久しぶりに鮮明に記憶する夢を見た。ここ1週間ほどはほぼ毎日夢を見ているが、目覚めた時にほとんど記憶にない。
夢は記憶情報の整理作業という考えがある。目覚めた時に夢をあまり覚えていないということは情報整理が完了したからとも言えるだろう。情報整理の途中、つまり夢を見ている時に誰かに起こされたりすると整理途中の箇所がそのまま新たに記憶されるように思う。今日はそんな具合で鮮明にいくつかの場面を思い出せるようになった。この情報整理は簡単に言えば脳のある場所からある場所へと情報を猛烈な速度で移動させることだと思うが、急に外的要因によって目覚めさせられると、暗箱の中である場所から別の場所へと流れていた情報が、蓋が開いて白日の下に晒されたのと同じようなことになって、その瞬間あたりの情報だけが脳の目覚めている時の記憶される場所に転移するのであろう。このカテゴリーに書いていていつも思うのだが、記憶している夢の少し前の部分はぼんやりとしていて、さらにそれ以前はどういう内容かほとんど思い出せない。これは外的要因によって突発的に目覚めた時、すでに整理のエリアに入った情報は消去の形になっているために思い出せないのだと思う。ちょうどカメラ内のフィルムを思えばよい。眠っている時の脳をカメラ、夢がフィルムだ。フィルムは毎晩右側から左へと巻き込まれて行くが、ある一定の箇所、つまりレンズのあるところに来た時に眠っている人はその映像を夢として見る。左へと巻き込まれると同時にそれは消去されて忘れ去られる。そしてまだ整理されるべき情報、つまり夢となる前の情報は右側に巻かれて用意されている。この夢見る過程が、外的要因、この場合はカメラの蓋が急に開かれる場合に、本物のカメラでは日光で感光してフィルムには何も写らないが、夢の場合はちょうどその部分はまた別のカメラとでも言うべき部分に転写されて目覚めた時に記憶されるという考えだ。いつも目覚めた時に夢の古い部分が記憶にないのは左側に巻き込まれてしまったからで、ちょうど巻き込まれるかどうかの瀬戸際部分は朧気に覚えているという部分となる。それはいいとして、今日目覚めてすぐに思ったことがある。それは頭が沸騰していると感じたことだ。ちょうどフル回転をしているエンジンといった感じで、振動しながも頭蓋骨全体がぼーっとしていた。何らかの外的要因で目覚めた場合はいつもこうだと思う。こんな状態で目覚めるのは熟睡していない証拠と言えるから、あまり体にはいいことはないだろう。
人間はぐっすりと眠って疲れを取る必要がある。にもかかわらず、なかなかそういうことにはならず、学生も会社員も毎朝目覚まし時計で叩き起こされる。日々の雑然とした記憶が夢によって整理消去がなされるかどうか、それは健康体を保とうとする人間に本来備わった力を考える時、ごく当然のことに思える。快眠が阻害されると、澱のようなどうでもよい記憶が日常を司る脳のどこかの部分にどんどん溜まり、しまいには白日でも奇妙な妄想に囚われることになるのかもしれない。それが別に害悪ではないような状態に現われれば、たとえばシュルレアリスム絵画のような創作行動になるが、そうではない場合は人をあやめるといった極端な行動の原因になるかもしれない。近頃の大人や子どもが殺伐とした事件をよく起こすことを単に道徳教育の問題といったものに収斂させて減少を図ろうと考えるのはあまり正しいことではないだろう。たとえばの話、ひょっとすれば大人も子どもももっと熟睡すれば案外解消する問題であるかもしれない。その熟睡が阻害されているとして、その原因が道徳も含めて社会における教育の問題とさらに言う人があるだろうが、道徳や教育の概念よりもっと睡眠は根源的なもので、やはり熟睡が阻害されているとしたらまずそれを本来の姿にただすことが先決であろう。だが、誰もが熟睡出来る社会がもたらされるには道徳や教育の問題などあらゆることが関わっているから、ある意味では今の社会は悪循環に陥っている。結局何かある点だけに対処しても無理ということだ。だが、変な事件がよく起こる時代になっているとして、そのことに乗じてたとえば政治家や宗教家がまた自分たちのつごうのよいように事を運ぶようになってはまずい。しかし、熟睡に関してもたとえば昨今の「癒し」という言葉の流行からもわかるように、人々は同じようなことを潜在的に考えていると思う。今社会で大きく話題になっている事柄はみなそれなりに関連があるという見方だ。一般社会からは隔絶して住む仙人のような生活をする人であっても、個人は社会の一員から逃れることは出来ず、個人が見る夢は必ずどこかで社会全体の空気を反映しているだろう。その意味からも筆者がここで夢を書きとめておくことは、もっぱら目覚めている時の経験や思いを書く日記と同じ意味や価値があるはずだ。
甥の自動車に乗って京都市内を昼間走っている。あちこち道路を曲がりながら進むので、どこをどう走っているのかわからず不安になっている。そして、急に上賀茂のあたりを走行していることがわかる。車にはほかにも男が数人乗っている。甥の友人たちだ。筆者は面識がない。車はついにある店の前に到着する。表がアメリカン・スタイルのガレージのような雰囲気の大きな喫茶店だ。内部に入る。甥と同じ世代の若者が何人もいる。店の中はL字型をして、右手は奥にも進める。焦茶色を基調とした旧式のインテリアで、田舎町に来ている気分になる。L字に囲む側全面は大きな窓ガラスで、向こうには崖がすぐに迫って見える。丘のすぐ下に店が建てられているのだ。崖は土肌を見せているが、新芽を出した雑草があちこちたくさん生えていて、それなりに黄緑色が鮮やかだ。店内は明かりはついていない。大きな窓からの光で間に合うからだ。革張りのひとりがけ用の四角いソファ型椅子に腰を下ろした若者たちは、みなくつろいだ様子であちこちのテーブルにつく者と笑顔で言葉を交わす。店内に入った筆者はすぐには座らずに、窓際に寄って崖を見る。上賀茂に常連が集まるこんな店があったのだなと内心思っていると、甥が急に風呂屋に行く必要があったことを思い出し、それを口にする。すかさず若者のひとりが「この店の2階はサウナつきの風呂屋やで」と言う。甥はそうだったかといった、少し残念そうな表情になる。どうやら別のところにいつも行く様子だ。天井を見上げると、吹き抜けで、2階にあるサウナつき銭湯の古ぼけた横長の看板が見える。鋲をたくさん打った黒い鎧扉が数枚びっしりと閉じていて、サウナの湿気からか、扉全体はしっとりと濡れて黒光している。まるで地獄の門のような感じだ。喫茶店の懐かしいような様子とは違ってその銭湯には全く入る気にはなれない。一旦入れば拷問でもされそうな気配が漂っている。甥もそれを感じたらしい。
見知らぬ場所を歩いていると、数人のおばさんがしきりに感心している。すぐにその理由がわかる。道端のあちこちに人間の背丈ほどに巨大な花が咲いている。蕾は人間の頭くらいの大きさがあって先が少し尖っている。京都の三条大橋の欄干にある擬宝珠(ぎぼし)のような形だ。うすい錆びたピンク色で、レタスを煮た時のような感じで半分透き通っている。それをいくつもつけた花茎があちこちに雑草のように立っている。写生しておこうかと思うが、その一方で写生するほど味わいのある花ではないとも思っている。何だか単純な形で面白くない。むしろ不気味だ。葉は花と同じ色だが、退化しているのかごく小さくてまた数も少ない。そのため蕾は異様に目立つ。大きな花は不気味なものだが、ここまで大きいとまるで動物的な気配がある。花の形や色合いからして蓮の一種であることは間違いがないが、水上に咲いてはいないし、葉の形がまるで違う。ほかの人々も不思議に思っているように見えるが、とにかくこんな珍しい花は初めてだと盛んに話している。ふと見ると、空からその花の1枚の花弁がゆっくりと水平になって落ちて来た。ちょうど筆者の目の高さに来た時、それは静かに回転して全体がどういう形をしているのかを伝えてくれた。「やっぱり蓮の花だ」。地面に落ちたのですぐに拾う。ごわっとした厚紙のような感触だ。ピンク色のところどころが茶色に変化していてすでに腐敗が始まっている。だが、ほんのり湿っていてまだ落ちたばかりだ。長さ80センチ、幅は30センチほどもあるが、しなっとしてしまったので全体が平らに伸びている。ふとあたりを見ると蕾であったものが数個開花している。そしてすでに地面に花弁を落としているものもある。それらを拾うのもいいが、胸に抱えている天から落ちて来た1枚だけを持って帰ろうと思っている。だが、周りの人々は口々に「これは栽培しているもので、勝手に持って帰るのは具合が悪いよね」などとささやく。振り返るとそこは店の軒先のような場所だ。同じ花の花弁を縦横に整理して並べ、数枚ずつ積み重ねたりしている。ほとんどがピンク色だが、中には黄色のものもある。店の人だろうか、ある中年女性が黄色のものを1枚手に取って、それをキモノの反物のように肩から胸に斜めにかける。どうやら花びらがそのまま衣装の布地になるようなのだ。その様子をじっと見ていると、花びらの端に細くて黒い縦縞が1本見える。それは本来の花弁にある筋とは違って、明らかに織り上げたものだ。また、地面に束ねて置かれているのは全体になよっとしているのに、女性が手に取って肩にかけたものは、その瞬間に見違えるような鮮明な黄色に変化した。「そうか、個人の売り物なら勝手に持って帰ることは出来ないな」。そう思いながら、今度はその珍しい花の名前だけを紙に鉛筆で書きとめて帰ろうと思う。
店の軒先からいつの間にか店内にいる。そこは雑然とした事務所で、蛍光灯が眩しい。机に書類やらが大量に積まれ、みんな忙しくしている。目の前にいる女子社員に花の名前を訊ねると、その向こうの机にいた男子社員が代わって答えてくれる。だが、事務所の内部は騒々しく、よく聞こえない。男子社員もあまり自信がないようで、たぶんという前置きをしながら言ってくれる。片仮名では全部で10数文字の「…○○○○オモイ」という長い名前だ。漢字ではさまざまな文字を当てるのでどれが正しいかはわからないが、「オモイ」の箇所は「思い」ではなく「想い」の「想」を当てる方が詩的でいいと思いますとその男性は話す。最後の「オモイ」だけは一度聞いただけでわかったが、その前の部分はややこしい言葉でなかなか覚えられず、書きとめることが出来ない。それで焦っていると、背後で息子の友人A君が筆者を呼びに来ている。A君は事務所の開け放たれた出入口に立っていたかと思うとすぐに姿が消える。もうバスが出発するので急いでいるのだ。『そうだったか、みんなを待たせてはよくない』と思い、すぐにA君の後を追う。事務所から廊下に出る。体が思うように動かない。廊下は昔の小学校にあったような板張りだ。腹這いになり、両手を使ってゆっくりゆっくり進む。焦るほどに進まず、とても苦しい。こんなにのろくてはみんなを待たせてしまう。そう思いながらもようやく左手に扉のあるところまで来る。そこを開けるとまっすぐ下に長い階段が見える。急に身が軽くなって立ち上がった。そして階段の暗い底を目がけて一気に下りる。ほとんど落ちるといった感じだが、それは階段の段差がなく、滑り台のようになっているからだ。とにかく1階分をそうして一瞬で下りると、そこはうす暗くて狭い場所で、右手にまた扉がある。それを向こうに押すと階段がまた見える。今度は段差がある。それも飛ぶように一気に下りるとようやく昼の明かりの見える地上に出た。家の玄関先だ。扉は開いていて向こうはごく普通の家並みだ。靴を履いていないことに気づく。困ったなと思っていると、下り立った箇所の右後方に板張りの廊下が延びている。その両脇に部屋がある。アパートらしい。ひっそりとして誰も住んでいないようだが、廊下左側の中ほどの1室から若者がすぐに現われ、筆者の靴を預かっていると言う。おそらくそれは昔買ったきり1、2度しか履いていないエビ茶色の革靴で、ベルトがついているものだ。それかどうか若者に訊ねるとそうだと言う。そして半透明なビニール袋にそのまま入れてすぐに持って来てくれた。若者は忙しそうにすぐにまた部屋に戻り、向こうでこう言う。「もしその靴がお気に召さなければわたしが作ったものがそこにあるでしょう。それをお譲りしますよ。トラディショナルな○○型ですけれどね」。足元を見ると別の靴がある。同じくエビ茶色だが、デザインは筆者がよく履くものと似た古典的なものだ。だが、紐を通す部分の革が濃い灰色をしている。5、60年代によくはやったコンビネーョン・スタイルを模しているようだ。しっかりと作ってあることに驚くが、革に艶がなく、また2色の対比はよくない。それでも一応技術をほめておこうと思い、姿が見えない若者にこう言う。「誂えの若い靴職人とは今時珍しいですね。こんなアパートで作っているのですか」。ちょうどその時階下で郵便配達が来て夢から覚めた。※
甥の車に乗せられて見知らぬ喫茶店に行ったことは、先日似た経験をした。蓮のような大きな見知らぬ花は、庭にクリスマス・ローズが咲いていることが変形されたと思う。このクリスマス・ローズはあまり面白い形ではなく、写生する気にはなれない。見たことのない花の夢はたまに見る。そしてそれらはずっと何年も記憶している。みな変な形で大きいが、そんな夢の花はいくつもあって、そのうち夢花図鑑が出来そうだ。息子の友人A君は小学生の時のままで登場した。昔わが家によく遊びに来ていた。もう10数年も会っていない。靴の夢は昨夜息子が革靴を履いて出かける必要があると言っていたことの反映だ。階段を下り立った時に見えた廊下やアパートらしき静かな部屋は、かつて勤務した染色工房とそっくりだ。今は別の家が建っていて記憶の中にしか存在しない。