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●『さわる文字 さわる文化』
昨日の午後、民族学博物館の企画展を見るために万博公園に行った。閉館まで1時間20分というところで入口に辿り着いた。



●『さわる文字 さわる文化』_d0053294_256957.jpg特別展示室を見終わった後、本館でも小企画展があったことを思い出した。ちょうど4時半で、閉館までどうにか30分は見られる。もっと早く気がつけばよかったが、そうであれば今度は特別展示室を見る時間が削られた。結局は早く家を出ればよかったのだ。天気がよく、自然文化圏内の公園で緑を楽しめたのに、ぐずぐずしている間に時間が過ぎた。モノレールの駅を下りて公園に向かう大きな陸橋をわたっている時、向こうからはもう帰って来る人が多かった。太陽の塔が真正面に見える公園南入口を入るといつもより大勢の人がいた。自然文化圏通行券に印刷される「太陽の塔」の写真はその南入口から撮影されたものだが、券に写っている塔の背後の国立国際美術館は今はもうない。この券も在庫が切れれば現状写真に変えるべきだろう。だが、それにもひとつ問題がある。「太陽の塔」はすっかり汚れているからだ。塔をきれいに塗装し直すか、写真をデジタル修正技術で加工してから印刷せねばなるまい。それならば今使用している写真から美術館もついでに消せばいいか。そんなことを思いながら「太陽の塔」を右に見ながら塔の後方、つまり公園の北側に行く。するとますます生徒たちの姿が目立って来た。お祭り広場からは吹奏楽の生演奏の音が大きく聞こえて来る。あちこちの中学の吹奏楽部が集合して催しをしていたようだ。チア・ガールの集団も目についたが、8割方は小柄であった。空中高く飛び上がったり、それが落ちて来るのを下で支えたりするからには、全体的に小柄な方がよいだろう。だが、支えるのはどしりとした女性も必要か。演奏の終わった生徒たちは帰り支度を整えて出口や駐車場に向かっていたが、これだけたくさんの中学生が集まっているのは初めてのことだ。演奏の様子を遠くから見ると、1メートルほどの高台に先生だろうか、指揮者が乗ってタクトを振っていた。演奏は指揮者を囲む形で半円形になり、一番外側に白いチューバを肩に置いた生徒がいた。その数はざっと30人はいたか。それだけチューバが集まると、地響きするような低音になる。それがまた好天下にとてもよかった。曲名がわからなかったが、今『マーチ全曲集』というCDを聴いていてわかった。「ワシントン・ポスト」だ。行進曲はみな似ている。
 行進曲のリズムに合わせてこのブログもどんどん書き進まねばならない。もう深夜0時半だ。ついつい韓国ドラマを見ていて書き始めるのが遅れてしまった。『ラストダンスは私と一緒に』の最終回の後半を見たのだが、所有するDVDで見たのは初めてだ。前に見た時は画質の悪い録画ビデオであったが、それでも感動に差はない。ただしDVDでは音がステレオで細かいところまでが聞こえ、臨場感は圧倒的に差がある。14型のモノラルTVではそういうわけには行かない。だが、DVDは画質があまりによいため、登場人物の肌の荒れまでよく見えて、それがとても気になった。そこまで画質がよくなくてもいいと思う。NHKはハイビジョン技術をどんどん高画質へと研究を進めているが、家庭用のTVは今までのものでも充分な気がする。昔カラヤンは、録音技術がよくなるのに合わせて何度も同じ交響曲を収録し直したが、音質がよくなっただけで音楽性は深まっていないと陰口を叩かれた。TVの画質がよくなれば、いい面も確かにあるが、ドラマはそれとはひとまず関係のない内容が勝負だ。画質は鮮明であるほどによいというように時代は進んでいるが、筆者は自分ではやらないが、長年ピン・ホール・カメラに興味があって、あのぼーっとした甘いピントの写真が何ともよいと思う。そんな画像に似たように見えているのかもしれないが、筆者の視力は画質が鮮明になることと反比例するように落ちて来ている。後20年もすればハイビジョン映像を見ても、わが家の14型TVの画質の悪さと同程度に感じられるだろう。だが、年老いて視力が落ちるのは神の恩寵かもしれない。欠点が見えないから何でも美しく思え、あまり細かいところに神経を使わずに済むではないか。ジィドの小説『田園交響楽』だったか、主人公の盲目の女性が手術によって視力を取り戻し、そのために周りの人々の欠点を知るようになるとの筋立てがあった。視力で思い出したが、ここ数日疲労が蓄積されているためか、夜中の3時頃に床に入ると、暗闇の中で両眼がとても痛む。こんなことは今までなかった。目玉をそっと押さえても治らないが、そのうち眠ってしまう。視力が0.3ほどもない筆者はこの年齢まで眼鏡をかけずにずっと来た。それはとにかく手元さえ見えればよいと思ったからだ。今でも細かい作業が裸眼で平気だが、展覧会では1メートルほど離れると説明文字がもう見えにくい。そのためぎりぎり間近に行って読むことにしている。たまに眼鏡を借りて数メートル先を見ると、どんな細かい本の背表紙の文字でも読めることに驚く。あまり遠くは見えないものだとずっと慣れて今まで生活して来たのでそれでも苦にならないが、世間では筆者が見るのは違ったようにもっと鮮明に世界を見ているわけだ。何だか自分が時代遅れの人間に思えてしまう。だが、数メートル先がぼやけているならば、それがはっきり見えるところまで歩み寄ればよいから、さほど不便は感じない。
 枕が長くなった。みんぱくの本館の企画展室には20分ほどしかいられなかった。思ったよりも展示品が多く、一応は全部見たが、もう少し時間がほしかった。最初に見た展示品は「葛原勾当日記」だ。葛原勾当(こうとう)(1812-82)という江戸末から明治にかけて活躍した盲人箏曲家が書いた日記だ。これが本当にびっくりさせられるもので、この1点を見ただけでも昨日は訪れてよかった。勾当は自ら印字道具を考案し、1837年から40年間、独力で日記をつけた。展示はその中のごく一部で、日記を書いた和紙1枚ずつを別の厚紙台紙に貼って横長の経本仕立てにしてあった。印字道具とは簡単に言えば罫線を引く道具とハンコ、つまり木製の活字だ。活字の側面には筋が彫られていて触感で区別出来る。展示されていた部分に天保九年正月から2月にかけての分があった。八日には「けいこばかり」、九日は「うてんやまなかやこたき○さみせんでちくぶしま」とか書いてある。毎日1、2行のごく短いもので、全枡目に1文字ずつがきれいに収まっている。その几帳面さは到底盲人とは思えない。目が見える人でもここまできれいにハンコを押して日記をつけることは難しい。にもかかわらず、紙を用意して罫線を引き、順に1枡ずつ文字を埋めて行くことがどのようにして可能であったのだろう。書き終わった分は点字ではないので、勾当は後で読み返すことが出来なかったはずで、たとえば昨日の分のすぐ後に続けて、どのようにして今日の分を書いたのかと思う。そうした不便さもさることながら、40年も続ける執念、それを他人がはっきりと読めるような形に残す執念、もし勾当が現代を生きていたならばどんな面白いブログをやったことかと思う。筆者のこのブログなどまだまだ甘いと言わねばならない。菩提寺の蓮乗院には木活字のレプリカがあるそうで、また「葛原勾当日記」は広島県の指定重要文化財になっていて、価値のわかる人が大切にしたことは当然だ。日記の活字には太めと細めの書体が2種があった。時間がなかったのでこの1点だけを長く見ているわけには行かなかったが、「ばくちをする」といった内容もあって、ごく普通の人がやるような生活をしていたことがわかる。盲目でもあまり不自由はないどころか、逆に見える人以上の楽しみとでも言うべきことをしていることに感心した。視力がなければほかの感覚が発達し、たとえば目が見える人では感じられないような触感が発達するのだろう。聴覚もそうだ。そのため盲目の人が訓練すれば音楽に秀でたりする。盲目の生徒たちの吹奏楽団はどうだろう。指揮者の動きが見えないから合奏は困難だろうか。
 今回の企画展は展示品は基本的にはみな触ってもよいことになっていた。ただし勾当の日記だけは別だ。また、たくさんの人が触り過ぎて駄目になったのか、「折紙文字」の展示は撤去されていた。写真で見ると、それは白い紙の端をいろんな形に折ることで文字を表現するものだ。このように触覚を利用したさまざまな文字の紹介があった。「松脂文字」は溶かした松脂で書いた凸形文字で、表面をほんのわずか浮き出させる。これは現在の印刷でも似たことがよく行なわれている。展示されていた「松脂文字」は赤い色をしていたが、これは視力のある人が書く際にわかりやすくするためだ。「蝋盤文字」はA3サイズ程度の枠の中に蝋を流し込み、それを加熱して柔らかくなっている時に字をくぼませて書く。熱すれば何度でも繰り返し使用出来る。盲人用の黒板のようなものだ。「瓦文字」は「陶器文字」とも言われるが、1片が4センチ×3センチほどの瓦片に文字を凸状に浮き出させ、その出っ張りを触って文字を確認する。「結び文字」は結び目の数と間隔で「いろは」の50文字を表現する。「紙撚文字」はこよりで紙の厚紙のうえに文字の形を作って糊づけしたものだ。「古今和歌集」の一部を表現したものがあったが、毛筆の連なった平仮名はそうした長いこよりでくるくると表現するにはふさわしい形をしている。「鍼穿凸字」は明治8年3月製造のものが出品されていたが、これはたとえば活字の文字の出っ張り部分にびっしりと針を埋め込んだものを想像すればよい。そうした凸字活字で文字型の針穴の集合を紙などの読み取る物の表面上に作ったわけだ。同じようなものとして「木刻凸凹文字」があった。これは明治初期の大蔵省書記官であった得能良介が制作したもので、1片が3センチ角で表が凸、裏が凹に彫られている。縦5個、横10列に並べて「いろは」の文字を揃えてあった。以上は触感を何で表現するかに着目して主に発明されて来たもので、文字は目の見える人のものと同じものを使用するが、点字は盲人用の文字である点で上記の文字とは違う。
 展示の最後は点字で、これが急き立てられて見たのであまり詳しく書けない。点字はフランスが主導的に開発した。まず、シャール・バルビエ(1767-1841)という軍の砲兵士官が、軍の暗号として12点(縦6×横2列)の点字を考案した。これを1825年、全盲の青年ルイ・ブライユが6点(3×2)の組み合わせに簡略化し、1854年にフランスの公式点字となって今では世界中で用いられている。日本では明治23年(1890)に東京盲唖学校教員の石川倉次がブライユ文字を仮名文字に翻案した。一方、アメリカでは1868年にウィリアム・ウェイトが各文字の使用頻度、紙面節約を配慮してブライユ点字を変更したが、それ以前のアメリカでは同時に何種かの点字が用いられていて、ブライユ点字で統一されるまで約50年の点字戦争があった。盲人用の初の聖書の展示もあった。ボストンのパーキンス盲学校では凸文字で1836年に新約、43年に旧約聖書が印刷されたが、これに使用された凸文字は「ボストン・ライン」と呼ばれ、ローマ字の曲線を省いた角ばった形をしている。つまり、アルファベットを全部直線で表現したもので、ポキポキとした感じがあって、それが紙の表面に凸状に浮き上がっている。日本では明治8年(1875)に「ヨハネ福音書第9章(盲人開眼の章)」を盲人用教科書としてアメリカに発注して作ったが、使用された「ボストン・ライン」の印刷技術を応用して横浜で「山上垂訓」を片仮名で凸字化した。これが日本初の盲人用聖書だ。そのほか、盲人用の算盤が何種類かあって、実際に球を動かしてみたが、これらは盲人でなくても利用価値が高い。「凸形京町図」は明治15年(1882)の作で、京都の街路などが凸状に表現されている。縦150センチ、横80センチほどの大きなものだ。当時食パン1斤が6銭であったのに対し、13円50銭の定価であった。高いか安いかわからないが、鉄製の特殊なものだけに高価でも仕方がない。似たものとしては地球儀や富士山の立体地図もあった。凸状の出っ張りを触れさすことで実体を把握させるものは、今では印刷技術が進んでもっと安価で大量に作ることが可能になっている。赤塚不二夫もそうした盲人用の漫画を作っていて、似た技術を使用したものは今回も出ていた。たとえばふたつ折りの無料説明書がそうで、タイトルは凸状印刷で、しかも全面に点字が施されている。またゴッホなどの名画の複製の表面を凸状にしたものがあった。こうしたもので盲人でも絵の特徴が把握出来るが、同じ試みは立体の方がさらに効果がある。仏像彫刻家の西村公朝が作ったブロンズの「ふれ愛観音」があったが、顔のあちこちを触ってみると丸々としていて確かにありがたみがあった。バード・カーヴィングや人生の途中で盲人になった人のために開発されているものなども展示されていたが、全部はじっくりと見られなかった。館外に出るとまだ空は明るかったが、薔薇園の花が素晴らしく、すぐ近くのトイレ横には1本の桐の木がたくさんのうす紫色の花を咲かせ、そして地面に落としていた。写生していると、おばさんが何の花かと訊ねて来た。視力があっても知識がなければ見えないも同然なことがしばしばある。
by uuuzen | 2006-05-15 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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