中島千波は今年の正月に島根鳥取へ1泊旅行した時、大根島の由志園で大きな作品を見た。

牡丹の苗を売るおばさんが1億円の絵だと言っていたが、本当にその価格で買ったのかどうか、もしそうならば日本画家は本当によく儲かる。中島氏はひょっとすれば由志園に長期滞在して牡丹の写生をしたかもしれない。そういう生活はうらやましい。昔は、いや今もそうだろうが、よく小説家が温泉地などに滞在して原稿を書いたが、遠くに出かけても仕事が出来るのは自由業の最たる証だ。今ならパソコンさえあれば世界中どこでも原稿を書いて送信出来るからそんな人はもっと増えているだろうが、画家は写生は出来ても本絵を完成させるのはアトリエであるから、物書きよりも自由度が少ないかもしれない。今は物書きの時代なのか、あるいは画家の時代なのか、どっちに優れた才能をたくさん輩出しているのか知らないが、実際どうなのだろう。以前平安画廊である版画家が「今は悠長に絵など眺めて楽しむ人は少なく、ましてやそれを買う人などもっと珍しい時代で、もう絵の時代ではない」とぽつりと言っていたが、それはコンピュータ・ゲームやネットの普及によって、人が絵以外に見るものが増えたためと、静止画像をじっと眺めることに楽しみを見出す世代がだんだん少なくなっていることを見越しての意見であった。その考えは写真や映画というものがこの世に生まれた時からある程度予想されたことだろう。だが、写真や映画の全盛時代にあっても人は絵を描くことをやめなかったし、相変わらず画家を志す者が後を断たないのは、美術大学が昔の何倍も増えたことから考えてもわかる。つまり、画家は今なお人々にとっては格好よい存在なのだ。以前TVのヴァラエティ番組で、ある若い美人の奥さんが「主人は画家です」と発言すると、ゲスト出演の女性タレントたちは一様に口を揃えて「格好いいー、うらやましー」と言っていた。それはお世辞ではなく、心から思っているという感じがありありとあった。たぶん人がまねしようと思ってもなかなか出来ない職業であるところが羨望の的であるのだろうが、それだけならば実業家や医者や弁護士もその部類に入ると思うが、案外そういう連中は敬遠されたりする。女性タレントたちがうらやましがったのは、画家がうまく行けば並みの医者や弁護士どころではない高収入を得る職業であり、しかもあちこち写生に行くなど、自由度が医者や弁護士以上に大きいと思っていることが理由にあろうが、これがもし売れない貧乏画家ならばどうか。
芸大美大や子どもをやらせるために幼児教育の段階から絵を学ばせたりする親がいるが、そうした子どもが仮に大人になって有名や高収入、人々から尊敬を得る画家になれたとしても、本人は幸福とは限らない。たとえばマーク・ロスコは今でこそ若い人たちがすごい画家だと騒ぐが、ロスコ本人は自殺するほど絵を真剣に考えていた。それでも世界的有名ではないかと思うだろうが、そんな名声を得るような人はみな不幸な存在と言ってよい。となれば今の芸大美大は不幸な人物を作る機関ということで、何か意味があるのかどうかを真剣に考えた方がよい。絵や音楽など、2、3歳の頃から放っておいてもひとりで勉強する者はするし、そうでなければどうせ本物にはなれない。モーツァルトやベートーヴェンは親が積極的に教えたではないかと反論する人があろうが、それは18世紀の西洋のことだ。今同じことをしてもモーツァルトやベートーヴェンに匹敵する才能が生まれるはずがない。むしろ、そういう音楽を全く聴かせないところから出発した方が新たな音楽の創造への道が開ける。音楽は何もモーツァルトやベートーヴェンたちが作ったものだけではないのだ。そうした音楽をすべて一度御破算にしてまた全然違うところから出発してもいいというほどの発想がなければ今後の人類の音楽の広い世界への見通しはない。だが、そこそこ有名な芸術家になって収入もたくさん得るような存在になってくれればというわけだ。そこで先の平安画廊での作家の言葉をまた思い出す。それは自作がほとんど注目されず、また売れないことへの恨みも混じっているかもしれないが、そればかりとは言えない。文句を言わずにせっせと作品を作るべきだろうと他人は言うだろうが、実際はどんな画家にしてもほとんどそうしているが、人間であるから直接絵に関する以外にもいろいろなことは思う。そのいろいろが積み重なって極致に達するとロスコのように自殺することにもなる。
中島千波の存在を最初に知ったのはいつのことか忘れたが、その独特な人物画によって特異な日本画家がいるなという認識はあった。だが、ちょうど10年前に京都高島屋でパリ展帰国記念展が開催された時、見には行かなかったが、その時のチラシは保存してあってよく記憶している。蓮を描いた6曲1双の屏風が表に大きく印刷されており、それから受ける印象はそれまで知っていた横たわる女性像とはかなり違った。もっと明るくあっけらかんとしたもので、以前の思いの修正を迫られた。とはいえ、感心したというのではない。何だか普通過ぎて物足りなかった。その思いは今年由志園でたくさんの牡丹を描いた大きな絵を見た時と共通する。昨夜書いた手塚雄二のように絵具の厚塗りでなく、また使用する色はもっと原色に近いので、昔の平面的な日本画により近く、その点は筆者の好みだが、それでも何か深みというものが感じられない。ロスコのようにどんどん削ぎ落として行くものがあって、その果てについに自殺にまで自分を追い込むといったこととは全く無縁の天真爛漫さと言えばよい。幸福な絵なのだ。それはそれでよいので別に文句もないが、普通過ぎて圧倒的な何かというものが欠けている。それは大画面を大きな刷毛で一気に塗り潰して描くような、緻密なタッチが見られないからでもある。画家はどこか偏執的なところがあって当然と思いたい者からすれば、あまりに平凡で毒がない絵なのだ。横たわる女性を描けばそうではないのに、なぜ蓮や牡丹を描けばそうなるのか、そこがわからないので先月29日に京都高島屋に行って見た。人物から花鳥、風景、静物、新聞の挿絵や小さい頃描いた絵、風神雷神や仏画など、なかなか豊富な内容で初めて全貌を知った。どんなものでも描けるとの自信があるのだろうが、やはり正直なところ屏風などの大画面は面白くなかった。人物画に才能があるように思うが、日本画の分野では美人画ではない人物画専門で食って行くのは難しいし、そのためもあって花に手を染めているという感じがした。それにまた、日本画の伝統を全部引き受けるというのでは花を描く必要はある。風神雷神や仏画を描くのもそういう理由があるだろう。だが、手塚氏と同様、最初はシュルレアリスムに影響を受けたようで、1969年の卒業制作や院展の初入選作はルネ・マグリット風が顕著だ。当時マグリットに影響されるというのは時代感覚としてはごく自然で、日本画家であっても驚くに当たらないが、その頃のある種の挑戦的、意欲的な作画態度が、今の月並みな日本画的画題とは縁が切れているように見える。これはたとえば日本の知識人が、若い頃はシュルレアリスムに大いに関心があってももっと歳を取ると自然と日本的なものに興味が持てるようになると言うことと似ているかもしれない。
100点あまりの盛りだくさんな展示は9つに分けられていた。これらは順に並んではおらず、また説明パネルが小さくてどこにある探すのに苦労して、会場では3度ぐるぐる回って洩れがないか確認したはずなのに、今メモを読み返すと6が抜けている。1「窓・社会シリーズ~シュールレアリスムとの出会い~」、2「ライフワークとしての人物画~人間とは何か~」、3「花を描く~一期一会の肖像画~」、4「野菜、果物シリーズ、中島ワールドの集大成~」、5「おもちゃシリーズ~身近なものを題材に~」、7「神仏画~衆生の一人として~」、8「挿絵、装丁画の世界~線の持つ美しさ~」、9「学生時代~絵描きにとって写生は宝~」。1は先に書いたように、東京芸大で日本画専攻していた当時にマグリットに大きな衝撃を受けて描いた一連の作品を展示していた。マグリットの描く青空に白い雲が浮かぶ様子をどの作品の背景にも引用していて、画面中心にたとえば窓や椅子をひとつ描き、その中央に置いた花瓶や、あるいは椅子の座る部分から木や菊の花が一本生えていたりする構図で、左右対称の安定性があり、色はマグリットに似て明るく、複雑な構図の騙し絵的な味わいがある。油彩で描けばそのまま洋画になる。これは70年頃まで続いたようでごく短期間であったようだ。2はずっと手がけている人物画を紹介するもので、まず「社会」シリーズとして社会の矛盾を暴こうとして描き、続いて70年代後半からは「衆生」シリーズを手がけて、家族などの身近な人をモデルにして喜怒哀楽を通じて人間の複雑な心理を表現しようとした。80年代からは「形態」シリーズで、人間の形や動きを探求し、80年代後半からは「眠」シリーズ、90年代からは仏教理念に基づいて人間の精神性を描く「空」シリーズ、2003年からは「identity」シリーズとして学生時代に影響を受けたシュルレアリスムに近い表現を用いている。どれも似ているように見えるので差が明確にわかるとは言い難いが、今後どう展開するのか注目したいところだ。3や4は言うことはないだろう。花や野菜を写生して色鮮やかに写実的に描いている。ただし、それらが置かれる空間は本物の卓上ではなく、無地のいわば装飾抽象的な色面で、そのことは人物画を描く時にも見られることで、リアリズムの立場にはない。どこか染色作品に通ずる趣があって、ちょっとした挿絵にそのまま転用出来そうな感じがある。5のおもちゃシリーズは、西洋人形などを描くが、比較的小さな画面サイズで童画の雰囲気があり、しかもかなり細かく描き込まれているので独特の多彩さと充実感がある。こうした玩具をたくさん収集しているのだろうが、なかなか楽しい子どもっぽい心があるようで好感は持てる。
7の神仏画は2点ほどしか作例がなかったが、やはり子どもっぽい楽しさが見られる「風神雷神」の2曲1双屏風は、手塚氏の同じ題材のものより面白い。大日如来と蓮を描いたものもあったが、これは2004年に成田山東京別院深川不動堂の内仏殿宝蔵大日堂の格天井に描いた縦8メートル、横15メートルの絵の縮小画で、ごく普通のさらりとした仕上がりは特に言うべきことはない。8では、津島佑子の「光の光に追われて」、宮尾登美子の「きのね」、永井路子の「姫の戦国」といった80年代半ばから90年代前半に新聞に連載された小説の膨大な挿絵の原画から少数を展示していたが、水墨画風にモノクロでしかも滲みを生かした描き方をするなど、工夫の跡が見られた。だが、やや雑な仕上がりもあって、あまり感心するほどのものではなかった。9では生い立ちが簡単に紹介されていた。父は画家の中島清之(1899-1990)で、千波は昭和20年(1945)に一家の疎開先の小布施街で生まれた。戦後横浜に戻ったが、10歳の時に描かれた「おとうさんのえ」と題する父の眠っている顔を描く肖像画はなかなかしっかりした筆圧を見せてすでに非凡な才能を示していた。小学3、4年生の頃にはよく富士山を描いたらしく、それは80年代に屏風で取り上げる題材になった。そうだ、ひょっとすれば6つ目のセクションは最初に展示してあった一連の大きな屏風作品のことかもしれない。風景を描くようになったのは、1982年に父から横浜三渓園臨春閣の襖絵の制作を引き継いだことによる。1988年には第二屋住之江の間に「富士に桃花図」を完成させ、その後も大がかりな屏風を次々と描いている。「坪井の枝垂桜」(1999)は、おぶせミュージアムの中島千波館蔵だが、他の桜を描いた屏風も共通して、小さな桜の花がみなハンコを押したように同じ形でしかもあまりていねいに描かれているとは見えず、画面の大きさの割には感動がない。これは大抵の桜を描く日本画家にも言えることで、幹や枝の処理はいいとして、花がどうしても真正面から見た単純な5弁にせざるを得ないからでもある。だた桜を描きましたというだけで、迫って来るものがない。だが、それはマグリットに通ずるつるりとした明確感や空虚感と共通するものと言えるかもしれない。その意味で氏は一貫した仕事をしている。今回はセザンヌがよく描いた「サント・ヴィクトワール山」をモチーフにした4曲の屏風(2005)もあったが、これも手前の風景の木立があまりにも簡単に仕上げた印象があって感心しなかった。それにまるでしょぼくれた山のたたずまいで、ジョージア・オキーフが同じようにこの山に抱いて感じたことがよくわかる気がした。中島氏は大作よりもむしろ比較的小さい画面に緻密に描き込む方がいい味が出るように思う。