を書いたのだとすれば、それはほとんどあり得ない現実として退けられるだろう。それでも人々は常に成功を夢見るものであるし、ここで描かれる、まるで双六で上がりの位置に到達するようなオリヴァーの運命に、異議を唱える者は少ないだろう。だが、先にも書いたように、ここで描写される楽観主義にはどうも賛成しかねる空気が今の日本にはあるように感ずる。そのため、映画は映画として楽しいが、映画館を出てしばらく経てばすっかりそれを非現実的なことと思ってしまう。では普遍的な部分はなかったのかだ。この映画において誰が発したどの言葉が最も印象に残ったかを言えば、これはある意味では救いようのない話だが、幼いオリヴァーを見て他人の大人が、何か心打たれるものがあると語るところだ。人生を長く辿って来た大人が幼い子どもを見て、ある程度その子の性質を見抜くことが出来るのは確かだろう。わずか数歳であっても目の輝きが全然違う子がいるからだ。だが、それは知恵があるとか、将来知識をふんだんに身につけることになるといった予感ではなく、人思いであるといった人間として最も肝心な本質における面を見てのことだ。オリヴァーにはそれがあった。だが、そうしたものに乏しい、そしてオリヴァーのような孤児であればどう浮かばれるだろう。結局そういう子はいじめられて早く死ぬか、一生馬鹿にされて日陰で生きるか、それともホームレスか犯罪人になるかもしれない。そう考えると、この映画は最初からお伽話と言ってよいことになるが、そうであるならば何か教訓が汲み取れなければならないが、それも欠如していると言ってよい。残るは娯楽のみとなるが、そうならばこの小説が名作とされる理由がわからないことになる。
 さて、監督のロマン・ポランスキーは昔トマス・ハーディ原作の『テス』を映画化したことがある。よほどイギリス文学好きかとも思えるが、前作の『戦場のピアニスト』では第2次大戦における祖国ポーランドのショパン弾きを主人公としたから、芸術讃歌の姿勢はうかがえそうだ。60年代から活躍しているこの監督は、夫人を例のチャールズ・マンソン事件によって殺されたし、一方で少女との性交で有罪になって逃亡中の身でもあったはずだが、自らの生涯そのものが劇的で謎めいたところがある。そんな監督がなぜ今頃このディケンズの名作を映画化することを思い立ったのか、そこに興味が涌くが、単に『戦場のピアニスト』で大いに当てた後を継いで、まずは地道なヒットを狙っただけで、あまり深い理由はないかもしれない。この小説は過去にも映画化されたと思うが、しっかりとした時代考証や大がかりなセット、それに色彩のよさの点で、今回のものが長く規範になるだろう。とはいえ、昨日から小説を読み始めたばかりなので、原作と映画との差はまだ詳しくはわからない。映画は2時間9分で、これでは長い小説のすべてを描き込むことは不可能のはずで、あちこち省いたことだろう。その取捨選択の具合からポランスキーの意図が見えるが、そのことに関しては小説を読み終えてからまた書く。映画で一番光っていたのは当然オリヴァーだが、先に書いたように運命に操られるか弱い存在で、これは美しい顔をしたどんな少年が演じても成功した。その点でオリヴァーは主人公とはみなされない。では誰かとなると、金亡者の泥棒老人フェイギンだ。その圧倒的な人物描写は俳優の演技の賜物だが、先日ネットで調べてわかったが、かつて『ガンジー』の主役を演じたベン・キングズレーだ。そう言えば鼻が同じだ。ポランスキーが描きたかったのもこのフェイギンではなかったろうか。今その理由を詮索することは控えるが、ディケンズにしても、ここで作り上げた金亡者像を後年に『クリスマス・キャロル』では主人公に据えるから、巧みに描く自信のあった典型人物であったろう。
 典型で思い出したが、この映画はとにかく典型的な人物像ばかりが登場する。金持ちでも気が優しい者とそうでない人はいるし、それは貧乏人であっても同じことだが、貧富、そして性質のよしわるしを交差させていくつかの典型人物を作り上げ、それらを巧みに物語の中で絡み合わせる。現実的にはこれらさまざまなタイプの人物の交流はないものだが、悪人が泥棒や殺人者であれば平気で優しき金持ちの家に忍び込もうとするのは昔も今も変わりないから、そこにあらゆる階層と性質の人が対面する可能性はある。ディケンズが利用するプロットもそういうものだ。以下思いつくまま書くと、映画の最初と最後に銅版画が画面いっぱいに映った。これは19世紀イギリスにおける人間ドラマを描くことからしてなかなかよい趣向だ。一幅の絵のような画面、ちょうど絵巻物のような映像をポランスキーは撮りたかったのであろう。使用された銅版画は何枚かあってどれも群像が描かれていたが、諷刺的な内容ではなく、牧歌的なものに見えた。ヴィクトリア朝時代にすればあまりにも田舎っぽい作風で、イギリスの19世紀に作られたものではなく、むしろ100年ほど遡るかもしれない。ディケンズは1812年生まれで、25歳でこの小説を月刊誌に連載し始めたが、当時のイギリスは鉄道の建設ブームを迎えていた。だが、映画では鉄道は一切映らず、産業革命の恩恵を思わせる近代的なものも示唆されない。そのため、18世紀の話かと思うほどだ。それはたとえば公開処刑だ。イギリスでは街角に首吊りの設備を建て、紳士淑女がまるで観劇をするような格好で訪れる中、罪人の死刑が執行された。その様子がこの映画では何度となく登場人物たちによってほのめかされ、またちらりと映ったりもする。娯楽に乏しい時代であった理由もあろうが、19世紀半ばでもまだそうしたことがロンドンで行なわれていたとは信じ難い。悪さをする子どもを見れば、「いつか吊るされるよ」と言うのが常であったようで、オリヴァーも同じ世代の子どもや大人から何度もそう言われるが、もちろん物語はそんな風には進展しない。吊るし首になるのはもっと別の人物で、それがこの映画ではある意味では唯一の大きな教訓として観客に伝わる仕組みになっている。フェイギンに関しては監獄で発狂する場面で映画は終わっていたが、他に頻繁に登場する者たちの末路に関してもポランスキーはあまり関心がなかったのか、描写は省略している。それは重要ではないと思ったからではなく、この小説に内在するつごうよさが現代には受け入れられ難いと思ったからであろう。そうしたこともいずれ小説を読んでから改めて書く。
 ヴィクトリア女王の治世下では、視覚的な表現においては諷刺的なものに代わってユーモアのあるものが好まれ、1841年には『パンチ』が創刊された。この映画を見る限り、ユーモアはなく、社会諷刺のみが利いている。イギリスにおける諷刺絵画は、何度も書くようにホガースが頂点だが、それはこの小説より100年前のことだ。たとえば1751年の「残酷の4段階」と題する銅版画の組作品の最初のものは、動物いじめをする悪童たちを画面の中心に置き、別の少年が悪童の中心人物のトムを横目で見ながら、トムの絞首刑の様子を壁に落書きをしているところを描く。悪いことをする連中はいつか縛り首の刑になるぞという世間の常識的な物の見方というものが、ディケンズより100年前の諷刺版画にすでにあって、それがそのままこの小説にも伝わっているところを見ると、18世紀後半に産業革命を迎えても、イギリスの人々に思想の革命がさほどなかったことを示しているように思える。さて、生まれてすぐに母親を亡くしたオリヴァーは救貧院で育ち、やがて孤児院に回されてまた救貧院に戻って来るが、お粥をもう少しほしいと言ったことによって賞金つきで徒弟奉公に出される。あれこれあってオリヴァーはひとりでロンドンに向かい、そこで知り合った親なしの少年の手引きによってフェイギンの家で世話を受ける。フェイギンは孤児を集めてはスリの手口を教え込んでいるという人物だが、かつて世話した女の子が成長して今はヤクザ男と一緒に暮らし、事あるごとにフェイギンに関わり合って来る。オリヴァーはスリ仲間の見張りをしている時にたまたま金持ちの男性と知り合い、やがてその人の家でいい服を着て読書するような生活を送るが、それもつかの間、またフェイギンの元に戻らざるを得なくなる。そうこうしているうちに殺人が起こり、間一髪のところでオリヴァーは元の金持ちの家に引き取られるという筋立てだが、これはオリヴァーが卑しい身なりをしていても、表情に生まれのよさが感じられ、また性質も温和でよかったゆえの運命で、ここに19世紀イギリスの人々の理想とする子ども像が反映しているだろう。それはそれで決して悪くはないが、ハックルベリー・フィンのような逞しさには欠ける。今の日本ではそのどちらもないようだが。
by uuuzen | 2006-07-07 23:59 | ●その他の映画など
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