「
確認を し続け去らぬ 不安心 アホウと鳴くや 電柱烏」、「書くことに 事欠かぬこと 書きつつも 恥かくことの 覚悟欠かさず」、「量と質 比例するぞう 言いふらす 質量2トン 象太り王」、「とりあえず 取り合わぬ鷺 川面見る 吾もかまわず 詐欺電話切る」

エキサイト・ブログにログインすると、画面最上部に「書くことに困ったら|投稿|設定|レポート」の文字列が表示されるが、書くことに困ったことは一度もなく、その項目をクリックしたことがない。この項目には書くことに困るような人にブログを利用してほしいとの思いが滲み出ている。ブログが登場した後にツイッター(以下、Ⅹ)が発明され、次にインスタグラムが出て来た。文章と写真を載せられるブログの機能を、Xとインスタグラムが専門的に分け合ったと言ってよい。しかし1万字でも一気に載せられるブログと違ってXは字数制限が鳥のさえずりほどにごくわずかだ。無名の人がその機能を使って何を発信するのかと筆者は今も訝っているが、Xで相互につながった人同士がメッセージを投稿するとそのことが知らされる機能があって、たとえばフォロワーが1000人いれば、その人たちの投稿が次々に報告されるので、その投稿の確認のために多大な時間を費やす。そう思うので筆者は誰もフォローしていない。フォロワーに全く無関心であるためではない。たまにフォロアーの投稿は確認しているし、投稿が逐一報告されなくても不便は感じないからだ。インスタグムには関心がなく、仕組みはさらによく知らないが、写真本位であることはわかる。筆者のブログは文章本位で、おまけのような形で写真を載せる。また1200字でまとめている一段落当たりに写真を1枚挿入することにはこだわっておらず、写真なしで数千字の長文が続くこともある。そういう長文ブログが人気のないことはよく知っている。Xの登場は長文を書いたり読んだりする暇のない人が大多数であるからで、ほとんどの人は自己主張はしても他人に興味がない。それは筆者も同じだ。ブログはこのまま終焉に向かう気がしているが、そのことはエキサイト・ブログに投稿するたびに確認する投稿のURL内の数字からわかる。その増加が10年に比べて鈍くなっているからだ。20年前にブログを始めた高齢者が亡くなっているからではないか。そうであるので、エキサイト社は「書くことに困る」人に対して助言ページを設けるようになったのだろう。今後ブログ運営会社が倒産して行くとして、筆者は自分の万単位の原稿枚数のブログをどう保存すればいいかとぼんやり考えることがある。文章の時代でなくなり、今は映像が主流だ。その投稿によって多大な利益を投稿者が得られるようになっているが、何事も玉石混淆として今は砂利石が悪態をついてもてはやされる。しかしそれもいずれ終わりを迎えるだろう。実力なき醜悪は、顧みられなくなって消滅しても当然だが、新たな形でまた現われる。

書くことが思い当たらないとして、手引きにしたがって書き始めるとやがてコツがつかめる。そうして自分らしい文章が書けるようになるが、これは自己流を徹底すればひとつの型が出来上がることを意味する。その過程でたいていは読書するなりして先人の考えや作の構造を学び、それで異端と呼ばれるような表現者にもなる。単に自己流だけではほとんどは取るに足らない存在になるが、それは視野の狭さと技量不足による。大多数のアマチュア作家はそこに属して充足し、さして有名にならないので社会的な問題を何ら引き起こさない。ユーチューバーにプロとアマの差があるのかどうかは知らないが、視聴者数や閲覧者数によって投稿者に利益が供与される資本主義社会の仕組みが終われば、プロを自称する彼らの意欲的な活動は終わる。時間を費やして収入につながらなければ時給のアルバイトをした方がいいからだ。となればプロ・ユーチューバーは金目当てが大半で、彼らの才能の魅力は知れている。ブロガーもアフィリエイトという仕組みで収入がもたらされるが、ブログ全体の人気が低調になれば、その仕組みもなくなるか、ごくわずかなプロのユーチューバー並みの庶民の代表的感性に近い書き手のみがましな収入を得るかもしれない。ネットを舞台に登場して来た著名人は政治家と同じほどかそれ以上の人気すなわち力を持つようになるであろうし、そうなれば政治家はネットのインフルエンサーと呼ばれる人たちの力を借りることが生じるであろう。すでにそうなっているかもしれない。そこで懸念するのが、衆愚政治がより顕著になることだ。どういう人種が政治家に成るかと言えば、日本ではたいていの人は政治不信から金目当ての者と思っている。これを是正するには政治家の収入を平均的サラリーマン並みにすることで、金儲けには旨味のない職業にすればよいことも多くの人は知っている。ユーチューバーと政治家は似た人種で、名前と顔が世間に広く知られ、収入も多いことを望んでいる。つまり凡人だ。有名になっても金とは無縁という者の代表は宗教家であったが、今は新興宗教の教祖も金集めが最大の目的だろう。話を戻して、無名のブロガーがユーチューバーのように有名になってやがてTVに出演する例がどれほどあるかは知らないが、有名もいろいろだ。TVによく出演する芸能人も、どう見ても馬鹿面にしか見えない者で溢れているように筆者には感じられ、有名病に憑りつかれていないことを自覚してそれが若い気持ちの持続に役立っている。話を戻して、「書くことに困ったら」無理して書く必要はないし、有名になることと高収入を期待して無理して大量の文章を書き続けてもまず成功しない。あるいは「バズる」ことはままあって、一瞬は有名になれる可能性はある。それで人生がよい方向に大きく変わればいいが、名声と高収入はなかなか棚ぼた式に降って来ない。

先に自己流を徹底すれば型が出来ると書いた。それは当人らしい特徴が出るとの意味だが、マンネリに陥る可能性を秘めている。自他ともに斬新と思える作品を作り得ても、それはごく稀な幸運で、その背後に多くの凡作、駄作がある。自己流で築き上げると一発屋になりやすく、アカデミズムと呼ばれる基礎学習を徹底した方が手のうちを多く獲得出来る。ユーチューバーにそうした基礎学習のようなものがあるのかどうか、これは短編映画やドキュメンタリー映像、ニュース映像などに学ぶべき規範があると思うが、ユーチューバーのタレント性の魅力が最も大きいであろう点でアナウンサーやDJの仕事に近い。ともかくひとりで映像の何もかも担当するとなれば、投稿の質は充分推察出来るし、芸術とは無縁のものであることがわかる。そこでまた文章、ブログに話は戻る。筆者が無料で長文ブログを続けていることは修行に近いか。食べて寝るだけの人生はつまらない。何かしていなければ不安というほどでもないが、自己流を徹底して自分なりの文章の型と呼べるものを強固に形成したい思いはある。小学生になる以前、ひとりで紙にさまざまなものを書いて楽しんでいたことが、言葉を覚え、本を読むなりしていると、書きたいことが生じて来た。10代半ばで筆者は長文日記を書いていたから、ブログはその延長だ。また小学3年生であったと思うが、学校の授業でカレンダーと絵を手書きする授業があって、誰よりも素早く仕上げた筆者は周囲の同級生に笑顔でこう言ったことを昨日のことのように覚えている。「絵と文字は任せてや!」そのとおりの人生を歩んで来て、今日もこの文章を投稿しようとしている。高齢者の戯言なので他者の賛辞は不要、しかしけなされるのも癪であるからコメント欄は閉鎖したままだ。以上は蘇鉄とは関係のないことをまた書いた。今日の最初の写真は5月7日、太秦で撮った。「風風の湯」によく来ていたMさんが姿を見せなくなり、彼が丸太町通りのとあるスーパーの北側に住んでいることを聞いていたので、そのスーパーに行った際、家内を残して筆者は自転車をその北側に走らせた。初めての道を10分ほど出鱈目に走っていると大きな幼稚園があって、その隣りで見かけた蘇鉄だ。2枚目は先月6日、以前にも投稿した相国寺承天閣美術館の玄関前だ。3枚目は先月20日、市バスの車内から撮った。京都市考古資料館前で、昔からこの蘇鉄は知っていたが、撮影の機会がなかった。蘇鉄のそばでは全景が収められないからでもある。4枚目は昨日だ。家内と自転車で嵯峨のスーパーへの買い物がてら、梅津の従姉宅へと向かう際、梅津北の知らない土地に迷い込み、その途中で見かけた。やがて目印になる古い土蔵を見つけたが、その土蔵の近くに40数年前、一軒家が売りに出ていて、母はそこを買えと言ったことがある。何となく嫌な印象でその気が起こらず、やがて嵐山に物件を見つけた。

