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●『江戸絵画 小世界を愉しむ』
オン・スピリアールト展をFさんと一緒に2年前の夏に愛知県美術館で見た時、常設展示の一室で小川芋銭展に出会ったことには驚いた。



●『江戸絵画 小世界を愉しむ』_d0053294_19123659.jpg芋銭の作品をまとめて見たのは初めてのことであった。図録は4冊所有しているが、大規模な芋銭展は関西では開催されたことがない。関西は関東の画家には冷淡なところがあるからだ。機会があればぜひとも芋銭が住んだ茨城の牛久沼あたりを訪れたいが、そんなことをぼんやり思っている間に数年が過ぎた。愛知県美術館で見た芋銭作品はみな保存がよく、個人コレクションとしては日本でもトップ・クラスのものであることは一目瞭然であったが、それが木村氏のコレクションであることは、今夜取り上げる同館で開催された展覧会図録を見ていて改めて知った。氏は89歳で2003年1月に亡くなり、芋銭の絵画を含む3000点を没後に同館に寄贈したから、筆者が見た芋銭展は氏の没後1年半を経て公開の運びとしたものであろう。それでも芋銭であれほどの質の高い作品群であるからには、他の絵画も推して知るべしで、氏の絵の好みもわかろうというものだ。大体芋銭という渋い文人系の画家に関心を抱いて作品を収集するということ自体、氏の風格が忍ばれる。美術品は関心は抱いていても資金がなければ収集はとてもかなわないし、それにたとえば筆者が茨城にちょっと行ってみたいと思っていながら数年がすぐに過ぎることを思えば、3000点もの絵画や陶磁を買い集めることは、資金力もさることながら、岩のように固い目標と、全生涯を収集に捧げる覚悟が必要だ。たとえば氏の収集歴が40年であったとして、3000点では1年に75点で、5日に1点ずつ購入した計算になる。これではじっくり鑑賞する暇などなかったのではと思いたくなるが、収集家とはそういうものではなく、入手したものはその時点で作品のごく細かいところまで把握してしまう。おそらくどの作品も氏の目にかない、そして愛着があったものだ。そして自分が生きている間は手元に置きたいし、没後にコレクションが散逸することを望まない。作品が版画のように複数部数ある場合は、よほど大量に収集しない限り、たいして名のあるコレクションにはならないが、1点限りの作品を集めるとなると、散逸すればまたそれがひとつの場所に集まることは永遠にない。そのため、生前から作品の行く末をよく考えておく必要がある。凡人ならば買ったものはまた換金すればよいと思うであろうし、実際収集家が亡くなれば遺族はさっさと処分をする。だが、木村氏には愛知展美術館を日本一の美術館にするとしばしば口にしていたそうで、その思いのとおり、全作品が同館に寄贈された。
 氏がどのような家業を営んでいたかは図録には書かれていない。そんなことはどうでもいいかもしれないが、やはり気になる。氏がたとえば芋銭や熊谷守一の作品をたくさん集めたことは、それだけ離俗に関心が強かったことを示すから、絵画収集のための資金をどのような、いわゆる「俗」に関係する部分から得ていたかを知っておいて無駄ではない。成り上がりの、さして絵の心など解さぬ人ならば、富を得ても金ピカの見てくればかりの美術品をほしがり、大半が贋作やガラクタ同然のシロモノが集まるというのが世間の相場だが、芋銭や熊谷守一、あるいは江戸時代の蕪村などの文人画や茶陶を収集するというのは、よほど学や知識があって、家業よりも多く時間を割く必要がある。そのため、一代の成り金では本業が疎かになってとても無理な話だ。また、莫大な資産があって、没後に税金で徴収されるくらいなら、生前に楽しみながら美術品をせっせと買ってそれを公的機関に寄贈した方がまだ名前も後世に残るから、現在の納税システムが氏のようなコレクターの出現をどこかで支えている部分もあるだろう。それでも莫大な資産があっても美術品収集の趣味を持つ人は少数派であるし、集めたものを公的美術館に寄贈する人はさらに稀で、そのうえ文人画に関心を抱いたとなればほとんど例がないと思う。愛知県美術館を日本一にしてみせるという氏の気概は、周りに同じ志のある人がいないことをよく知っていたからで、その点からでも氏が文人画家やそれに連なる人の作品を収集したことは理解出来る。図録には「木村氏は、…俗を離れ、漂泊のなかで自然と戯れ、自由の境地に遊びながら独自の絵画を創造した画家たちをこよなく愛し、共鳴されていましたが、そうした文人画(南画)の大成者たちの作品ばかりではなく、いわゆる中京南画と呼ばれる郷土の画家たちの作品の蒐集にも大きな情熱を傾けておられたことがわかります」とある。だが、氏の集めた絵画は現在ではかなり限られた大人にしか愛好されないものばかりと言ってよく、仮に日本一の収集であってもその重要性は即座に万人に理解されるものではない。
 写真図版でいくらよく知っていても、実物を見ない限りは作品に接したことにはならず、そして本当はそれを所有しないと作品の心はつかめない。江戸時代の文人画もピンからキリまであって一概に価格は決められないが、それでも日本絵画全集に必ず掲載される有名画家でも、普通の家の床の間にかけられるサイズの掛軸ならば100万未満で充分入手出来る。思うほど高くないのだ。印象派の2、3流の絵画を買うならばよほど日本の絵画を買う方が作品数は早く増加する。世界的有名かどうかで市場価値が決まるから、外国にはほとんど知られない日本の文人画を買っても意味はないと考える人は、美術品を金ののべ棒と同じようなものと思っている点で、文人画を鑑賞したり収集する資格はない。そんな文人画も江戸末から明治にかけて次第に形骸化して名作を生めなくなったが、維新後も芋銭や溪仙などの文人画の系譜にそのまま連なる天才が出て、必ずしも日本からそうした流れが失われたわけではなく、その精神性を今後に引き継いで行く必要はある。そんな時、名品を初めとして江戸時代の文人画の流れを俯瞰出来るまとまった収集と、それに連なる明治や現在に至るまでの作家の網羅が求められるが、木村コレクションはその意味で充分に吟味された内容を持っている。一個人の趣味による収集でも、そこには芸術で何が大事かを見定めた根本の押さえどころがしっかりと見られる。ただし、少々残念なのは、展示場として愛知県美術館が理想的とは言い難いことだ。空調の整った大きな空間で、本来床の間にかける小作品をまとめて見るのは便利でいいが、ごくたまにしか展示されないでは寄贈の意味も減少する。たとえば逸翁美術館のように、日本の情緒が感じられる比較的小さい常設展示用の建物が静かな場所に建てられるべきだと思う。文人画は文人が理想とした生活の場というものがあって生まれた。筆者が牛久を訪れたいと思うのも、芋銭が住み、しばしば描いた場所を確認したいからだ。だが、木村氏が現在の愛知県美術館の建物を気に入っていたのであれば仕方がない。
●『江戸絵画 小世界を愉しむ』_d0053294_19204894.jpg 先月20日の土曜日にバスで名古屋に行った。京都から往復4000円。片道3時間弱かかる。名古屋ではまたFさんのお世話になった。地下鉄の路線がぐるりと輪のように閉じたとのことで、日本の大都市はどこでも少しずつ交通網が発展している。チラシは蕪村の重文指定されている「富嶽列松図」で、これは小さな印刷ではわからないほど見応えがあった。木村コレクションの江戸絵画の代表作と言ってよい。前にも書いたが、筆者は80年代半ばに蕪村や呉春、若冲などの上方を初めとする絵師の展覧会を見ていたが、日本の文人画に本格的な関心を抱き始めたのはここ数年のことだ。それは展覧会があまり開催されないため、作品に接する機会が限られることも原因としてあった。また、文人画は一見して地味であるし、関心を抱くにしてもとっかかりがなかなか見つけられない。筆者は80年代に芋銭に憧れを抱き、その関連で溪仙、そして仙厓、白隠といったように江戸時代のいわゆる流派に属さない絵画に導かれた。そうなると後は自分で積極的に動くことになる。今回の展示は120点で、ほとんどが初公開だ。そして「富嶽列松図」のように、陳列ケースには収められずに、生のままで鑑賞出来る作品が多少あって、これもよかった。作品はほとんどが掛軸で、みな昔の日本の家屋にそのまま用いられるような小サイズだ。これを川端龍子は否定して会場芸術を唱えたが、大画面の絵は江戸時代でも障壁画に存在したから、龍子の絵画観は在野でありつつも、どこか権威主義的なところがある。文人画的ではないと言い換えてもよい。文人画は権力から離れて雅俗に遊ぶという精神を持つもので、それは他人に何かを誇示する精神からは遠く、自分の中に籠もる性質のものだ。今は芸術は、どれも「見てほしい!」や「見てください」と色目を使って訴えているようなものが多いように思えるが、そうした感覚からは本来は遠いところにあるのが文人画の本質だ。それはその画家がどう生きているか、生きたかに強くかかわるもので、作品と生活が分離不可能な関係にある。たとえばフンデルトヴァッサーは「雨の日」と名づけた船に乗って生活をしたが、その一種の漂泊の人生は文人画的な趣を多分に内蔵するだろう。カラフルな彼の作品は水墨の文人画からは遠いが、文人画の本質に立って見ればフンデルトヴァッサーを現代の文人画家と呼んで差し支えない。このように、文人画をひとりひとりが独立して自由に精神性を発揮したものとして捉えるとその世界に入り込みやすいし、そうした絵画の本質にかかわることをいろいろと示唆してくれる点で、今回の展示は実に楽しい機会であった。
 会場は1「江戸とその周辺」、2「名古屋」、3「上方」、4「博多」の4つに分けられていた。有名どころばかりではなく、あまり知られていない絵師の小品もまま混じって、いかにも個人コレクションを伝えるが、それがまた全体にいい味をかもしていた。1「江戸とその周辺」では探幽、一蝶、抱一、其一、そして徳川家綱や綱吉の素人画に見えつつもどこかユーモラスで優しさのある小品が続き、最後は曹洞宗の僧風外の3点、有名な白隠の6点が並んでいた。2「名古屋」は関西や関東では見る機会がおそらくほとんどない絵師の作品が並び、江戸期の名古屋の状況の一端を知るにはいい機会であった。名古屋生まれで京都で地位を築いた田中訥言(1767-1823)による呉春張りの洒落た2点、その訥言に学んで名古屋で渡辺清(1778-1861)の復古大和絵の7点、名古屋出身で40歳で京都に移った文人画家中林竹洞(1776-1853)の3点、名古屋と京都を行き来し、竹洞とも交流した有名な中村梅逸(1783-1856)は10点、梅逸の門人青木蒲堂(1810-72)の11点、そして儒者である村瀬太乙(1803-81)の蕪村の俳画的味わいを持つ6点などが中心となっていた。3の「上方」は最も圧巻で、石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗(1584-1639)のさらりとごく簡単な線で描かれた達磨、天神、布袋の3点から始まって、西川祐信(1671-1750)の美人画、若冲(1716-1800)の3点、蕭白(1730-81)、蘆雪(1754-99)の各1点、そして蕪村(1716-83)の6点とまず続いていた。蕪村の「若竹図」「静然上人図扇面」の2点は、1998年に出版された「蕪村全集」の第6巻に掲載されておらず、その年度以降に発見収集されたものということになる。蕪村の弟子呉春(1752-1811)は4点でそのうち3点が活動前半期の蕪村風であるのは見物であった。呉春の異母弟景文(1779-1843)の3点、浦上玉堂(1745-1820)は9点あって、まとまった玉堂コレクションとしては稀でしかも重文5点を含んでいる。「秋色半分図」は他の3点とともに当初は一幅を成していたもので、今回は4点ともに展示され、しかも全体の復元写真も参考に並べられた。この後、画僧らの作品が10点ほど並び、4「博多」は仙厓の5点のみで構成されていた。氏の収集した3000点は中国の新石器時代の考古資料や仏教美術、現代美術も含むとのことで、江戸絵画が今回の120点ほどのみであるのかどうかわからない。
by uuuzen | 2006-06-16 19:18 | ●展覧会SOON評SO ON
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