●『反・官展/反・画壇の系譜 京都美術地誌案内』
本アンデパンダン展を見た後、同じ京都市美術館で見た。先月18日のことだ。三条河原街交差点のチケットショップで招待券を200円で買った。



d0053294_243594.jpg会期は残すところ3日であったが、まだ10枚ほど在庫があった。きっと美術館関係の人がまとめて売ったのだろう。当日券は400円とかなり安いのに、京都市美術館の所蔵品を展示するこうした企画展はあまり人気がない。いつもきれいなチラシが作られるが、筆者もめったに見ることがない。今回のチラシには、「いつも京都はあつかった。」という文句が端の方に小さく印刷されている。言い換えれば今の京都は美術活動はさっぱり駄目ということだ。これは全く正しいので文句のつけようがない。一旦沈んでしまった文化の勢いがまた活性化するのは数十年単位、いやもっと長い年月が必要だ。今は美術の中心はすっかり東京にあるが、首都移転でもしない限り、その状態はずっと続く。それはそれ、名を成したい人は東京へ行けばいいだけの話で、別にとやかく言うことはない。だが、近年は大阪の言葉が東京であまり嫌悪されなくなって来ているようで、タレントも今まで隠していたのに、急に大阪弁を堂々と喋って大阪出身を明かしたりする場合が少なくない。地方が卑下する必要がなくなって来たと考えるのは早計だが、道州制が導入されれば東京対地方の圧倒的な差の変化が起こる可能性はあるし、一方でネット社会が今後どんどん常識化して誰にとっても必須のものとなった場合、案外伝統をより長く持つ存在の地方が歓迎されるようになっていることも考えられる。しかし、こんなことを考えているから地方はやはり駄目なのだ。東京在住の美術家はみな目指すは世界で、小さな東京に充足するつもりはないに違いない。その意味で大阪や京都は東京より100年は遅れている。となると、京都在住の筆者がたくさん展覧会を見て、毎夜ここで誰も読まない文章を書いたところで、誰の何の貢献にもならない。そしてさらに言えば、京都市美術館が「いつも京都はあつかった。」とやや自虐的にチラシに印刷して展覧会を開催することもほとんど何の役にも立たない。このような展覧会を見て自分の芸術にさらに邁進したところで、京都にいては埋もれるのが落ちだ。地方に生まれてそこで生きたのでは絶対に名を上げられない状態が今の日本にはあるから、いっそのこと日本全国を東京都にすればいいだろう。都知事が総理大臣を兼ねることになって、政治家どもの税金の無駄遣いもなくなる。
 この展覧会を見る気になったのはついであったことと、「反・官展、反・画壇」という言葉が気に入ったからだ。筆者は「反」好きだ。「反・官展」についてはチラシには「戦前の官設の文展・帝展」と続いて小さな文字で説明してある。つまり「戦前」のことなのだ。「いつも京都はあつかった。」のは戦前のことで、筆者は生まれていなかった。ところでなぜ「あつかった」と平仮名なのだろう。これが「熱かった」であることはわかるが、美術家の層が「厚かった」という意味にも取れるようにとの計らいかもしれない。「いつも京都は扱った。」とやればなお面白い。何を扱ったかと言えば、厚い層を成した美術家たちが日本画洋画工芸とあらゆる芸術を暑い京都の中で熱く扱ったというわけだ。とにかくこの企画展からはそのような様子が伝わった。やはり「いつも京都はあつかった。」のだ。今熱くあり得るのは陶磁や染織などの伝統工芸とそれに続くものだけであろう。それがあるだけでもまだましか。今回は工芸では走泥社の作家の紹介しかなかったが、走泥社を超える前衛工芸集団を京都はその後生んでいない。だが、美術家や工芸家が集団とならなければ、歴史に足跡を記すムーヴメントは生じないのだろうか。孤立した作家をこうした企画展に組み込む機会は皆無と言ってよいが、本来自由な個の存在を示すはずの芸術が、所属する会や派、グループによって常に位置づけられ、そうしたマッスとしての活動のみが「あつかった」と表現されるものにやがて確定するとすれば、無所属でしかも完全に孤立して制作する作家が救われ、かつ掬われることはない。これは日本独自のことなのだろうか。あるいはどこの国のいつの時代でも同じことなのだろうか。美術で大きな仕事をするには、反権力の立場を取るにしてもまず団体に所属する必要があるというのでは、何だかとても不自由なことではないか。
 展示は5つに分けられていた。1「官展は反官展とのあいだ」、2「在野で描く意味を考えた人たち」、3「戦後美術の大衆化と美術研究所」、4「戦後美術の新たな挑戦と前衛グループ」、5「画廊の時代-「美術」いう概念や制度と戦う作家たち」で、4はさらに「パンリアルと走泥社」と「群小前衛グループ」のふたつに分けられていた。図録は買わなかったが、チラシ裏面は細かい文字で説明があって、それだけでもちょっとした資料になる。まず官展だが、明治40年(1907)に開催された文部省主催の文展(文部省美術展)、続く帝展(帝国美術展覧会)と新文展(新文部省美術展)を称する。官展に参加した一部の作家はそのあり方に疑問を抱き、国画創作協会、日本自由画壇など在野団体を京都で結成し、岡崎の第一勧業館などを展示会場とした。今回の1ではこの在野団体を中心とし、文展と同年に開催された丙午画会などの、寺町や裏寺町の寺や市内の呉服店を展示場にしたグループの作品を紹介していた。村上華岳や入江波光についてはもう言うまでもない。丙午画会は日本画家の集まりだが、モデルを雇って写生するなど、洋画の写実性を追求し、日常の美を描くことをテーマに聖護院洋画研究所を開設した。千種掃雲(1873-1944)の「ねざめ」(1911)は、絹本の横長画面で、今描いたかと思わせられる色合いと保存のよさが印象に強い。だが、そこに描かれる日常の美はすでに今は全く見られないものだ。藍染の浴衣を着た日本髪の女性が部屋にひとりいて、背後に遠く鴨川沿いの家並みが描かれる。京都のそのあたりをよく知る者が見れば、この絵の味わいはさらに愛すべきものとして映る。だが、現在は家並みの背後にマンションなどが建ち並び、すでにこのおよそ100年前の京都が滅びてしまったことを感じないわけには行かない。芝千秋(1877-1956)の「雨」(1911)は鉛筆による素描だが、写真のような迫真性が見られ、画家の腕の確かさをよく伝える。またそこに表現される京都の町中の雨は何と懐かしく美しいことか。紙と鉛筆1本でこのような情緒豊かな絵が描けることに改めて驚く。玉村方久斗(1893-1951)の「猫」(昭和初期)はチケットに印刷された黒猫を描く作品だ。実物は紙に顔料で描かれ、色がついているが、琳派的な装飾を伝えつつデフォルメが利いているので洒落た味わいがある。平井楳仙(1889-1969)の「寒江暮色」(1929)は身長を優に超えるとても大きな2枚折りの屏風で、タイトルから想像出来るように南画的題材を使用した絵だ。同じように伝統をそのまま継いだような絵として猪飼明谷(1881-1939)の「待機」(1939)がある。これは前田青邨が得意とした歴史画に近い。双方とも技術は確かなものがあるが、当時としてはすでにいささか時代遅れに見えたことだろう。浅野竹二(1900-99)は後年の木版画はよく知っているが、「律肖像」(1927)のような写実的な水彩画を描いていたことは知らなかった。多田敬一(1900-81)の「海ぞいの村」(1926)はいかにも大正時代を思わせる実験の見られる作風で、今も斬新さを失わない。野長瀬晩花(1889-64)はたまに作品を見る機会があるが、本格的な回顧展が期待される特異な画家だ。「水汲みにいく女」(1925)は木綿地に描いた2曲1隻屏風で、ヨーロッパ中世のキリスト教絵画に素朴派の作風を加えたような温かみがある。
 2「在野で描く意味を考えた人たち」は、戦前の京都のプロレタリア・アート、二科の白堊会や津田青楓洋画塾や独立美術研究所の活動の紹介だ。津田青楓洋画塾は大正15年(1926)に開設し、プロレタリアに対して「新興リアリズム」と規定した。これは昭和初期のインテリにありがちな、負い目から大衆におもねるのではなく、「美術」が虚構の次元に追いやられるのを否定した。解散後、今井憲一らは二科から離れて新研究所を計画し、林重義の協力を得て北脇昇らが奔走し、独立美術が開設した。この団体からは新日本洋画協会が生まれ、実験的な集団制作も行なった。津田青楓(1880-1978)の「お茶の水風景之景」(1918)は6曲1双屏風で、南画風の軽妙な絵だ。右に煉瓦塀、左に川を下る人、中央遠景にニコライ堂の葱坊主が顔を覗かせる。東京にもこんなのんびりとした樹木が生い茂る風景があったのかと思わせる。今ではこうした絵を描く人はいないし、描いたとしても誰も評価しないだろう。飯田清毅(1909-45)の「ボクサー」(1935)は鏡に向かうボクサーを描く油彩で、どこかエドワード・ホッパーを思い起こさせる画風だ。奥村究果(信吉)(1889-1945)の「ソヴィエト同盟を守れ」(1931)は漆盆だ。下に兵士が半円形に並び、うえには銃剣を持つ兵士が3人大きく描かれる。工芸にもこのようなプロレタリアがあったことに、それこそ「熱かった京都」を思う。今井憲一(1907-88)の「原生林」(1938)は半ば風化したブリキの細い管が林立し、その1本に赤い蘭の花が絡まりついている様子を油彩で描く。一見してマックス・エルンストの影響がわかる。伊藤久三郎(1906-77)の「流れの部分」(1933)は、波か雪によって壊された橋が中央にあり、空に飛ぶ鳥、右下に人の首が転がる。マグリットを荒くしたようなモノクロームの超現実主義の油彩画で、テクニシャンではないが作品に古さは感じなかった。
 3「戦後美術の大衆化と美術研究所」。百万遍知恩寺に人文学園の絵画部を前身とする行動美術研究所があって、後に移転して斉藤眞成や吉仲太造、全和鳳などが人間の尊厳をテーマに新表現を行なった。また、先頃亡くなった芝田米三の家には戦後、独立美術京都研究所が設けられ、芝田耕、米三の幹事、須田国太郎の指導のもと、八木一夫ら陶芸家や日本画家も出入りした。また1954年には自由美術京都研究所も生まれた。芝田耕(1918-)の「古跡」(1955)はキュビズムのジョルジュ・ブラック風、米三(1926-2006)の「東山風景」(1942)は須田の作風を思わせる渋い画面の小品だ。市村司(1922-)の「八幡製鉄所」(1952)はまるでアメリカの80年代のニュー・ペインティングと言ってよい迫力ある荒々しいタッチの絵で、黒と茶で画面が重厚に埋め尽くされていた。4「戦後美術の新たな挑戦と前衛グループ」ではパンリアルが見物であった。走泥会と同じく1948年に誕生した会だ。「パン(汎)リアリズム」の意味があり、三上誠が発案した。筆の代わりの雑巾を用いたり、彩色した絵具を拭き取ったりするなど、技法の刷新をよく行なったが、これは東京の既成概念を否定する前衛とは違って、伝統の地京都ならではの発想であった。下村良之助(1923-98)の「時計」(1952)はチラシの表側に使用されたが、6号ほどの小品で褐色で歯車の絡みをていねいに描く。後年の下村からは想像出来ない作風だ。三上誠(1919-72)の「作品64、X」(1964)は木をうすく輪切りしたものを赤く塗った画面に貼り詰めている。この作風は有名で、同様のものは京都国立近美にも展示されている。不動茂弥(1928-)の「机上の対話」(1950)は小牧源太郎の作風を連想させた。大野俶嵩(1922-2002)の「緋 No24」(1964)は赤いキャンヴァス地に焦茶色のドンゴロスの生地を折りたたんで貼りつけたもので、これも有名なシリーズだ。後年は全く違う作風に変化する。1949年撮影のパンリアルの3人が作品を搬出する写真があった。東大路松原下ルあたりで、今は見かけない大八車に100号を超えるような作品を積んでいた。大野秀隆(俶嵩)もさすがに若い。東大路松原は今では清水寺に向かう観光客の車などで京都でも最も混雑する場所になっているが、半世紀経ずしてここまで変わったかと思わせられる。京都らしさがすっかり消えたと同時に京都は「熱く」なくなったかのようだ。
 4の続きとして群小グループの存在があるが、あまり作品に見るべきものがないのか、印象にはうすかった。小清水漸(1944-)や堂本尚郎(1928-)の作品がここには展示されていた。前者は桂の木を使用した騙し絵的効果を持つレリーフ「Relief ’80」(1980)が展示され、確かな技術に特に目を引いた。5「画廊の時代…」はさらに現在に近づくため、回顧するにはまだ時期尚早かもしれない。ギャラリー16、紅、アヅマギャラリー、平安画廊、Galley COCOといった新人発掘に積極的な画廊の紹介があった。狗巻賢二(1943-)の「たてに波文様の濃い赤」(1996)は赤く塗った画面から古典的な縦涌模様を線状に引っ掻いて絵具を落とした絵で、それだけと言えばそれだけだが、こうしたストレートさが現代絵画の特徴だ。同じ意味では井田照一(1941-)の「光の泉-流砂の光-A」「同B」の2点があった。これはそれぞれ本願寺の壁土と中国の黄砂を絵具代わりに用いて塗り込めた作品で、前者は灰色、後者は黄土色をしているが、予め画面を金糸や銀糸で正確な枡目状に縫ってあり、そのうえに土を塗り込めているため、糸の箇所でひび割れが生じている。何だか佐官が作った作品に見えるが、特定の素材を使用すれば他では絶対に得られない表現効果となるところが面白い。野村仁(1945-)の「tardidoogy」(1968-9)は大きな写真4点組の作品で、京都市美術館北側の敷地内に段ボールを使って大きな塔を組み立て、それが自然崩壊する様子を順次撮影したものだ。こうしたインスタレーションはひとまずは写真で残すしかないが、「美術」の概念や制度が揺らぎ始めた頃の記念碑的作品として記憶されるだろう。次に何が主流となるか、また京都がその一翼を担うことが出来るか。今起こっていることが後になって評価されるかどうかわからないが、今やっていないことには後の評価もないのは確かだ。
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by uuuzen | 2006-06-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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