「
体操の 必要はなし 植物は ゆらりゆらりと 風に任せて」、「寝たきりの 人でももらう 元気さを 鶏頭の花 長らく保ち」、「鶏頭の 花ややこしき 形して 古式で描き すっきりと見え」、 「花が咲く それを笑みとは 知らぬ人 厳めし顔に 烏が嗤い」
先月19日、
20日は地元でたまたま見かけた鶏頭の花の写真を投稿した。17、18、20日に写生に出かけ、写真も撮った。それで目下新たな場所で咲く鶏頭を探している。自分で種子から育ててもなかなか気に入った形の花が咲いてくれず、それどころか背丈がかなり貧弱だ。裏庭には高い木がいくつかあって地面への日当たり不足はわかっているが、自分の土地で育てるのであればもう無理だろう。それはそうと、鶏頭の花を描いてもほとんど見返さない。写真のほうが精密かつ色もついていて、写生は不要なもののようだが、写真を見て描くのは隔靴掻痒で、ほとんど意味はない。実物を前に描く写生は、1から10まで揃っている対象、いわば完璧なそれから幾分かを選んで紙に定着させる行為で、自然を割り引く行為だが、ならば1から10まで写っている写真がいいではないかとの意見があろう。ここで留意すべきは、現物の何割かを描く行為は自分の選択によるから、その意味で現物を解釈する個性の発露となる。絵画とはそういうものだ。現物の何割しか描き切れないことは、写真を元にそれそっくりに描くことに比べればいわゆる「下手くそ」と思われるかもしれないが、もちろんそういうスーパー・リアリズム絵画を求められれば描ける自信があってのことで、それを自覚したうえでそういう絵は面白くないと思っている。また実物の何割かを描くことは、現場で立ったままであり、時間を気にする必要もままあって、そうならざるを得ないからだが、案外室内でゆったりと写生しても現物の何割しか描き留められない。その行為は筆者の場合、なるべく現物そっくりに描く姿勢があるものの、描きながら対象の構造を分析し、また順次記憶している。それが進むと慣れが生じ、やがて他人が見れば現物とはあまり似ていない絵になる場合もあるだろう。筆者はそこまで自分流に記号化して対象をいわば歪曲しないが、作家としてのわかりやすい個性を発揮するという野心のようなものを多く抱えると、安易な記号化に走りやすく、克明写生の必要を感じなくなるだろう。漫画で言えば型を作り上げることで、そうなれば実際の人物などを目の前にして精密写生をする必要を感じない。さて、精密という言葉を使った。これは描き手の考えによって大きな差がある。スーパー・リアリズム画家なら細胞レベルまで描こうという気になるだろうが、筆者はそこまで執着はない。実物を前に正確に描くことに努めても、あちこちいい加減で、全体の雰囲気が後でわかればよい。また鉛筆写生であるから実物の色はほとんど気にしない。写生中にどんどん光の当たり具合が変化して色の濃度が変わるからだ。

厳密に言えば同じ形の花は存在しないから、写実主義を標榜するなら同じ種類の花だけに絞っても何千枚と絵が出来る理屈だが、画家も飽きるから、同じ画題のみを描き続ける気にはなれない。また何度も描いていると好みの形や色が固定化され、それがその画家にとっての記号化であり個性となる。筆者はなるべく珍しい鶏頭の花をここ数年描いているが、たとえば桜や楓のような単純な記号化にはなりにくい形の多様性を知って戸惑いがある。毎年のように初めて見る形の鶏頭があり、それらを納得出来るまで網羅するのにこれから何年要するか見当がつかない。そこである程度写生がたまれば本作品に取りかかるつもりだが、その時にもおそらく戸惑いはあろう。それはたとえば筆者が面白いと思った鶏頭のさまざまな形の花を並べるとして、それらを各々それなりに写生に忠実に描かなければおそらく面白くない、あるいは自分で納得出来ないという気がするからだ。しかし筆者は友禅染めで作品を作りたいので、写実にかなり忠実であってもいいが、一方で友禅の伝統である意匠化をある程度施したい思いが強くある。その意匠化とは言葉を変えれば記号化だ。もっとわかりやすく言えば漫画化になるが、すでに先人による鶏頭の花の意匠化は行なわれていて、それらに匹敵するには写実により傾くしかないだろう。実物を目の前にしての写生において、見えるまま忠実に描く意識の一方、その写生をどのように単純化、すなわち花の成り立ちの仕組みを考慮しての記号化を行ない得るかを忘れてはいない。それはひたすら実物に忠実に写生することにいささかの雑念が入る余地があるとの非難を受けるかもしれない。それに最終的に独自の記号的文様を獲得したいのであれば、写生は不要で、実物を凝視するだけでもよいと言える。しかし自分の手と指を目と連関させて描き進むことは、凝視以上の効果を得る。視覚したものは忘れやすいが、写生はそのままの形で残り、描いた時の記憶が蘇るからだ。実は鶏頭の写生の話をこうして書きながら、思い浮かべているのは蕭白の山水画だ。それらはみな実際の風景ではなく、風景を要素ごとに分解し、それらを独自の記号として積み木のように組み上げた絵だ。その記号は100か200か、多いとしても限りはある。それらをどのように組み立てればどのような幻想的な山水画になるかの実験を蕭白は繰り返した。ブルトンがシュルレアリスムを唱える百年以上も前、蕭白は自作がレアリスムを越えることを意識し、現実の各対象を独自の記号化と筆法で捉え、それらを自在に組み立てて現実を越える一種凝固した夢のような世界を描いた。その蕭白の山水画における導き出された各要素の独自な記号を、筆者は鶏頭のさまざまな花の写生から導き出し、それらを組み上げることで個性的な鶏頭画を得たいと思っている。今日の最初の写生は先月18日、2枚目は20日に描いた。

