「
JCOMで ネットとテレビ 契約し 時代は変わり 地デジは無料」、「月昇り 桜満開 肌寒し 小雪舞うのは 想像の中」、「桜咲き 清水寺の 放射光 空に向けての 青き一筋」、「篝火で 浮かぶ桜に 見惚れつつ 衣服に火の粉 舞い落ち掃い」

家内が桜は好きかと訊くので梅の方がいいと答えた。梅は花が長く楽しめるうえ、実は梅干しや梅酒として利用出来るからだ。広い庭があれば桜を一本植えるのはいいだろう。白井晟一はそう考えて自宅に植えたところ、うまく育てられなかった。植物は手間をかけるほどに応えてはくれるが、人の理想どおりに育つとは限らない。人間の子育ても同じだ。親は経済力の許す限り、後年では金を積んでも買えない教育を充分につけさせようとし、そうして育つ者がみな人格者にはならない。人格は遺伝半分環境半分と言われるが、それはかなり曖昧な言い方で、よき遺伝、よき環境の定義は人によって考えが違う。何がよくてそうでないかは考え方次第だ。逆境に生まれればそれを糧とすればよく、その精いっぱいは植物にもある。与えられた条件でどうにか発芽し、生長して子孫を残そうとする。人間も同じで、そう考えると植物も動物も野生こそがあるべき姿で、ペットは奇形的環境にあると思える。現代文明は奇形をもてはやし気味で、その特別性、特殊性に価値があると思い込んでいる。奇人変人が尊ばれるのはおそらくどの文明にもあって、奇人変人は多くの人があたりまえと思っていることに疑問符を与える存在とみなされる点で価値があるのだが、この説明では不足かつ誤解を与えかねない。あたりまえと思っていることすなわち常識に異を唱える存在という意味と解釈してもまた足りず、奇人変人が持つ突出した才能は多くの人間すなわち平凡さに対して今後進化すべきひとつの道筋を示しているのではないかという期待が込められている。それはその奇人変人が人身御供として自分の生涯を費やしたように見えるのであればなおよく、そこには不遇に人生を送るという暗黙の了解がある。そういう奇人変人が遺伝と環境が半々で生まれるとして、やはりそれは何も説明しない。偶然生まれることを示す意味でも奇人変人であって、そのことを突然変異として人間は理解している。それはめったにないことだが、ゼロの可能性ではないところに希望がある。さて、今夜は満月だ。突然変異と言うほどではないが、ごく稀にとても印象深い女性がいる。親しくなると飽きるかもしれないが、美人でも顔がはっきりと思い出せない女性とは違って独特の味があり、そういう一見月並みそうで、そうではない女性に出会うと、世の中はあまりに広大でつくづく面白いと思う。70代半ばになってこんなことを書いている筆者は少なくても気は若いのだろう。筆者と同じように考えている女性はいるはずで、男女ともに何となく不思議な魅力を持つことは大切ではないか。それは突然変異か、遺伝と環境が半々で作り上げるのか。
