人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『殺人の追憶』
から韓国映画のDVDを数枚借りて半年ほど経つ。手元にあるといつでも好きな時に見られるという気持ちがあるため、なかなか時間を取る気になれない。積読と同じことだ。



●『殺人の追憶』_d0053294_1462318.jpgそれで先月27日の土曜日、珍しく外出しなかったので、ふとDVDのことを思い出し、思い切って1本見た。それがこの『殺人の追憶』だ。この作品はソン・ガンホ主演のために関心があった。ガンホに関しては『反則王』を以前TVの深夜放送で録画して見、圧倒的な存在感に感心した。全く美形ではないが、かえってこういう俳優が映画を貫祿のあるものにする。男前はTVドラマ向きなのだ。韓国では映画俳優の方がTVドラマに出るよりも格が高いとされる。それはどの国でも同じだろう。媒体としての歴史が違うことのほかに、お金のかけ方、多人数の人々が関わることからもより丁寧な作りがなされるからだ。もっとも、10数回シリーズのTVドラマよりはるかに安価で作られる映画もあるはずで、一概に映画の方が金がかかっているとは言えないが、それでもなぜか全般に映画の方が風格を感じる。それは映画は「ハレ」、TVは「ケ」といった了解が人々にあるからであろうが、これも時代が経てばわからない。TVドラマの名作が映画と同じようにDVDでごく普通に入手出来ると、人々は双方の差を思わず、よいものはよいとして認知するだろう。話が外れるが、ブログも今後どのように人々に定着して行くかわからない。好き勝手に書く内容を、以前なら、いや今でもだが、自費出版したい人がいるが、どうせほとんど売れない本であれば、ブログで充分という気がするし、今後はそう考える人が増えるのではないか。確かに手にして重みのある本は、まるで空にぼんやりと浮かんで実体のないようなネット世界と比べて圧倒的な価値を持つが、ブログの文章を後に本にすることは可能であるから、まずは内容先行で書き続けることが大事だ。いつ本になるかわからないことを思うより、もったいぶらずに毎日どんどん書き進むことだ。筆者はブログを続けてこの1年でざっと原稿用紙4500枚は書いた。これは分厚い本2冊に相当する。他人にはぴんと来なくても、自分ではその様子が見える。そしてひとりで面白がっている。話を戻して、つまりブログはTVの連続ドラマで、本は映画ではないだろうか。そしてこの『殺人の追憶』は重厚な本の味わいがあった。そこに韓国映画のしたたかさと成熟を見る。
 まず感想から言えば、予想していた内容とはかなり違った。上映時間は132分で、これはもう少し短くしてもよかったかもしれない。少し長く感じた。だが、逆に言えばそれだけたっぷりと大作としての醍醐味が味わえる。前半を見て思ったのはシドニー・ポワチエとロッド・スタイガーが共演した67年の名作『夜の大捜査線』だ。共通する点は、夏の殺人事件を扱っていること、地元刑事がとんちんかんな捜査をして犯人をでっち上げようとすることに主にあるが、下敷きにする、あるいは参考にしたことはあまり考えられない。なぜなら、こっちは韓国における実際にあった連続殺人事件を扱っているからで、似た点があるにしてもそれは偶然と言ってよい。にもかかわらずそう感じさせたのは、おそらく監督の心の中にこのアメリカ映画が少しは響いていたからであろう。また似ているところがあるとはいえ、似ていない点はもっと多いから、見終わった今振り返って考えると、むしろ差の方が強調され、完成度の高さとしては『夜の大捜査線』に軍配を上げたい。それは、映画として実に見事に「後味よく」完結しているからだ。その完結さがこの韓国映画にはない。それは事件が未解決であるからだ。見た後、悪夢を見るような嫌な感じが深く心に刻まれる。そういう新感覚の映画が作られるほどに、今がもう60年代からは遠いのだ。そのことを確認出来るだけでもこの映画を見る価値はある。見る者に映画と現実がそのままつながっている感じを突きつけつつ、スリラー映画としては別格の人間世界の暗闇の部分の濃い苦味をもたらす。そのことは本来ドキュメンタリー作品として成立すべき素材をほとんどそのまま事実に忠実に劇映画化しているために、絵空事ではないと思ってしまう観客の思い込みが生じるからだ。つまり、もしこの映画が実際の事件をテーマにせず、全部作り物であったとした場合、同じ評価はまず得なかったであろう。事実は小説より奇なりではないだろうが、実際に韓国中を震撼させた事件の映画化ということが、映画をすっかり特異なものにしたとは言える。その意味で、映画の出来がよければそれだけ忌まわしさが見る人の側に強く起こり、事件を忘れ難いものにさせる。これは昨夜書いた『私の頭の中の消しゴム』にも共通し、結局どうにもならないことでもとにかくその過程を描くという映画が韓国には近年目立っていることなのかもしれない。そうだとすれば、それは一種の諦念のようなものが国民に支配的になっている証拠と言えるかもしれない。時代の閉塞感のようなものが漂い始めているということだ。
 『夜の大捜査線』はアメリカ南部のおける黒人の人種差別問題を正面から扱った内容で、最後は和解が示されて観客は一応柔和な気分に浸れた。だが、この韓国映画では事件が迷宮入りしたのと同様に、鑑賞者は逃れらない悪夢を見続けさせられる気分になり、自分の身近にも同様のことが生ずるかもしれないことを少しは思う。日本でも最近はどんな映画でも及ばないほどの理解し難い殺人事件が次々と生じているが、そんな殺伐とした世の中で娯楽とは何か、そしてどんな効用があるのかとなれば、もはや人々はどんな楽しみでも癒されないほどの深刻な白け状態にあるように思える。TVで毎日垂れ流され続ける膨大な娯楽番組を人々はみな惰性で見ているに過ぎず、幸福感など到底感じてはいないのではないか。感じていたとしても、それは本当の幸福とはほど遠いものだ。にもかかわらず、TVは同じことをやめず、人々もあたかも現代の神のようにそれに毎日したがう。TVの娯楽番組に進化がないかとなれば、それはわからない。そのひとつの例がたとえばこの映画にもあるだろう。現実にあったことをそのまま娯楽作品に利用するという方策だ。それはある意味では不幸なことだ。このような映画が韓国で作られたことは、そういう事件が韓国にあったという記憶を保つためには役立つが、肝心の犯人がわからないではその意義があるかどうかは疑わしい。日本でもしこの事件が起こったとして、どんな映画監督が映画化して誰が演ずるだろう。それはほとんど実現不可能ではないだろうか。自粛の精神が働くか、あるいは映画化されてもたいして面白くないものに仕上がり、大ヒットは無理であろう。そう考えると、この映画は韓国における凶悪犯罪の捉えられ方や人々の気質など、多くの日本とは差のあることを示してくれるように思える。殺人事件の残虐さや、それを扱う映画が日本より進んでいると言いたいのではない。わけのわらない変な事件が同じように韓国でも日本でも多くなって来ているはずであるし、そんな現実の前で映画人が何をすべきか、また出来るかを、韓国ではまともにぶつかって表現していると思えるのだ。日本では同じ事件を扱ってももっと真面目なリアリズムの手法で表現するだろう。
 この映画でも当然リアルさはあるが、かなり滑稽さを誇張してもいて、スリラー一辺倒に徹してはいない。そのミックス風味が成功しているかどうか。それは俳優の演技にすべてを負っていて、たとえばソン・ガンホが演ずる田舎の刑事パク・トゥマンを見ればわかるように、違和感を全く感じさせないその演技によって、現実と演技の境界を全くわからないほどにしている。つまり、映画が現実とつながっているのと同じように、ガンホの演技もまた映画の中だけで充足しているものには見えないでいる。また、映画前半で示されるパク・トゥマンのそそっかしさはまるで『夜の大捜査線』でのロッド・スタイガー演ずる田舎警官のそれと同じものだ。だがフィクションならいざ知らず、韓国人なら誰しも知るこの連続強姦殺人事件の担当刑事らがその演技をどう思ったか、何だかそれが心配でならなかった。担当刑事はこの事件に関して本を書いており、日本語訳も出版されていて、ある程度は当人に予め打診して映画化したのであろう。また、この事件を扱うのはこの映画が最初ではなく、96年に舞台で上演されている。それは事件からちょうど10年後のことで、時効などがある程度成立していたからでもあるだろう。舞台の評判はどうであったか知らないが、映画は2003年4月に封切られて大評判を得た。有名な事件を扱っているという理由だけではなかったはずで、俄然ソン・ガンホの演技が光っていて、娯楽作品としても秀逸な仕上がりを見せていたからだ。この事件は当時日本でもNHKニュースで何度か伝えられたので筆者もよく記憶しているが、映画を見て改めて珍しい事件であることを知った。田舎の村で半径2キロ以内で4年半にわたって10件の強姦殺人が生じた。陰部にいろんなものを詰め込んだりしているので、犯人は性的変質者のはずだが、陰毛1本も現場に残していないという周到さがあって、証拠も目撃情報もなく、捜査は困難をきわめた。人の多い都会なら犯人探しも大変だと思うが、映画によく描写されていたように、本当に田畑とセメント工場しかないど田舎といった感じの辺鄙なところで、人口は少なく容疑者も数が知れているはずなのに、1800人もの容疑者や参考人、証人の事情聴取をした。これでは何か裏があったのではないかと勘繰りたくなる。映画でも何度も示されていたことだが、当時の韓国は、チョン・ドゥファン政権に対して民主化運動が頻発し、機動隊のたび重なる出動があり、やがてノ・テウ政権に変わる騒乱期であった。そんな社会不安を背景にした事件であっただけに、犯人は人々の予想とは大きく違うもの、たとえば警察が介入し切れないところにいる人間であった可能性もある。映画では強姦されながらも生き残った女性の証言から、犯人の顔はわからないが手が柔らかかったということが判明し、地元のセメント工場で働く若い事務職員が疑われる。その登場は映画の後半過ぎで、作品の仕上がりとしてはやや問題があるように感じたが、最初からこの若い男を登場させていたならば、あたかも真犯人であることを匂わせ、実際その取り調べられた男に相当する実在の人物の人権問題が絡んで不可能であったろう。
 この映画が実際をどれほど再現しているかはわからない。かなりの部分はより面白くするための脚色と考えた方がよい。稲の稔りが広大に続く景色など、中国の時代劇に共通するような殺風景な鄙びた味わいは効果的で、事件の時期や現場を正しくなぞっているのだろう。洒落た世界を売りとする韓国映画では見られない風景であっただけに面白い。そうしたことも含めて韓国の人々は事件がどういうものであったかはわかっていて、映画ではもっぱらその脚色の部分を楽しんだはずだが、日本では事件そのものを詳しく知る点も面白く見られるから、全体的に目が離せない緊張の連続で、この映画を一級品とみなすことにやぶさかではない人がほとんどであろう。アクション・シーンは韓国映画にはつきものと言ってよく、この映画ではそれはたとえば警察の取り調べにおける禁止されていた拷問にそれが見られる。そしてそれは当時の新聞記者たちがすっぱ抜こうとする警察の隠し事でもあり、いかに権力が人権を無視していたかをよく描いている。にもかかわらずこの警察史上例のない大事件に犯人がでっち上げられて冤罪が生じなかったことは、映画は言外にそれを示していると思えるが、韓国としてはひとつの誇りでもあるのではないだろうか。恥部は恥部としてはっきり示すという態度だ。その点、日本であればどうか。警察の恥とばかりに適当に犯人が作られる可能性があることを知っておくべきだろう。パク・トゥマンの相棒役の田舎刑事はキム・ルェハが演じた。この俳優は以前『甘い人生』で見た。すぐにわかる悪役顔で、脇役として今後も欠かせない存在になるだろう。美術大学で陶芸を学んだというから人は顔ではわからない。しかし、昨夜書いたキム・ブソンという中年の汚れ役の女優は、何度も覚醒剤や大麻で逮捕されていて、そんな経歴があってもなお映画に起用されるおおらかさが韓国にはあるらしい。罪は償えばそれでまたまっさらに戻るという考えはまともであるし、そんなおおらかさはどの国でも持ち合わすべきだろう。美女と男前が出る恋愛ものもいいが、こうした実際の事件を名作にしてしまう韓国人のしたたかさのようなものが垣間見える作品ももっと紹介されてよい。
by uuuzen | 2006-06-01 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
●『私の頭の中の消しゴム』 >> << ●『書の国宝 墨蹟展』

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?