朝早く起きて仕事の用事を済ませた後、京阪電車の新しくなった淀駅から大阪に出て展覧会を見た。その後、まっすぐに八尾の母の家に行った。
先月から急に母が京都に引っ越す話が持ち上がった。筆者の家は狭いので、うえの妹が自分の近くに古家を1件買った。そこに住むことになる。母はまだ体も丈夫で記憶もしっかりとしているが、子ども3人がみんな京都に住むので、そろそろ京都に来てはどうかと、かなり以前から妹はしばし口にしていた。引っ越しは6月下旬だ。そのための準備が進んでいる。筆者も来月はしばらくばたばたするだろう。引っ越しても家は売らずにそのまま置いておくが、風を通す必要もあるので1か月に一度くらいは筆者らが訪れてたまには泊まるようにと今日は言われた。だが、あまりその気はない。大阪や奈良によく出るので、ついでに八尾に足を延ばすのはかまわないが、京都まで2時間もあれば帰れるので泊まる気にはなれない。家を処分すると荷物をどうするかが大変で、ある程度置いてある筆者の本などをわが家に持って来ることは、現状ではとても無理だ。逆にわが家の本を八尾に置くか、今度母が住む家に分散させてもらおうかと思っているほどで、昨夜も書いたように真剣にガラクタ類をどうにかする必要がある。八尾では母ひとりが住んでいても、衣服を初め、あまりにもモノが多く、まずは捨てることから整理をしなければならない。長く勤めていた母は服はまだまだ新しいものが大量にあったりするが、10年も経てば流行遅れで捨てるしかないという話だ。それもそうかと思う。今日はせっかく訪れたのに3、4時間話をしただけで、荷物の片づけにはならなかった。まだ日があるのでぼちぼちやる考えのようだ。それに全部いっぺんに運ばなくても、毎月1回程度は母は様子を見に帰るというから、その時にまた持って行けばよい。取りあえず手には持てない大きなものだけをトラックで運ぶことになる。母は家具や電化製品などみな新しく買い換えるつもりで、大きなものはひとまずはベッドだけとのことだ。母は昭和4年(1929)生まれで、今年77歳になった。古い記憶がかえってよく思い出されるそうで、今日も今までに聞いたことのない話を耳にした。最近母はそういう珍しい話をよくする。昔から母の話はよく聞かされたから、もう全部知っているつもりでいたが、どうもそうではないらしい。いや、これは本当にそうだろう。自分のことを考えればよい。筆者も息子には自分の幼い頃のことなどあまり話をしていないし、今の調子ならば、息子は筆者のことをたいして何も知らないままとなるだろう。
今思ったが、そんな時のために案外このブログは役立つかもしれない。もっとも、これは息子が筆者のことを知りたいと思うかどうかにかかっている。今はとても親父のことにかかずり合っている暇はないというのが実情であろうし、就職してやがて家庭を持ち、自分の忙しい人生を歩み始めると、さらに父親のことなどに関心は向かない。そのため、このブログも息子は1行も興味を持たず、読まないままとなる可能性が大きい。それに筆者も息子に読ませたいとは全然思っていない。どの家庭でもそうかどうかは知らないが、筆者は現在は息子とはほとんど会話がない。自分の人生は自分でどうにかしろと小さい頃から言って来たが、その割にはぼんやりした息子で、息子に妙な期待を抱くことはなく、親馬鹿ぶりを発揮したことはない。人が充分に育つには遺伝的要素とよい環境が必要だが、結局なるようにしかならないというのが筆者の考えだ。高校生あたりを過ぎればもう放任主義でよいと思っているし、そうして来た。世間では親が働く自分の背中を子どもに見せればそれで子どもは曲がらずに育つと言うが、筆者の場合は1日中家にいて、しかもほとんど仕事をしている様子を息子は見たことがないので、筆者のことを遊び人と思っているだろう。実際それは半分ほどは正しいが、それでも人に借金することなど一切なく、また持ち家が親の代からあったり、資産と呼べるものがあるわけでもなく、全部自分で今までどうにかやって来た。それはある意味ではそれなりにしっかりとやって来たと言えると思うが、今の息子には親のそうした人生はまだわからないだろう。親に何もかも世話になっている状態であるし、アルバイトで稼ぐ大金を全部パチンコに使っても平気なほどの、いわば全くの苦労知らずだ。それが自分で働くようになってどうなるかだが、人生は甘くないとせいぜい頭を打てばよいと思う。筆者が世間というものをそれなりに教えてやるつもりで意見しても、親の言うことはまず疑ってかかり、同じことを他人から聞くと初めてそれが正しいと思ったりする。そのため、今では何も言わない。だが、親の諭すことをそのまま全部信じて、いわゆる真面目に青年らしく進む理想的な子どもであっても、人生いろいろで、そういう子が中年になってどういう変化があるかはわからない。つまり、なるようにしかならないわけで、親が口うるさく言うのはよくない。とはいえ、筆者は友人たちからはあまりにも息子に小言を言い過ぎるとよく言われる。そんなつもりはないのだが、自分では自分のことがわからないようだ。とにかく息子も就職せねばならない年齢になっているから、今さら忠告などしても遅い。これは冷淡というのではない。男は親がいなくてもひとりで生きていけるほどの存在でなければという気持ちからだ。筆者も物心がついた時には父親がいなかった。だからというわけではないが、息子と父親は仲よくべたべたすることもないと思っている。ただし、息子が幼い頃は本当によく一緒に遊び、どこにでも連れて行った。それも中学1、2年生頃までだったろうか。それで充分だったと思う。
母が昔のことをよく思い出すことと同様、筆者も懐かしいからというのではないが、自分のルーツのようなことをいろいろ考え、また思い出す。そんな時、筆者が生まれ育った横丁の風景がまず目に浮かぶ。成人するまでの古いアルバムは母の家に置いてあって、今日はその最初の1冊を取り出して見た。母もそれがどこにあるのかわからなかったらしいが、筆者は自分のものがどこにあるかは一応知っている。そのアルバムの最初の面には小さな写真が何枚か貼ってある。幼少の写真はもっとたくさんあったが、20年ほど前に妹ふたりと分けたのだ。今のパソコン時代では容易にコピー出来るから、筆者が所有していないものは妹から借りて暇な時にプリントするのもよい。それはさておき、その幼い頃の写真で筆者が一番よく思い出すものがある。それを今日は剥がして持って帰って来た。横丁の民家の板壁に背を当て、下駄履いてきでひとりで立っている。撮影年月日は不明だが、服装からして夏で、他の写真との関係からみておそらく3歳になる直前か直後だ。つまり、1954年の夏だ。この写真をいつ誰に撮ってもらったか記憶にない。母も覚えていない。叔父がよく写真を撮ってくれたが、これは叔父のカメラではない気がする。近所の人に撮ってもらったのかもしれない。ごくたまに写真屋さんで記念写真を撮ってもらったが、叔父が撮影したものがなければ筆者の幼少時の姿は乏しいから感謝せねばならない。叔父と一緒に写ったものが何枚かあったが、叔父はもうこの世にいない。1950年代は今とは違って、貧しい庶民ではカメラはまだ贅沢であったと思う。叔父が持っていたものは2眼レフで、うえから覗くと四角い箱の中に影のようなうす暗い被写体が逆さに写った。何度もそれを覗いた記憶がある。それはさておき、筆者がポーズを取るでもない、ごく自然に立っている様子をよくぞ撮影したものと思う。ピンボケ気味だが、たたずまいが今は全く同じなので驚く。3歳にしてすでにもう人は完成していると思える。
他の幼少の写真もこの細い地道で撮ったものが目立つ。板貼りの少し手前が筆者が生まれて長く住んだところだが、今も雰囲気はそのままだ。めったにこの場所には訪れないが、最近では4年前の2002年7月にたまたま近くを訪れることがあって、立ち寄った。その時に写生したものがある。いつも携帯しているはがき大の写生帳にボールペンで描き、色鉛筆で簡単に色づけしたが、大阪中央郵便局で暑中見舞い用のスタンプを予め押してあったページに描いた。紙がうす茶色に見えるのは、写生帳がフリー・マーケットで買ったネパール製のものであるからだ。現在は板貼りは3歳の筆者が立つずっと奥の方に相当する部分しか残っていない。またシャッターを設けた出入口が穿たれたことも昔と違う。4年前であるので今はもうないかもしれないが、50年前の家が無人ながらほぼそのまま存在し、板貼りも古いものがそのままというのは珍しい。何だか自分の貴重な思い出がそのまま凍結されているようでありがたい。これは昨夜思い出したことだが、わが家から5分ほどのところに銭湯があった。そのファサードが石造りの立派なもので、それがまだあるかどうか気になって今日母に訊ねたところ、銭湯もそのファサードもまだ健在と言っていた。この銭湯は筆者が生まれた頃から20歳頃まで通っていたところで、さまざまな記憶がある。よく通った銭湯はほかに2か所あって、どちらもまだあるようだが、筆者が最も思い出すのはモダンなファサードのこの銭湯だ。ここにはちょっとした苔石と池のある庭があって、亀も泳いでいた。風呂から上がって空を見ながらこの庭を見下ろす位置に立つのがとても幸福な時間であった。もう35年も行ったことがない。まだその小さな庭が残っているなら行ってみたい。そして出来れば簡単な写生もしようか。写真より描く方が思い出となりやすいからだ。だが、描くことをまだ知らなかった幼少時では、大人に撮ってもらった写真が貴重な思い出のよりどころだ。それらは写っている個人にとって意味があるだけで、他人にはどうでもよい。筆者が亡くなればゴミとして処分されるはずで、つまり単なるガラクタなのだ。それに、見知らぬ他人が写った遠い時代の写真は何となく霊が宿っている雰囲気もあって、人はあまり所有したがらないだろう。たまにそうした古い家族写真が骨董市に出ている。興味深い建物や風景なら資料的価値もあるが、はたして売れているのだろうか。
80年代の『写楽』という雑誌かに、ヴェトナムかどこか東南アジア諸国で撮影された写真があった。それは爆撃か銃撃か知らないが、とにかく荒廃したある場所から出て来たモノクロ写真で、あちこち汚れ、また破れたり欠けていたりする何枚かであった。ちょっとした記念写真で、きれいな衣装を着た美人の姉妹などが笑顔で横並びに何人か写っていた。そこにいる人々がみな死んだか殺されたかはわからないが、ほとんど廃棄物同然になったそれらは、酷い感じのドラマ性を強烈に帯びていた。筆者の写真もそのような運命を辿るのか、あるいはそれにも至らずにただのゴミになるかわからないが、とにかくいつかはこの世から消える。そうなる前にこのブログでせめて筆者が最も気に入っている幼少時の1枚を掲げておこう。この写真を撮られた時の筆者は何を思っていたのだろう。きっと何も考えていなかった。それは今も同じであるからだ。「無心」。それもまたいいではないか。なるようにしかならない人生だ。このお気に入りの1枚は顔があまり鮮明でないのがいいのだが、顔がはっきり写ったものは何枚もあって、それらの中から今日はもう1枚アルバムから剥がして来た。それを最後におまけに掲げておく。ポカンと口を開けてまるでアホみたいだが、それは今も同じだ。口の締まりが悪いのでこのような長いブログが書ける。この写真はうえの妹の生誕100日目に写真屋で撮ってもらったから、正確な日がわかる。1953年7月中旬だ。筆者は満2歳に40日ほど足らずの頃だ。撮影時のことは鮮明に記憶している。普段なかった経験であったからだ。この写真を記憶することからもよくわかるが、筆者は1歳になるかならない頃からのことを覚えている。いや、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』ではないが、実際は生後直後くらいから覚えている。それは寝ながら顔のうえにぐるぐると回る赤ちゃん用の飾り玩具があったことや、家の中の鳩時計の鎖を見上げていたことなどからして明らかなのだ。その後遠くまで来たのか、あるいは伸び悩んだままの人生であったのかよくわからないが、遠い幼少時の頃の記憶の方が近年のそれよりはるかに鮮明なのは確実で、それは本当に不思議なことだ。人間の頭の中はどのように記憶がたたまれているのだろう。どうせみんなガラクタで、骨董的価値のあるものはないが。