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●『ZAPPA PLAYS ZAPPA』ツアー中
阪に出て展覧会を3つ見た。もう1か所INAXギャラリーを訪れたのに工事中であった。帰宅して展覧会の案内はがきを見ると、本町に移転していることがわかった。8月の盆過ぎまでやっているのでまた出かければいい。



たくさん歩いたのでさすがに疲れた。それで今日一番印象に残っていることを書く。梅田から中之島にある国立国際美術館まではいつも歩く。堂島地下センターを南下し、最南の出口から地上に出るとアンビエント・ホテルがある。このホテルの名前は奇妙だ。アンビエント・ミュージックがずっと鳴っているのだろうか。アンビエント(ambient)はアンビエンス(環境、雰囲気)の形容詞だが、このホテルを取り巻く空気はすぐ目の前の四つ橋筋通りの喧騒でしかない。あるいはホテル内部が独特の設えでもあるのだろうか。それはいいとして、ホテルの前を過ぎればすぐに交番があって、渡辺橋をわたれば中之島だ。堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲で、南北の距離はわずかだが東西にはえらく長い。堂島川を越えて右に、つまり西に折れて川沿いを10分ほど歩くと美術館がある。北側隣には大阪市立近代美術館がいずれ建つ予定で、現在淀屋橋が終点になっている京阪電車がこのあたりまで延長されることにもなっている。国立国際美術館に行く道筋は土佐堀川の北側でもよいが、大抵は堂島川の南沿いに行く。今日もそうした。植え込みにはたくさんの花が真っ盛りだが、ホームレスも点在している。中之島にはホームレスが多いのだ。ふと遠くから太鼓と鐘の音が聞こえる。ズンドコ、ズンドコ、ズンチンチンといった調子でずっと同じリズムだ。川面に2艘の船が並んでこっちへむかってやって来るが、そのうえで演奏しているのだ。すぐにそれが天神祭りの練習だとわかった。川沿いの道は車の往来がほとんどないため、太鼓と鐘の響きは1、2キロ離れてもはっきりと聞こえ、近づくと胸にかなり響く。車の騒音と違って何とも夏のいい雰囲気を伝えてくれた。ちょうど目前に来た時、1艘の舳先に立って、黒っぽいTシャツにジーンズ姿の40ほどの男性だろうか、両手で振りを作って演奏に合わせて踊っているのがはっきり見えた。それが実に格好よかった。スケッチブックを携帯していたが、船の速度が早いこともあって描くのは諦めた。通り過ぎるのをしっかりと見下ろすと、「人形講船」といった文字が船尾の腹に書いてあった。面白かったのは踊る男性のすぐ隣に祭りの法被と鉢巻きをした小学生低学年の男の子が同じように踊っていたことだ。演奏の方も同じで、大太鼓を叩く大人の横に子どもがいた。日曜日であるので練習に参加したのであろうが、いずれ祭りを背負って立つ子どもに踊りや演奏を伝授しているのだ。
 三島由紀夫は子どもの頃、祭りが好きでありながら、それに近づくことが出来なかった。そのいなせな様子に強い憧れがあったのに、思い切ってその中に飛び込むことが出来なかった。知的な子にはありがちで、無邪気ではなかったのだ。大島渚の半生を描いたドキュメンタリーを見たことがある。イギリスのBBCが作ったものだ。そこにはずっと着物姿の大島がいた。それはいかにも日本の、そして京都で過ごしてそのことが後の人生に圧倒的な影響を与えたことを象徴的に示していたが、東の八坂神社とはちょうど正反対の西端にある松尾大社の祭りに大島が参加する様子がいささかあって印象深かった。その祭りは筆者の地元であるので、祭り部分の映像はみな正確にどこから撮影したかわかったが、面白かったのは男どもと同じ白の法被と褌、鉢巻き姿で神輿を担ぐ大島の姿がとても照れていてぎこちなかったことだ。つまり、地元で商店を営むような無名の男どもはみな凛々しく見えていたのに、大島だけが浮いて、しかも青臭く見えたのだ。これは祭りの男かちに知り合いがいるとはいえ、実際には松尾大社とは何の関係もない生活をして来て、いわば飛び入りの形で祭りに参加したよそ者意識の反映と見ることも出来るが、それよりも知識人の脆さの露呈に見えた。そしてそれはある意味では痛々しかった。そういうことにならないようにと三島はおそらくボディビルをして体を鍛え上げたのだろう。だが、果たしてそれは成功したかどうかと思う。逞しく造り上げた肉体で、三島がもし祭りの神輿を担いだとしても、おそらく浮いて見えたに違いない。今日見た舳先に見た男性は一見優男に見えたが、実に堂々としていた。それは一朝一夕では身につかないものだ。おそらく幼い頃から大人に教えられて来たものだろう。そしてそれを今また少年に伝授している。そんなことがこの300年ほどは確実に続いて来ているはずだ。録音や録画機器がなくても、もっと正確に昔のままを伝えているに違いない。祭りとはそういうものだ。
 川面を過ぎる2艘がぴたりと横並びになった様子を見送りながら、伝統ということをふと感じた。大阪の街は300年前とは著しく変化したが、川の流れは変わらない。そこを祭り船が賑やかな太鼓や鐘の音を鳴らしながら進むのも変わらない。天神祭まで後2週間だが、祭りの法被を着た連中の船渡御を今年は見たいと思った。それで、ザッパにこじつけるわけではないが、今息子ドイージルがかつてのザッパ・バンドのメンバーを何人か招いてヨーロッパ各地をツアーして回っている。先日ネットで紹介された画像を見ると、1974年の父フランクと全く同じ黒のTシャツと青のジーンズという格好で演奏していた。ヘア・スタイルまで共通している。それはある意味では今日見た踊る男性の横にいた小さな子どもが大きくなった姿と重なる。天神祭ではまさか世襲制でそうした踊りや演奏を継いでいるはずはないが、ザッパの音楽は今息子が父と同じ格好をして同じギターを持って同じメンバーをしたがえて演奏している。これは形としては完全な世襲、一子相伝の伝統芸ということになる。そのことについての賛否はあるだろう。ロック音楽であるので、格好よければ何でもいい、面白ければそれでよしではあるが、父の名を汚さないという意思がどれほど息子にあるかどうかは演奏をしっかりと聴いてみるまでは判断出来ないだろう。ところで、知的であったザッパはたとえば日本の祭りの神輿を担ぐようなことを積極的にしたであろうか。そうは思えない。ザッパは膨大な数のツアーによって常に大衆に舞台から語りかけたが、それはみんなと一緒になって神輿を担ぐこととは全く違う。ザッパは心底から馬鹿騒ぎは出来なかったに違いない。それはかつてのメンバーが証言していることからも充分にわかる。それで言いたいことは、今日見た舳先で格好よく踊るひとりの男性は、ある意味ではメンバーのバック演奏を背後にしたがえたザッパの格好いいギター演奏と同じものに思えたが、一方は個人の努力によって獲得したいわば芸の術であり、他方は何百年という長い伝統をそのまま受け継いだ歴史的芸能と呼べるものであって、双方には何か確実な差があるように思う。そして三島や大島が後者に憧れを抱いたのはよくわかる気がする。ズンドコ、ズンドコ、ズンチンチンというリズムが今も強く想起されるが、それは蒸し暑い大阪の夏の水辺に何とよく似合っていることか。胸騒ぐこの気持ちは、祭りを本能的に望む人間性を示していると思える。いい男がいて、いい女がいて…、今日はそんなことを思った。
●『ZAPPA PLAYS ZAPPA』ツアー中_d0053294_12391430.jpg
●2001年9月22日(土)朝
朝。五時頃に悪い夢を見て、これは日記にぜひ書かなくてはと思い、あれこれと分析までしていたのに、また眠りに入って目覚めるとすっかり忘れてしまった。風が強く窓ががたつく音で目覚めた。それで今朝刊を読んだところ、また何か書く気分になった。この1週間は日本ではテロ事件以外にむしろ狂牛病のニュースが不気味で、平日半額のハンバーガーや焼き肉食べ放題といった看板が何だか恐ろしい。大徳寺の一久で出される大豆を使用して肉を真似た精進料理がもっと一般化するのがよい。インドでは牛が大きな顔をして呑気に生活をしているが、牛は人間が食べて利用するものであると考えてしまう欧米の功利主義が結局こんな奇妙な病気を生み出したかと思うと、欧米の価値感が絶対的でないことははっきりしている。朝刊で元ボクサーのモハメッド・アリが貿易センター・ビル倒壊現場を訪れて、救助活動に当たる人々を激励しつつ、「どんな宗教も真実を含んでいる」と述べたと書いてあった。なかなか印象深い言葉だ。アメリカの黒人とムスリムの結びつきは日本では一般にさほど理解されてはいないが、『シーク・ヤブーティ』ではアラブ人、続く『ジョーのガレージ』では黒人に扮したザッパを思うと、この問題はアメリカではことのほか重要であることが見えるようだ。テロによらずとも、牛を食う国々が自滅するがごとく多くの人々が今後痴呆症に至って死ぬかもしれない。『チャンガの復讐』の「チャンガ」は実は「牛」であり、それは「イタリア」という連想も働く。そう言えば老子は青い牛に乗っていたが、日本では菅原道真か。昨日東寺で伏見人形の天神さんを探したのだが、あったにはあったがいいのが見つからず、代わりに北野天満宮の授与土鈴の黒牛を苦労して見つけ、500円で買った。これは一昨日の夜に土鈴の本をじっくりと眺めていて、北野天神のものだとわかったのだった。うす汚れているし、新品でも600円ほどだろう。もし25日の天神さんの骨董市に出かける時間があれば、ついでに社務所で確認してみよう。で、日本では牛をこのように長らく可愛がって来て、平然かつ広範囲に食用にはしなかったのに、アメリカに負けてからはがらりと変わって、もう元へは戻れなくなった。一方近年のアフリカでは日本人技術者が蛋白質不足解消のために牛の代わりに大豆を食べることを促し、それがうまく根づいて、豆腐などが盛んに食べられているという。精進料理の工夫する心の底力だ。学問の神様として崇められる菅原道真の干支は牛で、そのために天満宮では馴染みの黒牛を優しく撫でさするというのは、それこそ知恵の大切さを願う心からのはずだが、その知恵がどこでどう間違ったのか、思慮が足りなかったのか、牛が被害を受けて、そしてそれが人間に及んでいる。話は変わる。伏見人形は日本全国の旅人から土産物として人気があったが、素焼きの軽い人形であるし、よく壊れた。しかし、作り手としてはその壊れた土片をまた伏見深草の山辺に返し、それがやがて土に戻るという思いもあった。伏見人形の源流は埴輪にあるというし、渡来人の秦氏が同地に入植して伏見稲荷を建て、そこから人形の風習も広まったという説もあるが、形あるものを土で作るという考えにはどこか哲学的なものが感じられる。貿易センターが崩れ落ちた時、あの粉塵はコンクリートの塊が一瞬にして粉々になったもので、現場の瓦礫は鉄骨が目立って、コンクリートは思いのほか少ないという。しかし鉄もガラスも土の中から生まれる。つまりあのビルも粘土細工と本質的には何ら変わらず、ある意味では伏見人形と同じものだ。人間もまた泥だ。人形だ。江戸期の伏見人形はとにかくありとあらゆるものを題材にしていたが、それが現代ではプラスティックが登場したことによって、安価な人形がなか土に戻らない。プラスティックで伏見人形を作ればもっと安上がりと考える人がきっと出て来る、あるいは清水寺内の出世大黒天がウレタン製であるところを見ると、もうすでにいるかもしれないが、それでは「伏見不気味人形」と名づけなければならない。不死身さは土に返らないものに宿るのではなく、永遠に土から再生産され続けるものにこそある。プラスティック製品が燃える時の猛煙を2、3回吸えば即死だから、なおのこと恐ろしい。そしてそのプラスティックはアラブ諸国が産するオイルを原料とするのであり、話がまた循環する……。こうして書いていてもいっこうに夢を思い出せない。ひょっとして20年後くらいにふと思い出すかもしれない。それまで白髪だらけになって生きているかどうか、こんな日記を書いたことも忘れているかもしれない。狂った牛を食べたせいで。
by uuuzen | 2006-06-11 23:59 | ○『大論2の本当の物語』
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