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●『水都遊覧』
ケットの中央に写っている青の部分は海に見えるが、これは川で、現在の大阪の四つ橋交差点だ。



●『水都遊覧』_d0053294_18353675.jpg「大阪は実に橋の都なり水の都なり」との副題がついた大阪歴史博物館の開館5周年の特別展を、会期終了1日前の先月11日に見た。四つ橋交差点を少し北に行った西側にINAXビルがある。この展覧会の後、そこで開催中の展覧会を見るために訪れたところ、ビルに覆いがあって中に入れなかった。このことは前にも書いたが、INAXギャラリーが少し北東に移転したことに帰宅後気づいた。25日に出かけ直したが、その日は市バスで中之島南の土佐堀通を西に行き、昭和橋を越えて天保山へ行ったが、「大阪は実に橋の都なり水の都なり」を多少実感した。そのあたりの風景は今まで1、2回しか見たことがないため、ちょっとした旅行気分を味わった。大阪もそれなりに広い。江戸時代に川であったところがどんどん埋め立てられてビルが建ったが、川のままであればもっと広々とした風通しのよさを感じたことだろう。現在の四つ橋交差点もそれなりに通りの幅が広いので、せせこましい感じは南北に走る四つ橋交差点を北や南に入ってからでなければあまり感じないが、これがもし川であれば大阪はひょっとすればヴェネツィアに近かったかもしれない。そして船での交通に頼るのであれば、車の排気ガスもなく、世界でもユニークな都市として有名になっていたことも考えられる。川を埋め立てたおかげでその下を地下鉄が走れるようになったと考える向きもあるが、川のままでもその下にシールド工法で同じように地下鉄は作れるから、これはあまり関係ない。それに現在の中之島の市役所付近では川のうえにまで高速道路が走って景観も何もあったものではなく、なおさら大阪の顔である街の空を狭くしている。都市計画を行き当たりばったりにして来たために、「水都遊覧」によってそれなりの水辺の景色が楽しめるのはごくわずかな川面だけになっている。それに大阪の「水都遊覧」船のアクアライナーは確か大人が2500円ほどしたと思うが、これはいささか割高感があって、何度も乗りたいと思いつつ、筆者はまだ1度しか経験がない。どうも大阪のイメージは「水の都」からは遠くなってしまった。
 大阪市生まれで筆者の家の近くには、相互に1キロほど離れて2本の川が流れていた。1本は現在もまだそのままだが、もう1本は25年ほど前に埋め立てられ、道路になった。そちらの方の川沿いに、よく通った銭湯が今もあって、ちょうど今時分にまつわる思い出がひとつある。小学校の授業で当時はよく七夕飾りを作ったが、それが用済みになれば川に流すとよいというので、ある夕方、母に連れられて銭湯に行くついでにたくさんの短冊や色紙の飾りがついた笹をその川に流した。と言うより捨てた。川の水は大半が泥になっていて澱んだままで、重みのある笹はその場でずぶずぶと半ば沈んだままになった。空に浮かぶ天の川の情緒とは正反対の毒気に、子ども心ながら愕然とした。今にして思えば川にゴミを捨てるなと大目玉を食らうところだが、45年前ではまだ水洗便所や下水が整っておらず、川に何でも流し放題で、大雨が来ればすべてを流して去ってくれるとみんなが思っていたし、実際そうであった。今でも人のそんな思いは変わらず、わが家のすぐ裏手を流れる用水路の小川にさまざまなものが捨てられる。時には揮発性の廃油、そして毎日ように犬の糞や家のゴミだ。大体地元に昔から住みついている老人ほどそういうことを平気でする。鮎が泳ぐほどの川でもこうなのだから、ましてや昔の大阪市内のドブ川では想像にあまりある。だが、そんな川でも秋にはたくさんのトンボが飛び、よく取りモチをつけた竹竿でトンボを取ったものだ。戦前ではもっと多くの生物が住んでいたはずだが、日本の高度成長とともに川の生物は死に、そして死んだ者がいつもそうされるようについに土で埋められ、墓標代わりにコンクリートが表面に張られて、そこを車が常時走って踏み固めることになった。そんな川の何倍もの幅のある長堀通りや四つ橋通りでさえ埋め立てられたのであるから、大阪市内から川が激減して行ったのも無理はないだろう。国が豊かになると、建設業者が増え、そうした業者の生活のために常にどこかを掘ったり埋めたりの工事をする必要がある。文明が進んだ国とは土建業者が多い国のことを言う。日本は土建国家だ。そんなわけでもないだろうが、この展覧会は昔の大阪の水の豊かであった様子を懐かしむ内容であった。
 会場は、序「水都全望」、1「なにわ港づくし」、2「水の歳時記」、3「川辺の風景」という構成で、各章はさらに次のように細分化されていた。1-1「難波津」、1-2「澪つくし風景」、1-3「天保山ものがたり」、1-4「港のにぎわい」、2-1「くらし、なりわい」、2-2「水の脅威」、2-3「あそび」、2-4「まつり、いのり」、3-1「蔵屋敷」、3-2「なにわ八百八橋」、3-3「道頓堀ものがたり」、3-4「淀川」。今回は図録の制作はなかったが、これらの小タイトルだけからでもおおよその展示内容は想像がつくだろう。以下順に説明する。まず序章。最初の展示は地図だ。林吉永が1687年に刊行した「新撰増補大坂大絵図」は当時の大阪市中全図で、当時多く制作された「三郷町絵図」のひとつだ。林吉永に関しては京大博物館で江戸時代の京絵図を見たことについて書いた時に触れたが、この「大坂大絵図」はそれに比べると大判ではない。大坂城が上方に描かれ、市中に堀川が巡らされている。それに安治川開削直後のため、堀江新地はまだ開発されずに空白のままになっているのが、街が常に変化し続けることを示して何だか生々しい。当時の大阪はざっと東に大阪城、西に港、南に四天王寺、中央を東から南に大川が流れているイメージで、現在よりはるかに小さい区域を指していた。これは京都でも同じことだ。次の「浪花名所独案内図」は江戸後期のもので、色刷りで神社仏閣、豪商を示し、どこをどう歩けば最も効率よく回れるか、赤や青の線で観光モデル・コースが示されている。江戸時代でも物見遊山はあったからこれは別に驚くことではないが、地図が今と変わらぬ便利なものとして役立っていたことを示して面白い。次の「大阪市パノラマ地図」は大正13年(1924)の大判地図で、梅田から新世界や天王寺、大阪城から築港までが詳細な鳥瞰図として印刷されている。建物のひとつずつまで描写されていることにびっくりさせられるが、当時はこのようなパノラマ地図が流行した。当然縮尺は無視されるが、街がどのように連なっているかはむしろわかりやすい。眼下に街の全貌を収めることで全体を把握したつもりになれるし、またその中をいろいろと歩いてみたいとの気分にもさせる。これは、自動車のカーナビが当初は平面地図であったのが、やがて立体的に街並みを描写するものが登場したことを思えば納得が行く。
 そうした鳥瞰図は地図よりも前に画家がイメージの中で作り上げて絵にしていた。それを示すのが次に展示されていた田能村小斎の「浪華大川眺望図」だ。江戸後期の絵師小斎は有名な竹田の養子直入の後継ぎで大坂に住んだ。この絵は大坂城上空付近から北西方面を見て天満界隈から北摂の山並みを描く。画面右に大川沿いの桜の宮や京橋付近があって、大阪市内をよく知る者が見れば感慨は深い。次にあった大きな作品「大坂風景風俗図」は4面の襖だ。美術品的価値はさておいて、江戸後期の大坂市中の有名な場所を伝える点で格好の材料となっている。ちょうど洛中洛外図の大坂版を思えばよい。「住吉浜潮干狩り」「道頓堀界隈」「新町遊廓」「舩着場」「雑喉場」「料亭浮瀬」「八軒家」といった当時の大阪の有名な場所が描かれているが、今ではもう存在しないものがあって説明が必要だ。「舩着場」は安治川が木津川と分流する付近、現在の西区川口にあった船の出入りの監視場所だ。いかにも水都大阪にふさわしい施設だ。「雑喉場(ざこば)」は大阪の落語家の名前にもなっているが、安治川河口近くにあって、近海の鮮魚供給地であった。大阪の住民の日常食べる魚がここで集配された。「料亭浮瀬」は芭蕉も訪れたことのある江戸期を代表する料亭で、四天王寺の西、上町台地の西端あたりにあった。大阪港、淡路島まで見わたせ、7合半の酒が入る鰒型の盃が有名であった。「八軒家」は大阪の玄関口のひとつで、淀川を下って来た三十石船が到着した。現在の天満橋と天満橋の間にあった。以上の序章だけでも何だか充分な知識を得た気分になるが、本番は以下の3つのコーナーだ。だが、歴史博物館というだけあって、美術品よりも資料として価値があるものが展示の中心になる。まず1-1は難波津に関する古代から近世までの概説だ。大阪港は古代から発展し、近世は全国物資の集散地、近代はアジア向けの貿易地となった。「浪華往古図」(1830)は、江戸時代の知識人が伝承を元に古代の難波津を描いたもので、難波津へロマンを馳せる人が江戸時代にもあったことを伝えて面白い。1-2は澪つくしの紹介だ。これは筆者も小学校でしつこいほどに学んだ覚えがある。大阪市章になっている澪つくしは、海と川の境を示す木製の標だ。江戸時代の大坂港は北の伝法(此花区)と南の木津川口にあったが、安治川改削後には安治川口に新しく出来た。「浪華木津川新築立石並戸千本松風景」と題する暁鐘成描く江戸後期の版画は、幕府が木津川口に天保3年(1832)に石堤を築き、そのうえに松が植えられて「千本松」と呼ばれるようになった景勝地を示していた。安治川の川浚えによる土砂が積まれて出来た天保山も天保年間には行楽地であったが、京狩野派の狩野永泰が描く「天保山風景図」(1838)は南より俯瞰した天保山を描き、梅や紅葉の様子が描かれる。1-3では引き続き天保山についての作品と紹介があった。幕末に台場が作られて大改造を遂げた天保山は、明治の一時期行楽地に戻り、その後築港が造成され、明治36年(1903)に大桟橋が完成して大阪港の中心となった。「浪花川口築港繁栄之図」は長谷川小信による明治の版画で、明治維新後の蒸気船が存在を誇示する川口の様子を伝える。当時外国人居留地が設けられてお雇い外国人や商人が多く住み、文明開花の発祥の地となった。
 資料展示が多く、いつものことながら会場後半は時間がもうなかった。そのため以下簡単に書く。2-1で目立ったのは月岡雪鼎(1710-86)筆の6曲1双屏風の「大坂十二ケ月風俗図」(1772)だ。雪鼎は近江出身で狩野派に学び、心斎橋に移住した。仁和寺から位を授けられたほどの人物であった。屏風の各扇に1月ずつが当てられ、月順は一部移動があるが、右端から順に書くと、「正月、今宮十日戎」「十月、大光寺のおしどり」「三月、住吉汐干」「四月、阿弥陀池灌仏会と八日華」「五月、住吉御田」「六月、天神祭」「七月、四天王寺千日詣」「八月、川口鯊(はぜ)釣り」「九月、住吉宝の市(相撲会)」「二月、四天王寺聖霊会」「十一月、道頓堀顔見世」「十二月、八軒家歳末」となっていて、今でも健在なものが大半だ。阿弥陀池は現在の西区の和光寺で、西向かいに大阪市立図書館が建っている。2-2は水の都でありながら、大阪の水が生活用水としてはあまりよくなかったことを伝える。去年京都文化博物館で開催された『日本三景展』で、京都鴨川の水を桶に入れて売っていたことを示す資料が展示されたが、それが事実であったことは今回よくわかった。明治初年まで大坂人は川から汲んだ水売りの水を飲んでいたが、水質悪化やコレラなど伝染病が多発して、明治22年(1889)に大阪市飲料試験所が置かれ、水質検査が行なわれるようになった。今回そのことを示す検査票が展示された。また、暁鐘成が描く「澱川両岸勝景図会」(1824)という冊子サイズの木版画には、堂島川にかかる大江橋、対岸左に堂島や米市、川には材木を流す筏や大きな水桶を積む舟が見られる。次のコーナー「川辺の風景」は大阪から景勝地を奪って行った歴史の紹介でもある。大坂在住の浮世絵師歌川国員、芳瀧、芳雪の合作による幕末大坂の風景を描く錦絵100枚は、安政年間(1854-60)頃の作で、こうしたものは江戸が専門と思っていたが、大坂にもあったことに感心した。鯊を釣っているのか、この錦絵の中の1枚の部分がチケット右下に使用された。「浪花百勝」(昭和15年)は、それら錦絵と同じような内容で、名所旧跡、年中行事や人々の暮らしを描く二代目長谷川貞信筆の100枚の短冊だ。その細密華麗な描写はどう見ても戦後には絶滅したものだが、逆に考えると戦前まではまだ大阪には江戸時代にそのつながる風景や生活がふんだんにあったことになる。大坂は江戸時代に多く堀川が開削され、橋が架けられた。八百八橋の名はそこから生まれた。中之島周辺には諸藩の蔵屋敷が建ち、諸国から物資が運ばれ、淀川沿いには網島、桜の宮、毛馬、長柄などの景勝地が続いていた。三十石船が観光用に復活されれば一度は京都から乗って下ってみたいと思うが、今では淀川沿いにどれほどの見るべき景色があるのか、かなり心もとない。アクアライナーから見える大川沿いにはホームレスの水色のテントの列ばかりであったが、これでは大阪自慢も逆効果だろう。
by uuuzen | 2006-07-03 18:36 | ●展覧会SOON評SO ON
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