「
異端者は まだいたんかと おちょくられ 言いたきことを いたく呟き」、「雇われず 創作のみを して生きて 明日はましかと 満足はせず」、「目標に 届かぬ力 顧みず これでもましと またやる気出し」、「出会いの場 増えて広がる 視野広げ 増える出会いを いかに選ぶか」

先月18日のライヴ、今日は3回目の投稿だ。レザニモヲのさあやさんはヤフオクでチャップマン・スティックを買ったとのことで、ざっと調べると30万円ほどで買えるようだ。電子楽器の中古品ならば妥当な価格か。当日金森幹夫さんの言葉によれば、何とかチャップマンという人物が一台ずつ製作していて、その数が何千かになるらしいが、各楽器にシリアル番号が打ってあり、若い番号ほどヴィンテージとして流通価格は高くなる場合があるだろう。しかし改良を重ねて新たな効果を狙った商品が製造されて来ているはずで、またアコースティックの楽器のように使い込むほどに音がよくなるものではないであろうから、ヴィンテージ価値は場合によりけりではないか。それはともかく、昨日書いた紙芝居の後、今日の最初の写真のようにスティック奏者全員がステージに上がってジャム・セッションを繰り広げた。各人のスティックの形が異なるのは主に弦の数が違うからで、弦の本数が多いほどにギター以上の多様な音が奏でられる。さあやさんのスティックは彼女の華奢な体の割に大きく、重そうだが、彼女は鍵盤楽器の演奏に慣れているので弦の数が多い方がいいと思ったのではないか。ジャム・セッションは拍手を挟んで4,5曲演奏され、1時間ほどになった。写真は4人が揃った時点と撮ったが、すぐにドラムスのくろみさん、それにF.H.C.の留美さんも加わった。金森幹夫さんがチラシに「饗演」の造語を使ったのは、この場面が見たかったためかと考えもする。リハーサルの段階でどのキーでどのような運びで、また誰が中心になるかは決めていたはずで、最初は写真のように中央に陣取る背の高いRyutoさんが終始引っ張った印象が強いが、写真は4人の演奏の個性を示していると言ってよい。即興ではどれほど自己主張出来るかが問われるが、4人の好みの音楽は異なるはずで、それが「饗演」ならぬ「響演」となると、雑然となりやすく、実際2番目のジャムはそのようになりがちであった。その後、昨日書いたSさんが主体になった演奏ではビル・フリゼルを連想させ、彼の音楽のバック・ボーンを垣間見る気がした。合同の即興演奏では前に出ようとするタイプと控えめな性格の差が露わになり、かさいさんは最も地味であった。それはF.H.C.の演奏でも同じで、ヴィルトゥオーゾを目指しておらず、楽譜上に綿密に書いたことをそのとおりに練習して演奏する。レザニモヲもその点は同じだが、ほとんどの曲がリフが大きな要素を占めるので演奏の長短はある程度自在だろう。また「わかりやすさ」はレザニモノの音楽の方が圧倒している。

ただしそのことが音楽の価値を決めるとは限らない。今回のレザニモヲの演奏でまず驚いたのはさあやさんとくろみさんの衣装が同じ生地で出来ていたことだ。彼らの音楽を最初に聴いた時から筆者はふたりが衣装を揃えるのがよいと思い、そのことを意見した。彼らが縁日などの昼間に青空の下の舞台で演奏するイメージを思い浮かべたからで、そうなると衣装は桃山時代を髣髴とさせるものがよい。そういう和のイメージで多くの人に注目してほしいとの思いは今もあって、いろいろと演奏の場を夢想するが、実現にはレザニモヲ側にも工夫が必要だ。今回筆者はさあやさんのスティックの演奏を初めて聴き、改めて彼女の音楽に対する貪欲性を目の当たりにした。スティックとコンパクトなキーボードとなると電子マリンバに比べて運搬はより便利であろう。しかしくろみさんのドラム一式は車がなければ運べず、たとえば紙芝居であれば上演が可能な青空縁日のような場所では現実的でない。ロックの野外ステージはままあるが、そうした場所に出演するには具体的に何が必要なのか筆者にはわからない。そのことはさておき、平安講社の4月の例祭では毎年本殿前の舞台で雅楽が演奏され、そのマイクを通さない雅な音色に毎年惚れ惚れする。レザニモヲがそれを真似ろと言いたいのではないが、わずかな音色の楽器でも天上の音色かと錯覚させることは出来る。奏者の趣味はあろうが、聴き手からすれば大音量の音楽を好むことは少数派だろう。さあやさんがスティックを習得しようとし、それを用いたライヴが出来るのに対し、くろみさんの楽器の工夫が感じられないことは正直なところ、さびしい。曲によっては叩き方を工夫していることはわかるがそれは当然のことで、そこからもっと進んでさあやさんの音楽を彩るための接近が望まれる。
映画『タクシー・ドライバー』にチョイ役で登場した路上ドラマーのように、スネアひとつでも自己表現出来るという態度を意識することはよい。さあやさんのスティックとキーボード、そして歌が喫茶店でも演奏可能であるのに、それに合わせるべきくろみさんのロック・ドラムスは演奏の場を狭めている。くろみさんは以前レザニモヲのライヴの練習はほとんどしないと言った。そのことから推察するに、よりザッパニモヲでの演奏に面白さを感じているように見える。以前にも書いたと思うが、筆者は昔流行したアンプラグドのスタイルでも充分、あるいはよりさあやさんの音楽性が明確になる気がしている。さあやさんは3人や4人のバンドではよくあって面白くないので二人編成に決めたと言うが、次々に新しい楽器を学ぶ現状では、またルーパーを使えば彼女ひとりで充分で、一度そういう演奏も聴いてみたい。狭いライヴ・ハウスではさあやさんの声がくろみさんの演奏にかき消される場合が多々あり、今回も彼女が紹介する曲名はどれも聴き取れなかった。
F.H.C.のかさいさんは留美さんの背後にあって伴奏に努めている。もちろんくろみさんもドラマーとしてさあやさんの八面六臂的演奏を支えているが、F.H.C.のようなコンパクトさはない。今回レザニモヲは揃いの生地の衣服で演奏し、実質夫婦として際立ち、その意味で観客はさあやさんの若い美貌に惑わされずに、平たく言えば背後にいるくろみさんを意識の視野にも入れて、音楽性のみに没入することを強いられる。以前聞いた話だが、交響楽団でも男女の演奏家は色恋の発展が多いそうだ。それを音楽業界の一種の病気として批判することを筆者は好まない。さあやさんとくろみさんとの年齢差がどれほどかは知らないが、30代のさあやさんが今後ますますいわゆるアイドル的要素がなくなって行くとして、それは却って仲睦まじさを音楽で示すにはつごうがよい。そのひとつの好例がF.H.C.にあるが、こんなことを書くのは、レザニモヲのステージでの演奏からどのような力関係がふたりの間にあるかを客は想像し、また自ずと見え透くのであって、レザニモヲが意識しないとしても、観客がふたりをどのように見るかということをレザニモヲは意識する必要がある。同じ生地の衣装を着ることの延長上に、もっと進んでふたりの一体感を演出するには、くろみさんは打楽器をドラムスに限らず、活動の場をもっと広げる努力をするのがよい。とはいえ、もう聞く耳を持てないほどの年齢になっているかもしれない。さて、当夜のレザニモヲは40分ほどの間に6曲ほど演奏し、どの曲も初めて聴いた。まずルーパーを使ってのリフという個性はそのままで、相変わらず忙しい器用さで、そこにヴォーカルを被せ、第2期のレザニモヲとなっていた。こうなると第3期の変貌への期待がある。ザッパにしても30代半ばが創作の頂点にあったと見てよく、さあやさんの作曲もここ2,3年が絶頂期になるだろう。今回の演奏は、最初の曲の冒頭と最後の曲の締めくくりが同じか、どちらも4つの音を一拍子ずつ連ねたリフで、全体が輪を描くことを意識した構成となっていた。電子マリンバを使ったライヴの時のレパートリーと違ってきらびやかさはやや減退したが、より原始的になってロックを見渡していると言えばいいか、単純な音形で豊穣性を紡ぐ方向性を感じた。最初のヴォーカル曲は終始高い声を発し、歌詞がわかれば何か意見することが出来るが、歌の旋律に和を感じた。それは歌謡曲的という意味では全然ない。そうしたさあやさん独自の持ち味の濃厚な曲をもっと書いてほしい。次のヴォーカル曲はスティックを使い始めたことによる試験的な曲か、60年代の曲のカヴァーにも思えたが、ルーパーでのリフは終始同じながら、ヴォーカルは3コードのロックンロールであった。次はかなり素早いリフを用い、歌はなく、ザッパの「ティンク・ウォークス・アモック」を思い出させた。
