「
9と書き いちじくと読む 理由あり ろくでなしにも 形似がわかり」、「いちじくの 小粒の山の 投げ売りは 夏の終わりの 鐘の連打に」、「海中の 遺骨ニュースを 見て気づく 放置のままの 球根掘りを」、「期待して 成果小さき まだましと ゼロでなければ 次も頑張る」

去年暮れから利用するようになった7Sでは顔馴染みになった。嵯峨に買い物に行く際は必ず立ち寄る。今日はどの女性店員がいるのかと確認するのが楽しみでもあるからだ。行くたびに店員の顔ぶれが違い、しかもみな美人だ。ある日、そのことをひとりに言うと、5,6人の店員はみな若い主婦のアルバイトで、友だちが別の友だちを誘って店を切り盛りしているとのことだ。数日前、気さくで最も気前のよい女性が、狭い店内にあるいちじくの一パックを示して買ってほしそうにした。商品になりにくい小粒で、40数個はある。表面にわずかに青カビが生えているものも含み、値札は350円で即座に買った。筆者はいちじくが好きだが、1個100円はするので今年は買わなかった。ところが10日ほど前に「風風の湯」の常連の85Mさんの奧さんが本場の城陽で買って来た5個入りのパックを届けてくれた。大人の拳大の立派なもので、毎日1個ずつ食べて今年はそれで満足した。いちじくくらいどんどん買えばいいようなものだが、本などの資料代が毎月年金の半分くらいに達し、知の贅沢をする代わりに食のそれは出来るだけ始末する。これは20代前半に友人への手紙に書いたことだが、封筒の裏、自分の住所氏名の下部にパウル・クレーが描いたいちじくの絵を模写して投函したことがある。手紙にはその絵から連想したことに触れたが、それは残りの人生でいちじくを何個食べるかということで、年に2,3個として百に届くか届かないほどのわずかな量だ。そのわずかさが人生の短さのたとえになっているとの思いを込めた。半世紀前に書いたその手紙をよく覚えているほどにこの半世紀は一瞬で過ぎた気がするし、半世紀の間に食べたいちじくの個数は50に満たないはずだ。しかし、今年は85Mさんからの5個に加えて40数個の小粒を一度に買えた。7Sの店主の大柄なおやじを含め、店員全員と顔馴染みになり、店の前で自転車を停めると必ず店員が笑顔で外に出て来てくれる。人生はそういうことがあるので面白い。何事もあまり悲観しないことだ。そのような顔をしているとそれ相応の運が待っている。さりとて顎を突き出して傲慢顔を作れば嫌われる。それに気づかなければいいと思う人があるが、それは滑稽なことだ。それはさておき、ここ数日は朝と午後にいちじくを4,5個ずつ食べ、今日の写真のように今朝は残りが12個になった。小粒のまとめ売りは収穫の最後を示すはずで、ようやく猛暑が終わると期待したいところだが、この調子では彼岸まで昼間は30度を超え続けるだろう。

家内はいちじくを食べない。家内の次姉はいちじくが大好物であったらしく、家内は「酒飲みはいちじく好き」と言うが、それが正しいのかどうか知らない。いちじくの木は筆者が子どもの頃の大阪市内にもままあって、集団登校する際に年配者がいちじくの木からまだ青い実をもぎとって握りつぶしながら白い液を絞り出していた。母がよく買って来たから、果物屋ではいちじくは割合安価であったと思う。実を縦にふたつ割りし、手も口もべとべとにしながら黒紫色の薄皮の手前まで食べたものだ。筆者が40代になってから、母は正しいいちじくの食べ方をTVで見たのか、その方法を筆者の前で披露した。実が木にくっついていた先端から底に向かって皮を順次剥ぎ、全体を白くさせてからかぶりつくのだ。薄皮の下はミルク色の果肉が5ミリ前後あって、その部分はあまり甘くなく、昔の食べ方のほうがいい気もするが、無駄を省く食べ方はバナナの皮を剥くように薄皮全体をまず剥ぐことだ。85Mさんからいただいた5個はそのようにして食べたが、40数個の小粒は熟れ過ぎて薄皮が指ではすんなりとは剥げない。そこで果物ナイフで削るようにして全体の薄皮を全部剥いだうえで球根状のその実を口の中に放り込むが、両手指がべとべとになる。この粘着性がいちじくで、卑猥な連想をしてしまうが、いちじくは西洋では聖なる食べ物のひとつで、古代の人も生殖に関することを連想した。連日いちじくを食べながら、今朝は悪い夢を見た。海底に長年眠る遺骨がようやく韓国と日本のダイヴァーによってわずかに引き上げられたニュース映像を見たためと思うが、4月に咲いたヒヤシンスをそのまま放置していることに気づいた。それが夢の中か目覚めた瞬間のことか、どちらかわからないままに急いで階下に行って裏庭に飛び出た。どの鉢で花が咲いたかも忘れていたが、これかと思いながらスコップで中央辺りをざくりを掘り起こすと、球根が出て来た。花は二手に分かれて咲いたので、球根もそうなっていると予想したのに、去年と同じほどの大きさのものがひとつだ。球根はどの花のものもいちじくの実とそっくりで、さらに言えば金玉袋にも似て、動植物の根源の同型性を思う。しかしロジェ・カイヨワは上品なのでそうした連想をしても本には書かなかった。ネットで調べると、ヒヤシンスの球根は植えたままでもいいらしい。それではずぼらなので、掘り越して土を洗い流し、なるべく暗くて涼しいところに置いておく。これが何年続けられるかとぼんやり考える。74歳になれば充分役割を果たしたので、後は現実を夢と思い、夢を現実かと錯覚し、頭と体が働く間はそうさせる。後者の刺激には前者の刺激だけではよくないことはよく自覚している。読書三昧では運動不足になるから、2,3日置きに7Sに出かけ、女性店員と話す。そして野菜や果物の一山の見切り品を買う。
