「
近所では 知らぬ人なき 老舗でも 閉店五年 みなが忘れて」、「今が花 長持ちしても 色は褪せ 実と種子つくり 夢は新たに」、「目立つこと 好まなくても 目立つ人 いじめに遭うて なおも目立ちて」、「負のオーラ 脱ぎ去り気づく 身の変わり 誰も拒めぬ その美の力」

今日は題名に連ねたように2か所での416モンブラン(以下、461)の演奏について書く。前者は2月12日の昼間、後者は24日の夜で、
先月26日のムーンゴッタの投稿において双方の演奏を見に行った理由を書いた。今日は近年よく批判されるルッキズム絡みで461の演奏について思いを綴る。この投稿を以前の416の演奏会と同じく、『ライヴハウス瞥見記♪』には載せない理由は、461が有料のライヴハウスで演奏せず、誰でも無料で見られる商業施設で主に演奏するからで、そのため昼間の演奏であることが多い。ライヴハウスを拠点にするミュージシャンは自作曲を演奏するが、461は有名なポップスをレパートリーとする。そこにルッキズムを持ち出すと、前者は自作曲を聴いてほしい人だけに提供するという思いに立っているため、ほとんどが普段着で、また美男美女はほぼいないと言ってよい。もちろんこれを偏見と見る向きがあるのは承知だが、美男美女であればメジャーへの階段を上って行くことを目指し、世間もその顔の美しさを放置しない。416の山下さんと森さんは自前の衣装で特徴を示すことに留意し、釣り合ってもいる。そこで観客が気になるのはふたりの関係だが、その点についてはルッキズムの観点で後述する。先月12日の演奏は冬場ゆえの発想か、山下さんは曲の合間に語りを含みながら、7,8曲演奏する彼らの定型を少し崩して物語性を付与した。彼女が好きな宮沢賢治の詩の朗読で、それが演奏会の冒頭、中間、そしてアンコールを省いての最後の曲の直前にあった。しかし筆者は最後尾に座り、また山下さんの声が小さくてよく聴き取れず、わずかに「白い」といった言葉を記憶しただけだが、彼女は賢治の冬場を謳った詩を選んだのだろう。筆者は賢治にあまり関心がなく、「白い」からどの詩か物語かはわからない。朗読を挟む手法が今回成功していたかとなるとそれは疑わしい。賢治の詩から触発された自作曲でないからだ。しかし最初に演奏したサイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」のように、冬や春を題名に持つ曲を選んで観客に季節感を味わってほしいという思惑は伝わった。461はレパートリーが200曲あり、演奏の時と場に合わせた選曲はお手のものだろう。それはライヴハウスで演奏するミュージシャンとは別の意味のプロ根性の賜物であるし、そうしたサービス精神から461の人気が少しずつ広がって来ていると想像する。そうなると次のステップはラジオやTVになるが、マネージャーが必要であろうし、自作曲が求められる。

「冬の散歩道」が演奏され始めた時、その原曲をただちに想起出来た人はどれほどいたろう。同曲の後、アニメ映画『ハウルの動く城』から「天空のメリーゴーラウンド」が演奏され、その短調のワルツは名曲を知悉した作曲家が巧妙に作り上げたものだと感心させ、また情感を込めて奏でる様子は当日最も印象深かった。筆者は宮崎アニメを一作も観たことがなく、同曲がどのような場面で流れるのか知らないが、宮崎アニメの本質が同曲からわかる気がした。それは万人向け狙いゆえに全く面白くないと評価する一部の人がいることだ。筆者はその一部に属するとまでは言わないが、宮崎アニメが企業として必ず一定以上の売り上げを獲得しなければ次作の制作が困難になるという現実を前提に、一種の子ども騙し商法をしているであろうと想像させる。その点で絵も物語も挿入音楽もプロ中のプロが製作に携わっていることは当然の事実としてわかるとしても、それは個人が作る芸術からは遠いと思う。しかし大多数の人は個人の芸術を必要としない。その価値を見抜く能力が欠如しているからで、世間で話題になっているものに便乗しなければ「ダサい」と思う、いわゆる華やかな流行への同調心理が働くためでもある。群集心理はいつの時代にも存在し、「バスる」という言葉がよく使われるように、ちょっとしたきっかけで大人気を得て世界的に有名になりもする。そうした一瞬芸は一瞬で忘れ去れるもので、芸術とは何の関係もない。あるいは芸術の概念を広げて、芸術は一瞬で「バズって」一瞬で忘れ去られるものと主張する評論家もあるかもしれない。そういう評論家は水商売である軽音楽界で巧みに生き抜き、名声も金銭も莫大に得て大御所と自他ともに認めるが、そうした水商売評論家にも筆者は全く関心がない。ついでに書くと、そういう水商売は美術の世界にもあって、ゴミ絵を量産している。『ゴミ絵論』を筆者は生きている間に書いておきたいと思っているが、上田秋成の『胆大小心録』のように没後に公になることを望む。話を戻すと、461は続いて意外なことにタンゴの名曲「エル・チョクロ」を演奏した。高齢客を意識してかと思うが、この曲が冬や賢治の詩とどう関連するのかわからない。次は松任谷由美の「春よ、来い」であった。筆者はユーミンの曲をまともに聴いたことがない。彼女が工夫を凝らした豪華なショーを続けていることは知っているし、そうした虚飾ショーを歓迎するファンがいることも当然と思うが、サーカスさながらのコンサートで彼女が王女のように演技する様子は、美女とは思えないこともあって全体が滑稽で恥ずかしくて見ていられない。ただし彼女にいくつかの名曲があることは知っているし、それが461によって演奏されると本家とは違う印象をもたらすところに曲の面白さ、また存在の大きさを思う。
同曲の後、山下さんは461がおそらくどの演奏会でも語っているふたりの関係について語った。彼女は森さんより年上と思うが、ふたりが結婚していないという語りをわざわざ客に提示することに、ルッキズムに対する注意深い配慮、戦略がうかがえる。それについても後述する。さて、また山下さんの短い朗読に続いて演奏が始まった。ディズニー映画『アラジン』の主題曲「ホール・ニュー・ワールド」だ。スタジオジブリのアニメと同じく、筆者はほとんど関心がないが、彼女は世代からしてアニメ愛好者であることは理解出来る。次に演奏された森山直太朗の「さくら」は日本では古典となっているようだが、筆者はやはり興味がない。今度は森さんの語りで、これもいつもと同じだろう。彼が奏でるクロマティック・アコーディオンの価格の話で、461が武器とする一般には見慣れない楽器について情報提供する考えはわかる。その後、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」、そしてアンコールを先取りしてのビートルズの「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」で、後者は横尾忠則とビートルズのつながりからの選曲と説明された。以上のように老人から子どもまでを意識した内容で、誰でも知っている曲、また明るい曲を優先する配慮があるのは、客層を意識してのことだ。461がこの選曲でライヴハウスで演奏するとブーイングが出るかもしれない。聴き飽きた曲ではない、個性の強い凝った演奏を聴きたい人が金を払ってそうした場所に足を運ぶからだが、ライヴハウスが無料であっても客数が増えるかとなるとそうは思えない。そのことは、以前国立の近代美術館や博物館を無料にすればもっと来場者が増えるかというアンケートをしたところ、増えないことがわかったことを思い出すからだ。芸術は無料でも見たくない人が圧倒的に多い。となれば461の立場は無料ではあるが、商売の売り上げに貢献する商業施設を主な舞台とし、音楽に触れる楽しみを知ってもらうためのひとつの方策として効果を挙げている。それがさらに評判を得ると前述のようにTVへの出演となるが、カヴァー演奏主体ではよほど見せ方に工夫する必要がある。上手な演奏者はたくさんいるが、461にはルッキズムへの配慮と柔和な不運域がある。山下さんの美意識は独創的で、それがTVに積極的に受け入れられるかどうかはわからないにしても、目立つ個性であることは間違いない。461の珍しいたたずまいは昭和半ばまでによくあったチンドン屋風で、大道芸も含めて大衆に混じっての芸の披露は、路上ライヴも含むが、路上ミュージシャンの夢はメジャーになることだろうし、またその可能性はある。オリジナル曲を演奏しなければメジャーにはなれないが、もっと人気が出ればオリジナル曲を混ぜての演奏は許されるし、そうなると次第にオリジナル優先となり、メジャーになる可能性は増す。
今日の最初の写真は筆者と家内の座席から撮った。椅子が足りず、係員の女性たちが最後尾に数客付け足してくれた。演奏会後に横尾忠則の企画展を見るために館内奧に進んだ人はわずかであった。無料なので近隣の暇な人たちが集まったと思うが、神戸方面に人気があることが伝わる。森さんが神戸生まれと聞いたが、それで今回の企画の話が彼らに寄せられたのではないだろうか。つまり、当館が賑やかしのためによい催しを審議し、近年大阪や神戸で出演が目立つ461に白羽の矢が立ったと想像する。あるいはふたりが所属する事務所の営業活動の成果かもしれない。その事務所についてはネットで知った。大道芸人やミュージシャンが個人契約し、その写真つき名簿から好みの「芸人」を見定めて事務所に掛け合うと所定の日時に出演してもらえる。事務所と芸人とでギャラの配分がどのようになっているのか知らないが、事務所を通さずに直接出演依頼も出来るのではないか。YouTubeその他で自分の芸や作品を世間に掲示出来るから、誰でも個人事業主になれはするが、実物の芸や作品に接してもらうにはそれを披露する場所に足を運んでもらう必要がある。その意味で少しでも多くの人に見てもらうに限り、今回の演奏会は461の存在の宣伝に大きく貢献したであろう。それは事務所の力もあろうが、突き詰めるとふたりの魅力による。それを「華やかさ」と言い変えてよく、ふたりは若くて清潔な感じがする。ライヴハウスで演奏するミュージシャンにも華はあるが、もちろん全員ではないし、中には見栄えでは評価出来ない者がいる。彼らの演奏技術が優れているかとなれば、そうとは限らない。どの世界でも莫大な量の石の中にごくわずかに玉が混じっている。その玉はまずは表面の見栄えだが、中身まで玉でない場合は玉もどきの石であって、ルックスのよさと中身が伴わねば一流とはみなされない。しかし玉もどきが業界の力によって玉に見せられる手法が日本では昭和時代に本流になり、またその玉もどきはその後の研鑽によって玉に近づく場合はある。それは演奏の実力と客への応対態度、ファッション・センス、そしてルックスを合わせ持つ。エルヴィス・プレスリーはその代表として登場して来た。そして見栄えは並みだが職人的な黒子たちに演奏を任せ、フロントで歌い踊るという「商品価値」を最初に広めた。同じく20代前半で有名になったビートルズもルックスはよく、プレスリーになかった自作自演ブームを作った。そういう稀有な才能がいつの時代もあるとは限らない。特に歌唱力に難のある日本ではプレスリーをかわいい女子や男子に置き換えた音楽が70年代に登場し、今に至る。そうした「流行音楽」は代表的水商売で、そこに先に書いたように、同じ水商売の評論家が参加し、刹那の夢を大衆に振りまいている。
有名には度合いがあり、TVで頻繁に紹介されるミュージシャンは業界が作り上げる。どのミュージシャンも業界人の目に留まることを望んでいるかとなれば、さてどうか。ある素人画家と話していると、彼女は「作品が売れることはやはりすごい 」と意見した。その売れるかどうかにプロとアマの境界があるが、売れないからアマとは限らない好例がゴッホにある。セザンヌのように幸運にも有能な画商が着目したお蔭で作品が天文学的な価格で売れるようになった画家も少なくないが、画商が着目することはその時点で当の画家の魅力は売れていることを意味する。作品の売り上げのみで生活をすることはプロの定義だが、その作品が大衆に迎合的で「金こそ目当て」のものは大いに混じり、その作風の流行が過ぎると収入が途絶え、商売替えしてしまうことはよくある。日本の歌手や芸能人もそうで、芸風を確立し、その表現力を持続させて名声を保ち続けて経済に困らない者は少数派だ。そこに介在するのはマネージャーで、ミュージシャンは業界の巧みなからくりに巻き込まれる。才能を自負し、駆け出し者は路上やライヴハウスで演奏するが、スカウトの目に留まって名声への階段を上り始めるには結局スカウトが感じる魅力の有無で、表現者の才能如何に話は尽きる。筆者はライヴハウスを瞥見したのみだが、ひとつ確信することは、多くのミュージシャンは代表作を生む年齢を過ぎている。プレスリーやビートルズのように20代前半で頭角を現わさない遅咲きにしても、30代半ばで才能は頂点に達する。461がデュオを組んだ経緯は知らないが、補い合うことで効果を高める着眼は成功している。さて、山下さんがあえて語る「ふたりは結婚していない」との発言は、観客が思い浮かべる疑問に先制攻撃をしかけ、成功している。演奏中のふたりの物理的距離感が山下さんのその言葉を納得させるかと言えば、同じように距離を取っていても妙な雰囲気がふたりの間に流れている場合はある。客はそういうことに敏感だ。男女のデュオに性的関係があるか、またあるとしてもふたりは年齢やルックスに釣り合いがあれば当然と思うが、若い美女が一見ふさわしくない男とペアを組んでいると、ふたりから目を背けたくなる。そういう普通の人の感覚の自覚は、ライヴハウスを拠点にしない限り、必要であることを山下さんは客観視出来ており、そのことで461の人気が拡大している。山下さんから森さんにデュオを組む提案をしたとの想像は、主に山下さんが主旋律を奏でているからで、一時彼女が歌を歌っていたことが楽器でそれをやることに変わったのだろう。彼女にオリジナル曲があったはずだが、名曲は作曲家が数千曲書いたうちの数曲で、一曲でもあれば歴史に残る。そうした名曲に比肩し得る曲を30代半ばまでに生み出せないのであれば諦めて別の人生を歩むことが新たな人生を切り開く。
それは画家でも言える。公募展で入賞せず、平入選を続けてばかりで根気は持続するが婚期を逃す女性はよくいる。しかし退屈な結婚生活よりもわずかでも自分に光が当たる瞬間の快感が忘れられない。言い寄る異性に事欠かないからなおさらだ。話を戻して、461の名曲ポップス・レパートリーとはいえ、デュオ用のアレンジや腕を磨き続ける必要はある。人知れず練習を重ねることにプロとアマの境界がある。416は仕事のない日が続けばアルバイトをしているのかどうか、そのことは知らないが、ライヴハウスを拠点にする演奏者はそれでは食べられず、必ず別の仕事を持っている。そこにもプロとアマの歴然たる差がある。練習量が何十倍も違えば、技術力に圧倒的な差が出る。作品の背後にどれほどの練習量があるか、それを見抜く観客は少なくない。しかも誰よりも売れるプロになるにはルックスが欠かせない。ルッキズムに抗議しても人間の好みの本性は変わらない。ショパン・コンクールにひどく痩せて眼鏡をかけた女性が出演した時、その見栄えを評者は嘲笑したことがある。演奏以前に見栄えが大事、あるいは見栄えが音楽性を表わすと捉えられる。昔タイに移住し、音信不通になった友人Fは、一時大阪のジャズ喫茶で働いたが、彼の夢はペンションか喫茶店の経営で、後者は家族連れが楽しめる明るい店であった。万人受けするそうした店を416になぞらえるとよい。それはこだわりのなさが特徴だが、416や友人Fにこだわりがないことはない。むしろ見聞を広めた後、こだわった挙句のことだ。461の演奏を接する人は、有料のライヴハウスの客筋よりはこだわりがないとは言える。つまりファンの質に差があるが、無料で不特定多数に聴かせる演奏会から熱心なファンが生まれる可能性は大きい。それに広い会場では圧倒的に客数に差がある。評判が評判を呼ぶという好循環が今回の461の美術館内での演奏会で、ふたりのコンパクトな楽器編成が大きくものを言っている。今回マイクやスピーカーは用意されたが、それがなくても音は響きわたった。このアコースティックの効果は暖かく、大きい。ロックなら野外で大観衆が理想で、また万単位の大観衆があるのでロックは大音量になって来た。だが音楽はロックだけではない。70年代のロック・スタイルはそれなりに残って行くとして、今は80年代のMTV時代のルッキズムを「かわいい」様式と合体させてさらに徹底している。461が自分たちで楽器を運搬し、どこででも練習出来る有利さは、望みどおりの活躍の場を提供して来ている。もっと年齢を重ねた時、若さゆえの華やかではない別の華やかさを獲得出来ているかどうかだが、そんなことはほとんど誰も考えずに今を精一杯やっている。そうであるからこそ、渋味が増して行くのだが、その熟練の技術が見栄えのよい若手の人気に奪われがちであることも現実だ。

先月24日の京都市内の新風館での演奏は同館の宣伝部のようなところが企画したのだろう。演奏後は男性が引率して館内の控室に461のふたりを連れて行った。前述のように461は6、7曲の40分弱の演奏をセットにしていて、新風館ではそれが休憩を挟んで二度あった。二度目を聴くために大丸百貨店で家内と別れて筆者のみ新風館に戻り、演奏を全部聴いたが、彼らの真正面の太い柱の陰にいたので461のふたりは筆者に気づかなかったはずだ。2セットの演奏ならギャラは倍と想像するが、彼らが京都の商業施設に進出している現実の裏事情は、穿った見方をすればギャラが安価であるためかもしれない。もちろん引っ張りだこ具合が激しくなればギャラは上昇するし、TVに出るとそれが加速化する。そういう夢を彼らが抱いているかどうか、何事も燃えている時にさらに頑張るのがよく、当然ながら若いほどによい。今日の3,4枚目の写真は筆者ら新風館に着く前に始まっていた第1部の途中で撮った。聴くことが出来たのはジブリの『天空の城ラピュタ』と『ハウルの動く城』の主題曲、森山良子の「涙そうそう」、ディズニーの『アラジン』の主題曲で、第2部は「オブ・ラ・ディ…」、映画『スティング』の主題曲、優里の「ドライフラワー」、次は曲名が聴き取れず、次はユーミンの「春よ、来い」、そして最後は「情熱大陸」の計6曲であった。第1部とで曲目はだぶりがなかったのだろう。立ち止まって聴き続ける客は10数人であったと思うが、レパートリーの豊かさを示すには同日に同じ曲を演奏しない方がよい。ところで、山下さんはレトロなキモノが好きなようで、森さんのキモノ姿とともに外国人にも印象深い様式美を持っている。流行の激しい洋服では時代に合わせて行くのは出費が嵩むから、アンティークのキモノは便利な商売衣装だ。そこにもルッキズムに対する合理的な狙いが見える。6,70年代のアメリカ発祥のフリーダム思想からミュージシャンは普段着で演奏することが普通になり、その後グランジが流行してますます崩れたファッションが格好いいと目されるようになったが、60年代初頭までは男性ミュージシャンはスーツ姿が求められた。その清潔感はクラッシク音楽のコンサートを意識したスノッブ趣味とも思える一方、ミュージシャンにとってお客様は敬意を評する存在であるとの意識が強かったからでもあろう。汚れた服装では客に失礼に当たるという意識は世間の常識の反映でもあった。しかし敗れたジーンズやヨレヨレのシャツが似合うのは20代までで、それ以降では金欠の宿無しに思われかねない。そうなれば客にそっぽを向かれるから、有名どころはグランジ・ファッションに見せかけて実際は細部の違いが明らかに大いに金をかけた衣装を着るだろう。山下さんの今後のファッションも音楽とともに注目されるし、演奏する曲とともに彼女はそれを楽しんでいる。

