「
漫談の ブログ二か月 休みなし 妻の帰りで 日常戻り」、「毎年の 賀状の切り絵 気になりつ 二か月遅れ 今年も仕上げ」、「話すこと 何もないこと 話題にし 切りなき話 ひとりで笑い」、「平安の 日常戻り 朝寝坊 日々は短し 夢の人生」

去年12月26日の夜に頭痛を訴える家内と救急車に乗って病院に行った。毎年年賀状の図案を左右対称の切り絵を作り、それをスキャンした画像をプリンターで印刷しているが、その作業を近年は大晦日かあるいは正月に入ってから行なうようになった。それほどいろいろなことで多忙と言えばそうなのだろうが、面倒臭い作業を後回しにする癖のためだ。その面倒臭い作業で最も大きなものは四半世紀前から書いている若冲論だが、その一方で新たな関心が湧き、そのために本などの資料をここ4,5年は集めている。家内の入院中、そして今も、つまり毎日だが、そうした執筆に関してのことは頭を去ったことがなく、このブログはその合間の気晴らしと言ってよい。家内の入院日から今日でちょうど2か月で、その間毎日欠かさず本ブログの投稿を続けたが、それは全く予期せぬ出来事に遭遇し、毎日筆者が何を考えてどう行動するかの日記めいたことを書くことで気分を落ち着かせる一方、自分の興味の広がりを客観視するにはよいと思ったからで、また意地のようなものもあった。簡単に言えばどこまで頑張れるかを確認したかった。しかし先月29日に家内は帰宅し、入院前と同じような生活が戻り、入院中の緊迫感は失せた。そのことはブログの内容に出ていると思うが、入院以前の日常が戻ったからには、筆者の思考や行動もそうなる。それで今日を区切りにひとまず2か月続いた「見舞い記」とそれに続く「日常への回帰記」を終える。今日の写真はそのためにふさわしいものを用意した。最初はつい先ほど仕上げた今年の年賀状の図案代わりに作った左右対称の切り絵で、久しぶりに、つまり1年ぶりに細かい作業をして仕上がりに不満な点がままあるが、切り直しする時間も体力もない。自作の「無事カエル」を中央下にこちら向きに配し、今年の正月に見た門松に倣って松竹梅とそして南天を左右に添える構図としたが、それではカエルの上部に空間がかなり生ずるので、そこに「平安無事」の四文字を強引に左右対称にして置き、またどの漢字にも起点などを縁起のよい勾玉の形とした。南天は松竹梅よりも目立たせ、その実は全体でトランプのダイヤの形に見えるようにした。その理由はこの2か月間の本ブログの読者にはわかる。ダイヤすなわち菱形を左右対称に配するのは「連理比翼」を暗示させ、またピエロの顔を思っているからでもあるが、この切り絵は家内の入退院を経てこそのもので、入院しなければ馬をデザインしたかもしれない。しかしそれは12年前にしたことで、毎年賀状のデザインには困るが、来年は今年の20枚足らずよりもっと少ないはずで、切り絵年賀状は止め時か。

文章にしろ、絵にしろ、手作業が好きな筆者は時計を見ずに数時間は没頭出来る。そこで家内はこのブログを読んでおらず、また筆者の作業中は話し相手がいないので、家内の方が先に認知症になるのではないかという不安が昨日よぎり、そのことを家内に話した。愛宕山登山を週に2、3日している近所のYさんは、最初奧さんも登っていたのが、体力の減退を訴えてYさんひとりとなった。登山仲間が出来たYさんはますます登山に熱中し、それに反比例する形で奧さんの認知症が悪化し、数年前に近くの施設に入った。陽気なYさんは午前中に奧さんを見舞い、笑顔でまた登山に出かけるが、奧さんの認知症が平気であるはずがない。筆者はもっと家内へのサービスをすべきで、ブログ執筆という純粋な遊びに熱中することは控えるべきだろう。つまり肝心の仕事、言い変えれば長年放置して最も面倒と思っている仕事をすべきで、今なお次々と買い込んでいる資料を駆使して若冲論、そして次に気になっている画家の論評をまとめ上げねばならない。それはよくわかっているが、膨大な資料の取捨選択にどこから手をつけ、またどう新たにまとめるべきかを、毎日こうした文章を書く一方で思案し続けている。それは言い変えればこうした文章を綴ることで芽生えるアイデアを待っていて、そのために一見無関係な本を読みもしている。鶴見俊輔の『限界芸術論』の最初の「芸術の発展」の最後に、鶴見はこう書く。「次にマス・コミュニケーションと限界芸術、サークルと限界芸術、日本の伝統と限界芸術の三章を書く予定だったが、これ以上書けなくなった。」これは体力の問題ではないだろう。他に書きたいことが芽生えて中断し、その後再開しようとしたところ、意欲が失せていたのではないか。あることを論じるのに熱中して書ける年月はせいぜい数年ではないか。それを超えるとほかに関心が移り、同じ熱意でまた後半を書くことは出来ない。それはさておき、頸草書房からの『限界芸術論』は筆者の『大ザッパ論』に通ずるところがあるが、筆者は鶴見のこの本を知らずに『大ザッパ論』の題名を考えた。それはさておき、表紙中央の明朝体の題名は見事で、これはレタリング・デザイナーが描いたはずだ。この本は今は平凡社から出ているが、その表紙の題名の明朝体は頸草書房のものを使えず、活字を組み合わせたものに見える。それが味気ないと言えば、あまりに些細なことと思う人が多いと思うが、美意識はわずかな差異に気づくことだ。さて、去年12月26日から今日の投稿まで、段落数の合計が142で原稿用紙に換算すると426枚で、写真は計167枚になる。『限界芸術論』は1頁当たり原稿2枚で、167枚の写真の占める面積をどうするかにもよるが、この2か月のブログを本にすると『限界芸術論』と同じくらいの厚さになりそうだ。1冊だけ作って家内に読ませる考えがあるが、視力がまだ戻らない。

