先月29日に京都駅伊勢丹で見た。この美術館は百貨店内にあるが、正式には『美術館「えき」KYOTO』と呼び、所在は「京都駅ビル内JR京都伊勢丹7階隣接」とチケットに印刷されているから、JRの持ち物のようだ。

今まで知らなかった。『美術館「えき」KYOTO』という名称は全く最悪で、もう少しどうにかならないものかとずっと思っているが、「京都南美術館」はどうだろうか。これならはるかにすっきりとしてわかりやすい。今後も伏見区は別として京都市南部にはこれ以上の美術館は出来ないであろうから、南地域を代表する美術館と大きく打って出た方がよい。さて、この展覧会はチラシを見た時にまたかと思った。今までに日本で何度北京故宮博物院展が開催されたことだろう。10回ほどかと思っていたところ、説明パネルには70年代より始まって30回近くになるとあった。その全部が京都や近畿に来ているわけではなく、地方だけを回ったものもあるはずだが、いずれにしても美術ファンなら絶対に1、2度はどこかで見ているはずだ。筆者は図録を3冊所有している。それらを引っ張り出すのも億劫だが、日づけを調べると、82年10月(大阪市美)、86年1月(つかしんホール)、88年5月(宝塚西武)に買っている。このほかに、展覧会には訪れていないが、保存するチラシとして、90年5月(梅田阪急)、90年11月(難波高島屋)、95年4月(難波高島屋)、97年10月(セゾン美術館)、99年2月(神戸大丸)、2002年9月(ATCミュージアム)などがある。この調子では常に日本中のどこかで北京故宮博物院の所蔵品展が開催されているだろう。ちょうどアメリカのボストン美術館が名古屋に常駐しているのと同じような感じだ。これにどうやらエルミタージュ美術館も参戦する感じがあって、日本はいながらにしてレンタルでやって来る世界中の美術品が鑑賞出来る。喜ばしいことだ。長い歴史から見れば、それはほんの一時期のことかもしれない。数十年か100年経てば、そんな贅沢は夢のようにすっかり不可能なことになっている可能性もある。そうなった時はそうなった時だ。また日本は文化鎖国のような状態に入って独自の芸術を醗酵させればよい。
さて、今回はチラシやチケットに西太后と若き溥儀の写真が大きく掲げられ、それがどうにも気持ち悪いと言おうか、いつも以上に行くことを躊躇させる北京故宮博物院であった。このふたりの顔写真がもっと美女と美男であれば全く逆なのだが、何しろふたりともそれぞれ大ヒット映画が作られたし、特に西太后は恐いイメージが定着してしまっている。映画のような美女ではなくてありのままの顔や姿を伝える写真が少なからず残っていて、19世紀末から20世紀初めの清朝の空気を実に生々しく伝える。正直な話、このふたりの顔写真に比べると他の出品作はみな霞んでしまう。それだけ清朝末期の手の施しようのない姿がふたりの顔に滲み出ている。86年に見た2度目の北京故宮博物院展の図録の表紙は、黄色の壁を背景に金色の玉座にある黄色の朝服に身を包んだ乾隆皇帝の大きな全身を描く肖像画で、真正面から見たシンメトリカルな構図をしている。ほとんど写真のように見えるが、まだ写真がない時代の絵で、内廷のふたりの院画家が容貌と服飾を分担して描いた。皇帝の肖像画には画家の落款は記されない決まりになっているが、清朝には歴代の皇帝皇后の同じような肖像画が存在する。これらの肖像画の1点を見るだけで、清朝芸術の特徴のすべてがわかると言ってよいが、とにかく完璧な技術で画家の自負心がびしびしと伝わる。だが、同じような卓抜な描写力を持った画家は、王朝が継がれるのにしたがって存在していたわけで、ただ典章に定まった制度にかないつつ、顕微鏡で覗いてもアラが見えないような正確さで描くことだけを求められた。そこには画家の個性の主張は全く見られない。意味があるのは王朝という制度のみで、皇帝や皇后の顔も、それらに関心がない人にすればどうでもいい空疎なものに見える。今回も出品されていたし、また今までに朝服像をたくさん見て来たが、どの顔も男前や美人に誇張して描く意思はなく、リアリズムに徹して描いている。これはとにかく似ていることだけが求められたからだろう。理想化されないそれらの容貌を見ていると、王朝の実態というものがよく見えて来る気がするが、それは王様だけにつごうのよいシステムではなく、むしろ側近たちが自分たちの特権的生活を保障させるために歴代の王を祭り上げているわけだ。同じことは現在の北朝鮮の体制でも言えるし、また大なり小なりどの国家も同じことだ。そう考えると、清朝の朝服像の容貌に神々しさがまるで感じられないことに納得が行くし、陰に隠れて一切見えない画家の生活も、ある意味では皇帝と同様に安定していたことが想像出来る。だが、そうした豪華極まる絵や工芸品を無数に生んだ清朝も時代を経て内部がどんどん腐敗化し、その一方で民衆が生活苦に喘いでいたことも大人なら誰しもすぐに思い至るだろう。結果的に清朝はヨーロッパや日本の介入によって崩れ去ったが、それはそうならざるを得ないほど王朝のあらゆる部分が時代遅れになっていたからだ。民族は滅びないとしても国家体制はこのように数百年単位で激変して行くものだ。日本は明治にそれがあったが、またいつか同じように大変革の時期を迎えるだろう。それは今の中国でも同じだ。
故宮は明(1368-1644)の建国から清(1616-1912)の最期まで580年ほどの歴史を持つ。その間に24人の皇帝がいた。1987年に旧紫禁城内廷がユネスコ世界遺産に指定され、150万件の文物を所有する。日本では今まで康熈帝(1661-1722)や雍正帝、乾隆帝に焦点を当てた展覧会がもっぱら開催されて来たが、今回は慈禧(じぎ、西太后)や溥儀の宮廷生活にまつわる絵画や家具、装身具、服飾、化粧品、工芸、学習用品など140点が展示された。会場は1「清朝の黎明・沖天-偉大なるご先祖さま」、2「清朝の動揺-女帝・西太后」、3「清王朝の落日-最後の皇帝、宣統帝溥儀」の3部構成で、全体に今までの北京故宮博物院展とは一味違った内容でそれなりに面白かった。第1部はヌルハチの紹介が中心だ。清朝は女真(満州)族の登場と挙兵によって始まったが、その最初に登場するのがヌルハチ(1559-1626)こと愛新覚羅氏(アイシン=ギョロ)で、今回はその朝服像が来ていた。アイシン国はやがて清国と改められて成長拡大し、一族は260年にわたって父子相続を続けた。ヌルハチは生前は即位せず、次代のホン=タイジが大清皇帝位に即いたことで父ヌルハチも皇帝として扱われ、陵と廟号が定められた。ところで、明から清へと時代が移る頃、隠元が日本にやって来て宇治に黄檗宗を開いたが、そこに若冲がやがて絡んで来ることを思うと、清朝における朝服像の緻密な描写が若冲の絵にどう関係していたか気になるところだ。第2部は今回の主役の片方の西太后に光を当てる。会場には細かい字で内容も多い説明パネルがたくさんあったので、歴史好きな人にはよい機会であった。全部は読めなかったが、その意味で図録は価値があったかもしれない。清朝の咸豊帝の妃である慈禧太后葉赫那拉(エホナラ)(1836-1908)は満州出身、17で秀女として入宮した。1856年に皇太子載淳を生み、1861年に咸豊帝が病死したため、6歳の載淳が同治帝に即位した。慈禧太后と鈕鈷祿氏(ニオフル)(咸豊帝の皇后)のふたりが皇太后となり、慈禧・慈安(1881年没)、俗に西太后・東太后と称され、47年にわたる「垂簾聴政」を行なった。1875年の同治帝の病死によって4歳の載恬(本当はさんずいがつく)(光緒帝)が即位するが、1908年に崩御したその翌日に、慈禧太后は3歳の溥儀を即位させることを遺言して世を去った。溥儀については後述する。
西太后は漢の呂后、唐の即天武后とともに中国史上の三悪女とされるが、前半生は謎に包まれている。「垂簾聴政」の様子は映画でもよく登場した。今回はその禁紫城の養心殿東暖閣にある「垂簾聴政の間」が再現された。正面に宝座、その脇に置物台があり、背後に御簾を隔てて両宮の座る長椅子が置かれていた。思ったよりも素っ気ない感じがした。工芸品には面白いものがあった。「銀鍍金嵌珠五鳳鈿子」は「彩冠」とも言うが、清朝后妃たちの髪飾りで、日本には同じような形のものはない。「点翆(カワセミの羽)」を飾る伝統工芸技術が使用されていて、これが特に目を引いた。カワセミのうす青い色の羽があまりに鮮やかで均質なため、人工的なものに見えたが、一体どれほどたくさんのカワセミが捕獲されたかと気になった。中国の工芸はとにかく徹底的に贅沢で緻密な仕上がりのため、見ていて息苦しさを越えて恐くなるほどだ。人類が生んだ最高の手仕事の粋がそこにはある。そしてそういう美は日本には馴染まない。前にも書いたが、「工芸の悲しみ」のようなものを感じてしまうからだ。作った職人たちは強い満足を覚えに違いないが、そこには朝鮮の美術にある風通しのよさや温かさはない。完璧過ぎて面白くないのだ。中国美術は全般にそんな感じがあるが、特に清朝のものはそうだ。今までになくカラフルで緻密だが、どこかか弱い印象がある。それはさておき、西太后は西洋趣味に耽り、多趣味であった。これも王朝末期ゆえだろう。晩年には多くの仏像の前で読経するなど信仰心も厚く、自ら観世音菩薩になり切った扮装の写真もあった。女性はみなそうだが、ナルシストの面があったかもしれない。清朝はヌルハチ時代から開国伝説を創始し、ヌルハチを仏教世界に一体化させる動きをした。マンジュ(満州)の国号や太宗ホン=タイジの時代に規定されたマンジュの民族名も文殊菩薩に由来すると言うし、西太后の先祖のモンゴル族は清朝成立のはるか以前からチベット仏教徒であった。
第3部は太平天国や義和団による混乱によって清朝が末期症状に陥るあたりのことを紹介していた。中国封建王朝最後の皇帝である宣統帝愛新覚羅溥儀については、映画『ラスト・エンペラー』に詳細に生涯が描かれているので説明するまでもないが、以下簡単に書く。1906年に光緒帝の甥、醇親王載豊(本当はさんずいがつく)の子として生まれ、1912年に退位し、24年まで宮廷内で暮らした。14歳からスコットランド人のサー=レジナルド=ジョン=フレミング=ジョンストン(1874-1938)に英語を学んだが、今回は文字や絵がたくさん載っているノート、それらを書くために使用したフランス製の眼鏡、それに10台ほども常備したというイギリス製の自転車のうちわずかに残る1台などが展示された。今までの清朝にはなかった欧米の現代文化が一気に宮廷に入り込んだ様子がよくわかったが、溥儀の妃婉容(1906-46)も自転車を愛用し、それで紫禁城内を走り回っている写真が展示されていたのは印象に強い。写真の威力は大きい。婉容よりははるかに美貌が劣る側室の、モノクロに彩色された写真もあった。それを見ると、父から子へと血を継いで行く必要のある王朝の実情の滑稽、あるいは残酷さが赤裸々に伝わる。婉容は美人だが、若死にするようなはかなさがあって、そこにも王朝末期の姿が出ているように思える。溥儀は日本の敗戦によって1945年8月にソ連軍の捕虜となった。翌年東京裁判に検察側証人として出廷、50年に戦犯として中国に引きわたされ、東北部の遼寧省撫順の収容所に収監された。59年に特赦されて北京の植物園に勤務し、看護婦と結婚、67年に腎臓癌で死んだ。西太后を紹介する展覧会は今までもあった。前述した92年2月のがそうだ。そこにも出品された西太后の朝服像と写真を比べてみると、後者はかなり頬がふっくらとしている。晩年に太ったのだろう。30センチほどの長さの「付け爪」を何本も嵌めた写真もあったが、どこか猛禽を思わせる。両脇に西洋婦人を立たせた写真では、西太后はまるで剥製の人形のように見える。清朝時代は女性は纏足の風習はなかったそうで、そう言えばいくつか出品されていた布製の靴はみなそこそこサイズがあった。それでも清朝の后妃が愛用した「花盆底」の靴は、高さが10センチ以上はあるような1本足の下駄風のもので、歩きにくかったと思う。またそんなに歩く必要はなかったのだろう。西太后が輿に乗った写真もあった。担ぐ人たちやお付きの人たちの表情はみな暗かった。それでも外圧がなければまだそのままだらだらと王朝は続いていたか。