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●『生誕百二十年 川端龍子展』
年前か忘れたが、京都高島屋で川端龍子展があった。それなりに代表作が展示されたが物足りなかった。



●『生誕百二十年 川端龍子展』_d0053294_10134795.jpg今回はチラシに「豪快、優美、奇想。異端児は会場芸術をえらんだ!」とあって、大作がまとめて展示される機会となった。これを逃せば10年や20年は待たねばならない。先月21日の日曜日に滋賀県立近代美術館に家族で出かけた。信楽にも足を延ばしてもうひとつ展覧会を見る予定でいたが、車が混んでいて断念した。日本画に詳しくない人は「龍子」を「たつこ」と読んで、女性かと思う人もあるだろうが、「りゅうし」で男だ。龍子の絵は好悪がはっきり別れるのではないだろうか。そのあまりに達者な技術に羨望の眼差しを抱きつつ、内容空疎だと謗る人は多いかもしれない。だが、自由自在にどのような絵でも易々と描けた龍子のような才能はめったにない。会場芸術を唱えて、他の日本画家は決して描かないような馬鹿でかい作品を次々と発表したが、そのエネルギッシュな作画態度の中に深い思索の跡が感じられるかどうかは別問題だ。画家の評価は多作、大作に関係なくなされるべきだ。それは技術も活力も乏しい人の戯言に過ぎないと龍子はせせら笑うかもしれないが、絵は大きさではないし、作品が多いから偉大とも言えない。そこが絵の面白いところで、大作を多作した画家に常に軍配が上がるのであれば、夭折する画家は歴史に足跡も残せないこととなる。日本では昔からよく言うように、「山椒は小粒でぴりりと辛い」であって、あまり大きなものは内容が乏しいは思われがちだ。それはひとまずおいて、画家が一生の間にどの程度の作品を描くことが出来るかを考えた場合、龍子の大作の多作はひとつの上限的指標になるだろう。龍子は下図を残さない主義であったらしく、本画までの思考錯誤の様子がわからないが、それはかっちりとした小下絵や下絵を作っている暇がなく、ほとんど略図程度を用意しただけで本画を描き上げる才能があったからとも思える。だが今回は初公開作として、鉛筆に淡彩を施したスケッチがたくさん展示された。龍子は1934年に横浜から近江丸に乗って6日かけてサイパンに赴いたが、その間写生した船の各部分の構造やその動作の様子だ。この船は第1次世界大戦前に建造された貨物船で、1942年に政府の徴用となり、半年後に米軍潜水艦の魚雷で沈没した。そのため、龍子の写生はこの船の詳細を知り得る資料ともなっている。船のあらゆる部分に関心を持って描いた点は、人間を解剖したレオナルド・ダ・ヴィンチと似ていて、決して物事の表面的なところだけを見て作画していたのではないことを示す。つまり、用意周到、人の何倍もの努力をして本画を描き、しかも同じような絵は描かなかったから、代表作が何かはなかなか特定出来にくいほどだ。
 龍子は明治18年(1885)和歌山市に生まれ、10歳の時に父親の仕事のつごうで上京し、浅草六区からやがて日本橋蠣殻町に住んだ。同窓生の回顧によれば、中学では変わり種であったらしい。みんなから離れてひとりでぽつんといることが多く、図画と習字は抜群の成績であった。このエピソードは筆者と共通し、龍子にはより関心が持てる気がする。21歳で結婚し、2年前から会員制月刊誌として創刊されていた『ハガキ文学』の挿絵を描いて生活の糧を得るようになる。同時期に『東京パック』などの風刺漫画雑誌の挿絵も手がけ、画家としてのスタートは毎月締切りが決まった雑誌の絵を量産することから始まった。『ハガキ文学』は創刊から1910年の廃刊までの6年間に全82冊を数え、これは1900年に私製はがぎが許可されたことをきっかけに好事家による絵はがきブームが生じたことを受けてのものであった。1907年に龍子は徳富蘇峰創刊の『国民新聞』に挿絵担当で入社し、その後7年在籍した間に平福百穂と知り合った。1908年以降は実業之日本社の少年少女雑誌に10年にわたって表紙や口絵、挿絵を担当した。正月号の付録の目玉であった双六は人気を博し、明治30から40年の世代に「川端昇太郎」の名は記憶された。今回はそうした初期の版下絵仕事の紹介はあまりなかったが、断片的な展示からでも充分にその才能はわかる。30代半ばまでのこれらの仕事がその後の本格的な画家としての基礎を作ったが、小川芋銭も若い頃は同じような仕事をしていた。今の日本画家は最初から日本画家を目指し、イラスト仕事を軽蔑するが、それはただそのした才能がないだけの話だ。だが、そのような賃仕事を若い時代にこなし続けることが、その後の本格的な画家としての仕事にどう影響するかはひとつの興味ある問題で、その最大の見本が龍子と言ってよい。結論を言えば、龍子は「芸術家」と呼ぶよりも、どんな絵でも律儀に素早くこなす「画工」の言葉が似合う。これは貶めているのではなく、その逆だ。龍子の挿絵仕事は使い捨てのやっつけ仕事かと思えば案外そうではない。『国民新聞』で発表した漫画とそれに添えた文章は、周りの勧めもあって『漫画東京日記』と題して1911年に新潮社から文庫本の半分サイズの小さな版型の本として出版した。だが、それはイラスト仕事からの訣別宣言と言ってよく、1913年に洋画を学ぶために渡米し、翌年帰国して日本画に転向する。ちょうどこの年に日本美術院が再興され、そこに出品を目指した。
 今回の展示は1「院展時代(1915-28)」、2「青龍社の創立(1929-32)」、3「戦前から戦後へ」、4「晩年の活動」の4つに分けられていた。館内の壁面の大半が天井から下まで大作で埋め尽くされたのは、この美術館としては初めてのことだろう。圧巻と言うほかない光景で、初めて龍子の会場芸術の意味がわかった。だが、大きな絵だけであれば映画の看板でも同じであって、それが感動を常に呼ぶかどうかの保証はない。圧倒されはするが、時代を経て画家の思いの奥を想像する時、龍子の場合、やや軽薄と思われても仕方のないような時代に迎合する面がはっきりと見られる。順に見て行こう。岡倉天心の没後1周年の1914年に横山大観らによって再興院展が始まった。龍子は第1回展は落選、翌年「狐の径」で入選を果たし、1917年には早くも同人となった。13から15回展に出品した「行者三部作」(後述する)の大画面作によって人気作家の名声を得た。「画人生涯筆一管」と書いた書の軸が最初に展示されていたが、流麗で勇壮な感じがあり、いかにも龍子の後年を予想させる。「土」(1919)は、画面全体を覆う麦の穂の根本に小さな巣が描かれ、そこにヒバリの雛がいる。巣はよく見ないとわからない色合いをしているが、一旦それとわかると忘れ難い印象を残す。「賭博者」(1923)は海岸べりの松の木に隠れて海賭博する人たちを実際に見た印象を元にしている。まるで片山健の描く絵本原画のような趣がある面白い絵で、強い個性の閃きがある。「佳人好在」(1925)は京都南禅寺近くの瓢亭を題材にした、いかにも大正時代の写実を思わせる作品で、一応龍子の初期の代表作としていいだろう。逆遠近法の構図で、畳や料理膳、庭の植え込みなど、全体に日本的な湿った空気が完璧に描写される。この方向で進んでいれば速水御舟を超えたかもしれない。だが龍子はすぐに別の画風に移る。「火生」(1921)は高野山明王院の「不動明王像」を拝観し、その火焔表現に触発されたもので、同像を下敷きに日本武尊を姿を描く。この作品は後の神国日本を謳う作品群の原点にあるだろう。「龍安泉石」(1924)の4曲1双屏風は会場芸術志向が明確に出ていて、後年の秋野不矩に似た色合いとタッチの画面だ。「印度更紗」(1925)は友人からもらった更紗に三女をモデルとして裸婦像を洋画的な雰囲気で描き、これまた作風が変化している。「行者三部作」の第2作「一天護持」(1927)は、役小角が参籠中に仏菩薩が姿を変えて現われたとされる蔵王権現を描くが、紺紙金泥経の紺と金を大画面に応用しているだ。紙ではなく、濃い紺に染めた絹地に金泥で描き上げたもので、同じ構図を水墨画にすることも容易であったのに、あえてこのような仕上がりを狙ったところに発想の大胆さと視野を広げる研究の跡が見られる。また、「火生」とともに生まれ故郷の和歌山に画題を求めているところが興味深い。作品の発表は東京でも、絵のネタは歴史の蓄積のあるところで求めた。
 2「青龍社の創立」ではいよいよ大画面が主となる。院展を出た龍子は画塾御形社の門下生を初め、落合朗風や福田豊四郎をメンバーとして、「会場芸術」を唱えて「青龍社」を創立した。これは画壇の残るパトロンとの関係や繊細巧緻に傾く床の間趣味を断ち切り、「健剛なる芸術」の創立と樹立を求め、社会と大衆に向けて作品を示すものであった。「海洋を制する者」(1936)は連作「太平洋」4部作の最後の作で、神戸川崎造船所を見学して描いた。画面の中心には青いつなぎ服を着た男がリベットを鉄板に打ち込んでいる様子が描かれるが、男の背は金泥の炎が不動明王のように燃え盛る。戦争画として分類出来るこうした絵は正直なところ、見ていて気分はよくない。だが、戦争が終わるその直前まで同じような戦争画と言ってよい大作を次々と描く。「越後(山本五十六元帥)」(1943)もその口だ。よく描けてはいるが、感動する絵ではない。その点、たとえば「炎庭想雪図」(1935)の6曲1双屏風は非凡な才能を明確に示す作として代表作のひとつとして挙げたい。酷暑の庭に雪景色を想像して描き、左隻にバナナの木に緑のオウム、右隻に雑草と白百合が見られるが、どちらも雪が積もっている。この幻想性はどこからヒントを得たものだろう。龍子には少なからず幻想的な作品があり、それは一度考えるべき主題であるだろう。妻を割合早く亡くしていて、再婚しなかったが、絵画に没入することでさびしさを忘れようとしたのかもしれない。また、龍子の弟子と呼べる才能は牧進しか知らないが、正真正銘の一匹狼の異端児であったと言える。「草炎」(1930)と「草の実」(1931)はともに6曲1双屏風で、前述の「一天護持」と同じく紺色の絹に金泥で描く。琳派風だが、琳派が扱わなかった雑草を選んでいる。これは在野にいる自らを投影してのことだろうか。雑草と言われなければわからない独特の華麗さがあるが、それこそ龍子の求めたものであったかもしれない。龍子のように在野で大作を描き続けた画家はほかにはおらず、それだけでも特筆すべき才能であったと言わねばならない。
 3「戦前から戦後へ」では、「太平洋」4部作に続く大作群として、「大陸策」4部作(1937-40)、「国に寄する」4部作(41-44)、「南方篇」4部作(42-44)から大画面の目白押しとなっていたが、戦闘機を画面いっぱいに描くなど、どこか自分に酔っている様子が伝わる一方、今までにない絵を描こうという強い意思は相変わらず伝わり、そのほとんど狂気に近いエネルギーには感服するほかない。東京大空襲では大森の居宅を失ったが、画室は無事であった。特攻隊をテーマに描こうとしている時に敗戦を知り、急遽「臥龍」(1945)の4枚1面を描いた。この変わり身の早さはどう解釈すればいいだろう。あれだけ日本の戦況を讃える大作を描いていたのに、戦争に負けても別に落ち込んで筆を折ることもなく、またそれに合わせた絵を描いて行けばよいという素振りだ。ここに龍子を嫌う人の理由があるかもしれない。だが、1950年以降は娘と一緒に四国88か所霊場、西国88か所、坂東33か所、奥の細道など諸国行脚の旅に出、草描画を多く描いているから、それなりに心機一転で思うところがあったのだろう。また主に東京の古寺院の天井画を盛んに描き始め、1963年にはひとりで費用を捻出して自宅前に鉄筋コンクリート、860平米の龍子記念館を建設した。これまた老いてもなお精力的な人柄をよく伝える。1959年に文化勲章を授与され、1966年に80歳で亡くなった。昇り詰めた龍さながらの人生であった。晩年にも見所のある作品は多い。「沼の饗宴」(1950)の6曲1双屏風は、芋銭の河童を見て、自分ならこう描くとの実力誇示に見える。芋銭の河童とは全く違う手慣れた絵だが、筆者は芋銭の方を圧倒的に好む。「阿修羅の流れ(奥入瀬)」(1964)は写実に基づきながらも装飾性を忘れず、色彩の妙も見せる。相変わらずどのような作風の絵でも龍子風にこなすといった風で、他の画家や作や流行をよく見つめていたことがわかる。「刺青」(1948)は藍染の布に裸婦が背を見せて横たわり、背には赤い牡丹の刺青、藍染には蝶の文様が絞りで施されている。どこか棟方志功を思わせるタッチだが、洒落たセンスは棟方とは別物だ。「夢」(1951)は横長の額装作品で、平泉中尊寺の藤原氏四代のミイラの学術調査にヒントを得た。棺桶の蓋が開き、ミイラの顔あたりからたくさんの蛾や蝶が飛び立っている。まるで龍子の自画像に見える。「画人生涯筆一管」を実践した画家冥利につきる人生は、いつも幻想を見ていたとも思える。
by uuuzen | 2006-06-07 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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