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●『書の国宝 墨蹟展』
にも書いたように、この展覧会は5月4日と28日に見に行った。展示替えがあったので、作品のだぶりはなかった。関心のある人は最低2度は足を運ぶ必要があるということになる。



●『書の国宝 墨蹟展』_d0053294_2512354.jpgこういう大規模な展覧会は少なくない。国宝が出品される場合、作品保護の観点もあって、1か月以上も続けて展示出来ないからだ。今年1月から2月にかけて東京国立博物館で『書の至宝』と題する展覧会が開催されたので、最初この展覧会はその巡回かと思った。だが、チラシを見れば内容が全く違って、東京では「王義之、欧陽詢、蘇軾、聖徳太子、空海、道風、光悦、良寛-名筆、時空を超えて一堂に」との副題がある。こっちは「墨蹟」であり、これはチケットに印刷してあるように「Treasures ofCalligraphy by Zen Prieste」を意味し、禅僧の書を集めての展示だ。2回とも老若男女が押し寄せていて、かなりの成功と言ってよい。図録は最初から買うつもりがなかったが、大学生らしき若い男が図録を片手に説明パネルが間違っていることを係員に指摘していた。後で図録の価格を見て驚いた。5000円だ。これは通常の展覧会では特別高い。だが、それも無理のない版形で、通常の倍はあった。これだけの作品をよく集められたと言われるほど、今回は充実した内容であったらしく、そのためにも大きくしたのであろう。それは書をたしなむ人が少なからずやって来て、図録を買った後で臨書しやすいようにとの計らいもあってのことだろう。なるべく書の細部までわかるように印刷するとなれば、どうしても版形は大きくなる。また、大阪市立美術館は定期的に書の展覧会を開催しており、それらはみな同じような大きな図録が作られているから、それに合わせたとも言える。絵画とは違って書は特殊でマイナーな芸術と思いがちだが、展覧会の盛況ぶりを見ると決してそうではない。ごく普通のおばさんに見えるような人でも熱心に鑑賞していて、趣味で書をやっていることが傍目にもわかった。また、何度も小耳に挟んだが、他府県からわざわざ来ている人も目立った。日展を初め、書道の公募展はいくつもあるし、実際に書をやる人口は絵を学ぶ人より多いとは言わないまでも互角に近いほどいるかもしれない。にもかかわらず書の展覧会があまり多くないとなれば、こうしためったにない機会にたくさんのファンが押し寄せるのは当然だ。
 4月24日の読売新聞夕刊に、日本書芸院展の紹介が2ページにわたって印刷されている。創立60周年展で、特別展として「雄大・純朴の書-米山」と題して、幕末から明治にかけて生きた愛媛の三輪田米山(1821-1908)の書も並べられた。米山の肖像写真も載っているが、その横に大阪近代美術館建設準備室が所蔵する「無為」の2文字の書が大きく印刷されている。写真から伝わる米山の風貌とその書が実にぴったり合っていて、武士の凄味というものがはっきりと伝わる。「無為」の書風は熊谷守一をもっとかっちりと整えたような味わいがありつつ、ざくっとほとばしる気迫が表われ、なおかつふっくらと大きく包み込むようなところがある。それでいて、やはりもう明治という近代の香りをはっきり伝えているのが面白い。そう思って、同じ紙面の下に印刷される同院の役員の作品を目をやると、みなそれなりに個性的で、なるほどと一応は感心出来る。つまり、書の歴史も脈々と続いて来ていることが改めてわかるわけだ。だが、現存書家の作品があまり飛び抜けて凄いと思えないのは、まだ評価するには新しくて生々し過ぎるからだろうか。一茶だったか、良寛だったか、書家の書は面白くないということを言ったが、江戸時代にしてすでにそうであったのだろう。書家は上手かもしれないが味がないというのは、結局その人柄が面白くないと言っているのと同じで、そこには書はその人の生き方がそのまま反映するという見方がある。これは書をあまりよく見ることなく、まずそれを書いた人がどういう生活をしていたかによって判断してしまうことでもあって、書家はきっと異論を唱えるだろう。さきほどの米山は新聞にはこう紹介されている。「生涯を松山で過ごす。書とほとんど独学。王義之をはじめとする古典を中心に学んだ。無類の酒好きで知られ、筆をとる前には必ず飲むという豪放な性格の一方、50年近くも日記をつけ続ける繊細な一面も。…」。それで、日本書芸院の役員たちはこの米山のようにほとんど独学であるだろうか。きっとそんなことはないであろう。筆者もよく知っているが、会を作ってその役員になるような人は、大抵は学校の先生か、近所の一般人を教えるなりして収入を得ている。それが悪いと言うのではないが、米山はそんな生き方をしなかったであろう。生活苦に陥った晩年の上田秋成は、人に和歌でも教えて食いぶちを稼げばよいとある人から言われたが、それを断固拒否した。凡人を相手にしたくないということのほかに、和歌はそんなに軽いものではないという思いがあったからだ。ここが作家の価値を定める別れ際に思えるが、秋成のような純粋な人は結局自分を追い込むことになって、悲惨な状況で死ぬことになる。秋成と日本書芸院の役員を比べるわけではないが、作品は全人格的なものであるから、一方で適当に素人を教え、残った時間で創作して名を売り、さらに教え子を増やすといった器用なことをやる人は、結局作品はそれを忠実に表現しただけのものにしかなりようがない。そうではない生き方をし、なおかつ凄いと思える作品を生む人が一方にいれば、後世に光が当たるのは後者でしかあり得ない。
 禅僧と言えばどういうイメージを現在の人は抱くだろうか。今は仏教そのものが葬式専門になった感があって、僧侶に気迫があることが一般人はあまり信じられなくなっている。だが、鎌倉や室町の、中国から禅が入って来て禅林文化が栄えた頃はそうではなかった。何でも初期の頃は天才秀才が続出し、たちまちのうちにその分野を充実させる。後に続く者はそれを模倣するしかなく、やがて形骸化し、そしてほとんど無意味同然の小さな存在になる。これはどんなものでもそうで、禅の世界も免れない。だが、そんな長い長い停滞期であっても持続させることに意味もあるし、またそんな中でいつまた天才がぽつんと現わなれないとも限らない。つまり、「種」は保存し続けておくべきだ。時代が回り回ってまたその分野に大きく光が当たることがあるからだ。その意味で現在は仏教はもう不要と考える人が大勢いるとしても、やはり細々とであっても伝え続けていかねばならない。それは仏教が日本の文化のあらゆる隅々まで浸透して、今さら切り離せないほどのものになっているからだ。さて、今サッカーのワールド・カップがまた話題になっているが、日本のユニフォームは「サムライ・ブルー」と呼ぶらしい。日本の男のイメージが世界に格好よく伝わる場合、それは「サムライ」であるのは面白い。このサムライの精神は禅と密接なつながりがある。去年12月から今年1月にかけて奈良国立博物館で開催された『金沢文庫の名宝』では、北条一族の二代執権義時の子である実泰、その子実時から三代の子孫に引き継がれた典籍や文書が展覧された。実時は義時の嫡子である泰時の甥に当たるが、泰時の次の次に得宗を継いだ時頼、そして時宗の親子が鎌倉に開いた建長寺と円覚寺は、禅文学の源流の舞台となった。禅宗は栄西や道元が中国からもたらした臨済宗、曹洞宗に始まるが、日本初の禅宗の専門道場となった建長寺は中国から禅僧を招いて開山となった。今回の展覧会はそうした中国僧や日本から中国にわたって教えを受けて来た禅僧たちの書を集めたもので、鎌倉から室町の五山に登場する開山や名僧から、最後は五山から離脱した大徳寺を中心に活躍した一休までが並んだ。
 禅僧の名前やその師弟関係は専門的な感じが強く、よほど関心がなければ覚えられないが、まず五山から書いておくと、これは言うまでもないことだが、禅寺の格づけだ。南宋の官寺にならったもので、京都と鎌倉にある。それぞれ寺位順、そして開山名を書くと、前者は、南禅寺(無関普門)、天龍寺(夢窓疎石)、相国寺(夢窓疎石)、建仁寺(明庵栄西)、東福寺(円爾弁円)、万寿寺(十地覚空・東山湛照)で、後者は建長寺(蘭渓道隆)、円覚寺(無学祖元)、寿福寺(明庵栄西)、浄智寺(兀庵普寧)、浄妙寺(退耕行勇)となる。今回は展示室途中の休憩所に、中国の禅寺と日本のそれがずらりと写真と地図で示された。改めて中国での位置を見ると面白い。華中の長江河口近くに集まっていて、九州からは500キロほどだろうか。たとえば東福寺の開山である円爾(1202-1280)はそこを船に乗って3度も往復したから、僧の学ぶ思いの強さは命がけもいいところだ。現在の凡人とは桁外れに強靱な精神をしていたであろうが、そんな禅僧が書いたものを後の茶人が大切に保管し、今に伝わっている。だが、円爾の書を見ると、達筆という感じは全然ない。にもかかわらず妙に生々しい。圧倒的な人間味といったものが伝わる。それは書家が誰かに誇示するため、あるいは賞でも取ってやろう、びっくりさせてやろうと思って書くようなものではなく、日常的にたくさん書いていたものがたまたま残ったからとも言える。だが、これは正確ではない。そういう書もあるが、師が弟子にわざわざ書き与えたものや、あるいは死に臨んで最期の力を振り絞って書いたものもたくさんあり、最初から宝として伝わるべくして伝わって来た。それらが200点近く展示されたため、1、2時間の鑑賞では本当は全く見たことにはならない。書そのものも面白いが、それだけでは人集めは難しいと思ったのか、頂相もけっこうあって、それらもまた字を書いた人物がどのような顔をしていたのかがわかってとても参考になった。つまり、修行をした禅僧の風貌が似顔絵としてよくわかると同時に、その人の本物の書も見られるのであるから、その迫力は現代の書家のそれをはるかに凌駕しているのは言うまでもないだろう。上手下手を超えた、その僧にしかない個性がどの書にも溢れている。書は本当はそうあるべきだろう。茶人が尊んだのも、その僧の人格、人柄が書からうかがえたからだ。それは中国から来はしたが、日本独自のものとなった禅というものに、ワビ、サビを見る思いが生じてのことだ。
 会場にはまず中国の禅僧、圜悟克勤の「与虎丘紹降印可状」(国宝)があった。圜悟が1124年に弟子の虎丘紹降に与えた印可状だ。すべてはこの圜悟克勤に関係していて、会場はその後いくつかのセクションに分けられていた。まず「大慧宗杲の法脈」として「大慧派」、「破庵祖先の法脈」として「破庵派1」「同2」、次に「松源祟嶽の法脈」として「松源派1」「同2」、そして「曹源道生の法脈」として「曹源派」があった。みな似たような師弟つながりだ。まず大慧派は、圜悟の法嗣(はっす)(弟子のこと)大慧を派祖とする禅僧たちで、宋時代になって当時の官僚と交流し、政治経済的に力を得て最も早く隆盛した。大慧の法嗣である拙庵徳光、法孫の敬叟居簡の墨蹟が茶掛として珍重されている。元時代に活躍した楚石梵埼(本当は王へん)は画賛、画跋を通じて当時の文人と交流し、日本人僧も参じて送別の語や偈頌(仏教的、禅宗的な内容の韻文)を贈られている。この派では中厳円月が日本の五山文学の発展に寄与した。次の破庵派は圜悟の法嗣の虎丘の法孫である密庵咸傑の法嗣、破庵を派祖とする僧たちを言う。破庵の法嗣である無準師範が特に有名で、前述の東福寺の円爾は無準に参じて法嗣となった。円爾を継いだ日本人僧は多く、癡兀(ちごう)大恵、無関善門、白雲慧暁、虎関師錬などが知られる。癡兀(1229-1312)の遺偈が出品されていたが、これは1312年に84歳で示寂した時の四言の墨蹟だが、字画が乱れ、混沌としているのが何とも迫力があり過ぎる。死ぬ寸前に書をしたためるのも凄い話だが、禅僧は決まってそれをした。死ぬ間際に恥晒しをせず、むしろ弟子に伝えるべき悟りの言葉を伝えるのであるから、それだけでも凡人からは遠い境地にあったことがわかる。今はどうだか知らないが、鎌倉室町にはまだそうした脈々として継がれる師弟関係があった。時代が下がるにつれて少しずつそれは腐敗して行ったと言ってよいが、日本が古いものをずっと大切にして来たことによって、初期禅僧の人柄が書から伝わるのは何ともありがたい。その書風は今でもたとえば図録の図版を参考にまねすることは誰にでも出来るが、その生きたさまは全く不可能としか言いようがない。書の形は伝わってもその精神はまね出来ない。ここには書だけではなく、あらゆる創造表現に内在する根本的な事柄がある。こうした展覧会をどのように楽しむのも自由だが、「サムライ」の意味の中心に精神的なものを置きたいのであれば、自ずと鑑賞の方法も違って来る気がする。とはいえ、禅僧も時の権力者や民衆とつながって存在していたから、そこを拡大視すれば、たとえば書の諸団体にそれぞれボスがいて一般人も参画している現在の様子もまた正常なことと言わねばならない。
by uuuzen | 2006-06-02 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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