さきほどTVで洋画家のYが今年の芸術何とか賞をもらったが、作品がイタリアのある画家のものとそっくりで、騒動が持ち上がっていることを報じていた。
インターフォンを通してYの弁明が聞こえていたが、作画のあらゆる点に差があり、絵の専門家が見れば模倣ではないことが明白だとし、模倣云々を言えばピカソでも同じだと捲くし立てていた。ピカソがヴェラスケスやマネの名画をあえて引用してたくさんのヴァリエーションを描いたことは有名だが、それらはピカソの紛れもない個性や作画方法が見られるところの大先輩へのオマージュであって、誰も模倣とは思わない。だが、Yの絵は絵の専門家は当然のことながら、数歳の子どもでもコピーとわかるシロモノだ。絵の専門家ではない者が勝手なことを言うなとの論法のようだが、ピカソと自分の剽窃行為を同列に置く噴飯発言は、Yが絵の専門家ではないことを確実に示している。このような質の低い画家が芸術何とか賞をもらうほど同賞は屁みたいなもので、これでまた日本は世界中の物笑いのタネになる。それにしても賞を与える前に模倣疑惑の通報があったのに、なぜ与えたのだろう。どうせ裏で金が絡んでいるはずだが、日本のあらゆる部分が腐敗の極致にあることをよく示す事件に思える。昨今の日本の芸術家のイメージは「胡散臭い」に尽きるが、それは芸術家の立場で見れば、芸術家も生きて行く必要があって、それなりに自分で経済問題をどうにかせねばならない状態に置かれているからだ。前にも書いたが、たとえば画家が絵を続けるためには、学校の先生になって定収を確保するか、あるいは売れっ子になるしかない。後者の場合は大衆の好みに合わせた内容のものが求められる。そのような通俗的な存在ほど生前に人気も高収入も得やすいが、さきほど「胡散臭い」のイメージは大抵この後者にまとわりつく。通俗的なることを拒否し、周りからどう無視されようとも自分の芸術を続けるという道も当然あって、そういう作家もたくさんいるだろうが、大きな資産家でもない限り、ある程度は作品を換金する必要がある。芸術家でも霞ばかり食ってはいられないというこの現実は、あまりにも形而下的ではあっても、芸術にとって悲劇や喜劇の源となって、ある面では芸術を面白くかき回す原動力と言える。昔のように財閥系の大パトロンが期待出来ない現在にあっては、芸術家もまた非常に小粒にならざるを得ず、そんな中で前述のYが大きな賞をもらうといった、首をひねりたくなる事件も起こるわけだ。それは生きて行くのが世知辛くなっていることを示すだろう。気の弱い芸術家は、人知れずこっそりと少数の作品を作って、死後にそれがみな大型ゴミとして回収され、最初から存在しなかった人物という顛末を迎えるのが落ちで、結局のところ有名になって金もふんだんに入って来るのは、顔の面がよほど厚い「胡散臭い」人物だけとなっている案配だ。
さて、ゴールデン・ウィークの中日の4日に大阪に出て展覧会を3つ見た。正確には4つだが、そのうちブログに書いたのは堺市でのミュシャ展のみで、残りを今夜から順に書く。このカテゴリーは展覧会の寸評を「すぐに」(SOON)掲載するのが目的であるから、いくら遅れても1か月以内と決めている。4日は堺市で見た後、また天王寺に戻って大阪市立美術館に行った。そこで『書の国宝 墨蹟展』を見たが、1階の会場を出た後、2階にも別の特集展示があることを知った。ところが4時半を過ぎていたため、ほとんどざっと流して見るだけに終わった。それが今夜取り上げるものだが、充実した展示内容であったため、もう一度見る必要を感じ、そして昨日3週間ぶりにまた訪れるた。『書の国宝 墨蹟展』の方も消化不良を感じていて、そのためもあってブログには書くのを長くためらっていた。同じ展覧会を2度見ることはよほどのことだが、同展は会期途中で展示替えがあって、4日と昨日とでは出品作品は全部違っていた。昨日改めて出品目録を見てわかったが、全作品を見ようと思えば3回訪れる必要があった。そのため、昨日の再訪はあながち無駄ではなかった。『幻の芝川照吉コレクション』は去年12月に東京の松濤美術館が開催したが、今回はそれに未公開作品を加えて100件程度が展示された。チラシが作成されていなかったので、『書の国宝 墨蹟展』を見た人でなければ知ることはほとんどなかった。それに同展を見た後では体力がなくなってしまい、なおさら2階に上がってこの展示を見た人は少ないはずだ。筆者が見た2回とも会場はとてもひっそりとしていた。実にもったいない話で、なぜチラシを印刷して京都あたりにも撒かなかったのだろう。その経費すらなかったというのでは、あまりにも大阪市の文化行政はおそまつと言わねばならない。会期は『書の国宝 墨蹟展』とぴたり同じだが、どういうわけか一旦終わった後、2週間ほどして6月13日から25日までの間も展示される。これは展示替えではなく、単に会場のつごうのようだ。松濤美術館が開催した時の図録が2000円で売店で売られていた。買おうと思ったが、じっくり見たのでもういいかと思い直した。松濤美術館はよく面白い展覧会を開催する。今回のように京阪神に巡回する協定を結んでほしいものだ。
芝川照吉(1871-1923)の名前はあまり知られないだろう。大阪生まれであるところが今回の大阪への巡回展となったようだ。一言すれば絵画コレクターだが、古美術ではなく、同時代の現存画家を援助する形で作品を収集した。つまりパトロンだ。それは金がふんだんにあったからと冷やかに見る向きもあるだろうが、案外そうでもなく、金よりもむしろ情熱が勝っていた。パトロンは芸術家の陰に隠れてあまり表に出て来ない。そのことが、今回のようなパトロンの役割に光を当てた展覧会が開催されにくい事情だ。理想的パトロンは芸術家に口を出さず、金だけ出す存在と昔聞いたことがあるが、それはそうだろう。金は出すが、口もどんどん出すでは、芸術家はたまったものではない。芝川はもちろん口は出さなかった。そのため周りにはたくさんの画家や工芸家が集まった。有名画家を列挙すると、青木繁、浅井忠、石井柏亭、黒田清輝、岡田三郎助、小川千甕、鹿子木孟郎、岸田劉生、木村荘八、坂本繁二郎、津田青楓といった具合で、経済力もそうだが、とにかく眼力が確かであった。最初の部屋に自筆の「芝川照吉ノート」が展示されていた。購入した作品の覚え書きで、それによると1000点を集め、半数以上が油彩、水彩画であったことがわかる。日本画(洋画家が描いたもの)が150から60、工芸は300、作家数は100人を越える。多くは画会や展覧会で購入したものだ。ヨーロッパ留学の渡航滞在費や画会の後援、展覧会の運営資金や賞金の支援もした。だが、照吉没後2か月の関東大震災によってコレクションの多くが失われた。罹災から免れた青木、岸田などの作品は1925、36年の2度の売り立てで手を離れ、現在行方がわかるのは1000点のうちの200もないとされる。この世から消えた作品は仕方ないとして、所有者が変わるだけで作品が健在であるのは幸福なことだ。この点を思うと、コレクターはいつの世もいるが、芸術家はそうではないことになって、コレクターのことなどどうでもよいと思う向きもあるだろう。だが、芝川はたくさんの画家によってその肖像画が描かれていることからもわかるように、支援した作家たちとは精神的に結ばれていて、芝川がいたことによってどうにか極貧状態からはひとまず脱出出来た者も多った。その意味において作品のひとつの生みの親的なところがある。
会場には説明パネルが数枚あった。メモして来たものを以下にまとめる。照吉の実弟は浄瑠璃研究家の木谷蓬吟で、その妻は日本画家の木谷千種だ。このふたりに関しては2月に難波高島屋で見た『島成園と浪華の女性画家展』に少し書いた。意外なところで結びつきがあるのが面白い。実父は木谷伝次郎で、浄瑠璃の五世竹本弥太夫を襲名し、文楽座で活躍した。照吉は24歳で芝川商店に入った。同商店は天保年間(1800年頃)に大阪の伏見で開業した唐物商で、明治半ばまではイギリスなどの外国商館と取引をし、1903年頃から毛織物の海外との直接貿易の体制を整えて事業の近代的変革を行なった。画家への支援は1906年頃、眼疾患の療養で大阪に滞在していた石井柏亭が芝川の子どもたちに絵の教えていたことがきっかけにある。1910年(明治43)、照吉は監査役として東京支店に勤務するため東京に移住した。芝川商店は1917年の時点でロンドン、ニューヨーク、ハンブルク、上海、漢口などに支店を開設し、全国有数の規模を誇った。経営の実権は持っていなかった照吉は1919年、48歳で会社を辞め、東京中の展覧会や古美術商を見て回り、美術家たちと会食し、援助を楽しんだ。芝川商店は日本の資本主義経済の興隆に合わせて急速に規模を拡大したが、この点は重要で、結局1920年の株の大暴落で照吉は東京神田駿河台の邸宅を出ることになった。だが、そんな状況でも芸術家の支援を続けたところが筋金入りのパトロンを証明する。劉生などの望みも虚しく1923年に肺病で死んだ。照吉が仕事よりも芸術家との交流の生活を選んだことは、父や弟と気質が共通していたためであろう。血は争えないというところだ。石井柏亭(1882-1958)はなかなか味のある絵を描く。浅井忠の門下生で、それを思わせるアール・ヌーヴォー風の「林檎」と題する水彩が出ていた。また初期の小川芋銭によく似た「梅に鳩」、あるいは呉春に連なる四条派を学んだ跡がわかる「青梅」といった掛軸作品は、渡欧以降の作がどうかわからないが、洋画家が日本画的な作風をものにする様子がよく伝わった。柏亭がヨーロッパに渡航して照吉に送った写真はがきもあった。なかなか興味深い文面で、最先端の美術を同地で見てどういう感慨を抱き、そして帰国後に何を成すべきかと思ったことが想像される。柏亭は坂本繁二郎や森田恒友(1881-1933)らとともに美術雑誌「方寸」を創刊したことでも知られる。これは与謝野鉄幹、晶子の「明星」から大きな影響を受けたものだ。照吉は柏亭を通じてまず「方寸」に関係する画家たちを支援し、次第に範囲を広げた。1913年頃からはフュウザン会、草土社の作家に関心を示し、劉生と荘八のふたりに特に目をかけた。今回、劉生の描く「照吉像」が3点出ていた。これだけでもいかに劉生との関係が深かったかわかる。
明治末から大正初期にかけて青木繁の18点を集めた。これが最も早い時期の収集だ。例外的に画家没後の収集で、これは坂本らの依頼から買ったもので、代表作を網羅していた。今回は「女の顔」とパステル画「盆踊り」が出品された。その次に坂本の絵は3点並んでいて、どれもよかった。坂本はなかなか売れなかったので、照吉の購入は本当の助けとなった。売れない才能をじっと黙って援助し続けるパトロンが今はどれほどいるのだろう。劉生の絵は40点所有していた。これは生糸貿易で富を蓄えた横浜の原三溪と1、2を争った。照吉の肖像画以外には油彩の風景画や肖像画、それに「菊花童女」という木版画などが来ていた。同版画は錆びた赤の色がとても強烈でよかった。また1919年の「岸田劉生個人展覧会」の際に京都岡崎公園図書館前で撮影した集団写真があった。今は府立図書館になっているその建物は、外観は現在も全く同じで、劉生や照吉が立った場所を明確に特定出来る。筆者がよく訪れる場所だけに何だか生々しかった。照吉の内容豊富な蔵書や画家たちの手製絵はがきや団扇、木彫り人形、さらには交流のあった漱石の手紙など、また日常使用していた工芸家の作品もあって、じっくり見れば半日を要するだろう。面白い作品がたくさんあったのでもっと紹介したいが、最後に簡単に工芸を。藤井達吉、富本憲吉、河合卯之助、バーナード・リーチなどの作品があったが、見所は初期の代表作を網羅する藤井達吉(1881-1964)だ。ローケツ染の壁掛や七宝の小皿、キモノや帯、電気スタンド、盆や文箱など、あらゆるものを制作したことがよくわかる。筆者が所有する別の図録では、「絵画、彫刻、七宝、刺繍、染色、陶器、漆器、和紙工芸等幅広い素材を用いた制作を行った。理論家としてもすぐれ…」と紹介されている。今回は2階の展示室を3つ使用してのものであったが、その最後の部屋は藤井の作品で占められていた。だが、作品は全体に色が褪せ、劣化も見えて、モダンさもほとんど艶消しになっていた。陶磁器はひとまず別として、それは日常に使用されるものが辿る運命だ。関西では藤井の作品を見る機会はほとんどないが、多才な人物であったことは確かでも、ひとつのことに突出していない中途半端もまた感じた。それにしても100年前はパトロンも芸術家も大きかった。今の日本はさらに経済大国になっているのに、芸術家は小手先が器用になっただけで、しかも胡散臭そうな者ばかりが目立つ。パトロンはさらに駄目で、昨今のマスコミを騒がせている株で大儲けを考えたりするよう連中は、きっと現存の画家に興味を抱くような粋さは持ち合わせていないし、あったとしてもすでに有名な作家を対象にしてさらに金儲けか売名を考えるだろう。アホらし。