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●『ジグマー・ポルケ展:不思議の国のアリス』
思議なタイトルのこの展覧会も去年と今年の「日本におけるドイツ」の一連の催しのひとつとして企画されたが、シュテファン・バルケンホールの現代彫刻に対して今度は現代絵画界から選ばれた。



●『ジグマー・ポルケ展:不思議の国のアリス』_d0053294_21493651.jpgこの画家に関しては前知識がなかった。そのため楽しみにして出かけた。会期終了日の先月11日で、若い人々がたくさん来ていた。ポルケは1941年生まれだ。今60代半ばで、世界的名声を得て活躍する世代としては納得が行く。縦横2メートルかそれ以上の大画面30点ほどの展覧であった。正直に言えば筆者はあまりポルケのよさがわからなかった。それがなぜかとずっと考えているが、いい答えが見つからない。筆者よりちょうど10歳年長であるから、何をやるかわからない若手よりもまだ理解が及ぶと思いたいが、それでもポルケの芸術の見所はよくわからない。個性に響き合うものがないのだろう。チラシにはこんな文句がある。「幅広い知識と優れた洞察、パロディや皮肉、ユーモアの精神をもとに、現代人の日常生活から、お伽話、歴史、戦争、神話、錬金術にいたるまでさまざまなモチーフを画中に重ね合わせていきます…」。この後半は絵の内容の説明で、そのとおりなのだが、前半の「幅広い知識と優れた洞察」というのがほとんど絵からは伝わらなかった。特に「幅広い知識」だが、これは具体的にどういう部分として絵に表われているのだろう。無限の無限乗も存在する「知識」において「幅広い」とは、あまりにも曖昧な言い方で、これは画家を紹介する言葉としては不適切で無責任だ。どういう知識において幅広いのか、そこを説明する義務があるだろう。「優れた洞察」にしても同じで、具体的にどういう点がそうなのか、絵の横に説明がほしかった。「幅広い知識」や「優れた洞察」という言葉が絵画にとってどう可能か、また必要であるのか、大いに疑問を抱く。これらは文章にこそ適用出来る言葉だ。「何か」を描く絵画で「幅広い知識」や「優れた洞察」の存在が可能として、それがポルケの作品に表現されているとするならば、今までの長い絵画における歴史における価値観を根底から再構成する必要がある。また、仮にポルケの絵画に「幅広い知識」や「優れた洞察」があるとして、通常の大半の鑑賞者にはそれがないわけであるから、ポルケの絵は理解不能ということになる。ポルケはおそらく「幅広い知識」や「優れた洞察」を持った人物であるだろう。だが、ポルケ本人はそれを自己の絵に最大限度に盛り込むことを目的としてはいないと思う。むしろそれを拒否して、あるがままの絵画を見てほしいのではないだろうか。そのため、「幅広い知識」や「優れた洞察」という言葉はこのチラシの文句を書いた学芸員の衒学趣味を示すものに過ぎないだろう。
 ポルケに「パロディや皮肉」があるというのはよくわかる。たとえば今回出品された「おまわりブタ」(1986)だ。キャンヴァスにスプレー絵具で描かれたとあるが、白地画面に黒の網点を使って、顔を丸く白く抜かれてしゃがみ込む警察官の隣に豚が警察官の帽子を被って座っている。写真を元にした作品で、網点の使用からはアメリカのリキテンシュタインを連想させる。ポルケは60年代半ばにベルリンで「ネオダダ・ポップ・デコラージュ・資本主義エアリズム」というグループに参加しており、アメリカのポップ・アートからの影響を受けている。だが、リキテンシュタインのようにからりとした画面ではなく、いかにもヨーロッパ的で、たとえば「おまわりブタ」からはフォト・モンタージュのジョン・ハートフィールドの作品を連想させる毒が見られる。それでもジョン・ハートフィールドとは違って、明らかに平和な時代のドイツにおけるちょっとした皮肉の表現の域を出ず、攻撃性よりも「笑い」に作品は傾いている。網点はシルクスクリーンの版を作って、スプレーでキャンヴァスに吹きつけたものに思えるが、間近で見ると筆で描いた部分もあるように見えた。何度も確認したが、どのようにして描いたのかはわからなかった。リキテンシュタインよりももっと緻密で細かいドットで埋め尽くされているので、全部を手で描いたことはないと思うが、もしこの1作だけのために写真から版を起こし、そしてスプレーで吹きつけたのだとしたら、かなり手間のかかる仕事をしていることになる。
そうした技法の秘密めいた点が「幅広い知識」と表現されるゆえんかもしれない。「おまわりブタ」は画面いっぱいに写実的に描かれている点でわかりやすいと言ってよいが、同じような傾向の絵は続かない。実際はたくさん描いたのかもしれないが、今回は「おまわりブタ」だけであった。網点の使用は他の技法との組み合わせでまた登場するにはするが、そうして出来た作品は「パロディや皮肉」を必ずしも使用しない。つまり、ポルケは絵画技法としていくつもの手段を持ち、それらを自在に組み合わせながら、ありとあらゆるものを表現する。そのため、どれがポルケの本当の持ち味で代表作なのかは誰にもわからない。このひとつのところにとどまらない作家としてのあり方は、ある意味ではどんな作家にも見られるが、ポルケにあっては従来の絵画の枠から完全にはみ出したような自由自在ぶりで、古典的な絵画を念頭に置く人々の神経を逆なでするところがある。ポルケは20歳頃までガラス職人であったが、そんな経歴が独自の絵を生み出す理由になっているだろう。20歳から6年間をデュッセルドルフの芸術アカデミーで学び、その後個展を開催したり、カッセルの「ドクメンタ」に出品し続けるなどし、今では世界的に知られる。
 今回出品はされなかったが、デューラーの有名な兎を描いた作品から、その兎とデューラーのサインであるモノグラムをそのまま画面の中央に大きく描いた作品がある。だが、デューラーのように写実的で緻密な仕上げではなく、ちょうど「鳥獣戯画」のような簡単な黒い線描でさらりと描いてある。しかもキャンヴァスとして市販のプリント生地を使用し、中央部分を白の絵具でざっと塗り潰したうえに描いているので、デューラーのものとは違って白兎となっている。デューラーの心酔者が見れば冒涜に思えるかもしれないが、この作品はたとえば森村泰昌の作品と共通する過去の偉大な大家へのオマージュと同じだ。だが、ポルケは森村のように自己の作風を固定化しない。デューラーの引用はおそらく他にはないのではないか。また、デューラーの引用は森村とは違って、同じドイツ人という誇りからとも思える。そして、デューラーより500年ほど過ぎ、絵画はもはやデューラーがやったことをそのまま踏襲するものではないという矜持もあるだろう。デューラーの時代はまだそうではなかったが、今では絵具は市販されていて、絵を支配しているのは絵具会社、新製品を開発する会社と言ってもよい。日本画は特にそうなってしまっている。だが、絵とはそんな足枷があっていいものだろうか。そのことを疑問に思って市販の絵具を使用しない画家は日本にもいる。真のオリジナルを追求するならば、市販品を使用する限り限界があるが、そのことを疑わない人は多い。絵は表現された内容というわけだ。だが、内容はそれを支える物体が表示するから、どういう表現媒体を使用するかは絵の内容に大きくかかわる。たとえば筆者は10色の色鉛筆でよく写生するが、それを水彩に変えればがらりと表現されるものが違って来ることを知っている。あるいは鉛筆1本に持ち変えても同じことで、その鉛筆をボールペンや万年筆に変えて同じものを同じように描いても伝わるものが随分異なることをよく知っている。そして、筆者にしても、10色の色鉛筆を何か違うという思いをいつも抱いている。それにもっと違う表現を目指すのであれば、紙も考える必要がある。面倒なこともあってついつい同じ色鉛筆と写生帖を使っているが、こうしたしっくり来ない絵画行為をいろいろと実験してみるというのがポルケだ。
 それは気を衒って、少しでも他人とは違う絵画を作ってやろうとの意味合いばかりからではないだろう。確かにそれもあるだろうが、絵を描きたい欲求とは、実際に生まれる絵の肌触り感、つまりマチエールの独自性を手に入れたいというところに発しまた落ち着くものであって、通常のキャンヴァスや油絵具を用いたのではどういう絵肌が出来るかわかっているため、もっと違う原始回帰への希求が貼りついている。画家になるには、油絵具やあるいは日本画の顔料と膠の使いこなしを手を使って覚え込んで行くことにしかないとすれば、そんな不自由はない。絵画はもっと自由であるべきだ。ポルケの絵画の見所のひとつはそんな自由さが駆使されているところにある。ポルケしか見出さなかった媒体で絵が構成され、それは芸術のアウラが1回限りのものであるということをさらに保証するだろう。確かにキャンヴァスにアクリル絵具で描いた作品もあるが、「鉛丹の下塗り、油彩、紫の顔料」「人工樹脂、アクリル絵具」「天然の朱砂」「メタリックなアクリル絵具、酸化鉄」といったように作品ごとに使用する媒体を変化させ、また表現されたものがそれに応じて変化を示している様子を見れば、ポルケの捉えどころのない作風がよくわかり、その個性こそがポルケの持ち味であることを知る。そして、そのようにしてあたかも人を煙に巻くような行為を続けても、なおそこから個性は浮かび上がるほかなく、捉えどころがないようでいて、ポルケの世界は確固としてある。最初にポルケのよさがわからないと書いたが、それは絵画としての完成度の考えが筆者の思いとは異なるからだ。ポルケの絵はどれも未完成に見える。「モナ・リザ」でさえ未完成であるから、絵画はそもそも未完成の完成と言ってよいかもしれないが、ポルケの絵は「流動的」で、ある作品が他の作品とつながって、安定感をもたらさない。見ていて何だか不安になるところがある。それが何に由来するのかわからない。だが、「流動的」の言葉を、ただの出鱈目な線や色をなぐり描きした意味で捉えるならば間違いで、ポルケの絵はかなり具象的なところがある。その一方、今回出品された数字を直線を結びつけて描く「魔法陣」(1992)シリーズは、同じ画家の作品とは全く思えない、数学ゲームへの強い関心が見られる厳格な抽象(あるいは宙象か)スタイルで、ポルケの一筋縄では決して行かない作品世界をさらに知ることになる。とにかく興味の赴くまま、自由自在にどのような作風にも変貌するところがあって、ポルケの実力を知るには1点を見ただけでは絶対にわからない。
 ポルケにそうとうな具象イメージの描写の才能があると認識させたのは、全40点組の「牡羊座の満月」(2004)と題されたシルクスクリーンとリトグラフ併用の版画だ。33×46センチとさほど大きくない、いわばまともな作品だが、ここに描かれるモチーフの表現性や色彩は、どこかジャン・コクトーを思わせる洒落たセンスで、シュルレアリスム・タッチが明確でありながら、きわめてよく訓練された手の動きによる線描は夢幻的イメージの自在な紡ぎ出しを示し、通常の意味での古典的な絵を描く画家として進んでいても大成したことをうかがわせるに充分だ。だが、この版画における氾濫する豊穰なイメージは他の大画面には引用されることがないようで、改めてこの画家の多才ぶりに舌を巻く。展覧会の副題になった「不思議の国のアリス」(1971)は、縦横3メートルほどの作品で、キャンヴァスとして3種のプリント布地を使用している。両端が緑を主にしたサッカー競技模様、中央と上下端はそれぞれ黒地と青地の白の水玉模様だ。これらのプリント地はそのうえに描かれる絵の内容と響き合っている。プリント模様はそこに白の絵具でぐいぐいと描かれる絵に比べて小さいので、全体として何が描かれているかわかりやすいようだが、実際はそうとも言えず、謎めいた印象を与える。右側のサッカー模様地には白でバスケット・ボール選手がひとり大きく描かれる。中央の黒地白水玉模様では、少女アリスが大きなキノコのうえに座って水タバコを吸う芋虫人物のような存在を見上げている。水玉模様はアリスの体の部分で黄土色に部分的に塗り潰され、プリントの地模様と描く絵との交差が見られる。つまり、プリント地模様は適当に選ばれているのではないことを示唆している。また、アリスの上方や背後には、ステンシルで男女の顔を赤や黄、白で刷り込んだ反復が7か所ほど見られるが、この一種の模様はプリント生地における模様の反復と呼応している。そして、芋虫人物やそのほかの「描いた」場所に細かい網点を刷り込んでいるのは、プリント地の水玉との呼応だ。キノコの傘は赤で乱雑に塗り潰されているが、これはポルケの他の作品に見られるタッチとつながる。とにかく他の誰にもない作風であることは確かだが、筆者はこの絵を名画とは思いたくない。だが、何だかんだと書きながらも、まだまだポルケに関しては言い足りず、結局筆者はポルケの術にはまったのかもしれない。
by uuuzen | 2006-07-01 21:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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