「
ムスリムに なれば食えぬと 豚玉の お好み焼きを スリムな子焼く」、「無理ですと 言われて理屈 くどく説き それが無理とは 気づかぬ男」、「インドでは 神がアイドル 飽きられず 時代変わりて かわいさもあり」、「神様の 作って壊す 土遊び 子どもは神か どろんこ遊び」
去年11月28日の投稿の続きを書く。11月23日に「みんぱく」で見た展覧会で、写真撮影が自由であったのでたくさん撮った。ブログの投稿用に加工し、その全部を紹介出来なかったことが気がかりで、展覧会図録を入手してから続きを書いてもいいかと思っていたところ、先月ヤフオクで出品され、27日に落札出来た。それをざっと斜め読みし、未投稿写真を挟みながら書く。写真は7、8枚で、必要原稿は20数枚となるが、それ以上になる気がしている。さて、インドは仏教発祥の地で、その意味で日本とは深い縁がある。しかしインドではヒンドゥー教が圧倒的に信仰されている。もう20年ほどは会っていないが、筆者の知り合いの日本画家Yは毎年2月にインドを旅行し、画題を得ていた。2月のインドは最も過ごしやすく、また大学での年度末の仕事が一段落するので、旅行するのにつごうがよいと聞いた。Yの画題は仏教に因むインドの史跡で、インドで仏教が衰退しているのであれば遺跡を描くしかない。またそれも十全に保護されているのかどうか、日本の仏教寺院のような荘厳さはどこにもないはずで、画題はさびれた風景を描くことになると想像するが、そういう景色であっても仏教の源流を探りたい気持ちはわからなくはない。それにヒンドゥー教を画題にしたところで、日本人の好みに合わず、ヒンドゥー教の信者になることが具体的にどういうことかがよくわからない。日本はアジアでは最大かつ唯一の仏教国と言ってよいが、外国からは無宗教同然と見られているとよく言われる。そこには日本の仏教が宗教らしくないことへの批判が混じる。日本の日常生活において仏教がどれほど意識されているのかとなると、個人差が大きい。仏教以外の宗教を信仰している人もいるし、宗教を生活の中に導かない人もいる。そういう状況が外国でも同じかどうか、特にインドではどうかとなると、それはインドに何度も旅行してもよくわからないのではないか。インドに旅する日本人がインドの何に関心を抱くかはさまざまだが、たとえばヒンドゥー教に興味を持って出かけたとして、信者でなければ見過ごすことや誤解することは少なくないだろう。信者と書いたが、宗教は結局その信者にならねばよく見えて来ないところがあるはずだ。そう考えると、本展の展示物やその図版を収めた図録の図版や説明文を読んだところで、ヒンドゥー教を知識として、しかも断片的に触れるだけのことで、相変わらずヒンドゥー教の本質はわからない気がする。そのことはインドの人々が日本にやって来て仏教や神道の文物を目の当たりにして感じることと同じと言ってよい。

本展が紹介したヒンドゥー教の神々の像はどれもチープさに彩られ、日本で思う「聖なる」雰囲気は感じられない。しかしそれはインドのヒンドゥー教信者が煤で黒くなった仏像を寺の本堂の奧に小さく見た時に感じることと同じかもしれず、美意識の違いに過ぎないだろうが、偶像性を言う場合、インドの神々のそれは日本の仏像とは違う捉え方をされていて、物としての像そのものに価値を置いていない気がする。像が消耗すればまた新たに作ればよいとの考えで、日本の仏像のように何百年も保存してありがたがるという思いは乏しく見える。同じ偶像崇拝として、日本は偶像物崇拝で、物の貴重性に価値を置きがちだ。インドの神像の安っぽい印刷やどぎつい色合いに神々しさがさほど感じられないとして、それはインドが異国過ぎるからだ。インドを旅行すればその意識が変わるかもしれないが、筆者は懐疑的だ。村上華岳の若い頃の作品に「アジャンタ壁画模写」がある。華岳はインドを旅行しなかったので画集などの写真図版を元に描いたが、後年の華岳の仏画にアジャンタの壁画は大きな影響を与えた。インドでもうひとつ有名なエローラの壁画は、仏教以外にジャイナ教やヒンドゥー教も混じっているとされるが、インドの宗教を考える際、仏教が衰退してヒンドゥー教一色であるかのように、たとえば本展で紹介されることの理由を考える必要はある。本展図録は簡単ではあるが、ヒンドゥー教の歴史を概説する中で仏教にも触れている。それは後述するとして、日本の仏教徒のごく一部は原始仏教に関心を抱き、Yのようにインドを旅してその痕跡をたどる人もいるが、仏教の史跡はわずかに残っているとして、それらから最初期の仏教を想像することは難しいのではないか。結局は文化の吹き溜まりの日本に原始仏教の痕跡と呼べるものがある気がする。アジャンタの壁画に描かれる仏像は何度も模写を繰り返されて法隆寺の壁画になったとみなしてよく、もちろんそれはインド風から和風へという、気候に馴染んだ温和な変化はあるものの、図像としてはほとんど変更されなかったのではないか。もうひとつ筆者が漠然と思い浮かべることは、ヒンドゥー教の神像と密教の仏像との近似性だ。前者が後者に影響を与えたが、チベット密教の仏像や曼荼羅からはヒンドゥーの神々の造形的創造性の凄みがわかる。富士正晴がインドには想像を絶する宗教があるのだろうと書いたことは、お茶漬けをおいしいと思う日本の国民性からして、熱帯のその色鮮やかな植物や果実から連想されるように、あまりに神像が肉感的、官能的であると想像したからだ。田中一村が晩年に奄美で暮らして描いた絵からも熱帯の色合いの豊富さはわかるし、そこで繰り広げられる生殖も一言すれば派手であけすけという印象がある。画家のゴーギャンがタヒチで暮らしたこともそうした生と性の息吹きに憧れたからであろう。
華岳はインドの仏教をアジャンタの壁画の写真から想像しながら仏画を描くことを生涯のテーマとした。そこには日本女性しかモデルに出来ない限界内においての創造力の飛翔があり、和風でありながら、アジャンタの壁画にあるような妖艶さが感じられる。華岳がヒンドゥー教の神像についてどれほど知っていたのかとなると、神戸に住んでいたので貿易商がもたらすヒンドゥー教の神像に対するある程度の知識はあったに違いない。ただしそれを仏像とどう違うのかという突っ込んだ関心にまでは発展させなかったであろう。差異があるとして、それはインドと日本の差からして当然で、またヒンドゥー教の多面多臂の神像は日本の密教に例があって驚くに当たらなかったに違いないであろう。それでインドでは仏教はほとんど廃れたのに対し、ヒンドゥー教国家と言ってよいほどになっていることに疑問を抱いたかどうかとなると、華岳が日本の仏教をどう考えていたかに関係することで、そのことは華岳の仏画から想像するしかないとして、華岳は宮沢賢治のように仏教の特定の宗派に魅せられることがなかったのではないか。その点は真宗に接近した柳宗悦とは違う。となると華岳の仏画は仏教の本質と直接つながることを目的にしたもので、精神性に重点を置いたものであった。その精神性は仏教にもヒンドゥー教にも、またどの宗教にもあるものだが、日本の仏教は形骸化して金儲けの手段になっている側面があり、そこにヒンドゥー教を対峙させると、インドの大多数の民衆の信仰を集めているからには仏教にはない魅力があったことが想像出来る。そう考えると今後の日本はヒンドゥー教信者を増やす可能性があることになるが、それが実現するかどうかは誰にもわからない。そこで思い出すのは、70年代半ばだったか、『ミュージック・マガジン』でなかむらとうようがオレンジ色の僧侶の衣服を着た坊主頭の西洋人が東京都内で「ハレ・クリシュナ」を唱え歌い踊っていたことを批判していたことだ。言い回しは忘れたが、簡単に言えば「馬鹿じゃなかろか」で、その意見に筆者は同意しかねた。信仰の自由があり、他人に迷惑をかけていないからには、誰がどのような宗教を信じようが寛容さを示すべきだ。街頭でマントラを唱えながら舞う彼らを侮蔑するなら、ジョージ・ハリソンの「ハレ・クリシュナ」が執拗に繰り返される大ヒット曲「マイ・スウィート・ロード」の歌詞はどう評価するのか。もっとも、ヒンドゥー教をどこか模倣したオウム真理教はとんでもない事件を起こしたから、なかむらとうようは西洋人が日本で「ハレ・クリシュナ」と歌いながら目立つ存在であることに新興宗教にありがちのいかがわしさを感じたのかもしれない。話を戻して、どの宗教も精神性が基本で、華岳はそれが日本では仏教になるほかなく、ヒンドゥー教に対する信仰は仏教のそれと大同小異と思ったであろう。

ただし、先の言葉の繰り返しになるが、日本ではヒンドゥー教に対する印象はインド物産店に並ぶ神像の絵や小さな彫像に結びついて、神々しさは感じ取りにくい。こう書きながら思い浮かべるのは日本の七福神や宝舟を描いた御利益目的の護符などだ。それに朱印集めは神仏ともに昔から庶民に馴染みで、ヒンドゥー教の庶民性は日本にもある。そう捉えるとヒンドゥー教が理解しやすいのではないかと思うが、日本のそうした図像に深い精神性を思う人は少ないだろう。もっと深いものとして、神社や寺のたたずまいや仏像があるからだ。ところがヒンドゥー教には寺院は確かにあるとしても、日本のどの街や村にもある神社や寺院のように万単位の数はない。しかしこれは見方による。ヒンドゥー教信者は小さな絵や像を買って自分で豪華に飾り立て、それを置く場所を神聖なものとみなすから、神社や寺院よりはるかに多い数の聖なる場所が個人的に存在する。それだけ民衆の生活にヒンドゥー教が深く入り込んでいる。インドにおいて仏教はそうならなかった理由は知らないが、庶民を味方にすることにヒンドゥー教以上に成功しなかったからと考えるべきで、またその理由が何かはさまざまな説があるだろう。さて、ここで本展図録から仏教とヒンドゥー教の関わりの歴史を概説しておく。いきなりだが、「ヒンドゥー教とはいったいどういう宗教かということを説明するのは非常に難しい。」とあって、その一例として「主たる神や神の教えを伝えた人物、その聖典などがかなりはっきりしている」キリスト教やイスラーム教との違いが書かれる。ヒンドゥー教は時代によって主となる神が異なり、インドを支配したイスラーム教勢力やイギリスなどのヨーロッパ諸国の影響も受けた。また本展図録はインド北西部を調査地として文化人類学的な研究を行なった著者の視点により、それとは異なる説明や見解があるとの断りがある。ここでまた横道に逸れる。マルローが企画した叢書『形体の宇宙(人類の美術)』には当初インドの巻が予定されていた。それが何冊になるかわからない状態のまま同叢書は中国やイスラーム、日本などの巻は出版されずに完結したが、インドの巻を誰がどうまとめたかを想像すると、ふさわしい著者がインドや他国にいるのかとの疑問が浮かぶ。インドを形体すなわち美術の観点から図版入りで紹介するとして、古代インドのアジャンタやエローラの壁画は代表となるが、その後はどうかとなれば宗教による造形はヒンドゥー教のそれになる。本展の出品物がその代表にならずとも、おおよそヒンドゥー教の造形を網羅しているとみなしてよく、またそうであれば美術的価値があるのかとの疑問が湧く。インドの人々は他国の人からキッチュに見えても神体として心のより所にするのであって、美術品であるとの理由で信仰の対象にしていない。それを知ってなお『形体の宇宙』のインドの巻を想像することは楽しい。
本展図録から改変引用する。「「ヒンドゥー教」は「Hinduism」の和訳で、この「ヒンドゥー主義」は南アジアに暮らすムスリムではない人々の宗教的伝統を指して19世紀頃にイギリスで作られた言葉だ。また「ヒンドゥー」は古代ペルシア語で、インダス川より東に住む人々の意味であったが、インダス川より東は漠然とインドと呼ばれていたので、「Hinduism」は「インドの人々の宗教」という意味に直訳してよい。「ヒンドゥー教」に正確に対応するインドの伝統的な言葉はなく、近いものとしての(ヒンドゥー・)ダルマも、近代の西洋が作り上げた「宗教」が示す内容より幅が広く、法、義務、行為規範、権利、望ましい生き方などの意味合いを含むが、人がしたがうべきダルマは人の出自や性、身分、人生の団塊に応じて異なるとの考えが一般的で、どの信者にも当てはまる倫理や規範という意味での「宗教」とは違いがある。ヒンドゥー教は多様性に富み、多神教的なものから一神教、無神論まで幅広く、どれが正統で異端であるかははっきりとせず、誰もが認める権威や教会的な組織も存在しない。とはいえ、信仰、神々についておおまかな共通性が全く認められないということではない。」ここまで読むとかなりわかったような気になる。図録では次章の『ヒンドゥー教の歴史』が続き、それは「ヴェーダとバラモン」「バクティの思想」「ヨーガとタントラ」「植民地支配の影響」「現代インドに生きる宗教」の5つの節に分けて説明される。これら5節の要略を紹介するのはかなり長くなるが、仏教との関係が書かれる最初の節「ヴェーダとバラモン」をまず紹介する。「ヒンドゥー教の起源は紀元前1500年前後から中央アジアからインド北部に移住して来たアーリア民族が土着の伝統を吸収しながら形成した信仰に遡るとされる。彼らは自然現象の背後に超越的な存在を看取し、自然現象そのものを崇拝していたようだ。そして祭官による儀式によって神々に供犠を行ない、自分たちの願いをかなえようとした。神々への賛歌や儀式の行ない方はヴェーダと総称される祭文集にまとめられ、口承によって伝承されたが、その最古のものは紀元前1200年には成立していた。ヴェーダにはさまざまな注釈がつけられ、その注釈から世界の成り立ちや生きることの意味、正しい行ないなどに関する哲学的な思想が発達した。この段階で形成された世界観や死生観は現在のヒンドゥー教の伝統の基礎となっていて、その代表は人の魂は死と生を繰り返すという輪廻転生の観念だ。これと密接に関連するのが業(カルマ)の観念で、この世の未来や来世はその者のそれまでの行ないによって影響を受けると言う考えだ。因果が巡る輪廻転生から魂を永遠に開放する解脱(モークシャ)がヒンドゥー教的な信仰伝統の目標とされ、修行や神秘体験を経て解脱の境地に達したとみなされる聖者たちは高い権威を持つ。」

上記の引用は仏教とほとんど変わらないように見える。引用を続ける。「ヴェーダに基礎を置く世界観や人生観、神々への信仰や儀式の総体は「ヴェーダの宗教」、あるいは祭官であるバラモンが至上の権威をもったことから「バラモン教」と呼ばれる。バラモンを最上層とし、王や武人階級のクシャトリア、農民や商工人など庶民のバイシャ、奴隷的身分のシュードラの4階層からなる身分制(ヴァルナ制)もバラモン教の形成とともに成立した。バラモンによる儀式は次第に複雑化し、儀式や祭文に関する知識はバラモンだけが知り得る特権となって行く。また、儀式の際に大量の動物(牛、馬、水牛など)が屠られて供犠されるようになり、それらを提供し得る権力者や富裕者のみが神々に接近出来る地位を享受するようになって行ったところ、バラモンに対する批判的な思潮が次第に現われ、紀元前5世紀頃に仏教やジャイナ教が成立する。仏教は紀元前3世紀頃に南アジアのほぼ全域を支配したマウリヤ朝の国教となり、一時南アジアの支配的な宗教となる。バラモン教の勢力は仏教などによる批判を受け、供犠における動物の殺生は行なわなくなるなど、儀式の一部を修正する一方、基本的世界観(輪廻転生、生、業、解脱など)は継承しながら再生して行く。」本展図録で仏教の言葉が登場するのは上記と次節「バクティ思想の成立」のみで、次節から次に引用する。「バラモンたちはおそらく紀元前後から供犠を否定するようになり、これ以降のバラモン的な思潮や儀式を引き継いで展開するインドの伝統的な宗教をヒンドゥー教と言うことが多い。バラモン教時代に信仰されていた神々の多くは人のような姿を持つとは考えられなかったが、ヒンドゥー教時代に入って人気を集める神々はそうではなくなり、神々の顔ぶれが変わった。またそれまで特定の地方でのみ信仰を集めていた神々がインド的に信仰を集める有名な神々の変身や化身の姿であると説明がなされ、ヒンドゥー教時代においても宗教的思想や儀式の専門職であり続けたバラモンの権威がインドの隅々まで及んで行った。さらに『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』といった神話、『マヌ法典』のような宗教的思想に基礎を置く法典類なども紀元後4、5世紀頃までに成立し、人々に浸透した。『マハーバーラタ』にある一節「バガヴァッドギーター」にはヴィシュヌの化身であるクリシュナが解脱に至るための道を説いていて、バクティ(信愛)の実践が何よりも大切であると強調されている。このバクティ思想は多くのインドの人々の心をつかみ、以降ヒンドゥー教的な伝統が仏教を抑えてインドの主要な宗教伝統となる決定的な要因のひとつとなったとみなされている。バクティとは各自が選んだ絶対的な神に熱烈な愛を捧げれば罪業から解放され、神と一体化して解脱の境地に至れるとの宗教思想で、帰依の対象となる神は普通はクリシュナかラーマが選ばれる。」
「バクティを実践する人々は一神教を信じることになるが、他の精神的存在を否定したり攻撃したりすることなく、他の神々にも礼拝は行なう。また、バクティは生まれや性別などの関係なく誰でも行なうことが出来る。つまり、バラモン教的な世界では神への接近が禁じられたり、制限されたりしていた下層民にも解脱の道が開かれた。」この最後の下りは大乗仏教、特に浄土真宗の思想に似て、ヒンドゥー教が庶民の間に爆発的に広がったことが想像出来る。ヒンドゥー教への批判として生まれた仏教が、勢力を東方に拡大しながら、結局ヒンドゥー教に勝てなかったことは上記の説明を読む限り、伝統の長さの強みのように思える。ヒンドゥー教にとって仏教はヒンドゥー教の思想を改良した新興宗教であり、インドの支配階級のバラモンたちはヴァルナ制を保持し続けるためにも仏教はつごうが悪かったのかもしれない。日本の仏教は為政者に庇護され、為政者並みの権力を持った。その例からも、インドの仏教も支配者への接近の画策は熱心であったろうし、それで国教にもなり得た。となると、インドの権力者にとってヒンドゥー教と仏教のどちらが魅力的に映ったかに関係するのではないか。だが、大多数を占める庶民の信仰が大きくものを言うはずで、ヒンドゥー教は身分制度が背景にありはしたが、庶民がヒンドゥー教を好んだ理由があったとみなすしかない。それが何かと言えば、本展で展示された神々の物語であろう。そこには仏教とは違って女性が喜ぶロマンがある。それに、第3章『ヒンドゥー教の神がみ』に書かれるように、女神たちが人気を集めている。次に引用する。「女神は男神の配偶神に位置づけられるものと、男神とは一応独立して現れるものに大別される。前者の代表は知恵や芸能の女神とされるサラスヴァティー(ブラフマーの配偶神)、富の女神ラクシュミー(ヴィシュヌの配偶神)、それからパールヴァティー(シヴァの配偶神)などであり、…一方後者の女神の代表としては、ドゥルガーやカーリーがおり、多数の武器をもち荒々しく悪と戦う姿で描かれる。これらはパールヴァティーの憤怒の形相ともいわれており、その意味ではシヴァの配偶神であるが、彼女たちの怒りはシヴァをもってしてもコントロールできないとされ、彼女たちは単独で描かれたり、独自の寺院や祠に祀られたりすることが多い。」女神が特に女性に人気があるのかどうかはわからないが、この説明文からは、日本における長年の男尊女卑の風習とは相容れない、女性が男性から完全には制御され得ないことが伝わる。言い変えれば仏教に比べて女性の地位が高いように見える。ここでまた村上華岳の絵を持ち出すと、代表作のひとつ「日高河清姫図」は美しい僧侶を追う清姫を描くが、彼女は逃げ続ける僧をやがて蛇となって焼き殺す物語に想を得た作で、厳しい戒律を守る僧はいいとして、恋心の女は救われない。

人口の半分は女性であり、インドの大多数の女性から歓迎される神のあり方がなければ宗教の存続は難しいのではないか。それは平たく言えば種々の戒律があまり厳しくないことだ。前述のようにヒンドゥー教にも修行を経た聖者はいるが、修行する人の割合は日本やタイのような仏教の修行僧ほど多くはないような気がする。ヒンドゥー教が女性に人気があることを示す例として、本展に1925年頃にドイツで印刷された「クリシュナの愛の踊り」が展示された。アンリ・ルソーの画風を模したような夜景の中、中央に横笛を吹くクリシュナと、それを取り巻く7組のカップルが描かれる。説明にはこうある。「牛飼いの村で育ったクリシュナは幼いころから数々の奇跡を現し、悪魔から村を救った英雄であった。また美しい青年となった彼は横笛の名手として、牛飼いの女性たちを魅了する。ある夜、クリシュナが奏でる横笛の音色に女性たちは惹き寄せられ、夫や家族をおいて家を抜け出す。向かった森ではクリシュナと一晩中ダンスを楽しむのである。彼は分身となって女性たちを一度に相手にし、一人一人が唯一最高の恋人であるかのようにふるまい、彼女らをとりこにする。…」世俗の愛を超越して神と交わると書かれるが、男女の交歓を否定しないこの物語は先の「日高河清姫図」の物語とはあまりにも違い過ぎる。インドの女性がクリシュナを取り囲む多くの若い女性たちが踊るこうした絵を見ながら、クリシュナに祈りを捧げる時、彼女の脳裏に浮かぶのは理想の若い男性でもあり、性の快楽によって解脱の境地に至ることを願っていることは否定出来ない。そうした性の本能を否定しないヒンドゥー教はチベットの密教の仏像にも見られ、またチベット密教はイスラム教の神秘主義の影響を受けたと言われるので、どの宗教にも性の交わりを通じた恍惚感を肯定は大なり小なりあったと思うが、古代ギリシアではそれが大いに是認されながら、キリスト教ではそれが反対方向のヴェクトルに向いたことを、たとえばD.H.ロレンスが否定して小説を書いた。ロレンスがインドを旅してヒンドゥー教を目の当たりにしていたならばどういう紀行文を書き、どういう思想を抱いたであろうか。話を戻して、次に『ヒンドゥー教の歴史』の第3節「ヨーガとタントラ」から引く。「バクティには「神との一体化を目指す」という神秘主義的な志向が現れているが、紀元4~5世紀以降にはヒンドゥー教的な伝統のなかでもうひとつの有力な神秘主義的な思想と実践が発展する。それがヨーガとタントラである。…インドにイスラーム教が伝わり、根づいていった時期と重なる。…イスラーム教にも神秘主義的な思想が内包されており、神秘主義思想を介してヒンドゥー教的な伝統とイスラーム教とのあいだには相互理解も深まり、一部には両者を融合させるような思潮も現れてくる。」ここまで読むと日本の仏教との大きな違いを感じる。

近年の日本にはイスラム圏の人々が観光でよく訪れ、居住者も増えている。そのことが今後どういう摩擦を起こして行くのを数百年単位で考えると、日本にキリスト教以上にイスラムの文化が広がる可能性がないことはないはずで、その定着がどういう状態をもたらすかを宗教面で考える際、インドにおけるヒンドゥー教とイスラム教の融合関係が参考になるかもしれない。しかし日本には独自の神があるから、それら八百万の神とイスラム教がどう結びつくかは、当然前者が後者を飲み込むとして、イスラムの神秘主義が前者にどういう影響を及ぼすかはひとつの壮大な創造で、日本はそのことを合理的にまとめる能力があるだろうか。また話を戻して、ヨーガとタントラの説明を第3節から引く。「ヨーガは念想によって心の動きを抑制、減却すればこの世界の根本原理と合一して解脱が得られるという思想とそのための心身の修行である。…ヨーガの瞑想や儀式のおこない方、それによって得られるヴィジョンやその意味、あるいは超自然的能力の使い方などに関して思想が深められ、それらを記したタントラとよばれる聖典群が次第に整えられていった。」次に前段落の最後の引用文に続く文章を引く。「一方この時期にはヴィシュヌかシヴァ、またはそれらとかかわりの深い神のどれかを至高神とし、世俗的生活を捨てた聖者を指導者として組織化した数多くの教団が活動を活発化させる。こういった教団が今日インドで幅広く信仰される神がみやそれに対する信仰のあり方を広めていった。そのなかでバラモン司祭の権威や、ヴェーダや『マヌ法典』などの重要性は一般社会において相対的に低下し、…文献に描かれていたヴァルナ制とは異なる身分制的な社会体制が発展していった。しかし、バラモンたちのあいだではイスラーム教とは異なる「われわれの宗教」が意識されるようになり、過去を賛美し、ヴェーダ以降の思想やその注釈書を集積する動きも活発になった。」現在の日本ではタントラはさておき、ヨーガは若い女性を中心に健康維持の一種のスポーツのように浸透し、太極拳以上に人気があるように見える。また日本にはインド料理店が急増し、たとえば本展のようなインド文化の展覧会によって6,70年代と比べると格段にインドが身近になっている気がする。ただし、ヒンドゥー教の神を祀るお祭りがあるとしても、中国人街があるほどにはまだインド人街と呼ばれる有名な場所はなく、あるとしても人口が圧倒的に多い東京都内に小規模なものだけであろう。その点、まだムスリムの勢力の方が圧倒しているはずで、そこに東南アジアのイスラム国家も含めてパキスタンやバングラデシュの人々がどれほど居住しているのかという疑問が湧く。彼らはネパール人と顔や肌の色の区別がつきにくいが、それぞれに出生国の文化を日本にどのように同化するかの問題は、日本に近い中国は韓国よりはるかに予想がつかない。

第4節「植民地の支配」に移る。「インドでの支配領域を広げたイギリスの当局者たちは、この地にはイスラーム教徒(ムスリム)とそれ以外の人々(ヒンドゥー)が暮らしており、支配にあたってはそれぞれに価値観と法を尊重すべきという認識をもっていた。しかし、当時の彼らにはヒンドゥーの古典語や価値観、法は未知の領域であったため、これに精通していると思われたバラモンの助言に頼ることになった。こうして相対的に低下していたバラモンの権威は植民地権力によって支えられ、その社会観や価値観が正当化されてゆく。19世紀にはいると、バラモンたちが集積し拠りどころとしていた古典文献はヨーロッパで成立したインド学の研究者たちによって「発見」され精査された。…一方、この時期インドでキリスト教の布教が公認され、活発化する。伝道者たちは彼らからすると欺瞞的で堕落していると思われたヒンドゥーの神話や偶像崇拝などを激しく攻撃した。インドの宗教家や知識人層のなかにはこれに応答してみずからの伝統の改良を図る動きが現れる。そこで理想として参照されたのは、インド学者が発見し称揚する古典文献に表された思想でありおこないであった。こうした支配者と被支配者の相互交渉、またヨーロッパで進んだ近代的な宗教概念の確立といった流れのなかで、19世紀にインド固有の宗教としての「ヒンドゥー教」という概念が成立した。」次に第5節「原題インドに生きる宗教」から。「ヒンドゥー教はこのような複雑な過程を経て成立してきた宗教伝統である。またバラモンの儀式や世界観、神秘主義的な儀式や世界観などはそれぞれ互いに矛盾しあうところもあるが、それらは徹底的に排斥しあったり、相互に滅ぼしあったりしようとせず、穏やかに共存している。…「ヒンドゥー教」はなじみのないものにとっては無限に多面的で融通無碍な宗教として現代インドに生きつづけている。ヒンドゥー教的な儀式や祭礼は家庭で実践される一方、さまざまな寺や祠などでも展開する。これらの場所の司祭の多くはバラモンであるが、…専門職になっている場合もあれば、ほかに仕事をもちつつ、必要なときだけ司祭として役割を果たすという例もみられる。ヒンドゥー教はインドの特徴的な社会制度とされるカーストを基礎づけるとされてきた。…しかし、カーストという概念もまたヒンドゥー教という概念と同様に植民地支配の影響を強く受けて成立してきた……少なくとも現代インドにおいてはヴァルナの四つの身分が強く意識されることはない。」本展はヒンドゥー教の神像を展示するもので、しかも時代を遡っても18世紀であるから、安っぽさが露わであることは仕方がない。しかしそうした民衆の造形と言えるものは何百年もほとんど同じ材料で同じものを再生産し続ける。しかし本展での出品作はデジタルのミシン刺繍を使った更紗が一般化していることを伝え、純粋な民藝的手仕事が失われている一端がわかる。
また前述した「クリシュナの愛の踊り」は西洋の絵画による立体表現と印刷技術による作品で、イギリスの植民地にならなければ生まれなかった神像画と言ってよい。本展図録の第3章『交感の諸相』に「ヒンドゥー神像をつくる異教徒たち」と題するエッセイがある。その冒頭を引用する。「近代化が急速に進んだ20世紀前半のインドでは、ヒンドゥー教における神と人との交感に、多種多様な工業製品として商品化された神像と、それらを嗜好に応じて選択する消費者という新たな関係性が生まれた。ヒンドゥー神像の商品化を牽引したのは、工業化の道半ばであったインドよりもむしろ、巨大市場インドに熱い眼差しを向けていた諸外国の産業界で在り、日本はその大きな一角を占めていた。」日本からインドに輸出されたのはマッチのラベルとタイルで、前者は「明治から大正期にかけて日本の主力輸出品となり、インドはもっとも重要な輸出先のひとつであった。阪神地域に集中していた製造業者は、神戸に拠点を置くインド人商人との取引関係を通して、インドの消費者の購買意欲を刺激するラベルデザインを次々に生み出していった。夥しい種類のマッチラベルのなかでもとくに多いのは、ヒンドゥー教をモチーフにしたものである。…注目すべきは、…輸出業者名に、ムサボーイ商会やエサボーイ照会などのムスリム系商社が多い点である。…非ヒンドゥー教徒が、インド社会の多数派を占めるヒンドゥー教徒の嗜好を代弁していたことがわかる。」とあって、当時そうしたインド向けのマッチが神戸市内で日本人が容易に見ることが出来たのかどうか、村上華岳が独自の仏画を頻繁に描き始めるきっかけとして、そうした工業製品以外に大正時代に何度も来日し、その肖像画を描いたタゴールを含めて、インドと日本のつながりが目立っていたからとの想像はさほど間違っていないだろう。後者のタイルは戦前の日本のタイル業界で輸出総量の4割がインド向けであったとされ、阪神地域を拠点とするインド商人が持ち込むポスターなどの印刷メディアが貴重な情報源となった。紅梅の木に留まる孔雀をモチーフにした2枚つながりのタイルが本展に展示されたが、その図案は円山四条派がかつて描いたかのような和風で、それが「ヒンドゥー教徒の間で絶大な人気があった」との説明は、インドが村上華岳に影響を及ぼしただけはなく、インドが日本から図像の影響を受けたことを想像させる。タイルの産地については書かれていないが、小さな陶器人形は20世紀初頭の短期間に瀬戸で焼かれた。神戸のインド人商人が持ち込んだドイツ製の同様の人形を参考にして生産を始めたが、第一次大戦が始まるとヨーロッパ製高級人形の代替品の製造に向かい、安価なインド人形の生産は下火になった。安価な商品ゆえに本展で展示されたヒンドゥー教の神像は安っぽい印象を与えるが、長い歴史で見ると消耗品は却って貴重なものとなる。
先にムスリムの商人がヒンドゥー教の神像を題材にした商品を扱っていたことを書いたが、偶像崇拝を否定するムスリムが他宗教の偶像を商売の具にすることは、自分たちの宗教の神ではないとの理由で、気にする必要はなかったのであろう。インドにおけるイスラムの存在はヒンドゥーの神像を見慣れた目からは想像しにくいが、これまで引用しながら書いて来たことからは改めてイスラムの存在の大きさを思う。インド大陸の海を除いた外側は他国の文化の影響を受けやすく、インドがイギリスから独立する際、東西のムスリムが多く住む地域はパキスタンとして独立した。筆者が中学生の頃、東西にパキスタンが分かれていることはいろいろ不便なことがあるだろうと想像したが、20歳になる頃、ジョージ・ハリソンがラヴィ・シャンカールとともに世界に訴えてその東パキスタンからバングラデッシュと呼ぶ新しい国の貧困を減少させようとチャリティ・コンサートを開いた。宗教の違いからインドとは違う国になったパキスタンであるから、インドのラヴィ・シャンカールがイスラム国家のバングラデシュを援助することは不思議な気がしたが、そこはヒンドゥー教のバクティの精神からの行為であったのだろう。とはいえ、別の国として隣り合えば必ず摩擦は生じるし、インドとパキスタンは国境問題で戦争をしたことがある。それに日本でもたまにニュースになるシーク教徒はイスラム教と仏教の中間のような思想を持ち、そのことを納得させるようにインド北端に本拠地がある。そのことを思うと海に囲まれた日本は外国の文化の終着点で、またそれら流入する外国の珍しい文物を保存する国民性を育んで来た。そこに収集性があると言えば反論があろうが、本展の展示物の4分の1が1947年生まれのサラリーマンである黒田豊氏が78年に初渡印以降、40年にわたってインドを訪れて収集したものであることを知ると、日本人には珍しくない収集癖を思う。日本の昔の茶人はインド更紗を珍重し、国内におそらくインドには残っていない珍しい更紗がある。その伝統を黒田氏が継いでいると言ってよく、すぐに時代が変わって消耗されて行くヒンドゥーの神像をモチーフにした商品がまとまった形で保存され得た。それらの中の石版画はインド国内ですでに印刷所が閉鎖され、同じものは印刷出来ないから、当時は安価な商品であったが、現在は美術品的価値があると言ってよい。江戸時代の浮世絵が消耗品扱いされてヨーロッパに大量に輸出され、それが美術館に保存されたことと同じで、今は大量に安価で入手可能な商品は半世紀ほど経てば貴重品となることはままあり、黒田氏のコレクションは5000点にのぼるそうで、2019年に福岡アジア美術館に一括寄贈された。同規模の収集がインドにあるのかないのか気になる。ないとすれば日本が18世紀以降のヒンドゥーの神像のデータ・バンクになる。
