「
杉花粉 多過ぎるのが 困るなら 桜満開 誰しもくしゃみ」、「どこで見る 今年の桜 誰と見る ひとりはさびし 桜もさびし」、「寒かった 冬が遠のき よかったね 雀ほっそり 数は半減」、「早朝の 満開桜 ひとり占め 夢から覚めて 午後に花見に」

3月4日に嵐山の中ノ島公園の大時計のすぐそばにある八重桜の写真を撮り、
6日に投稿した。その桜は去年も注目し、撮影はしたがブログに載せていない写真がある。今年も同じことを繰り返しそうで、今日は同じ場所からの写真を4枚まとめて紹介する。上から順に19日、22日、26日、そして今日だ。撮影位置とカメラの角度はまちまちだが、投稿用にトリミングする際、奧の大時計の柱を写真中央に置いている。撮影時もそう思っているので、蕾が膨らんで行くこととは別に何時何分頃に撮影したか、すなわち嵯峨のスーパーに何時頃向かったかを記憶している。それは写真を見る人にはどうでもよく、開花とは無関係だ。時計ではなく日を示す「日計」であれば、写真と日付を見比べて開花が遅いか早いかがわかる。桜の開花は時刻よりも3、4月の日に関係するが、こうは言える。ある日の桜の開花状況を撮影するとして、それはある時刻の桜になるしかなく、その時刻の光が桜の形と色と共鳴する。しかしそれも話は半分以下で、光は天候と関係し、時刻との関係はその数分の一だろう。つまり今日の写真はある時刻の嵐山の天候の光による桜で、その背後には1日を取り上げても無数の同じ構図の写真の可能性がある。その無数から1枚ずつほぼ偶然に出会って撮影したという記録ゆえに、誰でも同じ場所に立って同じような写真が得られる。その意味で芸術でも何でもないが、だいたい写真とはそういうものだ。それはそうとして、筆者が渡月橋を北にわたるほぼ直前、今日の構図の写真を撮るのは自分個人の楽しみに過ぎず、今年は背後中央に大時計の文字盤を写し込みたいという思いになったが、去年はわざとその時計を外して撮影した。目障りであったからだ。その理由は前述のように時刻と開花は関係がないからだ。今年時計を写し込む気になったのは、ある意味では構図からそれを外すのが面倒であったからで、また写真の光の具合を時刻である程度は示せるかと思ったことによる。それでもほとんど美的効果を考えていないのは、4枚並べた場合、立ち位置が少しずつ異なることが示している。それでは組写真の面白さが減るが、以前書いたようにこの桜の蕾状態の細い枝の曲がり具合が面白いのであって、その意味で4日撮影の1枚で用は果たし、今日の4枚は惰性で撮ったことになる。しかし人生は惰性が大部分を占め、人はそれを意味ありげに思いたいものだ。蛇足ながら、今日の桜を撮影するのにそれなりに苦労、工夫している。すぐ近くに大勢の人がいることが多く、彼らを写し込まず、動きを邪魔をしない。写真は筆者と桜と時計の対話なのだ。
