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●アルバム『Joe’s Xmasage』解説、その1
ールド・カップの戦い、オーストラリアに破れてしまった。前半に1点を入れたが、その頃でも勝負はオーストラリアが優勢に見えた。



●アルバム『Joe’s Xmasage』解説、その1_d0053294_344938.jpg後半になって同点になったが、そのままでは済まないと思っていたところ、予想していたとおり、3点も入れられた。それはそうなる運命であったのかどうか、理由を遡って行けばいろいろあるだろうが、それは評論家の仕事であって、ファンはすぐに次の試合に期待するしかない。だが、物事はみな関連づいていて、初試合で負けたことがまた原因となって次の試合の勝敗があるだろう。TVで試合を見ながら、今夜のこのブログ・ネタのためにネットでザッパのアルバム『Joe’s Xmasage』の歌詞を調べて印刷し、そして一読した。全部で13ページあって、情報量は多い。実はこのアルバムは買っていない。1か月ほど前に東京のUさんから『Imaginary Diseases』と一緒に送ってもらった。そこで今夜は去年12月下旬に発売された『Joe’s Xmasage』の感想を書く。まだ1回しか聴いていない。それも仕事をしながらで、まともに聴いたとはとても言えない。それでも雰囲気は把握した。語り、会話が多いアルバムで、このことはザッパのアルバムには珍しくはないが、日本では人気のない部類に属することは明らかだ。マニア向けの内容という評価が定着するだろう。大体ザッパ没後に発売され続けているものすべてがそう言っていいので、これは意外ではない。そのマニア向けという前提の中で、さらにどう面白いかという評価が下されるべきだが、そんな話がマニアを対象にしたものになるのは仕方がない。そこでここではなるべくデータ的なことは書かず、違う視点で書いてみたい。ところで、印刷した内容はアルバムのブックレットには載っていない。ファンたちが聞き取ってネット上にのみ発表しているものだ。これは日本盤を手にして初めて歌詞を知るといった昔では考えられなかったことで、とてもありがたい。ただし、自分で訳して理解しようとする手間は必要だ。それはいいとして、残念ながら印刷した13枚は、このアルバムで語られ歌われるれすべての文字内容を掲げてくれてはいない。そのことも今ようやく二度目にアルバムを聴きながらわかった。たとえば4人の会話である2曲目「Prelude To ”Purse”」は一行も書かれておらず、この曲と対になる、やはり全編語りである6曲目「The Purse」(財布)も全体の3分の2に相当する後半は省略されている。何度も真剣に聴けばおおよそ内容はわかるだろうが、どうせなら全部ネット上に掲げてほしいものだ。
 この「財布」と訳せる11分半ほどの語り曲は録音の完全版ではない。聴き手を思ってあちこちカットしてあるらしい。実際はもっとえげつないことを語っているのかもしれない。これはザッパの知り合いのアル・スラットという男がある若い女性の持ち物である財布に入っていた手紙を読んだり、また中に入っている小物を逐一報告し、それをザッパが傍らで聴きながら時々笑ったりする。見知らぬ若い女性の財布の中身を勝手に調べている様子が生々しく伝わるだけでも、男ふたりのかなりいかがわしい様子が伝わる。実際の行為をそのまま録音したものであろうが、ザッパの演出が加わっていることも考えられる。つまり、何度もリハーサルしたか、あるいは財布そのものがでっち上げたものだ。それはこの曲と同じような「創作した」語り曲がほかにもザッパにはあるからだ。その現実か作り話かわからない曖昧さがが面白いというわけで、これはザッパの音楽の大きなひとつの特徴と認識しておくべきだ。さて、この曲で驚くことはいくつかある。まず、財布の持ち主の女性がプードルを飼っている点だ。ザッパの曲にプードルが登場するのは73年以降のことだが、ファンはそれが実際は62年にすでに用意されていたことをここで知る。この曲にはそうしたザッパ特有の「概念継続」のヒントはほかにもある。たとえばこの女性は「PRINCESS」を「PRINCIS」と手紙に綴っている。それを読みながらアルとザッパは大笑いしているが、この笑いネタはプードルの登場と同じ頃の「CHEEPNIS」という曲名に用いられた。「CHEEPNIS」は実際は「CHEAPNESS」と綴るが、「安っぽさ」の安っぽいゆえんを示すために、あえて「CHEEPNIS」としているところに、「PRINCESS」を「PRINCIS」と綴ることからは正反対に違う高尚なセンスが見える。つまり、ザッパは62年に、少々勉強嫌いで能たりんの女性が彼に書いた長い手紙入りの財布の存在を知り、そこに「PRINCESS」を「PRINCIS」と綴る間違いを見て面白がった記憶をずっと忘れずにいて、それを12年も経って自作曲に応用したわけだ。曲目ひとつにもそうした長い歴史があるということをこの「財布」という曲は示してくれる。
 ザッパの曲は他の曲に何らかの形で関連している場合がほとんどだが、それらの関連要素の原点はファンが思うより実際はもっと遡ることが、こうしたザッパ没後に発売されるアルバムからはさらに続々と明らかになっている。それで思うことがある。そうしたザッパの創作の秘密のさらなる原点を知ることは、それはそれで面白いが、一体いつまで遡るかとなれば、ザッパが生まれて記憶を持ち始めた頃にまで行く必要があるだろう。筆者は先日自分の3歳前後の2枚の写真をブログに掲げた。その写真は絶えず自分の中では更新され続けて古くなっていない。ブログに載せたことによってまたひとつのエピソードが追加されたし、筆者の今はそうした古い写真に見える自分の幼少期からそのままストレートにつながっていると確信する。顔に面影があるならば、性質もきっとそうであるし、昔と強く結ばれて今のあらゆることが存在している。同じことはザッパの作曲になぞらえられる。ザッパのおそらくどの曲もその原点はわずか数歳の時の記憶にあるだろう。あるいは、それでも不足だ。ザッパが生まれたのは両親が存在したからで、ザッパの創作の原点は、両親がどういう生活をして何を考えていたかまで探らなければ本当は見えては来ない。そしてさらに言えば両親でも不足だ。さらに何代も遡って先祖のことまで知ればまたザッパの創作の新たな意味がわかるだろうし、実際そうに違いない。だが、それは現実には誇大妄想として一笑に付されるのが落ちだ。そこまでしてザッパの音楽を研究する必要はないし、また不可能でもあるという見方が常識的と言える。それは筆者もよくわかっているが、それでもなおやはり遡ることが出来る部分までは遡って確認したいという、ファン特有の思いもある。今はまだ時代が近過ぎてとても見えないが、500年先にはザッパの音楽はザッパ個人の作品相互の中でどうのこうのといった狭い研究ではなく、100年単位の流れの中で大きく捉えて考察されていることだろう。となれば、そこではザッパの両親や先祖の出自が当然問題となる。そうした見方で出来ることを今この時点で予期しておくことは無駄ではないし、そうした想像の自由な飛翔が可能であるところに、本当の評論の可能性や役割はある。それはさておき、可能な限りザッパに関することについて知りたいというファンの思いがあるからこそ、こうしてザッパの没後に録音がCDとなって続々と発売されるし、それはザッパの創作の秘密の原点がなお明らかになる点でファンにはまたとない贈り物となっている一方、一体どこまで遡ればザッパのすべてがわかるのかといった、途方のなさの前で茫然と佇んでしまう思いにも囚われるのも事実だ。このambivalentな思い、つまり愛憎半ばした苦しい意識は、ザッパ・ファンは誰しも多少みな覚えがあるだろう。そのゆえ、ザッパ没後に発売されるCDはやはりマニア向けと言っておいた方がよい。それにだ。何とこの「財布」と題する曲の冒頭ではアルは「she’s ambivalent.」と言う。驚くべき概念継続ではないか。こうした読み解きがたくさん出来るアルバムほどザッパ・マニアにとっては嬉しいもので、その点でこのアルバムは特筆すべき面白さを持った作品と言える。

●2001年9月22日(土)昼
昼。TVを見ているとアメリカのミュージシャンたちがチャリティ活動を始めたと伝えた。そしてスティーヴィ・ワンダーが映って、彼の代表作『キー・オブ・ライフ』からその冒頭収録曲「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ(直訳すれば「愛は今日愛を必要としている」)」を歌っている姿を見てはっとした。実は一昨日か、何とはなしにこのアルバムのことをしきりに思い出していたからだ。スティーヴィのまるで涙しているかのような歌い方はわずか数秒の映像であったが、あまりに印象に深く、またこうして書く気になった。このアルバムは76年作で、当時筆者は何度耳にして感激を新たにしたことだろう。70年代後期のアメリカが生んだロックの最高傑作として差し支えない。今改めて同曲の歌詞を読むと、手遅れにならないうちに真実の愛をと訴えるスティーヴィのメッセージにどきりとさせられる。「The force of evil plans/To make you its possession/And it will if we let it/Destroy ev・er・y・body」(悪はみんなに悪の力を持たせようと企てる。そして悪はわれわれがみんなを破壊させるのであればそうするだろう)という下りをこういう時期に際してどう受け取るか、先のアリの言葉と照らし合わせずにはおれない。朝刊を読むとアフガニスタンが爆撃されれば、食料供給路が閉ざされて4、500万人が飢えで死ぬとする記事があった。聖戦の準備をしているタリバンというが、神か悪魔か、どちらの力が今地球上を覆っているのだろう。狂牛病は異常プリオンを持ったたった1頭の牛が肉骨粉にされれば何十何百倍に増殖するが、タリバンが全員死んでもアメリカがそうしたという行為は残りのイスラム原理主義者たちに伝わって、さらに嫌米主義が増幅するだろう。ビンラディン氏は細面でどことなくザッパに似たところがある。目つきも優しそうだし、即時身柄の引き渡し云々を突きつける前に膝こそ突き合わして、もっとアメリカが対話することが可能ではないだろうか。タリバンは対話の用意があると表明しているのであるから、まずアメリカもその席に着くのが問題解決のキーになる気がする。筆者がこんなことをここできーきーと呟いてもどうにもならないが。
by uuuzen | 2006-06-12 23:59 | ○『大論2の本当の物語』
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