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●合歓木に
の合歓木が数日前に満開の花を咲かせた。6月はまだ蒸し暑さもましで、夕方は気持ちがよい。うす着をしているとくしゃみが出ることもあるほどだ。



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●合歓木に_d0053294_12482912.jpg数年前はこの時期の夕暮れに近くの桂川沿いの公園をよく散歩したものだ。自転車道沿いには珍しくも1年の合歓木の古木がある。樹齢は100年ほどだろうか。この木を中心に半径2キロ以内には他に合歓木は見られず、周囲200メートル以内にはほかの木もないため、その孤立して立つ様子は特に印象深い。公園を散歩する人は誰しもその存在を知り、ひとつのマイル・ストーンのように思っていることだろう。息子がまだ2、3歳であった20年前にはしばしばこの木まで連れて行った。合歓木は豆科で、夏の終わりに藤の実とそっくりな豆の鞘をたくさんぶら下げる。ぱりぱりに乾燥し、中の実は平ぺったく、しかも藤よりかなり小さいが、たぶん鳥が運ぶのではないだろうか。あるいは、この木はもっぱら川辺に育つから、水中に落ちた鞘が流れに乗って下り、またどこかの川辺で芽を出すのだろう。花はピンク色で確かに花には違いないが、通常の花の感覚からは遠い。全体が羽毛の固まりで、あまり美しくはない。その独特さが面白いと言う人もあるが、庭に植えて鑑賞するような木ではない。枝がどんどん水平に広がって育つので、そうとう広い庭が必要となるからだ。これは前に2、3度書いたことだが、ある日公園の合歓木の種子の鞘をひとつ拾って帰り、植木鉢で育て始めた。息子が2歳頃だったろうか、高さが50センチほどになったので庭の片隅に直植えした。それが今では庭をほとんど全部覆い尽くすほどの大きさに育っている。家内や母はバッサリと根本から切れとうるさいが、頑として耳を貸さずに毎年多少の剪定だけをしている。樹齢が20年を越えると、美しい木ではなくても根本から切る気にはとてもなれない。息子の成長とともに育って来たので、何だか息子の分身にも思えるし、切り倒すと縁起の悪いことが起こる気もする。木も生き物であるから、人間が考えていることも少しはテレパシーで伝わっているだろう。いや、絶対にそうだ。木は移動出来ない分、人間以上に敏感に周囲のことを感じているに違いない。
 それにこの木があるおかげで助かっていることがある。庭向こう100メートルほどの家の屋根に太陽発電のパネル・システムが設置されていて、それが太陽の光で終日照らされるため、こっちは眩しくてたまらず、家の中が暑くなる気がしていたが、光を遮るには木を植えるしかないと考え、10年以上も経って望みどおりに合歓木がその役目を果たしてくれるようになった。それでも伸び放題はまずいし、大きな傘のように広がった枝が庭のほかの草木への光を遮断するから、毎年2月に徒長した枝をのこぎりで切り取る。木は冬眠中に剪定すればよいからだ。だが、プロの植木職人ではないので、どこをどう切れば格好よい樹形になるかわからない。そこでまず両隣の庭に侵入しないことを第一条件に、後は適当に切っている。幸い庭のすぐ向こう側は小川で、直植えには川に最も近い位置を選んだ。ただし、幹が将来太くなった時、それが庭端の金網を押し倒さないようにと金網からは少々離した。予想どおりに幹は川辺に向かって育ち、ひとまずは金網を押し傾けてはいない。幹の傾きは日光の関係だが、鉢植え段階の傾いていた形をそのまま向きを変えず、つまり同じ枝振り方向のまま平面移動して直植えした。植物は人間と違って、簡単に幹の傾きを自分の好む方向に転換出来ないから、植え直すにはこのように幹の方向をよく考えてやる必要がある。球根を植える場合もそんな心遣いは時として必要だ。植える上下を間違えば順調に花を咲かせないことがあったりするからだ。だが、チューリップの球根はそうではない。どのような方向で土の中に埋めても、必ず茎は地上目指して伸びる来る。たとえば上下反対に植えるとすると、芽は最初は当然地底に向けて生えるが、すぐにぐるりと方向を180度転換して地上へ向く。チューリップがこの性質を持つことは花を育てる人にすればありがたい。適当にぽんぽんと土の中に放り込んでおいただけで春先になればどの球根も芽を地上に出すからだ。これがもし必ず上下方向をしっかりと守って植えてやらなければならないとすれば、チューリップの球根は現在のような安価では流通しないだろう。
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 筆者が合歓の木を名前を特別に意識し始めたのは、宮城まり子の「ねむのき学園」の名称からだったと思う。あるいは70年代前半に三重県の合歓の里で軽音楽の音楽祭が行なわれた記憶があるが、それからだったかもしれない。話は変わるが、京都に出て住み始めてから、桂川の河川敷のちょっとした草木の中にオジギソウを見つけたことがある。それをある女性から示してもらった。名前は知っていたが、実際に見るのは初めてで、しかも名前の意味がすぐにわかった。葉に指を触れると瞬時にぴたりと閉じ、茎も順にお辞儀をしたように下方にうなだれて行く。まるで動物のような動きで、その様子は間近に見ながら信じられなかった。閉じた葉やうなだれた茎はやがてまたむくむくと元の形になるが、また触れるとすぐに反応して葉を閉じる。花はピンク色の丸い毛玉で、合歓木とそっくりだ。葉の形もほとんど同じと言ってよい。植物学的に隣の種なのだ。だが草花のオジギゾウは背丈はせいぜい数十センチだ。合歓木は葉に触っても閉じはしないが、名前の由来は夜になると葉が閉じるところにある。つまり「眠る木」だ。これは本当で、わが家の木も日が沈むと葉を閉じて見事に葉をつけた茎が1本の線状に見える。これが日中ならばまるでブランドを開けたように下の草花にも充分光が届くが、夜では仕方がない。どの花もそうだが、合歓木の花は特に枯れた時が無残で、白い粉のようなものが地面にたくさん落ちる。それが花を燃やした後の灰に見える。この奇妙な花はどうも描く気になれない。公園にある木は4年前に2、3度遠目に簡単にスケッチしたが、毎日観察出来るはずのわが家の木はまだ一度も描いたことがない。画家の関心を誘わない木だとずっと思っていたが、実はそうではないことを去年の春に知った。
 昨日は息子の車で信楽に行った。去年の春に初めて信楽を訪れたが、同じ道を走った。京都から信楽に行くのはとても不便で、電車やバスを使って1日がかりだ。そのため30年ほども気になりながら行く機会がなかった。それが去年ひょんなことからある日急に訪れることになった。そのことに関してはブログに書いた。従姉の息子のお嫁さんの父親の実家が甲賀にあって、蔵にある骨董品を見てほしいと言われたのだ。蔵で整理した後、昼食がてらに信楽の中心部に連れて行ってもらった。そして立ち寄ったある知り合いの陶器店でも絵の鑑定を頼まれ、そのお礼に狸の陶器の置物をひとつもらった。信楽でもかなり古い店で、主のおばあさんは親切にもいろいろと狸の置物についての由来を語ってくれた。京都の清水の陶工が昔信楽にやって来て作ったのが始まりだそうだ。その陶工が作った高さ2メートルほどの大きな狸の陶像が店の展示室に置いたあったので、はがきサイズの写生帳に簡単にスケッチした。蔵の骨董品は大量かつ雑多な内容で、美術品としてめぼしいものは数点しかなかった。その中で特に逸品であったのは幸野楳嶺(1844-95)描く絹本の「合歓木と山鳩」だ。絵具が膠の照りでテカテカしていたのが生々しい。保存もよく、全体にやや青めの洒落た色合いは、現在の画家かと思わせるほどだ。楳嶺の名を知ったのは24歳頃だ。楳嶺が描いた明治時代の花鳥画の版本『楳嶺百鳥畫譜』の正と続の編をまとめてある人に見せてもらい、そのあまりの達者な写生振りに全ページをゼロックス・コピーした。それを製本屋に頼んでハード・カヴァーにしてもらい、手元に保存しているが、今確認すると明治14年(1881)、楳嶺37歳の出版だ。そして正編の「地」の冊に「合歓木と山鳩」をモチーフにした絵がある。この本は鳥が主体になっているので植物が何か同定出来ない絵も少なからずあるが、花鳥画の伝統に則ってどの鳥にも植物は一応配してある。現在の日本画家でここまでさまざまな鳥を植物と組み合わせて自在に描ける人は皆無だ。百科事典のような網羅性がなされたのは明治になってからで、そうした才能は楳嶺で頂点に達したと言ってよい。
 楳嶺の才能の源は応挙あるいは呉春、つまり円山・四条派ということになるが、楳嶺自身は明治の近代化の波の中で教師的役割を自認して格闘し、作風は画家として大成したとは言い難いようなさまざまな要素が混じる。時代が激動期であったから、それは当然だ。楳嶺の作品だけを並べる展覧会はまだなく、滋賀県立近美が1990年に『幸野楳嶺とその流派』と題する展覧会を開催している。京都ではなく、滋賀というのが不思議で、京都は評価すべき先人をたくさん抱える割に放ったらかしにしている例がたくさんある。同展は見なかったが、一番弟子であった栖鳳や、あるいは松園、塩川文麟、そして都路華香らの作品も並んだ。こうした弟子を育てただけでも楳嶺の存在がいかに大きいかわかる。華香は近年筆者は注目している画家だが、その師が楳嶺であることを思うと、何だか掛軸の「合歓木と山鳩」がさらに神々しく思えて来る。この絵は去年の春に蔵から引っ張り出した後、そのまま1年近く従姉の家に預けられてあった。その間に写真を撮っておいたので部分図を掲げる。合歓木を描いたのは楳嶺が最初ではないことはその後すぐにわかった。気をつけていると出会いはあるもので、去年夏に奈良県立美術館で開催された『個性の競演-江戸時代中・後期の絵画-』を見た時、1階の展示室に呉春の絵に秋成が賛を書いた掛軸が2点ほどあって、その少し3、4メートル右手に横山清暉が描く合歓木の屏風があった。清暉は呉春の弟子で、楳嶺より先の世代だ。そして呉春の弟景文にも合歓木を描く見事な絵があることを本から知った。そのことから、合歓木の画題が呉春にもあったことをうかがわせる。京都の絵師で誰が最初に本格的に取り上げたか知りたいが、それとは別にいつか筆者もまともに描いてみようかと思わないでもない。だが、わが家の合歓木も、公園にある古木も花の時期にまともな鳥がとまっているのを見かけたことがない。わが家の合歓木は小川上に枝を大きく張り出して目立つので、よく雀やひよどり、鶯や百舌などが来てさえずるが、山鳩は来たことがない。そのため、花鳥画も楳嶺が描くものとはほど遠くなるだろう。卑近な烏を配せば詩情もあったものではなく、さてほかの鳥と言えば思いつくものがない。楳嶺が自在に鳥を描いた明治とは違って、今の京都ではわずかな種類しか身近にいない。自然が大きく変化したから日本画も変貌したと言える。人によってアナクロニズムの限度が異なることも花鳥画の成立を難しいものにしている。京都市内で日常的に家の庭から白鷺の飛翔が観察出来ると言えば、東京都内に住む大半の人々はまさかと思うだろうが、京都はまだかろうじてそれが現実のものとなっている。そのため、東京と京都では人のアナクロ観には差があることだろう。
●合歓木に_d0053294_18250939.jpg

by uuuzen | 2006-06-19 23:59 | ●骨董世界漂流記
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