対ブラジル戦のサッカー試合が4、5時間後にある。それまで起きてはいないから、明朝にニュースで結果を知ることになる。

今日は目覚めたのは8時半で、昨日よりかなり遅かった。この調子では早起きは3日坊主も怪しいか。そんな意思の弱い自分の戯画を描けばどうなるか。そんな眼差しも時には必要だ。自分の顔写真をブログに掲げる人は多いが、戯画を描いて載せる人にはあまりお目にかからない。それほどユーモアや才能のある人が少ないことを示す。つまり、ブログは無数にあっても大半は凡人のもので、プロ根性は見られない。今日本のブログは2億ページが蓄積されているというが、こうなればブログは実社会と同じで、出会いはごく一部、奇跡同然と言ってよい。未知との出会いの可能性は常に高くあってもそれだけの話で、2億が相手では微小部分としか接触出来ない。見過ごした中にひょっとすれば自分にとって生涯を決定づける圧倒的な内容のページがあるかもしれない。そのため、検索テクニックはますます重要になっているが、検索機能も万全ではなく、漏れるページが多いことは検索を頻繁にしている人ならば誰でも知る。検索結果の上位に表示されるかどうかの問題ではない。そもそも検索に引っかからないページが存在し、そんな検索機構の現在の欠陥事情を知ってしまうと、急に検索がアホらしくなる。このように、ブログやネットはまだまだ未完成の状態にあるが、それが将来解消されるかと言えば、結局は今と同じいたちごっこが続くほかないだろう。何事も完成したと同時に末期を迎え始めるからだ。そのため不備のある未完のまま、どうにか続けて行く方がみんなにとって便利な道具であり続ける。ただし、2億ページが200億になるのは時間の問題で、そうなった時にはますます個人の人生の長さは取るに足らない微小なものと化し、人類は新たな人生観を構築する必要に迫られるだろう。人間の欲には切りがないから、臓器移植などがもっと進んでさらに高齢社会が実現したところで、心の飢えや満足具合は変化せず、充分長く生きたと思えることは絶対にないはずで、スウィフトが書いたように、かえって不幸と感じるだけとも思える。
ブログで写真を簡単に掲載出来るのは、思いを発する点では大きな進歩で、それはそれで喜ぶべきだが、その一方で絵画の重要度が増したように思う。以前、写真は何でも写ってしまうと書いたが、これは被写体にカメラを向けてパチリとやると、そこには自分が関心を持っていないものまで写り込んでしまうとの意味だ。そうした写真を拒否して、被写体のすべてを自分が制御し、あたかも絵画と同義なものとして写真を撮る写真家もある。本当はそれでもなお自分が意図しなかったものは写り込んでしまうが、ひとまずは隅々まで意図した「絵」は構成出来る。写真に写るすべての細部を撮影者が記憶出来ることはない。また、人は見ようと予め思っているものしか見ないから、ある1枚の写真を見ても撮影者は鑑賞者とは違うところを見る可能性はいくらでもある。この点を考えれば写真は無責任かつ曖昧な表現手段になり得ることから逃れにくい媒体と言える。そこに着目することで新たな写真や写真論の展開の可能性もあるが、その問題はひとまず置いて、とにかくブログにみんなが掲載するような写真は素人のものであって、そうした特製を充分に考慮して撮影、発表したものではなく、強い個性を感じさせるものはほとんどない。そのような退屈な写真が1点でもあると、忙しい現代人のことでもあるから、当のブログ全体が推し量られて、二度と訪れてもらえないことにもなる。つまり、ブログの写真は文章以上に神経を使うべきで、本当は才能もこつも必要なものだ。にもかかわらず、これが簡単に考えられ過ぎているあまり、ブログをさらに屑情報の集合世界にしている。だが、文章が平凡なものは写真もかなりの割合で同じで、元々表現は釣り合っていて何も問題はないと言える。2億が20、200億になっても、個性的で重要なブログは一定の割合にとどまり、そうしたものがいずれは後の世代に伝えられる財産になる可能性も考えられる。ブログからそうした価値あるものが生まれるとして、それはたとえば人気ブログ・ランキングの上位を占めるような多数の評価に負うものかどうか、それもまたかなり疑わしい気がする。エンタテインメントやジャーナリズムに当てはまるような物差しが、ブログの価値判定に有効かどうかまだわからないからだ。
写真は絵画から誕生したもので、人間に絵画の感覚がなければ生まれなかった。デジタル時代になって、写真を修正加工することが昔よりもっと簡単になったが、それでもまだ絵画よりは自由度ははるかに劣る。たとえばデフォルメがある。写真でも可能だが、それはソフトを使用して機械的にしか処理出来ないもので、画家が描く戯画のような自在なことは到底かなわない。シャッターを一度押しただけで一応写ってしまう写真を、後でデフォルメ加工して鑑賞に耐える戯画にまで加工するよりも、最初から白い画面に絵を描く方がはるかに早く、また1点ずつ違った本質で描くことも出来て効率がよい。文章も白い面に1文字ずつ埋めて行く作業であり、言いたいことの本質を視覚的要素と相まって表現するのであれば、写真よりも自分の手で描いた絵の方がより釣り合いが取れる。その意味からも、小学校で経験した絵日記は案外奥が深いものであった。さて、写真が登場する以前は画家が描くしかなく、新聞の挿絵も画家が担当した。そして大衆にアピールするためには写真よりもその方がよかった。一目瞭然でわかる内容を伝えるには絵で本質を抽出して「説明」する方がよいからだ。そしてそれは写真のようにあるがままの形を写実的に伝えるものではなく、むしろ誇張が施された方がリアルに思えた。人は、ある対象を写真を見るように見てはおらず、常にある部分を誇大化して認識する。これは人の記憶の回路がそうなっているからだ。つまり、人間の目はカメラのようにあらゆるものを常に映し込んでいても、記憶を司る部分までがそうではないから、「見えたもの」とはすなわち意識して「見た」ものであって、写真における、意図せずに写ってしまうものは最初から除外され、記憶されずに終わる。絵が面白いのは、そこに描き手が意図したものがすべて克明に描写され、意味がないものはないからで、写真が面白いのは、そこに撮影者が意図しなかったものが写り込んでしまって、その意外性から別の物語が動き始めるからだ。絵は嘘からしれないが、写真もそれは同じだ。そして写真の方がより真実らしく認識される点でむしろ始末に悪い。

さて、先月31日に伊丹市立美術館に行った。とてもいい天気で、近くの法巖寺の楠の大木の緑も輝いて見え、美術館に行く前に写生した。大きいので画面に全部収まらなかった。いい出来映えではないが、展覧会を見た後に近くの郵便局に寄ってまた風景印を捺してもらった。少々見えにくいが、印に彫られた風景は郵便局から西4キロにある昆陽寺(こやでら)で、このような遠方の場所が風景印に選ばれる理由がわからない。法巖寺は阪神大震災で被害を受けて新しく建て直されたが、勝手に境内には入れない。そのため地震でも被害を受けなかった楠を描くには寺の外からでなければならない。樹齢は500年だ。人間の何倍も長生きしながら、どんな瞑想に浸っているのかと思う。きっと人間が瞬時に消えるようなアメーバか蚊程度の軽い存在に見えていることだろう。木は物言わぬ偉大な風刺家かもしれない。はがき大の写生はいつも写真代わりのつもりで、ついでがあれば記念スタンプを印す程度のものだ。それ以上でも以下でもないが、意識の中では写真を撮るよりも深く刻まれる。自分だけのものとして体内に取り込まれる感覚と言ってよい。それはさておき、この美術館は何度も書くように、イギリスやフランスの風刺画を多く所蔵する。そのため似たような内容の展覧会がしばしば開催されるが、風刺画ファンにはまたとない場所でそれはありがたい。今回は2階の1室だけの展示で、副題は「百花繚乱、19世紀パリ人物図鑑」だ。ポスターは洒落ていて、黄色の枠で囲まれるのは、画家アングル(1780-1867)を戯画で表現したリトグラフだ。アングルには写真のように緻密に描いた自画像があるが、その印象と照らし合わせて、この絵がどの程度似ているかどうかははっきりとわかる。戯画ではあるが、痛烈な風刺ではない。アングルの下にたくさんひれ伏す人々がいることからもわかるように、賛辞だ。腰にヴァイオリンを下げているのは、アングルがオペラ座で演奏した経験のあることを示す。描いたのはバンジャマン・ルボー(Benjamin Roubaud)(1811-47)で、今回は本人の自画像を含む彼の描いた著名な画家、彫刻家、音楽家、作曲家、歌手、俳優、詩人、小説家、文学者、劇作家、ジャーナリスト、風刺画家の戯画が71点展示された。地下展示室ではイギリスのジェームズ・ギルレイ(1756-1815)や、ルボーと同時代のドーミエ(1808-79)の絵が展示されたが、これらの素晴らしいの一言に尽きる作品に関しては今回は触れない。
ルボーは南仏生まれで、パリで絵を学び、晩年の6年ほどをアルジェリアに滞在してオリエンタリズムを主題にした絵をサロンに出品したが、風刺画で有名となっている。23歳で政治風刺画でデビューし、ドーミエを発掘した風刺画家でジャーナリストのシャルル・フィリポン(1800-62)の主宰する週刊風刺誌『ラ・カリカチュール』や絵入り風刺日刊紙『ル・シャリヴァリ』などに寄稿した。ルイ・フィリップ治世下の著名人の戯画を描いたが、残念ながら今回の71点の人物の名前は当時のパリに精通した人でなければほとんど馴染みがなく、どのように特徴を捉えて似ているかの実感は、当時のフランス人に比べて大きな差があるだろう。それは時事を扱った作品の宿命で、また新聞紙に印刷されたリトグラフであるため、版画でもさらに消耗品的なものとして認識されやすい点も一部の美術愛好家にしか関心を抱かせない。だが、逆に見れば、そうであるからこそ今となっては当時の細かい事柄がいろいろとわかる貴重な資料と言える。美術館で立派に展示される大きな油彩画だけでは当時の世の中はわからず、こうした大衆と密接につながって量産された印刷物も同時に存在する必要がある。手元の1987年に国立西洋美術館で開催された『イギリスのカリカチュア』展の図録によれば、「カリカチュア」はイタリア語の「カリカーレ」(誇張する)に由来する言葉とある。レオナルド・ダ・ヴィンチにカリカチュアに分類出来る絵があるのはよく知られるが、もっと積極的にそうした絵で評価されるのはカラッチ(1560-1609)だ。カラッチの戯画は後の画家に継承されたがいずれも余技で、ようやくゲッツィ(1674-1755)に至って最初の職業的な戯画専門画家が現われる。このイタリアでの伝統をイギリスのロイヤル・アカデミーの創設者レノルズ(1723-92)は学生時代に盛んに吸収して描くが、後年それを否定する。またイギリスの風刺画家としてあまりに有名なホガース(1697-1764)は、レオナルド、カラッチ、ゲッツィの3人の戯画を槍玉に上げて、イタリアの「カリカチュア」を否定するが、同時にラファエロの人物に見られる「性格表現(character)」を賛美して、自らの芸術をそれを受け継ぐ「喜劇的歴史画」と位置づけて、イタリアの戯画とは一線を画した。だが、ホガースの跡を継いで登場したギルレイやトマス・ローランドソン(1758-1827)はもうそのした美学はなく、ほとんど現代の漫画に近い表現の戯画によって政治や社会の痛烈な風刺をして人気を博した。
だが、ギルレイやローランドソンの戯画は銅版画を手彩色した手間のかかる小部数の高価なもので、専門の版画店で売られ、好事家が私的に楽しむものであった。そうした店は1830年代初頭までには姿を消したが、それはやがて登場する『パンチ』誌などの定期刊行物の出現に駆逐されたからだ。同誌は1849年の創刊で、『ル・シャリヴァリ』に因んで『ロンドンのシャリヴァリ』と副題がつけられたほどに、フランスの方がカリカチュア精神は先行していた。本家の『シャリヴァリ』はフィリポンが『カリカチュール』の姉妹紙として1832年12月に義兄のオベールと共同で創刊し、ガヴァルニ(1804-66)やドーミエなどの新進の画家による1ページ大のリトグラフを毎号4ページのうち3ページに挿入した。「シャリヴァリ」とは、鍋や釜を叩いて新婚夫婦に非難や嫌がらせをした中世の風習だ。同紙は最初国王ルイ・フィリップの洋梨にたとえるなどしてブルジョア尊重の7月王政を痛烈に風刺したが、1835年の出版弾圧法以後、風俗風刺に転換した。新聞サイズは発行時期によって差があるが、今回展示されたものは37×25.5センチほどで、パリのパンテオンの切妻壁に着想を得て描かれた『パンテオン・シャリヴァリ』シリーズの作品群だ。パリのパンテオンは現在はフランス歴代の偉人を国葬する寺院として有名だが、元はルイ15世治世下にパリ守護神の聖女ジュヌヴィエーヴを祀る教会として着工された。1790年の完成を目前にフランス革命が起こり、偉人を祀る墓地となったが、当時は一旦葬られながらまた遺体が引きずれ出されゴミのように棄てられたりと、評価が定まらなかった人物が何人もいる。今もある程度それはあって、没後長い年月を経てようやくこの殿堂に入る人もある。ルボーがこのシリーズを制作した7月王政には「栄光の寺院」と呼ばれ、彫刻家ダヴィッド・ダンジェ(1789-1856)によって正面切妻壁が改築(1831-7)された。ヴォルテールやルソーが浮き彫りされ、「偉人たちに祖国は感謝する」という銘文も刻まれた。『パンテオン・シャリヴァリ』は皮肉ではなく、ルボー自身を含めた有名な才人たちへのオマージュだ。だが、71点の中で今も世界的によく知られる人は、先のアングル以外では文豪のユゴー(1802-85)や作曲家ドニゼッティ(1797-1848)程度で、数多い俳優やジャーナリストはみな馴染みがない。