祇園会館で先週の金曜日に見た。ここはいつも2本立てで、もう1本は韓国映画だ。これが目的で見に行った。ここ1、2年、祇園会館では3、4か月毎に韓国映画が2本立てで上映されるが、今回は違った。
また、上映予定が発表されている8月まで韓国映画の上映はない。あまりいいフィルムがないからだろうか。今京都では『力道山』が封切られている。これもぜひ見たいが、祇園会館に来ないだろうか。半年ほど見るのは遅れても、2本立てで安く見られる方がよい。それにこの映画館は昔ながらの2階部分や袖部分にも座席があって、スクリーンが大きいのがよい。それはもう京都では珍しく、ぜひ今後も長く営業を続けてほしい。さて、今夜は展覧会『書の国宝 墨蹟展』について書くつもりで、さきほどチラシを小1時間ほど探したが出て来なかった。これと同じことは何度も書いているが、われながら呆れる。確かにあったはずと思っているものが見つからないのは気味が悪い。単なる物忘れではなく、痴呆症が始まったのかと一瞬疑ってしまう。この1か月、何度も家の中のそのチラシは見かけたはずだが、記憶違いであったのかと何だかそっちの方が恐い。チラシはてっきり持っていると思ったので、一昨日の美術館ではもらって来なかった。今後はだぶってもいいので、見かけるたびにもらって来ることにしよう。どうせ会期が終わってもあちこち大量に残って処分されるから、筆者が2、3枚確保してもかまわないだろう。そうそう、バルラハ展のチラシは豪華であったが、それを10枚セットでネット・オークションに出品しているのがいた。ただでまとめてせしめて来たもので金を稼ごうとするだから恐れ入る。で、『書の国宝 墨蹟展』については気分を取り直して日を改めるとして、今日はアメリカ映画だ。この映画に関しては前知識は全然なかった。韓国映画が先に上映されるのであれば見ないで帰ってもよかったが、こっちが先であったから、いわば仕方なしに見た。最終上映の部で、空席がかなり目立った。中年以降の人がほとんどで、目当ては韓国映画の方であったろう。それはこの映画の途中で立って帰って行った人がよく目についたからだ。それだけ退屈であったのだろうが、内容は確かに暗く、中年以降の人には身につまされるところがある。アメリカ映画で同様の地味な内容のものを見たのは、2年ほど前の『アバウト・シュミット』だ。これも祇園会館で見た。中年以降の人を中心に家族の葛藤をテーマにした映画がアメリカでそこそこ作られていることは、それだけそのような社会的問題を抱えているからだが、いかにもハリウッドといった、漫画を実写したような娯楽一辺倒の映画よりもこうしたじっくりと見せるものの方を筆者は好む。だが、どれもが記憶に強く残ることはない。去年だったか、ニコール・キッドマンが出て来る映画で、車が冷たい湖に落ちて死んでしまう内容のものがあったが、きれいさっぱり内容を忘れた。
どういう俳優が出るかもわからなかったが、すぐにアンソニー・ホプキンズが定年退職した大学教授のロバート役で出て来たので、俄然見る気が湧いた。それ以外は顔はどこかで見たなという程度で、演技もまずまずに思えた。ロバートにはふたりの娘があって、うえの娘クレアがどこかで見たなと思ってさきほどネットで調べると、『アバウト・シュミット』で主役ジャック・ニコルソンの娘役として登場していた。ホープ・デイヴィスという名前だ。妹の方のキャサリンが一応主役で、グヴィネス・バルトローという覚えにくい名前の女優が演じている。顔はジョニ・ミッチェルに似た個性派だ。実はこの映画は、監督ジョン・マッデンが最初戯曲として上演した。タイトルは『プルーフ』で、ロンドンでも好評だったという。それを同じくグヴィネスを起用して映画化した。内容は地味で、場面も全体にわたって室内が中心であったが、きっと生の舞台の方が面白いだろうと想像する。この、内容がいかにも舞台向きであることは、甘いも辛いも知り尽くした大人向きということだ。だが、ビターな味が支配する中に一抹の前向きの光で見えるという内容は、舞台では効果があっても、映画ではより鬱陶しい作品に傾く。映画もそのものずばりの『プルーフ』というタイトルの方がいいと思うが、舞台作品と区別するために『オブ・マイ・ライフ』を足したのだろう。訳せば「わが人生の証明」と何だか素っ気ないが、「プルーフ」は二重の意味が込められているところがミソで、そこに見所がある。
ロバートは優秀な教授であった。だが、輝かしい研究実績は過去のことで、シカゴの大学を去って自宅にこもってからは日々研究に勤しんだものの、残した100冊以上のノートはみな過去の栄光とはほど遠い、痴呆症が生んだどうでもいい妄想であった。死後1週間して、同じ大学のある男子学生ハルが家に来てノートを丹念に調べ始める。それはロバートがかつて1年だけ記憶が正常に戻ったことがあり、その間に書いたノートには何か目ざましい研究の成果があるのではないかと推測してのことだ。ロバートはキャサリンの世話になって晩年の10年ほどを生きたが、それは施設に入れられることを拒否した代わりに、娘の犠牲を強いるものとなった。キャサリンは世話のために大学を中退せざる得ず、同じように家に引きこもるような生活をして来たのだ。映画は教授が死んでハルが部屋で毎日調べものをしているところから始まる。だが、過去の場面と現在が交互に現われるため、最初のうちはロバートはてっきり生きているように思えるし、その思いは後まで続く。この画面編集はサスペンス効果を上げているが、監督ではなく別の人が手がけている。この点は舞台がどうなのか気になるところだ。アンソニー・ホプキンスは頭がまだ正常な時代のロバートをいかにも貫祿充分に演ずるが、痴呆になってからは髭を蓄えた姿で演じ、しかも全く別人であるかのように思わせるところはさすがで、あまりのうまさにかえって白ける感じがしたほどだ。姉クレアはニューヨークに住んでいて、働いてせっせとシカゴに住む父と妹の家のローンを支払っていたが、父が死んだことでシカゴにやって来た。そして家を売り払い、キャサリンを一緒にニューヨークで住むことを提案する。クレアは大学まで出してもらい、親の面倒も見ずにニューヨークで生きて来たが、キャサリンとは確執があって、姉妹はお互いあまり信用していない。キャサリンはニューヨークに移住すると、きっと姉によって精神疾患の施設に入れられてしまうと思っている。なぜなら、姉は父をそのような施設に入れようとしたことがあったからだ。ここで、ロバートとキャサリンが似ていることが暗示される。実際そのとおりで、ロバートは幼い頃のキャサリンが素数についてただに理解したことを知って、数学を教え込んだのだ。だが、キャサリンは本で孤独に独学するしかなく、すでに痴呆になった父親がその才能を理解することもない。10数年もの間、父の面倒をどうにか看て来たキャサリンは恋愛もままならない状態にあったが、父親から開放された途端、虚脱状態に陥り、どう毎日を過ごしていいかもわからない。そういう妹を案じてクレアが一緒に住もうと言って来たのだった。
この設定は現実的だ。同じような家庭は日本にもごまんとあるだろう。もっとひどい状態もあって、そうした人々の中から自殺者や殺人事件が続出していることは誰しも知る。だが、若い人はまだそういうことには無関心で、自分はそういう実態からは遠いと思っている。キャサリンはまだ30少しだろうか、とにかくこれからの人生だ。そんな若い人でも親の面倒を看るために思いどおりの人生を歩めないことがあるという現実を思っておくのは無駄ではない。また、ロバートの栄光は遠い過去のことで、大学を去って痴呆になってからは(あるいは痴呆の症状が出始めたから大学を去ったのかもしれない)、誰も訪ねて来ることもない孤独な人生であった。これは、映画の中でも言っていたが、数学の才能は20代の若い時が絶頂で、後は閃きが訪れず、能力が衰えて行く一方という残酷な事情の反映だ。それでもロバートは、死んですぐにハルがやって来て、その後研究成果があったはずだと思うほどに、凡百の才能ではなかった。そんなロバートの才能が実はキャサリンにそのまま遺伝していたという設定が、この映画の最もドラマティックな点だ。もしそれがなければ戯曲にも映画にもならなかった。そこが非現実的で、現実の凡庸な人々の生活を代弁してるとは言い難い。実際はもっと悲惨で夢もないからだ。そのような人生はごくたまにドキュメンタリー作品になり、一方特別の才能のある人の悲惨はこうした映画となって万人に知られる。やはり人生には差があるということだ。キャサリンは父が痴呆になってからも時に研究せよとの厳しい叱責を受けて素数の研究をしていたが、そのノートが父と同じものを使用していたうえ、全く意味のない膨大な父のノートを読ませられるうちにその筆跡を覚えてしまい、父とそっくりな文字を書くようになっていた。キャサリンはある日ついに素数の研究でまだ前人未踏の証明をなし遂げたが、ノートが父のものに紛れ込んでしまい、それをハルが発見した時も、半ば自分が書いたものではないと思えるほどに神経が衰弱していた。またハルはまさかキャサリンが書いたものとは思わない。ふたりは多少恋愛感情が芽生えていたが、キャサリンが父ではなく自分がノートを書いたと発言するあたりから、ふたりの関係はおかしくなる。凡庸な才能のハルにはまさか大学を出ていないキャサリンの研究だとは信じられないのだ。その疑いに直面してキャサリンはハルとの恋愛を断念してクレアとニューヨーク移住を決める。映画の最後近くになって、ようやくハルは数学仲間と検討した結果、研究には近年の成果が使用されていて、それはロバートではあり得ないことに気づく。そして飛行場に向かうキャサリンの車の中にノートを放り投げるが、結局キャサリンは思い直して空港からハルのもとに戻ってハッピーエンドとなる。「プルーフ」は数学の「証明」ということと、キャサリンの新たな人生の「証明」を兼ねている。
キャサリンはごく普通の女性としてハルと結婚して幸福な人生を歩むことになるかどうかだが、きっとひとまずはそうだろう。それからのことはまたそれからに任せるしかない。そんな長期にわたっての人生の保証を描くほど今のハリウッドには夢は溢れていないから、映画の結末に苦みが混じっているのも現実感を強調させる意味からであろう。実際、現実問題として、キャサリンは素数の研究によって数学界で有名になり、恐らくは大学に迎えられるだろうが、そうなればなったで、今度はハルとの仲がうまく行くのかどうか。それに、映画が示していたように、数学の才能は若い一時期だけが優れているとすれば、すでにキャサリンの才能は燃え尽きたかもしれない。そうなっていたとすれば、痴呆症になるとは限らないとしても、父と同じような悲惨な後年が待っている可能性がある。とにかく手放しのハッピーエンドは感じられない。キャサリンがハルと結婚したことが「人生のプルーフ」であるとすれば、その結末はあまりに平凡で、これでは女性はみな結婚しさえすればすべて問題は解決すると言いたいようなものだ。この映画制作のバックにキリスト教の右翼団体がいるのではないかとも思わせられるほどだ。だが、大学で栄光を得たような人であっても晩年はどう転ぶかわからず、家庭に恵まれずに孤独のうちにひっそりと亡くなってしまうという点はリアルでよい。筆者も同じような人をよく見るからだ。それにしても人生をある程度謳歌したロバートはまだしも、キャサリンのような若い女性が世間とは絶縁した状態で孤独に生きるという姿は痛ましい。だが、キャサリンはまだ遺伝による天賦の才能を持っていたから特別な人生も歩めるが、頑張ってもどうしようもないようなごく普通の女性ならどうすればよいか。筆者はよく若い女性がひとりでアパートなどに住むのを見て安月給で頑張っているとな思う。それなりに流行の衣装も身につけたいし、化粧品や髪の手入れなどの費用も馬鹿にならず、しかもたまには人並みに旅行もしたいであろう。そんな状態でたとえば教養を身につけたいと思っても時間的にも経済的にも限りがあり過ぎて、慎ましやかな生活にならざるを得ない。そんなごく普通の女性にも普通の幸福があるべきだが、今の日本がそれを証明する社会になっているかどうか。それはきっとアメリカでも同じことだろう。天才であっても人間的であることを強いられるのは当然としても、この映画は結局インテリが喜んで見る映画で、感動は乏しい。数学の証明が何かに役立つということを映画では示唆していたが、そこには微妙に実利主義が見え隠れして鼻白んだ。まだ芸術家をテーマにした映画の方が面白いと思う。途中で出て行ったおじさんおばさんたちはただ退屈さだけを証明されたはずだ。誰しも晩年の悲惨さを思いたくないし、それに才能も金もないではもっとそうだ。アハハと笑える娯楽の出番もそこにある。