●『画家泉茂の写真展』
題は「ニューヨーク60年代-街はキャンバスだったあの頃-」。滋賀県立美術館で先月18日に見た。



d0053294_20482348.jpg泉茂(1922-95)の名前は一般的には関西以外ではあまり知られていないのではないだろうか。筆者が知る限り、京阪神で2度展覧会があったが、チラシを入手しながらも行かなかった。1987年4月の京阪守口百貨店での『泉茂絵画展』と、没後すぐ1997年1月、伊丹市立美術館での『泉茂展』だ。そして2005年には和歌山で没後10年展が開催されたが、今回はそれ以降初めてだ。焦点が当てられるのは絵画ではなく、アメリカに滞在していた間に撮影された写真だ。泉は大阪市生まれであるから、大阪で大回顧展があってもよさそうだが、それが出来ない事情があるのだろうか。作品として撮影したのではない写真の展示であるところも、何か物足りない。今回は前回の川端龍子展に比べると作品が小さくて少ないので、壁面はかなり空いていた。展示された写真はたくさん撮影した割りには少なく、また後半の部屋には絵画や版画も展示されたが、全体としてやや中途半端な印象を受けた。この機会が序章となって、何年か後にさらに全貌を示す回顧展があればと思うが、案外この確定しないような印象が泉の持ち味であるかもしれない。伊丹展でのチラシの最後には、『泉茂さんの画業を振り返ってみると、「形態を創り出すのは、常に発見であって探究ではない」と作家自身が言い切るように約10年周期に絵のスタイルが変わり、その軌跡には大変興味深いものがあります。1995年5月、惜しくも泉茂さんは画業半ばで亡くなられました…』とある。10年周期で作風が変化していたのだとすれば、いつ画業が終わってもよい、つまりその時その時で完成していたと言えるから、「画業半ば」の言葉は矛盾ではないだろうか。泉は73で死んだが、それが若いとして「画業半ば」なのか、それとも今までの画業のモチーフを集大成したような総合的作品を生み出そうとする前の死であったので「画業半ば」なのか、とにかくこの言葉は少し理解に苦しむ。とはいえ、やはり泉の画風は一定感が希薄で、捉えどころのなさに戸惑いを覚える部分が確かにある。そのことで恐らく損をしている。どの仕事が本当のものであるのかわからないからだ。日本では求道的な作家が重んじられるところがあり、軽々と画風を変化させる泉のような画家は思想に節操がないとみなされやすい。
 だが、このことを考えてみると、1922年生まれは意味があるように思う。泉は18で大阪市立工芸高校を卒業したが、在学中の2年間、中之島洋画研究所に通った。その後大阪大丸百貨店の宣伝部に入社したが、その間、つまり戦前の画家としての仕事は筆者は知らない。手元のチラシにもそれらの紹介がない。瑛九や早川良雄らとデモクラート美術協会を結成するのは1951年、29歳のことで、泉の画家としての本当のスタートは戦後にある。だが、戦前から絵を学んでいたことの意味は大きい。当時の作風がわからないのが残念だが、多感な10代、20代が戦争を挟んだ時期に相当していたことは、意識するしないにかかわらず、戦後間もない頃にアメリカという大きな存在を突きつけられていたはずだ。戦前の泉がアメリカ絵画に強い関心を抱いていたことはないと思うが、百貨店の宣伝部に勤務した経験があれば、美術を商業の分野から見つめる眼差しは通常の画家以上に培っていたはずで、戦後は物資豊かなアメリカが世界の美術界をリードするような新たな動きを作り出すことになるとの予感は抱いたであろう。何しろ日本を徹底的に戦争で負かした国であり、そんな大国を自分の目で確認してみたいという思いを抱いても当然であるし、そのことが1959年に渡米するという、当時としては意外に素早い、しかも活動的な行動につながったと思う。これが東京オリンピックのあった64年以降ならばさほど驚くに当たらないし、また画家としての栄養吸収にはならなかったであろう。泉は59年9月からニューヨークに住み、63年からはパリに移って68年4月まで滞在した。よほど海外の空気がよかったと見える。ともかくこのアメリカ最先端の都市と、旧世代の美術家の憧れの地パリに住んだことは当時としては思い切った行動であったろう。当然働かずに外国暮らしが出来る身分ではなく、ニューヨークではすぐに版画の教師となった。そして制作も積極的に行なったので、ある意味では泉を国吉康雄や野田英夫のような日系アメリカ人画家に含めてもよい。アメリカの空気を現地で吸いながら制作すれば、それはたとえ3年ほどであっても日本でアメリカを想像して描くのとは大いに違ったものになるからだ。46歳で帰国し、その後ずっと日本で活躍したが、それが画家としてよかった悪かったかは問題提起にはならない。納得しての行動であり、どこに住んで描こうが、出来た作品は画家の辿った道を示すだけだ。
 ニューヨークでは下町ロフトを借りて住み、10月のニューヨークの冷え込みぶりに驚いた。転居を繰り返し、W86th、W78th、21thの3か所に住んだが、63年1月3日に船でパリを目指した。パリでは60年ぶりの寒波で、第一印象は悪く、到着後の1週間に何度もアパートを替えた。だが、ニューヨークの3年半を5年ほどに思い、パリの5年は1年あまりにしか感じなかった。このことから泉の画風を考えることも出来るかもしれない。ニューヨークでは到着後アート・センターのディレクターに作品を見せ、その場で給料と期間を示され、版画教師として働く契約をしたが、何事もビジネスライクな国であることを実感した。貧乏人とはつき合うなと忠告を受けたそうだが、それはアメリカではまともに働けば貧乏人になりようがないという理由からであった。だが、泉はパリでは貧乏人を見て「あの人はソクラテスかもしれない」と言う人に接し、アメリカを改めてプラグマティックな原理が支配し、物事を白か黒か即断を迫る国だと思った。ニューヨークよりもパリが居心地がよかったのだろう。そこに泉の作品を、より前時代的なものに近いとみなす根拠があると思うのは早合点だが、感性を知る手立てにはなる。泉は瑛九の勧めによって53年から腐食銅版画を始め、55年からはリトグラフも手がけ、57年には第1回東京国際版画ビエンナーレ展で新人賞を受賞している。デモクラート協会では絵も描いたが、版画家としての活動が目立った。数々の賞を得ながらも疑問を抱き、それが渡米につながった。写真に関しては素人であったが、渡米に先立って岩宮武二に撮影の基礎的アドヴァイスを受け、カメラや三脚を日本で購入した。ニューヨーク到着直後の9月から60年初頭にかけて35ミリのカラー・スライドで撮影し、何千枚にも及んだ。今回の展示の大半は未公開であったもので、生前の泉はこれらの写真を作品とは思っておらず、何かの機会に一部を紹介した程度であった。これは今回展示のために補正したのかもしれないが、変色はさほど認められず、60年代初頭のニューヨークの空気をよく伝えていた。焼付けのサイズは山田脩二展で見られたような巨大なものは一切なく、新聞紙を越えるものはなかったように思う。
 「NOの街」「扉と窓」「廃車」など、全部で9つの分類によって並べられた写真は、みな画家、しかも抽象画家としての眼差しを感じさせるもので、クローズアップによって事物の質感や光沢に関心を注いだものが目立った。底辺に住む人々を撮影してニューヨークの社会事情を伝えるといった内容のものはなく、あくまでも日本ではほとんど見られない建物の一部の色合いやデザインが面白かったようだ。そうしたものはアメリカナイズされた今の日本ではどの街にでも見られる類のものと言ってよいが、写真は不思議なもので、時代を如実に写し込み、当時のニューヨークを訪れたことのない者にもそれを実感させるリアルな空気がこもっている。「NOの街」では、NO PARKINGといったように、街角のあちこちに書かれる「NO」の文字に着目して撮影した写真をまとめて展示してあった。面白いのはすでに丸に上方向の矢印のピース・マークが存在していたことだ。このマークは60年代後半のヒッピー文化の中で生まれて来たものと思っていたが、そうではないこと知った。「廃車」では、大型車のボディの塗料の剥げり錆ついたりしている様子に着目し、これもいかにも消費大国のアメリカをうかがわせるものであったのだろう。余談になるが、91年にジェスロ・タルが発売したシングルCD「ROCKS ONTHE ROAD」のジャケットは同じような廃車の写真を使用している。廃車は今後もアメリカのひとつのシンボルであり続けるのかもしれない。「マンホール」は今では珍しくない被写体だが、50年代末の日本ではまだ下水は普及しておらず、道路に点在する鉄の蓋は面白い存在であったことだろう。「街と人」では、ギターを持った髭面の男、グリニッジ・ヴィレッジで絵を売る男などを撮影しており、やはり当時の日本ではまだなかった風俗に関心を抱いたことがわかる。また、写る人物たちのファッションはいかにも60年代前半の形と色で、これが今見ると懐かしくもあってよい。美術館内部を撮影したものもあった。これは画家としては興味のあった場所でもあり、当然であろう。光度の不足から鮮明ではないが、モネの睡蓮を描いた絵が確認出来た。本場でアメリカ絵画を見てどんな感慨を抱いたことであろう。続いて「コニーアンランド」「眺望」「解体」とテーマづけられた写真があって、「コニーアンランド」は特に印象に残った。砂浜で寝そべる水着の人々や人形と一緒に砂遊びをする子ども、砂地に並べられた日焼け用の椅子の連なりなど、憂愁の翳りの美のようなものが感じられた。「解体」はビルが壊されて内部の壁や部屋が剥き出しになっている様子を写したもので、壁毎に色の違いがあるなど、いかにもアメリカの規格化された中での個人主義が垣間見える。
 帰国後、泉は70年に大阪芸術大学の教授になる。岩宮武二もそうで、岩宮に学んだ井上青龍の写真展は昨年尼崎で開催され、それに関してはブログに書いた。それはいいとして、泉はニューヨークでは散々撮った写真をパリではぷつりとやめた。アメリカで飼っていたペルシャ猫を連れて行って少し撮った程度で、それもすぐに死んだため少ししかないうよだ。この変わり身のよさにも10年毎に作風を変えた転身ぶりがあるように思える。また、写真が画業とどう関連があるかだが、それはどちらもあっけらかんとしていることだ。泉がアメリカに行ったのは、元々からりとしたドライな心持ちがあったためと言ってよい。アメリカに行ったことで作風がアメリカ風に染まったのではなく、最初から泉はいかにも日本的な湿った情緒を嫌うような作風であったと思う。それはいち早く戦後のアメリカ文化の圧倒的な日本への流入を予感したものと言うより、ひょっとすれば大阪人特有の物事にこだわりのない、おおらかさから発するものであったかもしれない。そう簡単に大阪人気質を言ってしまうと反論もあるだろうが、今後半世紀ほど経てば、泉茂という画家によって戦後の大阪の芸術の特質が確定し、さらには大阪の特徴が言われている可能性はある。今回は代表作の版画や油彩画も展示された。油彩「樹」(51)、水彩とペンによる「左巻きの時計」(53)、銅版画「ゲームの瞳」「逃げたスペード」(55)、リトグラフ「インディアン」(56)といった50年代の作品は叙情的かつユーモラスだ。「CF8035」(64)や「Painting(DF1005)」(65)に見られるような、白地に水色1色で太い刷毛で一気に描いたように見える計算された緻密な作風の油彩画は、「FS2008」(67)に至って青や赤の線が加わることで、よりリキテンシュタン風を思わせるが、もっとスケールの大きいものがアメリカにはある点でさほど感心はしない。だが、終生好んだ鳥のモチーフの変遷には独自のものがある。57年の軍鶏はニューヨーク時代に孔雀に変化し、その羽の模様が次第に抽象化してリズミカルな画面を生み、そして前述の白地に水色のシリーズに移行する。具象より出発して自由に変転を重ねる抽象画面を順に見るのはスリルがあるが、今回はその様子を伝えるには作品がやや不足していた。晩年の雲型定規を使用した作風は80年代後半からの登場だが、それらの密度の高さと華麗な色合いはもはやアメリカ美術にはない、曼荼羅的とも言える豊穰さがある。それがどのように展開するかというところで泉は世を去った。やはり画業半ばであったかもしれない。
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by uuuzen | 2006-07-04 20:51 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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