2日に東福寺に行って来たことは先日書いた。4月29日の読売新聞朝刊に、京都の各寺社での特別拝観や寺宝展の案内記事があった。
その中に写真が2点掲載され、ひとつは東福寺での明兆展のもので、白衣観音像の大きな掛軸とその前で佇む女性と管長の姿が写っていた。これを見て即座に行くことを決めた。記事には簡単に同展の紹介がある。「室町時代に同寺を中心に活躍した画僧、明兆(1352-1431)の代表作を125年ぶりに一堂に公開する。明兆は、中国宋や元の画風を学び、禅宗水墨画の先駆者。今回は「達磨図」や「五百羅漢図」(ともに重文)など重文9点を含む約20点を展示する…」。東福寺には長く行ったことがないが、それよりも明兆の作品が間近で見られるのが珍しい。京都国立博物館の常設展でもよく展示されているが、明兆がずっと住んだ寺で、しかもガラス越しでなくて見られる機会はそうはない。今回は125年ぶりの代表作の公開で、しかも10日ほどの展示であるというのに、チラシも作られなければ全く宣伝もされていないも同然で、もし朝刊を見なければそのまま知ることはなかった。京都の寺社では春と秋に普通では見られない場所を特別公開しているが、それに合わせた形の今回の明兆展と言ってよい。だが、そうした恒例の特別公開寺社とは一線を画しているのか、共通入場券では入れず、しかも倍近い料金となっていた。庭園や方丈を合わせて見る1200円と1500円のコースがあったが、明兆の絵が鑑賞出来ればそれでよいので安い方にした。展示室は枯山水の広い庭園のすぐ背後の古い木造で、30畳ほどだろうか、天井も普通の家と同じほどであるため、先の白衣観音像の下端は巻き上げられて見えなくなっていた。自然光がほとんど入らないが電球の光で、それもちょうど明兆が描いていたかのような部屋で間近に見るのは雰囲気と迫力が違う。博物館ではこうは行かない。絵は、それが最初にあった場所に限りなく近いところで見ることに限る。明兆に関してはほとんど知識がなかったが、展示されていた中に明兆の自画像があり、それを見た瞬間、どこかで見た記憶が蘇り、「そうか、これが明兆だったのか…」という感慨が湧き起こった。いつどこで見たかは忘れているが、顔には確かに覚えがある。
その自画像は明兆が描いたものの模写の模写だ。だが、よく出来ている。おそらく全く同じように描かれたはずで、明兆の人柄がよく表われている。一言すれば「真面目一徹」になる。今でもごく普通に見かける顔だが、何かが確実に違う。目が鋭いと言うのでもないが、とにかく目のあたりには素朴かつ真剣さが露になっていて、それは現代人にはもう見られないものと言ってよい。このあまり大きくない上半身を描いた自画像1点を見ただけで、明兆がどのような絵を描いたかがわかる。日本のフラ・アンジェリコとたとえられるらしいが、そのとおりだ。明兆よりやや時代が下がって雪舟(1420-1506)がいるが、雪舟の人生経験豊富などことなく商売人っぽい表情とは大違いで、売名を考えず、野心もなく、ひたすら寺で要する絵を描き続けた職人肌を伝える。その自画像は「水鏡」と称されて大切にされて来たらしいが、原本は永徳3年(1393)、32歳の時に描かれた。その後消失し、今残っているのは天明5年(1785)に住吉廣行によって描かれたものだ。上部に長い賛があって、それによれば五百羅漢像の制作のために故郷淡路島に帰れないため、顔を水面に写して描き、病身の母のもとに送ったと言う。わずかに淡彩が施された水墨画で、衣の肩の部分に大きく破れた箇所がある。わざとらしいと言えばそうも思えるが、明兆の顔があまりにリアルであるから、これは実際そのような粗末な衣に身を包んでいたことを示すのだろう。寺での位は終生殿司役で、これは禅寺にあって堂塔の保全管理をする地位だ。堂内における祭事の装飾に供する絵を制作することも仕事に含まれていた。これは雪舟のように高い地位ではない。そのことは自画像の表情からも伝わる。それでも東福寺の絵と言えば明兆であるので、相国寺の若冲と同様、絵師の力は寺の生命と同じほど長く保つ。明兆の生涯は比較的よくわかっている。病に床にある母を見舞うために淡路島に帰れなかったのは、五百羅漢像を描いていた最中であったからだが、この著色画は1幅当たり10人の羅漢を描き、全部で50幅がセットになったものだ。その緻密な描写を見れば大変な労力を費やしたことがわかる。今回は2点だけが出ていたが、東福寺は45幅を所蔵し、残りのうち東京の根津美術館が2幅を所蔵するもので、全部が同じ保存状態ではなく、中にはかなり劣化しているものもあると聞いた。画集によればこの五百羅漢像の墨線のみの下絵も保存されているから、大きな火災に遇った割にはよく絵が保存されていると言うべきだ。ともかく50点の五百羅漢像を35歳の時に完成させ、明兆は人物画を描く才能をいかんなく周囲に知らせしめた。先の自画像からもわかるように、明兆は人物画に優れているのだ。それはとても室町時代とは思えないほど生々しい血が通っているように見える。
ここで簡単に東福寺について書いておく。鎌倉時代の嘉禎2年(1236)、摂政九条道家が祖父兼定のの菩提を願って建立を発願したもので、東大寺と興福寺からそれぞれ一字を取って名づけた。道家は寛永元年(1243)に円爾弁円を開山として招いた。円爾は仁治2年(1241)中国宋から帰って博多に寺を建て、禅密兼修の当代名声第一の学僧であった。創建当時は禅寺らしく宋風の七堂伽藍を備え、大日像以下五智如来を安置する五重塔や両界曼陀羅や真言八祖をまつる灌頂堂を持ち、天台真言祖師画像なども掲げる真言天台禅宗の3宗を総合する他に例のない壮大さで、江戸時代には建仁寺の「祖師面」、大徳寺の「茶人面」、妙心寺の「算盤面」と言われたのに対して「伽藍面」と呼ばれたほどであった。本尊釈迦如来は高さ50尺もあって「新大仏寺」の名声を博していたが、1319、1334、1336年に相次いで火災があり、1348年に幕府の援助などによって旧観を回復した。だが、明治14年12月16日の夜半に方丈から出火して仏殿、法堂、方丈、庫裏を焼いた。現在の法堂や方丈は昭和9年に竣工したもので、回廊は造られなかった。江戸時代の伽藍の様子を描く作品も今回は展示されていた。土塀の内側は右から山門、仏殿、法堂、方丈、開山堂などが回廊によってつながり、各所には紅葉が描かれ、今以上立派な様子がわかる。京都五山から一時排除されようしたこともあったが、室町を通じて五山の第4位として栄えた。今回125年ぶりの展示ということは、前回はちょうど方丈から出火した直前あたりになるが、明治17年(1884)に明兆450年遠忌記念が寺で催されていて、その時のことを指すかもしれない。この450年遠忌記念に京都の画家久保田米僊(1852-1906)が描いた「明兆大涅槃図制作と猫の図」が今回展示されていたが、それはいかにも円山・四条派の流れを汲むタッチで、それさえももう遠い昔になったことを思う。明兆の大涅槃図はあまりに大きいため、今回は展示し切れなかったが、それはとても有名なもので、大幅縮小の木版画にしたものを寺では売っているようだ。その方が何をどう描いているかよくわかるほどだが、よく見るとちゃんと猫が描き入れてある。これは涅槃図を描いている最中に猫がいつもやって来ていて、明兆がそれを描き加えた途端に猫はやって来なくなった。米僊はその言い伝えを描いたわけだが、真面目な明兆にも融通性があったことをうかがわせるこのエピソードは楽しい。遠い昔の絵師であっても現在と何ら変わらない。
展示室には女性ふたりと男性ひとりが係員として詰めていたが、女性は風邪がひどく、絶え間ない咳払いが気になって仕方なかった。だが、男性はとても親切で、いろいろと話しかけるとていねいに応えてくれた。部屋に入ってすぐ右手の壁面には大幅の「達磨図」を中心に左右に「蝦蟇図」「鉄拐図」がかかっていたが、「達磨図」のちょうど真向かいには最初に触れた「白衣観音図」があって、この2点は展示されていた中では最大で、シンメトリカルな構図、しかも人物が正面を向いている点でも共通し、最も迫力があった。よく見ると「蝦蟇図」の表装裂の一文字には、絵の上部の藤にかかった蔦がそのままの勢いで伸びて墨で描かれていた。これはとても珍しいことなので男性に質問したところ、初めて気づいたと言いつつ、きっと表具した後で明兆が加筆し、それを後代の改装においても絵の一部としてそのまま同じ一文字裂を使用したのであろうということで、筆者の考えと一致した。「蝦蟇図」「鉄拐図」と同じほど面白いのが「寒山図」「拾得図」で、明兆のタッチがよくわかる。「拾得図」は通常箒を持つ姿で描かれるが、ここでは腕を組んで手首を上方に向けている。ほかにはない身振りであるところが印象深い。明兆は先の五百羅漢像にしても、何か参考にする原本によってもっぱら描いたが、当然のことながら完全な模写ではなく、ある程度自由に描き変えることで新しさを出した。これは絵の題材に約束事がある道釈人物画の中での可能な限りでの創作で、現在の目から見ればいかにも職人仕事に思えるが、明兆の描く人物の表情にはリアル感が宿っており、模写から出発してもそこにはとどまらず、むしろ突き抜けた表現に到達していたから、やはり歴史に残る仕事をしたと言うべきだ。また、型どおりにしたがった絵ばかりを描いていたのではなく、たとえば「聖一国師像 岩上像」は実在の人物が岩上に座って寛ぐところを描くが、その一見して真に迫る表情や身の置き方は自画像と共通する鋭い透明さを感じさせ、明兆の落款がないにもかかわらず真筆とされる理由に納得が行く。この1点によっても明兆が現在でも充分通用する技術を持った画家であることがわかるが、同じ人物を描いたもう1点の著色画の「聖一国師像」はさらに人物描写の技量を伝える。国師は開山の円爾のことで、明兆より100年ほど前の人であるので実際に見ることはなかったが、右目を病んで失明したという事実にしたがって描いた。もう1点記憶に強く残ったのは、「四十祖のうち円鑑禅師像」だ。これは禅宗の初祖達磨大師から南宋の仏鑑禅師を経て、東福寺開山から14世天柱禅師までの漢和の40人の禅僧の上半身を描くものの1点で、達磨大師から2幅ずつが向かい合うように左右一対の構図になっている。円鑑禅師(1233-1308)もまた明兆は実際に出会えなかったが、絵に描かれる表情はすぐに語りかけて来るような迫真性があり、一度見れば忘れられない。鋭い顔ではなく、むしろ温かみがある。これはどれもこれも同じように見えてしまう頂相としては珍しく、それだけ明兆の画力があったのか、あるいは当時の禅宗ではまだそのような気迫のある人物がたくさんいたためか、ここには現代の画家が大いに考えなければならないことがあるように思う。絵は単に似ているとか、きれいな線が引けるという問題ではないのだ。そのことを明兆の絵ははっきりと伝えている。
さて、新聞記事に載った「白衣観音図」は現存する明兆の絵では「大涅槃図」に次いで大きい。しかし、かつての法堂には長さ30数メートルの龍を描いた天井画があったそうで、火事で焼けてしまった絵はそのほかにもたくさんあることをうかがわせる。また、各地に明兆作と伝える絵が多いらしいが、真筆とみなせるものは少ないと言う。「白衣観音図」は数点残っていて、それぞれに画風が違って明兆の技術の幅を示して面白い。ボストン美術館にも1点あって、それは70年代初めに日本にも来たことがあるが、明治の廃仏棄釈の折りには本当に重文クラスの名品が無数に海外に流出したことがわかる。どうせ当時の日本はそうした古画を二足三文と思っていたので、外国が買って大切に保存してくれなければもっと悪い結果になっていたかもしれないから、嘆いてばかりもおれないか。今回展示の「白衣観音図」は重文指定を受けていないが、天性寺にあるものとMOA(救世熱海)美術館蔵のものは重文で、どちらも顔の表情がよくて素晴らしい作品だ。またこの2点やボストンのものは観音様が斜め横を向くところを描くが、今回展示のものは真正面を向いている点で異質だ。画集によれば「伝明兆」となっている場合があるが、真筆であろう。係の男性に思い切っていつも携帯しているはがき大の写生帳に描いていいかどうか訊ねてみたところ快諾を得た。この作品の全体は画集にも載っているが、顔だけをアップに撮影したものはないし、明兆の心を知るには模写が一番だ。ガラス越しではないにしても、1メートル以上は近づけない。ずっと立ったままの姿勢でしかも消しゴムは使わず一発勝負。描いている間、急に眩暈がした。一瞬倒れそうになったがまさか絵に向かってでは駄目だ。思わず目をつぶると、眩暈ではなく、絵の方が揺れていた事がわかった。不思議なことだ。巨大な絵であるのになぜゆっくりと揺れるのだろう。それが3回ほど起こった。観音様は顔の右目を縦貫する長い折れ目があって、やや厳しい表情に見える。額がやや狭くなったが、それでもかなり近いところまで模写出来たと思う。下方にやや余白が残ったがこれは計算しておいた。そこに切手を貼って風景印を捺してもらうためだ。観音様を描いた後、すぐに寺を出て一番近い日赤の郵便局に行った。幸い風景印は東福寺の通天橋と楓をデザインしたものであった。自分で捺した。