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●『大勧進 重源』
朝気づいたが、exciteブログのネームカードを作った人は画像が1GBまで無料でアップ出来ることになった。



●『大勧進 重源』_d0053294_213206.jpg今まで大きな画像をこのブログに掲載する時は、ホームページのサーヴァーに置いてそこからリンク表示させていたが、その必要がなくなる。それで早速過去のいくつかの画像をexciteに移して掲げ直したが、ちょっとしたデザイン上の理由から大半は今までどおりのままにすることに決めた。この話はややこしいので、今月25日の「ブログ作成歩録32」に書く。ネームカードを作った人は100万円の旅行券が当たるプレゼント企画も用意されているが、画像容量1GBまで無料といい、exciteはネームカードによって個人情報を把握し、何か商売上うま味を考えているのだろうか。つい、勘繰ってしまう。で、今朝は旅行会社から毎月恒例の旅行商品カタログが届いた。それで改めて思ったが、このカタログは京阪神に住む人のために作られたものであるから、ごくたまに京都の特別コースは載っているにしても奈良旅行は見たことがない。これは当然で、京阪神住民にとって奈良や京都は団体ツアーで訪れる場所ではない。2年前に琴平に訪れた時、京都や奈良旅行のポスターやチラシをたくさん見かけた。人はみな自分のいるところよりもよそを見たいと思うようで、この心理がある限り旅行会社は安泰だ。で、5月のゴールデン・ウィークの6日に奈良に行って、今夜取り上げるこの展覧会ともうひとつを見た。日帰りは充分可能なので、奈良に修学旅行でしか行ったことのないところに住む人は羨ましいかもしれない。さて、「大勧進」は各地を動き回るので「大旅行」のようなところがあるが、副題に「御遠忌800年記念特別展」とあり、「重源」は「ちょうげん」と読む。この展覧会は、去年12月から今年1月にかけて同館で開催された『東大寺公慶上人-江戸時代の大仏復興と奈良-』と強く関連する。同展では鎌倉時代の東大寺の復興に関してはほとんど紹介がなかった。時代がかなり遡るから、資料集めも大変で、何年か待てばそのうち展覧会があるだろうと思ったが、まさか半年後にこうして開催されるとは思わなかった。奈良国立博物館は熱く頑張っている。ただし、重源没後800年という区切りのよい年であったからだ。同様の区切りが次にどうあるのか知らないが、博物館としては何か人集めに最適な名目が必要であるから、毎年本当に企画は大変なことだ。
 公慶も重源も知る人は知るが、あまり仏教に関心のない人にはさっぱりだろう。筆者もその口だが、こうした展覧会で新たに知識が得られるからありがたいものだ。週間朝日百科「仏教を歩く」という全30冊のシリーズがある。その17が『行基と東大寺』と題して、東大寺にまつわる僧たちが紹介される。行基については先週だったか、NHKの歴史番組で取り上げられた。前掲の『行基と東大寺』には「土木集団を組織した天平の異才」と見出しを設けて解説を始めている。行基に関しては実像が必ずしも明らかにはなっていないが、天平17年(745)に大僧正となって大仏造営を始め、完成前の749年に82歳で亡くなった。東大寺の歴史に次に登場するのが良弁(ろうべん)(689?-773)で、東大寺を創建した僧として知られる。『行基と東大寺』の最後あたりに各1ページが割かれて、良弁そして東大寺を再建した僧の重源(1121-1206)が紹介されているが、公慶に至っては全く触れられていない。奈良の大仏は顔を含め大半が元禄時代に造り直されたものであるし、大仏殿はすべてがまだ300年ほどの歴史しかないが、そうした事実はなるべく伏せて、あくまでも最初の建立を前面に押し出したい様子が見受けられる。これは法隆寺でも同じで、研究者によって再建時の年代がかなり違っている。古代においては中国に比べると圧倒的な田舎で後進の弱小国であった日本であるから、せめて背伸びをして少しでも歴史が古いことを主張したいのはわからぬ心境でもない。だが、それがあまりに加熱すると発掘品の捏造にもつながって世界中の物笑いになる。歴史関係の書物を繙く時は、そこにあまり触れられていないことに注目して書き手の思いを読み取る必要がある。筆者はあまり歴史好きではないが、それは書き手によってどうにでも変化してしまい、何が真実かわからないからだ。これは歴史に限らず、解説や評論でも同じことで、常にそこから洩れている部分が広大にある。さて、公慶上人展の2倍近い展示品の量であった。重源その人についてだけならば遺物も限られるが、大仏の再鋳や大仏殿の再建に関係するあらゆるもので多角的に重源の姿を浮かび上がらせる機会で、会場は、1「南都炎上」、2「入宋三度聖人」、3「東大寺復興」、4「行基崇拝」、5「別所経営」、6「重源の舎利信仰」、7「重源と阿弥陀・同行衆」、8「宋代美術の移植」の全8章に分けられていた。
 まず1「南都炎上」。平清盛の子、重衡(しげひら)を総大将とする軍勢が1180年12月28日に南都を焼き打ちし、東大寺と興福寺は甚大な被害を受けた。東大寺は堂舎や宝蔵、僧房が少し残ったのみで、大仏の頭部は身体の後ろに崩れ落ち、腕は前に横たわって、1000あまりの人が大仏殿で焼死した。大仏殿の遺材は仏像の御衣木や教典の軸木に再利用されたが、そんな中から今回は重文指定を受ける快成作の「地蔵菩薩立像」(1256)や「愛染明王像」(同)が展示された。前者は大仏殿の旧柱をそのまま用いて彫ったもので、厨子の底板を転用した台座の下框裏に当初の銘文が転写されている。大切にしていたものを素材に還元して再利用し、新たな造形物を生む考えは当時は珍しくなかった。『金沢文庫の名品』でも、北条貞顕が父顕時の33回忌の供養の際、父の手紙を漉き返して作った料紙に経文を書いた「円覚経」が出ていた。2「入宋三度聖人」では重源に光を当てる。まず、「重源上人坐像」は東大寺の国宝と重文3点の計4点が出ていた。国宝は慶派の代表する仏師のものとされ、これはチラシの表に印刷された。最も若い風貌を伝える像は山口の阿弥陀寺に伝わり、内ぐりなしの木造だ。東大寺領播磨国大部庄に営まれた播磨別所(浄土寺)に伝来する像は、1234年に奈良から運ばれたことがかわっている。重源の開いた伊賀別所(新大仏寺)に伝わるものは阿弥陀寺のものより老いた風貌で、東大寺像より若い。「栄西書状」は、重源の跡を継いで造東大寺大勧進となった栄西(1141-1215)の自筆状で、造営資金不足に悩む様子が伝わる。重源の前半生は半ばわからないが、紀氏の流れをくみ、朝廷に仕えた武家の出とされる。後白河院によって勧進に任命されたのは60歳を超えてからだ。中国を3度巡礼していたので、最先端の知識や幅広い人脈があった。超人的な活躍ぶりによって、資金難の中、着々と事業を推進し、1185年に大仏鋳造、1195年に大仏殿完成、1203年に諸堂の「大半を」再建した。
 3「東大寺復興」は今回の展示で最も面白かったセクションだ。再建計画は焼け落ちた3か月後から始まった。後に造寺造仏長官となる藤原行隆は鋳物師10数人を引き連れて大仏の現状を調査したところ、あまりの惨状に二の足を踏んだ。この時重源が現われ、おそらく行隆の推挙を経て、七道諸国の衆庶に勧進して大仏などの諸仏諸堂舎の再興に尽力すべしとの宣旨が下った。後白河法皇や源頼朝、九条兼実ら時の権力者も協力をした。「自然木杖」は重源が勧進のために全国行脚した時に用いたと伝えられるもので、公慶にも同じようなものがあった。「源頼朝坐像」は山梨の善光寺の木彫りで、像内に頼朝の命日の墨書きがある。一目見て忘れられない風貌をしていて、神護寺にある絵画の凛々しい頼朝像とは全然違ってもっと凄味がある。悪く言えば額に皺を寄せたヤクザに見える。神護寺の絵は実際は頼朝ではないとの研究があるが、それを納得させる。頼朝の書状もあった。なかなか字はよい。九条兼実(1149-1207)の日記「玉葉」も面白い。大仏開眼会で予定に反して後白河院自ら筆を取って仏眼を入れたことに対し、院は仏師だったのかのかと皮肉を込めて綴っている。まるで映画を見ているように開眼会の情景が想像出来るが、筆跡もいかにも他人に見せようとしたものでないことがわかって生々しい。後白河法皇(1127-92)の最古の肖像を伝える坐像(重文)もあった。おまけに開眼会に使用された筆も展示されたが、これは模造品で、オリジナルは正倉院に「天平宝物筆」として伝わっている。絵画としては「法然上人絵伝」(国宝)や「東大寺大仏縁起」の絵巻物が出ていた。重源は南都に念仏を広めるために法然を招き、建立途中の大仏殿の軒下で、重源が宋からもたらした「観経曼荼羅」「浄土五祖影」を供養し、「浄土三部経」を講じてもらった。同じ仏教でもいろいろと派があってそれぞれに統率者がいるが、願うところの国家や民衆の平和は同じであるから、こうした出会いもあった。「東大寺大仏縁起」は現実にはあり得ない奇跡をいくつも描くことで大仏再建が聖なる行ないであることを説いている。吽形の狛犬(重文)、「東大寺南大門金剛力士像納入品」の展示が続き、京都清涼寺の釈迦如来立像納入品である「霊山変相図」(国宝)(宋時代、10世紀)が特に目を引いた。これは東大寺の僧ちょう(大の下に周)然が986年に宋から日本にもたらしたものだ。絵の中の仁王像が東大寺南大門のあの大きな金剛力士像とよく似ている点に見所がある。続いて4「行基への崇拝」。重源の大仏再興を機に、行基信仰が興隆したが、1235年に生駒山東陵の竹林寺の行基の墓から舎利(遺骨)が発見されたことで最高頂に達した。行基の伝記は早くから説話化され、重源の時代に「行基年譜」として集大成された。展示物としては東招提寺の「行基菩薩像」(13世紀)や新大仏寺の本尊「如来坐像」(重文)が目立った。後者は頭部のみ当初のもので、もとは快慶作の逆手来迎印の丈六阿弥陀立像であった。
 5「別所経営」。摂津国渡辺、伊賀、播磨、備中、周防など七か所の別所は、単に造営資金調達のものではなく、信仰の拠点となる堂舎を設けて思想実践の場とされた。このセクションでの見所は「菩薩面」と「軒丸瓦」だ。まず前者として16点の重文が展示されていた。これは迎講(来迎会)に用いられた仮面で、重源が快慶とその工房に作らせた。播磨別所の浄土寺では重源による1200年の初修以来、近代まで行なわれて来た。同じく3点の表情が異なる菩薩面があったが、これは浄土寺のものより一時代古い平安後期の典雅な様式を伝えるものだ。見比べると面白い。「軒丸瓦」は大仏殿の銘が入っている特注品で、回廊や南大門でも用いられた。備前で焼かせたもので、寺院銘が文様として入っている最初のものとされる。6「重源の舎利信仰」では、重源の阿弥陀信仰と並ぶ信仰活動を示す。重源は勧進に任命されるまでは醍醐寺の僧であったが、同寺では舎利を宝珠とみなす教えがあった。舎利信仰で用いられる五輪塔は三角五輪塔で、下から3つ目の火輪が正四面体になっている。地、水、火、風、空を四角、球、三角、半円、宝珠で表わし、これらを組み上げて塔婆とした。密教から生まれたもので、大日如来をも象徴する。7「重源と阿弥陀・同行衆」。さて、会場の最後に近づくに連れて疲れたうえ、次の展覧会場に行く時間が気になり、ほとんど流し見した。図録も買わなかったので、以下簡単に済ます。勧進活動を進めるうえで重源は精神的な連帯感を弟子たちと持つために、自らを南無阿弥陀仏と称し、自分を信奉してくれる弟子たちに一字をつけて聖阿弥陀仏、空阿弥陀仏などと呼んだ。これは大仏の鋳造が本格化する1183年頃と言われている。重源は行基にならってたくさんの土木事業も行なったが、そうした行為は強固な精神的つながりのある集団があってこそ可能だ。僧の力がいかに大きかったかを改めて知る。8「宋代美術の移植」。重源が宋から請来したとされる「五劫思性阿弥陀如来坐像」(重文)は阿弥陀仏の前身で、法蔵菩薩が五劫(21億6千万)の間思惟したとの教えに基づき、頭髪をその時間伸びるに任せた形で表現している。70年代の若者に流行したモップ・ヘアをさらに異常に拡大したもので、頭だけが異様に大きく彫られている。しかも煤で全体が黒ずんでいるのでさらに迫力がある。21億6千万年ではもっと伸びると思うが、彫れる像としては限界ぎりぎりまで伸ばしたという雰囲気だ。その意味でユーモアも漂う。2点並んでいたが、時代が異なる。同じく重文の「阿弥陀浄土図」や「五百羅漢図」も見応えがあった。前者は逆手来迎印の阿弥陀を中心とした三尊でこれは大陸で製作されていたものを重源が日本に導入した。後者は大徳寺蔵で、南宋で1178から88年頃に描かれた。1幅に5人ずつ描き、計百幅で構成される。ところで、同じものを150年ほど後に東福寺の明兆も描いたが、それは鎌倉の建長寺にあったものを手本に写したとされる。五百羅漢は中国天台山中の石橋に示現すると信仰を集めた羅漢だが、重源も入宋時にこの地を訪れたことは言うまでもない。今なら飛行機ですぐだが、その分、旅はありがたみが失せた。ましてやバスで日帰りするなど旅とは言えない。それにしてもexciteで100万円の旅行券が当たらないかな。長文ブログ優先ならいいのだけれど。
by uuuzen | 2006-06-04 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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