「
OKの イニシャル自慢 微笑まし NOなら寄るな 声をかけるな」、「音量を 半分下げて 聞き耳を 立てる人増え よく記憶され」、「リュート弾く 詩人突き刺す スティックの 電子の音の 便利と不便」、「十本の 指が奏でる 十二弦 ポロロサラリン シャカカジャンジャン」

先月18日のライヴ、最後に出演した12弦スティック奏者のRyutoさんは、冒頭の語りによればユニットを組まずにあえてソロ活動をしているとのことだ。曲の説明も含めてよくしゃべり、素直で旺盛なサービス精神がうかがえた。大阪市内の出身だろう。金森幹夫さんから客席にRyutoさんの母親がいることを教えられ、彼女の年齢からしてRyutoさんは30代半ばだろうか。母親の音楽好きの影響を受けて育ったようで、天性の才能が伝わった。筆者の隣りにいた「濁天さん」は、「出演バンドの中ではただひとり音楽で生きて行ける」と言った。演奏技術がプロの域に達していることを実感したからで、この感想は誰にも異論はないだろう。しかしプロもいろいろだ。何十年も前だが、FM放送の人気DJであった女性と親しくなり、ある日彼女はFMラジオ局で出会う有名ミュージシャンや俳優などの印象を語った。「名前を看板にしている人はさすがに違う」といった言葉で、対面時に素人にはない圧力を感じたようだ。その言葉の意味は簡単に言えばオーラがあるということだが、ほかには出会ったことのない異質感で、唯一の個性の存在感だ。西洋では超有名人は何もかも揃っていることを求められると何かで読んだことがある。男前や美女は当然でもちろん抜群の才能があり、ファッションも含めて全人的個性が際立っていなければならない。最初からそうした属性が揃っていることは稀で、有名になるにしたがって交際する人種が違い、模倣しながら獲得して行く。属性が個性そのものに同化することは金の問題ではなく、内面をどう磨き続けるかに関係しているから、ぱっと見は衣装も華やかで個性があっても知性が欠如している大物は大勢いる。最も時間と努力を要するのは知性で、音楽や絵画などの芸の技術を磨くこととは別に、視野を広げる努力をしない限り、知性は顔や態度には現われない。それほど人間の本質は正直なもので、体裁を繕うだけでは内面は薄っぺらなままになる。ではどうすべきか。結局のところ謙虚を心がけ、常に目指す高みを上昇させ続けるしかない。しかしそういう人物が日本で有名になって他者に特別の圧を感じさせるとは限らない。圧もさまざまでやくざでも持っているからだ。話を戻して、Ryutoさんのオリジナル曲はどれも似ていた。3曲目か、「月輪」という題名であったが、夜の優しさを連想させる曲からドビュッシーを思い起こした。音楽性は全く違う。Ryutoさんの曲はギターとは違う音色で、またハープとも違って、スティック特有なのかどうか、その意味ではとても斬新に聞こえた。

Ryutoさんの曲がどれも似ていると言うのは、ミニマル的と言えばいいか、指馴らしの練習曲と言えばいいか、同じ調性とテンポを保ったまま素早いメロディの繰り返しが基本になっているからだ。その点で現代的だが、ビートルズのように途中で予想外の転調を伴なわないので、起伏に乏しく、ドラマティックな要素はない。それは最初から最後までいわゆる聴かせどころの「サビ」の連続であるからで、そういう音楽がいつの頃からか日本のポップスに流行し始めた。Ryutoさんはそうしたジャパニーズ・ポップスに大きな影響を受けたであろう。これは聴き手を前奏で待たせた挙句、ようやく心地よい境地に誘うという面倒臭さを振り払い、最初から感動の域にいきなり誘い込み、その境地を最後まで持続させるが、結局音楽は必ず終わるし、またRyutoさんの曲は余韻を味わわせることなく、ぷつりと終わる場合が多く、そこに「音楽は幻想ですよ。それは現実に戻れば消えるものですよ」といった、彼が意識しているかどうかはわからないが、ある意味ではあざとさとは無縁の潔い優しさが込められているように感じる。自己陶酔しながら醒めている態度と言ってもよい。途中で転調して「サビ」を設ける音楽は恣意的で面白くないという考えはあろうし、そういう曲はこれまであまりに書かれ過ぎたので、ある短いメロディを分散和音化にして連続演奏するというミニマル的アイデアが出て来たのだろう。そういうミニマルのピアノ曲集はたとえばアルヴィン・カランの『INNNER CITIES』にあるが、Ryutoさんの曲はそこまでミニマル性を徹底しておらず、装飾音の多用によって叙情性の表現を目指している。それは洒落たバーなどの空間におけるBGMとして耳を邪魔しないものと言ってよく、一時あるいは一瞬でもその音楽の繊細さに触れればそれで役目を十分に果たす。気づけばそこに厳然と音楽はあるが、たとえばベートーヴェンの『運命』のように子どもでも覚えられる印象深いメロディはない。聴き終えればすっかり忘れ去る音楽と評すればRyutoさんは不満であろうが、どの曲にも彼らしさがあり、またそれは言葉では形容しにくいが、確かに聴いた、またそれが心地よいという記憶が残り続けることは、作者と作品への賛美でもある。というのは、二度と聴きたくない、聴いても全く記憶に残らない音楽は大量にあるからだ。ただし、Ryutoさんの曲は4,5分で終わってしまうものばかりで、似た曲をそのように細切れに聞かせることはもっと工夫があってよい。各曲の調性とテンポの変化の効果を綿密に構成し、40分から1時間くらいの組曲構成にすればどうか。そのような壮大な曲が仕上がれば大げさに言えば自作自演の音楽家として歴史に残るし、ライヴ・ハウスからコンサート・ホールまでを舞台にすることが出来るだろう。

Ryutoさんの音楽経歴は知らないが、幼少の頃から鍵盤楽器の学習をして来たと想像する。そこで培われた耳のよさと、演奏したいイメージを音符に移せる才能があってスティックに行き着いたのだろう。Ryutoさんの曲は伴奏とそれに載せるメロディの区別が割合聴き取りやすく、ギターのデュオで同様の演奏が出来るかと思うが、それをひとりでやれる楽器であることがスティックのよさだ。演奏の合間に彼が話したように、ピアノなどの鍵盤楽器に近いが、ピアノの音色が金属弦を使った楽器の中で必ずしも最高かつ絶対的なものではない。バロック音楽の教会オルガンやハプシコードにはみな独自の音色があり、ピアノはそういう多彩さを無視して来た。そこに電子楽器が登場し、ロックではエフェクターによってギターとは思えない音を奏でることも可能になって来たが、ギターを中心にしたロック、たとえばジョー・サトリアーニやスティーヴ・ヴァイの音楽は早々とその限界に到達し、それを打ち破るにはたとえばスティックのような新たな楽器に可能性がある。電子ハープのジーナ・パーキンスもそのことに賭けて来ているが、そこで問題となるのは活動する場の音楽シーンだ。今回Ryutoさんは前回の同様のライヴでも最後に演奏したことを語り、金森幹夫さんが注目するスティック奏者の面々でRyutoさんが最も実力のある演奏家であることがうかがわれる。今回出演の4組の音楽性にどのような共通性があるのかとあえて考えれば、自己に沈潜するほどに日本的ないし関西的になるしかないが、彼らが外国から見て「スクール」を形成しているかと言えばそれはどうだろう。YouTubeで世界中に演奏を伝え得るとして、そこでやはり問題になるのは、ラジオではわからなかった表現者の見栄えだ。Ryutoさんは寡黙を保ち、タキシードの正装で演奏すればどうか。ルックスは整形手術しても限界があるが、衣装を整えることはたやすい。もちろんその一方で知性の磨きは欠かせない。ピアソラがアルゼンチンの街中のバーからコンサート・ホール向きのタンゴを目指したのは、知性のある者が広く文化の紹介を担う現実を知ってのことだ。庶民のタンゴはそれなりに残って行くが、芸術に発展したタンゴが庶民のそれを再発見させる手立てになる。Ryutoさんがどこまで本物の芸術を視野に入れているかどうかで、プロになっても活躍の場が違って来る。今日の2,3枚目の写真は彼の演奏が終わった後の再度のジャム・セッションで、遠方から駆けつけたスティック愛好家が紹介され、彼も最後に加わった。その後観客がスティックを触れる場になり、「濁天さん」を残して筆者は夜に変わっていた地上に出た。日本にどれほどのスティック奏者がいるのか知らないが、金森さんは地道に彼らを紹介して行くのだろうか。そういう奏者からいずれTVに登場して人気を博すことがあるかもしれない。
