先週、アムステルダムからドゥイージルの「Zappa Plays Zappa」のツアーが始まった。
ここ数日、大西さんからのメールでURLをいろいろと教えてもらっているが、ファンたちは早速会場の様子や演奏の隠し録りをネットに公開し始めている。コンサート終了後すぐにネットでその様子が伝わるのであるから、本当に時代が変わった。昔ならばそうしたものは海賊盤業者の商売のタネになったのに、今では海賊盤が出るよりずっと前に誰でもコンサートの様子を知ることが出来る。著作権上、問題があるはずだが、画質や音質がよくないのでひとまずドゥイージルは訴えることはしないだろう。それに、ネットでファンが宣伝してくれる方が次の地でのコンサートも盛り上がる。どういう曲をどういうメンバーが、どういう服を着てどういう位置で演奏し、さらにはその演奏の音や会場の大きさ、客の入りといったことも全部刻一刻と伝えられるから、ネットでそれらに多少接するだけで、大体コンサートの雰囲気は想像出来る。もちろんこれにはそうしたコンサートに行った経験が必要だが、昨夜はドイツでの様子をたくさんの写真で見ていて、92年の『 ザ・イエロー・シャーク』公演の思い出が蘇った。 また、スティーヴ・ヴァイとドゥイージルがギターで演奏する「ピーチズ・エン・レガリア」を少し聴いた。筆者のパソコンは10年以上前のものなので、演奏は途切れ途切れで聴くに堪えないが、ギターの音色など、ある程度の実情はわかる。それで思ったことは、予想どおりと言おうか、感動はさほどなかった。今回のツアーは、レパートリーは全部ザッパの過去の曲だ。それを過去のメンバーのゲストを迎えるなどして演奏するから、ほとんどはよくあるカヴァー・バンドのそれと同じと言える。ザッパ没後すぐに、ザッパ在籍のメンバーが集まってザッパ曲を演奏するライヴがよくあった。今回はその久々の再現に思えないこともない。
何度も書くように、ザッパの時代に則した新曲をリアル・タイムで接することが出来ない事実はあまりに大きい。もし今ザッパが生きていたならばどういう音楽活動をしていたか。そういう想像ばかりをしてしまう。ドゥイージルがそれなりに現在的なアレンジで聴かせてくれるとはいえ、やはりそれは「懐メロ」からはそう遠くない。初めからどんなものかはおおよそ想像がつく。そのことは創造的な仕事を考えた場合致命的な欠点だ。ドゥイージルはデビュー当時から父フランクの曲をカヴァーしていたから、今回のツアーはそうした仕事の延長上の総決算的なものと見ることは出来る。そう考えればそれなりに楽しめばよいし、筆者もCDが出れば買うつもりでいる。一方、ドゥイージルはザッパが遺した録音テープを利用し、それにドゥイージルが自分の演奏を重ねるといったことをいずれやるかもしれないが、これもまた筆者は80年代にすでに想像していたことで、それが現実のものとなってもさほど驚かないであろう。頭の中でそういう音を響きわたらせることが出来るからだ。常にファンの想像を追い越した仕事をしてくれていたザッパを思うと、ドゥイージルは仕事がとてもやりにくくなっている。いつの時代でも偉大な父を持つ息子はつらいものだ。ザッパは前衛のエリアでジョン・ケージがあらゆることをしてしまったと晩年に意見を発していた。それと同じ意味で、すでにザッパはドゥイージルが考えてやろうとするあらゆることをしていた。そのため、もし「ケージ-ザッパ」の関係と同じような位置、つまりドゥイージルが父親とそれなりに肩を並べられる存在になるには、父とは全然違った道に進むべきとも思える。写真からは、コンサート会場にいるファンたちは明らかに4、50代が目立っていたことがわかる。ファンも歳を取ったが、ドゥイージルも40近くなってもう言い年齢になっている。今回のツアーがザッパを知らない若いファンを獲得する可能性もあるが、かつてのメンバーが集まってザッパ曲を演奏するお祭りは、嬉しい反面何となく一抹のさびしさも覚える。
●2001年9月22日(土)午前1時深夜、風呂から出たところ。筆者は風呂に入った際はいつも、洗って抜け落ちた髪の毛をキャンバスに見立てた風呂場壁面の10センチ角のベージュ色のタイル上に貼りつけて、その半ば偶然の線描画を楽しむ癖がある。ところが白髪では黒のタイルにしなければならないことに思い当たった。髪を乾かす間に白い髪がぱらぱらと落ちる。この2、3年は加速度的にそれが増えた。『大論2』のせいもあるだろう。いっそのことアンディ・ウォーホルのように全部真っ白に染めるのはどうかと妻に訊ねると、そうでなくても目立つ顔だから止めておきなさいと。黒に染め直してゲット・バックするのはいやだし、面倒でもある。レット・イット・ビーがよろしい。まことにくだらぬことを枕にしてしまった。風呂で考えのは、今回のマンハッタンでのテロ事件に絡めて『大論2』でもし何か追加するとしたら、「アンクル・リーマス」の曲目解説がいいかなということだ。本を読んでいただければわかるが、経済的に貧しい者が上流階級の人々の生活に対して何か悪戯してやりたいと考える歌詞内容の設定は、そのままアラブの貧しい人々とアメリカという国の対比に敷衍できるだろう。同曲は貧富の差だけをテーマにしているのではなく、宗教も関係しているが、イスラム対キリスト教となるから、今回の事件はもっと問題がややこしい。欧米の価値感で暮らしていると、宗教の自由が当然と思うから、別段イスラムを否定するつもりもない。これは本当はイスラムも同じ考えのはずなのだが、書かれた聖典を重んじる思想が幅を利かすと、つまりこれはキリスト教でも同じで、とたんに排他性をあらわにする。その排他性が増殖すると、攻撃に変わる。自分たちはこんなに貧しく清らかに生きているのに、あのアメリカでは女が裸同然で歩いて、みんなが物質崇拝主義の悪に心底染まっているといった考えが高まってテロになっているとする見方もあるが、タリバンが言うのは、とにかくアメリカがサウジアラビアに駐軍して聖地を汚しているから出て行けということだ。この点がどのTV番組を見ていても全く論じられないが、沖縄からアメリカが出て行けということよりもっと問題は深刻だ。これはタリバンが滅びてもアメリカがメッカのあるサウジに居座る限り、テロが続くことを示す。オイル産出のアラブ諸国のサウジにアメリカが関わるのは国益を考えてのことだが、その国益第一主義がけしからんのだろう。タリバンの肩を持つつもりはないとしても、彼らからすればイスラムの聖地に無関心でいるアメリカこそ暴力国家と見えている。そして、筆者は原油がなくても人類が無限のエネルギーをただ同然で入手できる時代が来ればいいのにとよく夢想する。