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●『石川九楊の世界展』
先月23日に京都大丸で見た。自分で言うのも何だが、筆者は小中学生時代は習字の成績がよくて毎年賞状をもらい、区役所などに作品が貼り出されたこともある。



●『石川九楊の世界展』_d0053294_0232179.jpg絵も同じであったが、小学3年生の時、みんなに「絵と字は任してや」と得意気に話をしていたものだ。小学6年生の時にクラスから選ばれて男女ふたりがどこかの習字大会に作品を出品することになって筆者が選ばれた。女子はそこそこ美人のHであったが、愛想も愛嬌もなくて、放課後に机を並べて一緒に練習していても少しも楽しくなかった。彼女は習字の塾へ通っていて、墨も筆もとても高価なものを使っていた。筆者は超貧乏家庭のため、最低ランクのものを使っていたが、それではどうにも思うような筆跡になってくれず、Hの筆を借りたい気分になったこともあった。だが、他人に筆を貸すと変な癖がついて駄目になるとかで、筆は貸し借りしなかった。「弘法は筆を選ばず」と担任のK先生は言ってくれたが、実際その言葉のとおりだと思う。安物の筆で苦心しながら書いている間に技術も伸びる。最初から一級品が使えるに越したことはないが、「字は精神」という思いがあれば、高価なものでなくても気にならないだろう。Hはいかにも習字という字を書いたが、何か味がないと言えばよいか、全くHの性格に似た感じがあった。Hは成績は中程度で、特別に知的好奇心が旺盛というのではなかったが、そのことも字に反映していたと思う。習字は学ぶほどに上達するが、人柄から出る味は持って生まれた性質や家庭環境と合わさって育まれるもので、塾では学べない。だが、見てすぐに感じが伝わって来る絵とは違い、味のある字が判断出来るようになるには、それなりに字をたくさん見て一家言を持つ必要がある。字もいろいろで、慣れれば絵と同じようにぱっと見で即座に判断出来るようになるものもある一方、うまいのかへたなのか、よくわからない字もままあるから、絵とは違った奥行きがある自己表現媒体として身近に存在しつつ、どこか異空間に浮かんでいる不思議な何かという気にさせる。そのため、ここでも字や書について書き始めれば今回のみでは終わらないほどの多くの主題を立てることが出来る気がして、正直なところ、なかなかブログに取り上げる気になれなかった。
 石川九楊の書に関心を抱いたのは80年代半ばのことだ。手元に『日本古典文学選 花とて別にはなきものなり』と題する図録がある。89年の大阪の百貨店での個展会場で買い、その場でサインをしてもらった。その時まだ息子は小学生になる前のことで、「石川九楊」の4文字のうち「九」の字がフォークのように見えると言って氏を笑わせた。河原町二条東入ルのパン屋の2階のマンションでの個展にも行ったことがあるが、90年代の活躍は目ざましいものがあって、いよいよこのように大きな会場で展覧会を開催するようになったかという感がする。氏の作品の面白さは、篆刻で漢字を思い切った形にデフォルメすることに近い、いわば絵画的面白さにある。その作品に内在する緊張感は通常の書のそれとは違って、もっと静的なところがある。昨夜書いたように、盲人は視力のある人と同じ文字を触って認知するか、点字文字を通じて文意を理解するが、そこには誰しもが意味伝達のために約束事を共有する文字世界が存在している。だが、石川氏の書は盲人には理解出来ないし、また漢字にそうとう詳しい人でも読めない作品がある。文字は読めてなんぼかと言えば、そうとは言い切れないとする書家が確かにあってもよいだろう。絵にも何を描いたのかわからない抽象絵画があるし、文字もそれと同様に思えばよいからだ。それゆえ、氏の書は文字を使った絵画と位置づければ済む。で、そのように作品を見るとそれなりに面白いが、そのオリジナリティさも種がすぐに尽きてしまったかのように思えて筆者は飽きてしまったのだ。「書でもあり絵でもある強み」であればいいが、「書でもなければ絵でもない弱み」という見方もあるから、氏の作品は一気に後者に考えを傾かせる可能性を孕んでいる。筆者はたとえば日展の書道家の作品をまともにじっくりと鑑賞したことはないが、それはいつ見ても変わり映えしない感じがあるからで、同じことは石川氏も思っているのか、習字らしい書を拒否しているからこそ現在のような作品群が生まれて来たのだろう。そうだとすれば、そこはよく理解できる。だが、永遠のマンネリに陥っているような書壇に対して新風を吹き込むと言うよりは、そういう社会とは一線を画して全く独自の書の創造に道に歩もうという覚悟と自負があるのだろう。それは一方で動じない書壇があってこそ出現出来る立場で、京都の焼き物界の八木一夫を思えばよい。そうした活動には子どもらしい無邪気さと用意周到な創作の戦略、それに古典への関心や研究、技術が欠かせない。これらの要素を氏は完全にコントロールして今に至っていると言ってよい。そして今回は凱旋的な大規模な回顧展だ。だが、筆者には89年に感じたこと以上のものは伝わらなかった。この10数年、筆者なりに字の世界というものを知り、また愛すべき字がどういうものか自分で何となくわかりかけて来たからだ。そしてそういうものの中に氏の書はない。
 昔は字を書く人はある程度の知識人であった。ワープロやパソコンが普及して、今はまたそういう時代になりつつあるが、それでもまだ筆を持てば簡単に誰でも字が書けるし、商品のデザインやあるいはタイトル文字といったものを筆でこなす才能もたくさんある。それらは本格的に古典の書を学んだものである場合は少ない。学べば学ほどそれらの個性ある古き書体にがんじがらめになるから、むしろ何も知らない方がいいからであるし、そもそもそんな大それた書の大家などを目指そうとは考えていないからだ。そのため、今の文字デザイナー的書道屋が書く字は、活字をアレンジしたようなものになる場合がほとんどだ。そしてそのような字を、普段パソコンでも新聞でも本でも活字しか見ていない現代人はむしろ斬新な個性と思うようになっている。それに、昔の能筆と言われるような字が今はどこに行けばあるというのだろう。書の毛筆デザインで食っているような人の字はすぐにでも簡単に誰かにまねされる他愛のないものばかりで、少しでも書の精神性を重視する人から見れば醜悪で我慢ならない邪道に映るであろうが、能筆家の書が商品にすぐさま使用出来るほどのセンスがあるかと言えば、それもまたこころもとない話であろう。現代はあらゆる書が存在しつつ、どの書も美を忘れて、歴史始まって以来の不毛の時代にあるように思える。そのあらゆる書の中には若者たちが生み出した丸文字も入れば、その後のさらに簡略記号化されたような絵文字混じりの文章の手書き変換したものも含まれるだろう。それらに共通している字は、前言を繰り返せば、自分で最初の一画から書きあげる思想が欠如した、あたかも絵のように視覚的に全体把握する活字体から出発していて、いわゆる筆順は視野にない。学校では一応は筆順を教えられるが、必ずしもそれにしたがうべきものではないという大人の事情があることも筆者は小学校から知っていたが、ある字に唯一無二の筆順が対応しているわけではないという前提の意味は大きい。とはいえ、全くどういう順番で書いてよいというものではない。一応正しい筆順にしたがえば字の格好は整いやすい。ゆえに、例外はあるとしてもまずは字にはある一定の書き順があるとしてよい。その次に言えるのは、文字は大抵はいくつかが集まって文章になり、書もそれを対象にすることだ。これは文字がいくつか書かれるとして、その順番が決まることを指す。となれば、1枚の紙に書かれた書は、時間的経緯がはっきりと示された不可逆的な要素を持つと言える。絵とはこの点が全く違う。書を味わう楽しみのひとつは、ひとつの文字の書かれた順番がわかり、それらの文字の集合もまた書かれた順序がはっきりしていることを追体験出来るところにある。しかもそれを一旦置いて、書全体をひとつの絵のようなバランス感を楽しむものとしても鑑賞出来る。絵にはない、明確な仕上がり過程が見える点と、絵と共通した全体としての構築美という、このふたつを併せ持つ点で書は特異な造形と言える。
 石川氏の書はほとんど後者に傾いている。書は本来は書かれた順が明確に示されている点に物語性が感得されるが、この特徴の意義は大きい。書は絵よりもむしろ音楽や舞踊に近いものなのだ。やり直しが利かず、始まればそれを受けて最後まで一気に進むしかない。そして終わりよければすべてよしとなる。この書の潔さは、最初からある程度全体の進行具合と完成の状態を予想しつつ、しかも一文字ずつ、一画ずつを即興に近い精神で表現することと深く結びついている。書は火花なのだ。そうして完成された書をぱっと見されるひとつの絵としてもっぱら感得することが習慣になり、しかも初めに作品枠を厳密に決めてその中で強固な構図を呻吟しようとする気持ちが支配すれば、やがては書は印章における篆刻と同様の絵画的作品しか生まれないだろう。それは小さな枠内での交響楽的な面白味を獲得はするが、初めから終わりに至るまでの間にあらゆる風景の変化を見せる物語性の味わいを失う。それがあるとしても硬直したものとなって意味がない。印章における文字の工夫にしても、本当は約束事があって誰でも読めるものにしなければならない。たとえば筆者は昔実印を作ってもらった時、「大山」の二文字をどのようにすればよいかハンコ屋と相談した。あまりに単純な字であるので、どう書いてもデ・ジャヴ感のある月並みなものになる。それでは面白くないので複雑に見えるものを所望したが、結果は「大」を上下逆様にすると「山」にほとんど同じ形になるところに着眼して、数本の縦縞模様にしか見えないものになった。だが、それでもちゃんと読める。これがもっと複雑な漢字であればどうであろうか。それはさておき、漢字は面白いもので、子どもでもよくやるが、一画ずつの交点の位置を極端にずらせば極端な形で出来る。つまり、漢字に内在するトポロジカルな構築性に着目して、自在に表情は作り変えられる。たとえば「十」という字を、横棒を1メートルの長さに書き、縦棒を1センチにしてもよいし、また横1メートルの棒の端から1センチのところに縦棒を書くとして、うえに突き出る長さを1センチとして下方に5メートル伸びてもかまわない。「十」であるためには、縦棒と横棒があって、それがただ1か所で交わっていればいいとするわけだ。縦棒と横棒は曲線であってもかまわない。2本の線が交点を一つ持つという条件だけを満たせばよい。これは本当は違うのだが、ひとまずこのような考えを推し進めると、誰にも解読出来そうもない突飛な絵のような漢字が書ける。最初に書いた図録の中に「平面地球」(1986)と題する氏の作品がある。これはそれこそ篆刻と言ってよい書で、「平面地球」の漢字4文字が四角い枠内に書かれているが、よく見れば誰にでもそう読める。そして小学生でも同じような書をすぐに学んで書くことだろう。そう思った途端に氏の書に対する筆者の熱が冷めた。筆跡の肥痩の違いはあっても、氏の他の作品も「平面地球」と同じように出来ているものが目立つ。それは一発勝負的なスリルを持ってはいない。予め全体をしっかりと見通し、何度も下準備をするなどして、絵を描くような感覚で書いたものだ。同じようなことならば文字デザイナーがすぐにやれることだ。
 氏の作品には「方丈記」「歎異抄」「徒然草」「源氏物語」などの日本の古典に題材を取った一連のシリーズがあるが、ここではもう全部を取り上げる余裕がなくなった。今回の展覧会では聖書の「山上垂訓」(1993)を書いたものがあったが、先の「平面地球」と同じように、器用な人ならすぐにまね出来るようなもので、正直なところ失望した。「エロイエロイラマサバクタニ」(1972)も大きさの割にはやむにやまれぬ書いたような焦燥感は感じられなかった。また、氏の、緻密なものが作れる職人的な技術を持っていなければ表現上どうしようもないとする考えには大いに賛成だが、そこにいつも貼りついている衒学趣味はあまり感じがいいものではない。学はあるに越したことはないが、中世や近世はいざ知らず、あらゆる書の花咲く現代ではそれは優れた書、面白い書の第一条件ではない。魯山人は大本教の出口すみこの書を賞賛したが、すみこは学がなくて平仮名を書くのがやっとだった。だが、その書はとても面白く、誰もまねが出来ないものだ。ここには重要な何かがある。話を戻して、氏の近年の作として2001年9月のアメリカにおける同時多発テロに触発されて書いた自作詩に基づくものが何点かあった。「垂直線と水平線の物語」と説明書きにはあったが、読めない氏独特の文字がツイン・タワー・ビルをそのまま思わせるようにふたつの縦長の区画にびっしり書き込まれ、そこからコーランの文字装飾によくあるような長い曲線が何本も斜め下方に向けて出ていた。それは絵として見れば燃え盛ってやがて崩れるビルそのものであるし、書と見れば、アルファベットの稠密な固まりの中にアラビア文字が刀のようにザクザクと割り込んでいるように見える。氏のことであるので、世界中のあらゆる文字のデザインのあり方はとっくに研究済みで、それらを視野に入れてこの作品を書いているのは確実だろう。自作詩の全貌は未発表だが、それを全面的にテキストとして用いているところも新機軸と言ってよい。書道界はおそらくそうとう閉鎖的なところで、そこに氏があたかもピエロのように、誰にも読めない作品を次々と発表するという狷介さは、芸術家としてはひとまず見上げたものがある。読んでもらわなくてもけっこう、あるいは読めないのは学のないせいで恥じるべしと言われているのかもしれないが、書などいつでも誰でも書けるものであるし、結局のところ人柄だ。人格者や知識人でなくてもかまわない。筆者なら母や自分の息子が書いたものの方が大切だ。そこには紛れもなく、自分がよく知る心があるからだ。とはいえ、心を安売りしたような相田みつをのような書は嫌いだが。
by uuuzen | 2006-05-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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