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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『愛の旅人 シャガール展』
うやく最終日の25日にサントリー・ミュージアムで見た。雨のため人は少ないと思っていたが、筆者が知る限り、館内は若者を中心に今までで最高のすし詰め状態であった。



●『愛の旅人 シャガール展』_d0053294_18443174.jpg改めてシャガール人気を確認したが、シャガールの絵には画家が妻を抱擁している様子を描いたものが目立ち、恋人同士で見るには最適のものだ。会場では背後から女性をしっかりと抱きしめたまま鑑賞しているカップルを何組も見たが、それはシャガールが望む光景であったことだろう。5月5日が無料公開日で、どうせならその日に行くつもりでいたが、ゴールデン・ウィークは他に優先すべき展覧会が目白押しで4日間を費やしたため、同日だけは家で休息した。それにシャガール展は日本のどこかでいつも開催されている状態であるから、あまり見たいとも思わなかった。それに、今回はチラシを見てもどこの所蔵品が中心になったものかわからず、名品は少ないと考えた。ところで、今手元に未整理のままの展覧会チラシの束を調べると、別の2枚のシャガール展が出て来た。6月11日まで川村記念美術館で開催された『ラ・フォンテーヌの「寓話」』、今月13日から9月24日まで青森県立美術館で開催される『「アレコ」とアメリカ亡命時代』だ。どちらもシャガールの一部の仕事に光を当てるもので、後者はコンピュータ・グラフィックスを使用してバレエの巨大な背景画を仮想的に再現する試みも含み、今まであまり紹介されなかった仕事を伝えるものとなっている。それに比べると、今回は全活動を総花的に紹介するもので、教科書に載るような名作はないとしても、全貌を概観するうえでは価値のあるものと言える。シャガールは97歳で1985年に死んだ。版画を含め多作で、人を幸福な思いにさせる内容はいいとしても、似た絵が繰り返し描かれたこともあってあまりありがたみを感じさせない。茨木にあった大阪国立国際美術館の常設展示室でも、確か晩年の青っぽい油彩画が1点あったと思うが、それを見るたびにいつも、なぜこの美術館がこんな絵を買う必要があるのかと疑問を抱いた。同館にミロの陶板壁画やピカソの絵があることからすれば、シャガールの1点があっても全くかまわないどころか、むしろあるべきとも言えるが、前衛的な現代美術の展示として機能していた同館の印象からはシャガールの晩年の水でうすめたような感じの絵は似合わない。おそらくバブル期の金あまりの時代に購入したと思うが、どうせ買うなら、もっと若い時期、つまり1910年代か20年代当たりの作品の方が稀少価値があってよかった。
 日本で今までどのくらいのシャガール展が開催されたのか、筆者が所有するチラシだけでもそうとうな数になるが、それでも初期の作品に焦点を当てた展覧会はまだないと思う。大抵は中後期の油彩にその何倍もの点数の版画を加えた内容で、日本におけるシャガールの実作品はそうした中後期の造形によって主にイメージづけられている。シャガールが好んで描くモチーフは初期からすでに決まっていたと言ってよい。それでも初期は写実的な描写から、やがてキュビズムの影響もあって比較的直線の使用の目立つ、くっきりと色面を塗り分ける作風で、筆者はそのあたりまでのシャガールは大いに好むが、やがて有名になって注文に応じ切れなくなったのか、形態はみな丸みを帯び、素早いタッチに変化してモチーフは類型的になる。これはどのような画家でもある程度そうなることであり、そうした作品もそれなりに見所があるが、シャガールの場合にはどこか脳天気と言おうか、時代の流行からは完全に隔たったところで画家としての危機感を抱かずにのんびりと制作し続けたことを思わせ、スリルが感じられない。こう書きながら筆者はムンクやピカソの最晩年の作品を思い浮かべているが、シャガールと違って彼らには明らかに若年の作とは違うモチーフと描法があった。確かに60年代以降のシャガールの水彩には仙厓のような省略したタッチで素早く描いたものがあって、それは若い頃にはない自由な境地を示す作風と言える。だが、モチーフが若い頃と同じ点においてありがたみは少ない。とはいえ、シャガールの画家としての苦悩の跡が60年代以降の作品からはあまり感じられないとして、それではまずいのか言えばそうではないだろう。芸術家を苦悩する者と同一に見てしまう風潮が一部には支配的としても、絵画のひとつの大きな本質が人を幸福にさせることであれば、描く当人がまず幸福感を所有している前提が欠かせない。どんな人であっても不幸な面は抱えているし、それを表にストレートには出さず、笑顔で包むことで他人に幸福を感化させることはある。シャガールにもそんなところがあると考えてよい。ところで、朝刊で今夜TVでの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の放映を知った。この映画は数年前に映画館で見たが、第2次大戦中のイタリア系ユダヤ人家族の末路を描く。ナチによって殺されてしまう父親が、その直前に幼い息子の命を救うためにかくれんぼで遊ぶふりをして息子をゴミ箱に匿う場面があった。陽気に振る舞う父親は息子に少しでも暗い表情を見せまいとしていたところが涙を誘う。強い父親たるものはそうあるべきかもしれない。それにそんなひどい時代に生きたにもかかわらず、「人生は美しい」と言うのであるから、人生はどんな状況にあっても肯定出来るものとの思いを新たにする。
 20世紀のユダヤ人画家として最も有名と言ってよいシャガールが、愛をテーマにたくさんの絵を描いたことはやはり特別の意味があるかもしれない。その幸福感満つる絵の背後にユダヤ人としての過酷な人生があったことを知れば、なおのことシャガールが描く幸福の意味もしみじみとわかるだろう。シャガールはポーランド国境の白ロシアにある人口4万ほどのヴィテブスク郊外にあるゲットーに生まれた。つつましやかな家庭で、ユダヤ人小学校を出た後19歳で画塾に入った。20歳でセント・ペテルスブルグに赴いて王立美術奨励学校で少し学び、また別の画塾に入るなどして間もなくフランス印象派を知る。シャガールが生まれた当時、ユダヤ人は全世界に750万、ヨーロッパには700万、そのうち400万がロシア帝国に住んでいたが、西欧に比べて東欧のユダヤ人は貧しかった。ロシアがユダヤ人を多く抱えるに至ったのはポーランドが関係する。ポーランドは14世紀後半にヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人を受け入れる保護政策を取った。その後17世紀半ばまでは「ユダヤ人天国」と言われたほどだ。ポーランドは16世紀に勢力を伸ばし、白ロシアやウクライナ、リトアニアを含んだ大国となったが、コサックの大反乱やペスト、周辺諸国との戦争によって荒廃し、国土分割が3度にわたって行なわれ、1795年に滅亡した。当時のポーランドの人口は900万で、ユダヤ人は90万であったが、ロシアはポーランドを併合したことでユダヤ人を居住させることになった。シャガールの家族がそんな末裔であったことを知り、なおかつ20世紀のナチズムの台頭が影を落としていることを思えば、シャガールの絵の中に驚くべき長い間のユダヤ人の悲しみというものが遺伝子として流れ込んでいることを知らないわけには行かない。民族や家族の歴史が過酷なものであったほどに表現する愛や幸福の感情は高く激しいものになるだろう。そうしたことは絵を鑑賞するうえでは直接的には何の関係もないと見る向きもある。それも正しい。だが、画家がどんな思いを抱いて描いたかを知ることは、さらに絵の意味の理解に役立つ。人は好きか嫌いかの感情で何事も判定してしまいがちで、どのような努力や才能が費やされた作品であっても、何の感興も湧かなければそれは当人にとっては駄作となる。仮にその作品が世間では名作の誉れが高くとも、当人が自分の無知を別に恥とも何とも思わなければ話はそこでおしまいとなる。このことは常に、そして膨大に生じている。世界は「無知」や「無理解」こそが支配し、むしろそのことを賛美する「野蛮」が社会を闊歩しているだろう。いかに自分が「無知」かを知ることでしか、目の前に光は見えて来ない。
 会場は5つのセクションで構成されていた。丸括弧の中は同セクションを彩る別コーナーの絵のモチーフだ。1「生と死(花束)」、2「聖なる世界(天使)」、3「サーカス(動物と音楽)」、4「愛の歓び(恋人たち)」、5「自画像(ヴィテブスクとパリ)」。作品はみな日本の各美術館から集められ、版画はほとんどが高知県立美術館所蔵であった。美術館を列挙すると、ひろしま美術館、サントリー・ミュージアム、ポーラ美術館、東京国立近代美術館、笠間日動美術館、大原美術館、松岡美術館、山形美術館、宇都宮美術館、群馬県立近代美術館、そして株式会社ベネッセコーポレーションやAOKIホールディングス、ユニマット近代絵画コレクションといった具合で、いかに日本にシャガールの作品が多いかがわかる。展示は油彩、水彩が27、版画が100点で、どうしても版画主体にならざるを得ないが、各時期のものが満遍なく並んで作風の変遷がよくわかった。セクション1ではエッチング、アクアチントによる「死せる魂」(1923-27)が目を引いた。ゴーゴリの小説に因む銅版画で、帝政ロシアの農奴の戸籍調査に絡む内容をシャガールはさすがよく理解し、黒1色で凄味を持って描写している。他にカラー・リトグラフ「オデュッセイア」や、アンドレ・マルローのスペイン内戦参加の経験を元にした小説の銅版画による挿絵「そして地上には…」から並んだ。後者はシャガールらしくない爆撃機が飛ぶ様子を描き、全作を見たいと思わせた。花束はロシアでは一般的ではなく、シャガールはフランスのシンボルと思って、25年頃からよく描き始めたが、今回は数点の花束主体の作品が展示された。シャガールと版画の出会いは、1922年にベルリンの出版社の社主、画商のパウル・カッシラーがシャガールの自伝「わが回想」を挿絵本として出版しようと考えたことに端を発する。そしてヘルマン・シュトルックに凹版(銅版画)の手ほどきを受け、すぐに技術を習得するが、テキストの翻訳がうまく仕上がらず、20点の版画集として23年に出版された。それを見たパリの画商アンブロワーズ・ヴォラールはシャガールに「死せる魂」「寓話」「聖書」「サーカス」を依頼するも、ヴォラールの生前には出版されず、戦後アメリカからフランスに帰ったシャガールから出版権を得たエフストリア・テリアドが「サーカス」を完成させ、続いて「ダフニスとクロエ」を描かせた。シャガールには1000点以上の版画があり、しかも凹版、凸版、平版と技術は多彩で、48年のヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受賞している。
 セクション2では「聖書」(1931-39、52-56)、「出エジプト記」(66年刊)が中心となった。前者はエッチングに手彩色した100部制作の版の一部が展示された。シャガールはこのシリーズのためにレンブラント研究の必要を思い、オランダに通った。彩色は画面の一部に赤や黄、緑、青から1、2色が使用され、黒とよく似合っていた。筆者はこの「聖書」だけの図録を所有するが、全105点はいかにもユダヤ教を信奉していたシャガールを伝えるもので、他の画家にはない独自の空気をかもしている。旧約聖書はシャガールにとって創作の源泉であったが、30年代にナチスの登場によって新約からは十字架のキリストだけはよく描くようになった。「出エジプト記」はカラー・リトによる24場面を描く。多彩ながら渋い色合いで、右に絵、左に文章が印刷されている。「天使」のコーナーではひろしま美術館所蔵の油彩小品「インスピレーション」(25-6)がよかった。次のセクション3だが、シャガールとサーカスの出会いは26年にヴォラールに招かれて見たことによる。「動物と音楽」のコーナーではグアッシュとインクによる「酒呑み」(1911)が面白かった。フランス語で「酔う」を「頭を失う」と表現することにヒントを得た描写だ。シャガールの絵では首が体から離れて飛んでいる場面がよく描かれるが、それらは案外こうした言葉遊びから発しているアイデアかもしれない。セクション4では銅版画集「ラ・フォンテーヌの寓話」(27-31)からの6点が珍しかった。「人間の女に変わった雌ネコ」などは諷刺が利いてシャガールの別の側面を見る気がした。「ダフニスとクロエ」は全42点が一堂に並んで壮観であった。このシャガールの版画の中でも最も華やかなカラー・リトは250部の制作で、日本に数部が存在しても不思議ではない。セクション5では特別な版画集の展示はなかった。9点の彩色を施したリトグラフはやはり高知県美の所蔵で、同館がシャガール版画の収集に力を入れていることがよくわかった。
 特筆すべきは「ヴィテブスクとパリ」のコーナーで、1910年代から20年代の作品が何点かあったことだ。「ランプのある静物」は縦長の画面で、黒を基調とし、セザンヌやフォーヴの影響が見られる。寒さと貧しさに凍えているような時代のこうした作品は、存在する作品数も少ないではずであり、後年の華麗な色彩のものとは違った重厚さと温かさがあってよい。「村のパン屋」も同じく1910年の油彩で、素朴派風のタッチで画面は暗い。「世界の外のどこへでも」はそれから5年後の洗練された作風を伝える自画像で、顔が上下にすぱっと切れている。画面左端には家並みが90度傾いた形で小さく連なって描かれ、シャガール独自の夢想的な点景がすでにはっきりと描写されている。グアッシュによる「赤い家」(1926)は全体的にデュフィそっくりで、特に空や飛ぶ鳥の描写はそうだ。20年代におけるフランス絵画とシャガールとの影響関係はじっくりと考察すべき問題に思える。会場の出口に大きく控えていたのは、今回のチラシやチケットに使用された「エッフェル塔と新婚の二人」(1928)だ。仕事と私生活が最も充実していた時期に描かれたもので、そのことをはっきりと伝える幸福感が横溢する。画面下の赤いベタ塗りに小さな人物が点在しているが、そのどれもが人生を謳歌しているように見える。そんなシャガールも間もなくヒトラーの登場によって作品が公衆の面前で焼かれ、ドイツ国内では頽廃美術の烙印を押された。37年に家族でフランス国籍を取得、40年にプロヴァンスに移り住むが、4月に国籍を剥奪されアメリカに亡命、そして44年に愛する妻ベラに死なれて9か月間も絵筆を持つことが出来なかった。その後97まで旺盛な画家として生きたのは、身の回りを世話する女性が相次いで現われたからでもある。「愛の旅人」とはよく言ったものだ。
by uuuzen | 2006-07-05 18:48 | ●展覧会SOON評SO ON
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