「
教えらる 咲いては枯れて また咲いて 命は無限 夢幻の花や」、「多種多様 生きる争い 果てしなく 憑かれ疲れて 世代交代」、「偶さかの 出会いで生まれ 偶さかに 出会う人々 定めと思い」、「食えぬ花 役に立たぬと 薬撒き 汚染まみれに ヒトは苦しみ」

先月14日に初めて投稿した嵐電の車折神社前駅の北側プラットフォームの東端の、終日陽当たりがよい場所に咲く鶏頭の花は、その後何度も写生に出かけ、今日はその最終日となるだろう。充分描き切ったからではなく、花の枯れがひどくなって来たからでもない。その鶏頭を育てている奧さんが少しずつ手を入れ、鉢のひとつを玄関扉のすぐ脇に移動したり、また分岐している茎枝を切ったりしたからだ。いずれ処分するならその日に全部もらえないかとよほど何度か相談しようと思いながら、図々しいと思われるのが嫌で言っていない。持ち帰れば机上で観察、写生が出来ていいが、その花は死体で、あまりいい気分ではない。土に根づいて立っている状態に対峙してこっちも立ったままであり、花から「しっかり描けよ」と監視されているような気分になるのがよい。今日の最初の写真は先月27日の撮影で、それ以降、切り取られた茎枝がいくつかあった。枝葉の密集状態が緩和されて観察しやすい、つまり描きやすくなったとは言えもするが、残りは明日描こうと決めていた枝茎がなくなっていることが何度かあった。奧さんは花輪作りを好み、筆者が写生しいている間、家の中からひとつ持って来て見せてくれた。そこにある鮮やかな赤を指して、「これはここに咲いた鶏頭」と教えられたので、筆者が写生に通っている間に切り取られた茎枝はゴミ箱行きになったのではないかもしれない。2枚目の縦長写真は今月3日に撮った。鉢が移動させられたのは玄関のすぐ脇の北向きの日陰で、その鉢の前に立って写生するのは図々しい気がするので撮影だけに留めた。しかし鉢の移動は筆者が描きやすいとの配慮かもしれない。ここ数日は花を育てている奧さんはめったに外に出て来ないが、先日は筆者が描いている姿を見てすぐに家の中に入り、「まだ描いているで」とご主人に大きな声で伝えている声が窓から聞こえた。筆者の熱心さは認めつつ、よほどの変わり者と思っているだろう。しかし奧さんは「うちの旦那は変わりもんやから」と話してくれたので、変わり者が嫌いではないようだ。筆者は来年も同じように咲いてくれることを当然期待し、奧さんにそのように伝えると、「来年はどうなるかわからへん」との返事だ。それは同感だ。来年同じ場所に鶏頭の種子が蒔かれるとして、今年のような「お化け鶏頭」には育たない気がする。それで小雨が降っても写生に出かけて来た。めったに見かけないというより初めて見た立派な鶏頭で、今のうちに描いておかねば明日はどうなるかわからないという焦りがあった。それで視点を変えながら全体の8割くらいは描き切った気はしている。

明日から筆者は写生しない可能性が大だが、すぐ北のスーパーには数日於きに行くので、ついでに立ち寄って鶏頭がどうなっているのかを確かめられる。だが奧さんは筆者の姿が見えないとなればすぐに全部処分するだろう。何日も前から、「もういい加減に全部根こそぎしたい」と何度か筆者に言っていたからだ。筆者が粘り強く連日訪れるので、そのままにしておこうという優しい思いだが、来年も描きに来てもらいたいとまでは思っていない雰囲気は伝わる。鶏頭以外に多くの種類の花を育てているので、来年は別の花になっても不思議でない。それに「お化け鶏頭」はわずかに嵐電の敷地内に入り込んでいるので、奧さんは文句を言われたくないとの思いはあろう。それはさておき、2枚目の写真の鶏頭は筆者の背丈以上はあり、鶏頭は環境がよければ2メートルほどにはなる。そうなれば中央の茎から幾つも細い茎枝が分岐する。「お化け鶏頭」を写生しながら筆者が最も留意したのはその中央茎から枝茎が分岐する箇所だ。それは人間のくるぶしと同じで、分岐した枝茎の総重量に堪えるだけの力瘤が出来る。人間の膝の骨を思えばよい。その力瘤の極小は直径2,3ミリの細い茎から生える葉の元にある。そのことは写真でもわかるが、撮影時にそのような細部にまず目は行かない。ところが花や葉、茎のすべてを見て描く場合、どの細部も凝視して、特にその茎の分岐や茎と葉の接続部の力瘤は重力に耐える構造としてきわめて合理的、すなわち台風のような大きな風にもびくともしない頑丈さを持っていることに納得する。その伝で言えばもっと微細な植物の構造も力学的に安心という状態に必ず育って行くが、もちろんあまりにも巨大な外力が加わると大木でも根こそぎされるから、草花としての慎ましい力学的構造の範囲内での話だ。そういう植物の育ち方は鶏頭に限らず、すべての植物に言い得るが、画家がそうしたことをどこまで意識して描くかということに筆者は昔から関心がある。つまり前述の力瘤を全く無視した写実主義の絵画はあり得ず、仮にそうした絵があれば筆者はその画家は本質を何も見ていないと判断する。力瘤は細部のようだが、鶏頭の重力に反して屹立する力を最も端的に示す重要な構造で、その状態が過不足なく描かれることで、その絵の鶏頭は力学的に均衡を保ち、ゆえに堂々と生きていると思える。真の写実を目指さない、たとえば漫画であれば話は別だ。しかし、たとえばドーミエは人の顔や体を誇張して描きながら、筋肉が骨にどう被さっているかを熟知していて、鶏頭の言う力瘤の箇所を無視していない。「ゆるキャラ」は極限まで記号化した人体や動物で、力瘤を表現しようとは考えない。鶏頭も漫画的に単純化して描き進めるとなると、最初に無視されるのは力瘤だろう。そういう記号的絵画を見慣れた目からは、実物の鶏頭を目前にして写生しても力瘤が目に入らない。

花を描くことが第一義であれば、力瘤はかなりどうでもいいものとなる。力瘤は茎や葉に属し、重要ではないことを「枝葉」と表現するように、花の絵を描く場合の優先順位は低い。それは「お化け鶏頭」を日々描きながら、まず花を描き、下方に向かって描き進め、その途中で力瘤に目が自然と留まったことからも言える。また力瘤はどことなく恥部の印象もあり、筆者が「お化け鶏頭」の写生を元に高さ170センチの屏風を製作するとして、当然力瘤は無視しないが、さりとてそれをかなり目立たせる思いはない。よく知っていながら、本番ではさりげなく表現するという態度だ。そのさりげない態度の陰に多大の思考がある。話を戻して、花を迫真的に描くのであれば、花以外のたとえば力瘤も意識して描き込むことでより自然に近くなり得る。草花ではなく、花木であれば、幹と枝の分岐箇所に力瘤がない場合が普通だが、それは木部に分かれた枝の重力を支える力があるからで、その分岐枝にたとえば人や大きな猿が乗ると、分岐箇所は割けてしまう。したがって木よりも草花を描くほうが細部に注意を払うべきと言える。日本は意匠化の果てに現在の「ゆるキャラ」や漫画ブームがあるが、前述の力瘤を重力に耐え得る大きさと形、言い換えれば自然らしく描きつつ、その鶏頭の全体図が迫真的であるような写実画は求められて来なかった。あるとすれば図鑑に採用する植物画で、それはそれで昔から筆者は大いに関心があるが、意匠化の伝統上に写実性の復活ないし写実の加味という方法がないものか。筆者の写生は常にその思いが根底にある。それは単純な記号に向かう意匠化の果ての漫画を否定する考えで、漫画が無視して来た「物」の重力との兼ね合いゆえの構造を意識する態度だ。その力学的な安定感は絵画の構図に反映するはずで、そう考える筆者は安定構図の絵を好むとことになるが、安定を言い始めると、植物と違って人間は動き回るから、絵画や彫刻では動性を表現すべきという意見が出て来る。ギリシア・アルカイク期の彫刻は、ほとんど直立で動きに乏しく、それを知っていた当時の彫刻家は人の顔の口元をほころばせて笑みを表現した。鑑賞者はその笑む口元に吸い寄せられ、彫像全体の動きの乏しさをあまり感じない。だが口元でわずかな動きを表現する思いは、やがてもっと動きを感じさせるポーズを表わすことに向かう。そういうこともぼんやり考えながら、一方で日本の意匠化の伝統にも留意し、筆者独自の友禅模様としての鶏頭画が表現出来ないかと思い続けている。出尽くしたように見える記号化の単純性の極限をどう組み合わせたところで斬新な表現は生まれない。基本は写生であり、それは実物の細部を凝視して自然の中でどう形を安定させて生きているかを知ることだ。今日の3枚目は雨天の写生で、先月15,6日に描いた。4枚目は雨がさらにひどい18日に描いた。水色の円で囲ったのが力瘤だ。

