「
季語のない 歌に使わる 畸語目立ち これぞモダンと 奇声を浴びて」、「猪名川の 漁師描くや 呉春画は 京に珍し 面構えあり」、「変わらぬは 川の流れと 蘆の群れ 渡し舟消え 大橋架かり」、「初めての 駅から向かう 電車にて 妻待つ場所を 想い巡らす」

昨日の最後の写真の下側に写る男性の後ろ姿、その後どんどん小さくなった。筆者は早足だがその男性を追い越すつもりは全くなく、男性がどこへ行くのかという関心もあったので、なるべくゆっくりと歩いた。それは前方のそれまでとは違った視野が大きく広がる景色を味わう思いも作用した。男性は今日の地図のJ地点すなわち箕面川に架かる「下河原上橋」を北へとわたった。その様子を筆者はI地点ほどで遠くに眺めた。男性は橋をわたっている間に一度筆者のほうを眺めた。そしてそのまま進んでやがて姿は見えなくなった。食事か買い物だろう。筆者の目的は西国街道歩きなので、川沿いにそのまま歩き、男性が利用した橋の先に見えていた別の、そしてやや大きな橋をわたることにした。すると地図のK地点で左の土手に上がる30段ほどの新しい階段があった。それを上がり切ったところに何やらもモニュメントがあるので、階段を上った。その場所の名前は筆者が印刷した地図ではほとんど見えなかったが、帰宅後に「エアフロントオアシス下河原」と呼ばれる公園であることを知った。歩きながら伊丹市に入っていることに気づかず、またその階段を上がって前方に広がる景色が伊丹空港であることも即座にわからなかったが、望遠レンズを装備したカメラマンがひとりいたので、同飛行場であることを知った。今思えば、昨日書いた迷い込んだ脇道の南端の先に大きなレーダーらしきものがあったのは、伊丹空港関係のものだろう。階段を上ってすぐに眼前に飛行場であることが一瞬わからなかったのは、飛行機がそこにも上空にも一機もなく、また飛行場内を走る専用車も見えなかったからだ。それに何年か前、NHKの『ドキュメント72時間』という番組で伊丹空港から飛び立つジェット機を真下から見上げる公園を取り上げ、その記憶とは大きく違ったからでもある。そこで今調べると、伊丹空港から飛行機が飛び立って滑走路から舞い上がるのは「エアフロント…」のある空港北西部ではなく、南東の豊中市に属する場所だ。そこに行けば飛行機の離陸を真下から迫力満点で味わえる。カメラマンもその場所のほうが多い気がするが、飛行機の腹の真下から撮影しても面白い写真は撮れないか。それで「エアフロント…」にひとりカメラマンが離着陸を待っていたのだろう。その場所なら飛行機を横から撮影出来る。それはともかく、伊丹市側として空港の建物とは別にこうした公園を造って無料で離着陸を眺められる場所の整備の必要を感じたのだろう。今日の最初の写真は「エアフロント…」からの空港の全景で、下の写真は上の写真の左手を拡大したものだ。

「エアフロント…」の階段を下りて箕面川沿いをさらに進むとまた右手に橋があり、地図のそのL地点から北にわたった。JからLまで歩く間、2,3台の車と擦れ違ったのみで、車の往来はとても少ない。Lは西国街道の途切れで、その先に猪名川がある。橋をわたらずに直進すると、自然と猪名川左岸の道路に至って南下することになるが、それは西国街道ではない。おそらく江戸時代にはL地点を直進すると、猪名川の右岸への渡し舟があったのだろう。地図を見るとLのすぐ先は墓地で、それはかなり古いものではないだろうか。西国街道歩きをなるべく長く味わうにはその墓地やさらに西の河川敷やその少し先の箕面川と猪名川の合流地点を目の当たりにしておくべきであったが、筆者が持参した地図ではその辺りまでを含んでいなかった。それでJR北伊丹駅をひたすら目指すのみと思い、L地点から歩道の分離のない幅広の橋を越えてM地点に至った。途中の右手には大きな駐車場があって多くの自動車が停まっていた。それは近くに大型ショッピング・モールがあるためではなく、地図からダイハツの自動車販売店であることがわかる。車に関心のない筆者でも、池田市にダイハツの自動車工場があることは聞いたことがある。地図を見ると、Mから北500メートルほどが「ダイハツ町」で、ダイハツ工業本社や池田市の下水処理場がある。こういうことは西国街道歩き前には調べず、いささか損した気分もあるが、ブログに投稿する際に気づくことも学習で、せっかく歩いたことの元は取った気分になる。さて、M地点辺りは少し民家があって、狭い道の坂を上ると国道171号線が走っている。地図では池田市側は大阪中央環状線、伊丹市側は171号線と記されるように思えるが、よく見ると171号線は阪急石橋阪大前駅の200メートルほど北を東西に真っすぐ走り、池田市西部のダイハツ本社の真横を直角に南北、つまり猪名川の流れにほぼ沿い、今日の地図のH地点よりわずか北で東西を走る「豊島南住吉線」に合流している。それはともかく、また171号線沿いを歩くことになった。その南側の歩道は猪名川に架かる大きな橋に向かって上り坂になっている。この橋をわたっている間に、徒歩あるいは自転車で利用する人と擦れ違い、また追い越されたので、池田市と伊丹市の住民双方が行き来していることがわかるが、橋の名が「軍行橋」であることは、戦前はなかったか、もっと小さな橋であったのだろう。軍が使用するとは、近くに伊丹空港から戦闘機が飛び立ったからか。今WIKIPEDIAを読むと、1939年(昭和14)の日中戦争勃発直後に開港し、軍民共用飛行場であったものが、2年後の真珠湾攻撃以降は近畿圏における主要な陸軍飛行場になったとある。今は大阪国際空港となって筆者も何度かこの空港から海外を往復したことがあるが、今回の投稿で少しはこの空港の歴史を知った。

猪名川は昔から気になりながらその流れを目前にしたことがなかった。設計会社に勤務していた半世紀ほど前、同じ課にいた池田の実家から通勤している女性に気に入られたのか、真夏の夜、家に誘われた。そして両親に面会したところ、家族全員笑顔でもてなされた。食事はせずにすぐに帰ったが、その女性の家に向かう途中、日本酒「呉春」の蔵元があって彼女はその酒が甘くておいしいと言った。筆者が実際に飲んだのはその数年後で、確かに甘かった。それから間もなく至文堂『日本の美術』の「呉春」の号を買い、呉春の絵が好きになって絵を買い始め、たぶん20点近く所有し、その中で同じ図柄の3点が特に気に入っている。それは呉春が30歳頃に池田に住んで描いた、猪名川での漁師の帰途に着く図だ。その主役となっている猟師の顔が写生を元にしたことが確実なほどに味わい深く、呉春の当時の絵は師匠の蕪村にはない闊達な表現力を持っている。ともかく猪名川の漁師に実際に会って描いたはずの呉春を思うと、猪名川を目の当たりにしたかった。それが今日の2枚目下の写真のようにようやく思いがかなった。この写真は橋の下流側の歩道を歩きながら橋の半ばで南東を向いて撮った。今にして思えば、オレンジ色のクレーンのような2基は箕面川との合流地点の堰ではないか。護岸がコンクリートであるのは当然として、河川敷には蘆やその他の草がたくさん生えていて、呉春が見た景色はまだかなり残っているだろう。また呉春はもっと上流でこの川に何度も訪れたはずで、池田市北部からこの川を間近に見る機会を持ちたいものだ。さて、橋をわたれば下り坂で、左手にエディオンが見えた。坂を降り切り、その先の信号を右折すればJR北伊丹駅だ。そのプラットフォームで10分ほど待っていると電車がやって来た。後は家内の待つ阪急梅田の「動く歩道」の南端にある2か所のベンチに向かうのみ。時計を持たない筆者だが、3時半の待ち合わせに充分間に合い、大阪駅に着いたのは3時5分ほどだ。ベンチに着くと席は空いていたが、そこに座ると視線は南に向かう。家内はたぶん百貨店から出て来るだろう。しかし大勢の人が洪水のように行き来するのに家内の姿が見えない。ひょっとすれば具合がさらに悪くなって病院に運び込まれたか。20分ほどの間にやきもきしてベンチに座っていられなくなり、腕組みして仁王立ちし、顔を南に向け続けた。すると雑沓に混じって家内の姿が見えた。「3時半でしょう。それまで百貨店にいたわ」すっかり元気を取り戻し、吐いている最中に石橋住民の何人かから大丈夫ですかと声をかけられたことを嬉しそうに言う。今回の西国街道歩きは飛行場を見晴らしのよい丘から眺められたこと以外、家内が喜びそうなことはなかった。それにまた道に迷ったことを伝えれば、「行かんといてよかったわ」と言われるに決まっている。

