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●「川向こう 行って戻れば 知は増すも 三途の川は 越えて帰れず」
安の ありがたさ知る 大晦日 生の辛さを ひとまず忘れ」、「葉を落とし 脳血管の 大樹かな 人より長く 生きて動かず」、「自己流で 生きて得られぬ ことあれど 縁なきことに 興味は湧かず」、「限りある 生と知りつつ 朝寝坊 高齢なれば 誰も気にせず」
●「川向こう 行って戻れば 知は増すも 三途の川は 越えて帰れず」_d0053294_01003504.jpg
今日は午前中に嵯峨に買い物に行き、2枚の写真を撮った。最初のものは渡月橋北詰の桂川左岸にある巨木で、2本あるうちの下流側のものだ。去年だったか、道路側に張り出した枝がかなり切り取られた。たぶん腐食が見つかったので、風で折れて落下し、下を走る車や歩行者に被害が及びかねないと判断された。この2本の巨木は渡月橋付近では眺めを印象づける重要なもので、樹齢は百年を超えるはずだ。この木とともにある女性の写真を撮りたいと思ったことがある。その夢の実現はさほど難しくない。その女性を使ってどういう写真を撮りたいかと言えば、左右2枚もしくは上下左右4枚組で、いずれの場合も筆者を見つめる笑顔の彼女を太い幹の背後から上半身だけ覗かせる。他の写真は彼女が幹の背後に隠れて姿が見えない状態だ。上下左右に並べる場合、3枚は同じ写真を使う。これはルネ・マグリットの絵画を念頭に置いている。太い幹だけの写真を、それのみ単独で見る人は彼女の存在がわからないが、彼女が写っている写真とセットにすると、彼女のいない写真は彼女が幹の背後にいることを想像し、写っていないだけで存在感は感じられる。この「いない」のに「いる」という感覚は人間に生きる勇気を与えるのではないか。確かに喪失感はあるが、その一方で彼女を巨木とともに撮影した記憶は消えない。筆者は彼女を実際に嵐山に呼び、巨木とともに撮りたいと思っているだけで、たぶんその機会はない。どうしても撮りたいという気持ちはない。彼女が嵐山に来ればついでに撮りたいと思うだけで、頭の中ではその写真は何年も前に仕上がっている。想像のとおりにポーズを取らせ、撮影するのみで、筆者の想念の中ではその写真は完成している。彼女ではなくて家内では駄目かとなると、家内では何となく怖い。家内の姿が怖いというのではない。家内がいる写真とそうではない写真をセットにすることは、家内が現実にいないことの方をより連想するからだ。もともと彼女は筆者が話そうと思えば出来る存在だが、家内のように、あるいは恋人のように深い関係になることは妄想すらしない。したがって一瞬巨木の背後から上半身を覗かせて筆者に笑顔を送る様子と、幹の背後に隠れている様子の2枚の写真を撮ることは、筆者だけの存在でありながら手の届かないところにいることを確認するのによく、もっと言えば筆者の望む形で写真を撮ることによって彼女の偶像を永遠化出来る気がしている。つまり彼女は筆者の作品の素材であって、しかも彼女の美しさはその巨木と同じほどに長生きするものという、彼女に対する賛辞だ。
●「川向こう 行って戻れば 知は増すも 三途の川は 越えて帰れず」_d0053294_01005796.jpg そうであるだけに彼女が年齢を今以上に重ねれば撮る気は起らないかもしれない。さて彼女がどのように年齢を重ねて美を損なうか、あるいは若さだけの美ではないものを獲得するかは予想がつかない。そうであるだけに今のうちに彼女を嵐山に呼ぼうと思わないでもないが、その図々しさはない。家内への遠慮からではない。家内も彼女に会ったことがあり、筆者が先のような写真を撮ることに嫉妬はしない。それに写真を撮るとしてもシャッターを二度押すだけで、ごく簡単な行為だ。しかし彼女が幹の背後に隠れている写真は、絶対に彼女が幹から上半身を覗かせる時の直前か直後でなければならない。話を変える。葉を全部落とした巨木はCTスキャンによる脳血管の三次元写真を想起させる。この巨木は地面から突き出た巨大な頭で、それは何を考えているのか。2週間ほど前、すぐ近くの84歳の男性と2時間近く話をした。男性は会話の最初の方で「家内が植物人間になりましてなあ」と言ったが、植物人間は植物にように動くことが出来ないだけで意識はあると受け取ればいいのか、それとも夢を見ているような状態で自分の周囲のことが何ひとつわからないのか、この問いに医師はどう答えるのか。そこで樹木や草花はどういう意識を持っているのかと思う。樹木に人間のような意識があれば、枝を伐採されることは拷問ではないか。盆栽とはじっくりと拷問を続け、奇形を楽しむ行為ではないか。植物に意識があるはずがないと考える人は、植物が春になれば芽吹き、秋に実をつけることを単なる化学反応と言うのか。化学反応を言えば食べて糞をする動物や人間もそうではないか。植物人間になった家族を安楽死させることを望む身内がどれほどの割合いるのか知らないが、植物にも意識があると思えば、終日寝たきりで眠っている人をその状態から解放して死に至らせることは出来ないのではないか。植物人間になって本人は苦しんでいると思うことが正しいかどうかはわからない。先の巨木と女性の写真は「いる」と「いない」を組み合わせ、「いない」は実際には写っていないだけで「いる」ことを知っているのであって、不在は存在と密接に組めば存在になる。植物人間になった家族を安楽死させても元気な頃の思い出は残るが、本人が自分で息を引き取るのはよくても、身内は安楽死に対して殺人という意識がわずかでもあるから、病院に入れたままにさせておく。今日の2枚目の写真は/去年栴檀の実が大量に落ちていた歩道から桂川右岸の実をつける栴檀の巨木を遠く臨んだ。「あっち」と「こっち」は入れ替えが可能だが、人間の生死は一方通行と思われている。「いない」ことが「いる」と感じられることは普通に誰にでもある。そのことを最近読んだ鶴見俊輔の本はこう書く。「この自分もまた、近いうちに故人となり、そのときには、この能見物人の全体が、この世に支えをもたないひとつの浮島となるだろう。」

by uuuzen | 2025-12-31 23:59 | ●新・嵐山だより
●「動脈の 瘤に似たるや 烏瓜... >> << ●「南天の 実の玉の照り 力あ...

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