「
短命を どこで区切るや 高齢化 百になっても 心は未熟」、「豪華には 高価の効果 露わなり 貧乏人は B品を手に」、「印結ぶ 印度仏に ラヴ・サイン ふたつに分けて 説法の印」、「気がかりの 本を読み終え また迷路 言葉記すは 明晰の武器」
今月9日にひとりで深草の教育大附属図書館に行き、今日取り上げる本を2時間ほどかけて読み、鉛筆によるメモはA4の紙に4枚となった。それを読み返しながら書く。『「印」Chiffres』と題する本書は1979年末から80年1月の間に発刊された。筆者は80年か81年に丸太町七本松に今もある京都市中央図書館で繙いた。限定217部という中途半端な数の出版で、価格は28万円であった。そのうち15冊は森田子龍の直筆の額入りの書がつき、45万円であった。つまり森田の書の1枚の価格が17万円で、これが当時安かったのかどうかだが、いずれにしても筆者は本書を買える身ではなく、図書館で見るしかなかった。本文は杉浦康平のデザインによる特殊箔押しとオフセットの4色刷りで、文章量はメモしながらじっくり読んでも2時間ほどで済む。当時30歳前後の筆者は市立中央図書館で全文を読んでもよかったのに、造本の豪華さを確認しただけであった。同館で本を借りるために2週間に一度は通っていて、いつでも読めると思ったからだ。同館へは電車で阪急の四条大宮に出て30分ほど歩き、帰りはバスで嵐山に戻ったものだが、同館に足を運ばなくなったのは今から30年ほど前からであったと思う。北山にある府立総合資料館や岡崎の府立図書館、それに地元の西京図書館、さらには大阪市立図書館も含めて調べものを各地の図書館でするようになったことと、やがてインターネットで容易に古書が買えるようになったからだ。京都市中央図書館は一時建て替えの話があったが、そのままで現在に至る。10数年、久しぶりに訪れると、筆者が通っていた頃とは全く違って、奧の調べ物室も含めて高齢の男性で満席で、みんな冷暖房の利く部屋で新聞や雑誌を読み、半ば居眠っていた。その光景を見て行く気がしなくなった。ついでに書いておくと、筆者が通っていた頃、言葉を交わさないが顔見知りとなった20代の女性司書が数人いた。そのうちのひとりは寡黙で個性的かつ知的な丸顔で、良妻になるタイプであったが、10年ほど前に京都市美術館か近代美術館で偶然会った。西洋人の若い男性とデート中であったか、あるいはふたりは結婚していたのか、彼女は無言でまじまじと筆者を見続けていた。もうひとりよく覚えているのは色白の痩せた美女で、長袖シャツの袖口から見える左手首は義手で、左腕が肩からないようであった。彼女は分厚い電話帳でも右手だけで器用に操っていた。幸福な結婚生活を営んでいると思うし、そう思いたい。同じ図書館で長年司書として勤務し続けられるのかどうか知らないが、貸出カウンターは若い女性ばかりであった。

さて、最近カイヨワの著作を全部読みたいと思い直し、本書を40数年ぶりに京都市中央図書館で閲覧しようと思ってネットで検索すると、蔵書として記録されていない。高価な本であるので除籍するはずはないと思うが、何年も閲覧されないでは置き場所に困ると考えられることはあり得る。ならば府立総合資料館に移動させればいいのに、市立と府立とでは蔵書の移動は簡単ではないかもしれない。ともかく、本書は関西では2か所の図書館にしかないことがわかり、うち1冊が教育大附属図書館であって、閲覧予約して出かけた。本書の外観を撮影出来るかと司書に質問すると許可出来ないとのことで、それで今日は本書発売時に作られた内容見本の写真を載せる。これで本文はさておき、森田子龍がどのような書を本書のために用意したかがわかる。本と違って内容見本は消耗品で、たぶん今は本書以上に珍しいと思うが、当時筆者は大型書店に行くたびにこうした内容見本が束になって詰め込まれている箱を探し、そこから高価な本の情報を集めていた。ネット時代になって数万円以上の豪華本は少なくなっていると想像するが、高度成長期からバブル崩壊までは豪華本の出版が目立ち、京都では堀川三条近くの京都書院がそうした本を扱う代表であった。同店が消え去った理由はバブル崩壊が最大の理由で、京都の呉服産業が急速に下降線をたどったからであろう。本書の内容見本をどこで入手したかは記憶がない。こうした内容見本の裏面下には空欄があって、筆者が入手したものはその左側に「座右宝刊行会」の文字が印刷され、その右側の「特約書店名」は空欄のままだ。大量に内容見本が届くので、書店は押印が面倒であったのだろう。217部限定は日本中の図書館に届かないわずかな数とはいえ、税金で運営される図書館であれば購入は難しい金額だ。教育大附属図書館にある本書は個人の寄贈により、その名前を書き写さなかったが、カイヨワと子龍の出会いの記念となった本書に大いに理解があり、また1か月の給料に匹敵する価格はさほど痛手ではなかったのだろう。それはともかく、40数年ぶりに本書を手にしテーブルに広げ、じっくりと読んだ。子龍の書は8点が縮小コロタイプ印刷され、それらは額装すれば部屋を飾るのにいいが、いかに精巧な印刷とはいえ、あまり感心しなかった。実物大であればまだしも、縮小はいただけない。一方、本書の扉にはカイヨワのサインが付せられ、そのサインをしている様子の写真が伝わるが、カイヨワは本書の完成を見ずに死んだ。しかし完成品とほとんど同じ見本は手にしていたはずで、本書の刊行が遅れ気味になったのは、用紙や印刷方法の選択ではないかと想像する。またボードレール研究で有名な阿部良雄の訳文は早々と出来上がっていたに違いない。本書には阿部による解説書がつき、内容見本に挟まれる新聞記事の複写と内容はだぶるが、以下はまずは本書の概略を記す。

阿部による解説書によれば、翻訳は75年2月に完成した。同年6月にヴィシー市で『ロジェ・カイヨワの世界』展が開催され、子龍、タンギー、アレシンスキー、ザオ・ウー・キーの作品が出品された。カイヨワは57年以降、たびたび来日した。72年はNHKの招きで夫人とともに来日し、京都のとある画廊で展示されていた子龍の作品に出会い、予備知識なく閃きを感じた。阿部の言葉を引用すると、「石を機縁として成り立つ自らの書法の世界と、子龍の書の世界との間に、文字通りの<照応>が成り立つのを、その時にカイヨワは感じた。」とある。そしてカイヨワの意図は直ちにジャンヌ・ゴルベスト女史の仲介によって子龍に伝えられ、彼女と瀬木慎一の尽力によって座右宝刊行会が仕事を引き受けることになったのが74年暮れで、その間カイヨワは本書収録のテキストの選択を練り直し、シベリア上空を飛ぶ飛行機の窓からアムール河を見た印象を述べる文なども入れていたが、石の主題に絞られた。7編のエッセイが収録され、最初の5編すなわち「処方」「黒い鉱石の描写のための覚書」「ひとつの漢字」「印」「もうひとつの印」は70年の『碁盤の目』に収録されたが、阿部は71年の袖珍版<ポエジー>叢書の一冊『石』のテキストを訳した。『碁盤の目』も『石』も現在に至るまで未邦訳のはずで、筆者は前者の原書を所有する。本書の6番目の「祭司」は71年9月にカイヨワがフランス政府文化使節として来日した際に阿部に原稿を預けたうちの一編で、他の一編「此処彼処に散らばり、執行猶予されて」とともに、72年4月に最終号が出た『都市』別冊に掲載された。「これらはひとつの方解石の描写であり、同時に能役者の演技の描写になっているという」と阿部は書く。7番目「信号機」は73年に阿部がパリを訪れた際、原稿が委ねられた。「祭司」と「信号機」は75年の『反省された石』に収録されたが、本書は原稿のままの初形を訳している。筆者は『都市』のその最終号を所有するが、『反省された石』は未邦訳と思う。晩年のカイヨワはピエール・ガスカールも書くように、石についての文章が目立った。筆者が最初に読んだカイヨワの著作は塚崎幹夫訳の『蛸』で、次に読んだのが新潮社の『創造の小径』の一冊で岡谷公二の訳による『石が書く』だ。前者は75年4月に出版され、76年6月16日に購入、後者は75年11月の出版で、77年6月12日に購入した。本書が塚崎や岡谷によって訳されなかった理由は上記の経緯からわかるが、本書を読んで一か所致命的な欠陥を見つけて、筆者は塚崎か岡谷が訳せばよかったのではないかと思っている。その欠陥については後述するが、阿部がカイヨワと親しくし、カイヨワの石に対する趣味を熟知しながら、石に対する興味がなかったことがうかがわれ、カイヨワの文章を正しく把握していない。

日本では訳されていないが、カイヨワは美術評論もし、日本では馴染みのない画家について書いた。レメディオス・バロについての文章は日本で開催されたバロ展の図録に載っているのかどうか知らないが、カイヨワがシュルレアリストであったことを反映して興味深い。阿部はボードレールを専門としたから、19世紀前半から半ばのフランス絵画に対する知識は豊富であったと思うが、カイヨワが馴染んだ現代絵画に関してはどうであったろう。子龍の墨象となればなおさら手に負えなかったのではないかと想像する。阿部が本書の解説で触れるように、カイヨワは「祭司」にエピグラフとしてランボーの『酔いどれ船』から一節を引用した。「遠い古代の劇の俳優に似た…」というもので、カイヨワがランボーの詩に着目していたことがわかる。それはカイヨワが一時期シュルレアリストであったからには当然だが、ランボーの才能の前にあっては彼の倍ほど生きたカイヨワや、また翻訳者の阿部は存在は霞む。筆者がランボーの存在を知ったには70年代半ばで、粟津則夫訳の箱入りの分厚い全作品集を古本で買った。その本は隣家にあるが、今は探さずに書き続けると、その本の大半は読まなかったが、「出発」と題する短い詩だけは当時大いに気に入って筆者のその後の人生に対する思いを決定づけたと言ってよい。本を全部読まなかったのは、外国の詩を日本語に訳せば意味はそれなりにわかるとしても、原詩のリズムは把握出来ないからだ。翻訳者が一級の詩人であっても不可能だろう。ましてや詩のひとつも書いたことのない学者であればなおさらではないか。ボードレールやその後のランボーにしても、その生涯は凡人には出鱈目に思えるほどに激烈だ。言い換えればそういう凡人離れした一生と引き換えに名声を後代まで轟かせる詩を書くことが出来たと思える。これは画家や音楽家でも同じで、創造する者はその人生に応じた作品を遺す。そう考える筆者は粟津則夫の講演を目の当たりにした経験から思い返しても、粟津のランボー全訳を即座に読破したいと思わなかった。しかし外国の優れた詩を訳す人がいなければその詩人の真価はわからないから、今のところ、翻訳作業は必要だ。またフランス語となれば筆者はわからない。そういう思いがあったので30歳頃にNHKのラジオでフランス語講座を1,2年聴き続けた。そのためもあって、フランス語の文章の字面を眺めてどういう単語が並んでいるか、つまり一方で英語に比べることもあって、詩の押韻くらいはおおよそ理解出来る。学生時代に友人がボードレールは筆者が読むべきだと真剣に勧めながら、関心を向けなかった理由は、日本語訳では真髄がわからないだろうと思ったからだ。それでハイネにしてもドイツ語の原書と日本の全集を揃えたが、それらを繙く時間がない。それは順序としてドイツ・ロマン派の他の先人たちの本をまず読みたいからでもある。
ランボーの原書はまだ入手していない。したところで彼の詩の言葉が何を象徴しているのか筆者には理解し難いだろう。しかしカイヨワが『酔いどれ船』から引用しているとなればいずれ確認せねばならない。ガスカールが明かしたように、晩年のカイヨワは酒浸りになり、それで命を縮めたようだが、ランボーの『酔いどれ船』によほど惚れ込んで酒を愛飲したのかもしれない。筆者の関心事はこのようにわずかな端緒からつながって行くが、今のところカイヨワの深酒を念頭に置いて酒を飲み過ぎて命を縮めないようにしている。とはいえ長生きするほどいいとも思えないでいる。ランボーに話を戻すと、カイヨワは彼を天才詩人の代表と認めていたであろうが、「ランボー論」は書かず、サン・ジョン・ペルスに関心を抱いて本を書いた。そこにいかにもカイヨワらしさがある。と言いながら筆者はサン・ジョン・ペルスに関心を持ちながら日本語に訳された詩集は極端に少なく、1冊入手したのみで、彼の詩の世界に踏み込まないでいる。ともかくカイヨワは詩に次第に関心を強め、本書の「もうひとつの印」ではメキシコ産の瑪瑙に触発されてほとんど詩と言ってよい文章を綴った。そのさまざまなイメージの連鎖はシュルレアリスムの自動筆記さながらで、カイヨワが自宅で酒を飲みながらその瑪瑙を愛で、半ば酔って次々にイメージが連なる夢を見ながら、一方で言葉を繰り出すために醒めていた様子を想像させる。前述のように本書の最初の5編は石について書かれたが、続く「祭司」と「信号機」は方解石についての文章で、本書全体が石に触発されたものとなっている。次に「祭司」から引用する。「…なるほど、それらの図形のどれひとつとして、何かひとつの意図に応じて生まれたものではない。それはただ、さまざまな機縁の偶然の結果であって、機縁というものも、意図同様、長続きし得るものとだし、わけても意図と似ているのは、かつてそれが一度あったところにもう一度なることはこれから先も決してない、という点だ。まさしくこの点で、重力と偶然の産物は、人間の詩だとか絵画だとかを予告するのである。」「重力と偶然の産物」とは鉱物や化石のことだ。この文章は、70年にスキラ社から出版され、75年に新潮社から発刊された『石が書く』という題名と比較すると理解しやすい。『石が書く』の原題を直訳すれば『石の筆跡』だ。これは石に意思があって独自の模様を呈するようになったとの見方で、人間の詩や絵画と同じものとみなす考えだが、石が内蔵する模様も人間の絵画も仕上がればそれが固定される点で共通性があると捉えている。美を具え、しかもそれが汲みども尽くせない完璧性を宿す場合、自然が作った石と人間の芸術を同一視出来る。それに、人間自体が自然の産んだもので自然そのものだ。となれば自然が作る石の模様と人間の詩や絵画は同じものと言える。

「石が書く」という擬人化表現は石の模様美に気づくのが人間のみと捉えると、話は哲学的になって来る。『石が書く』の巻末の解説の最後で岡谷はこう書く。「『石が書く』の彼の散文は、鉱物のように硬質で、水晶のように透明で、宝石のように純乎とした輝きを放っている。このような最良の散文を十分日本語に移しかえることができたか、訳者としては甚だ心もとない。」カイヨワは石に魅せられるにつれてその文章は詩に近づいて行った。石の美を他者に伝えるのにそれは必要な方法であったし、そうあるべきであった。散文でも日本語に移し替えにくい場合があるならば、詩ならなおさらだ。あるいは不可能だ。『石が書く』の外箱カヴァーにはカイヨワの文章から6行引用され、その日本語訳が本の扉に書かれる。「あちこちに石がみずから書き残したしるしは、それにこだまを返す他のしるしの探索と精神を誘う。私は、こうしたしるしの前に佇み、みつめ、記述する。そのとき遊びがはじまる。発明であると同時に認識でもある遊びが。」「誘う」はinvitent、「発明」はinventionで、「誘う」と「発明」では字面にも発音にも共通性がないが、フランス語では冒頭がinvで通じ、カイヨワはそうした頭韻を考えたであろう。そういう詩に近い文章の作り方は日本語に移せないか、かなり技術を要する。しかしあまり特別な言葉で訳すと意味が伝わりにくい。「祭司」からまた引用する。「石たちの無感覚性のとりこになった私にとって、人間にかかわるすべてはほとんど無縁のこととなったように思える。私の心が頑なになったというのではなく、この世に与えられてあるいかなる物とも自分はほとんど区別され得ないと感じることが、かつてよりは今日の方がよりしばしばある、ということだ。…私はひとつの拡大された語彙に慣れてゆくのであり、この語彙たるや単に語だけから成るのではなく、宇宙が幸いにも忘れたかまたは私の前に置くかした意外な授かり物すべて、あまりにもはかないか、あまりにも変わりやすいために名付けられることすらできなかった物のすべてから成るのだ。…」これはカイヨワが神との対話を求めながら神からほとんど無視されている状態を想い浮かべさせる。そのため、この文章を吟味すると、神からの恩寵を感じつつも悲しみがこみ上げて来る。一方、言葉に出来ない存在を言葉で表わすにはこういう書き方しか出来ないことの現実を思い、まさにこのカイヨワの書き方に詩の精神が宿っていることを知る。カイヨワはその後も書き続けたが、人生の締めくくりを予感していたことが伝わる。別の書でカイヨワは自分が書き過ぎたと思いを述べた。ランボーのような詩人を目指すのであれば確かにそうであったかもしれない。そして筆者は駄文ばかりの「お笑い草」を日々綴っていることを自覚するが、今日はカイヨワについての思いのひとつの区切りをするつもりでいる。

20代半ばで『蛸』そして『石が書く』に出会ったことは幸運であった。筆者はカイヨワの著作の全部を読んでおらず、読んでも理解出来ないはずだが、カイヨワの享年をとっくに過ぎた今、カイヨワがどこまでも合理的に思考しながら、解明出来ない存在に思いを馳せ、その中に存在する美しいものだけを凝視し続けた気持ちを想像する。しかし美しいと思って収集した物に囲まれて暮らす年月は短い。若い頃ならともかく、経済的に余裕が出来た高齢になって美術品を買っても、それらとともに暮らす歳月は一瞬と言ってよい。カイヨワが収集した石はまとまった形で保存されていると思うが、カイヨワが石に魅せられたのは人間よりはるかに大昔から存在して来たものであることの驚きが大きいだろう。カイヨワの墓はパリにあって、墓石中央に大きなアンモナイトが埋め込まれている。「重力と偶然の産物」であるアンモナイトほど、カイヨワの墓を飾るにふさわしいものはない。詩や絵画はそうした化石ほど長持ちしない。しかしカイヨワはそうした美の完璧と言ってよいものを愛した。カイヨワの著作を通じてよく現われることとして、宇宙が指で数えられるほどの少ない法則にしたがっているとの信念や恣意的な言葉を結びつけた詩への批判がある。平たく言えば規律を愛して出鱈目を嫌った。しかしそこに矛盾は入り込むだろう。ボードレールやランボーといったフランスの詩の歴史に輝く才能は規律ある暮らしをしていた普通の人々からは遠い生き方をした。規律からはみ出たアウトローが天才詩人となったとして、もちろんそれは天与の才を磨き続けたからで、アウトローが条件ではない。詩が恣意的な言葉を結びつけたものであってはならないとして、それはたとえばランボーの詩を参考にその超現実性を模倣して、いわば適当なイメージをサイコロを振って導き出して羅列した詩を思えばいいが、そうした手法は絵画にも使用され、筆者は早々とそうした作品をゴミと断定している。最近ネットで油彩を描いている人のブログをたまたま見た。画面の最上部にその画家の作品が掲げられ、筆者は一瞬でその作品が脳裏に擦り込まれてとても嫌な思いをしたし、今もしている。本人は評価してほしいために自信作をそのように掲げているのだが、ドーミエの『クリスパンとスカパン』に倣ったようなその作品は作者の強い自惚れ、そして認められないことへの恨みを見た気にさせた。作品はそのように嫌悪の情を催させる場合がある。高齢になるほどそうした好悪は明確化して行くのだろう。カイヨワは多くの作品を見ながら、一言したい、出来れば手元に置きたい作品は稀ではなかったか。森田子龍の書はその意味でカイヨワの晩年を華やかに彩り、そして本書が生まれたが、カイヨワの内部で鉱物と書の間にどういうつながりがあったのかを読み解かねばならない。それについても後述する。

本書の阿部の解説に戻って先を続ける。「chiffresは「空虚」を意味するアラビア語「シフル」から、「ゼロ」を意味する中世ラテン語の「シラフ」が生まれ、それが15世紀半ばから「暗号」の意味で使われるようになった。」筆者は「シラフ」を「体内に酒はゼロ」すなわち「酒に酔っていない」ことを意味する日本語かと思いもするが、それは「顔が白い」ことから生まれた言葉であろう。「今日のフランスではchiffresは「数字」、「暗号」の意味があり、カイヨワは後者の意味で本書に使ったため、「記号」signeとほぼ同義だが、「暗号」の意味での使用であれば解読の手間を要するとの含蓄がある。この「記号」、「暗号」が石の中に刻み込まれている点で「刻印」empreinteの同義語でもある。」「このchiffresは直接的なやり方(象形文字や漢字のもつ一つの限定された意味を読み取るのと同じように)「解読する」dechiffrerことを要求するものではなく、さまざまな連想が働く余地も生まれ、言い変えれば「遊び」が成り立つ。」「石の記号を凝視するところから生まれた言語表現は、石の記号に具現した世界の構造に照応する構造をもつものであるからして、ことばの恣意的な組み合わせではない。ここで重要なのは、この「遊び」、そしてこの遊びから生まれる「知」が、人間を謙虚へといざなう性質のものだということだ。幻想や思いつきから作り出された恣意的なことばの結びつきに十全なる創始者としての発明を誇る詩人の傲慢を排して、自らの「発明」が実は「印」としてすでに存在するものの確認に過ぎぬことをひとつの貴重な証しとして尊重する謙虚さを選ぶカイヨワ。」ここでカイヨワの思想を知る重要なことは、「石を凝視して生まれる文章は世界の構造に照応した石が呈する独自の模様に照応し、幻想や思いつきによる恣意的な言葉の結びつきではない」という箇所で、カイヨワがたとえば本書の「もうひとつの印」で繰り広げるさまざまなイメージの羅列が「幻想や思いつき」ではないのかという疑問を抱かせる。ある抽象的な形を見て何を連想するかは人によってさまざまだ。カイヨワが「神秘的な獣の八つ裂きにされた皮」や「儀式の凧」をイメージする石の模様は、別の人には別の幻想を与えるだろう。つまり、石の模様を見て連想したイメージが、石が厳密に呈している世界の構造と唯一照応するとは限らず、それゆえカイヨワの「もうひとつの印」で繰り広げられる詩的散文は「思いつき」ではないとは断定出来ないだろう。しかしそれでもなおカイヨワの考えが正しいことは、別の立派な詩人がカイヨワと同じようにある石の模様を見つけて詩を書く場合、それはカイヨワの文章とは当然異なるものの、ある硬質性が込められるはずであることから了解出来る。言い換えれば、石の模様に嘘がないのと同じように言葉の連なりに嘘がない。
これは阿部の解説には次のようにある。「人間の想像力の働きのさまざまな相と、それに機縁を与えるもの(あるいは、その「土台」であるもの)としての、世界(自然)の構造の諸形式との間に、共通項を見出すこと。」カイヨワは思想形成にメンデレーエフの元素記号周期表から決定的な影響を受けた。著書『碁盤の目』の題名は何となくその周期表と似ている気がするが、つまりは形の構成には単純な規則があるとの信念、これを直感と言い変えてよいが、カイヨワは抱いていた。そのため、鉱物や昆虫の羽根や貝といった自然界に存在するものに共通した規則があると考えてそれを追求したが、美しいものは詩や絵画にも当然あって、前者については世界のあらゆる国の名詩を読んでそこに名詩たるべき条件を見出そうとした。その著作はいかにもカイヨワらしいが、そこに挙げられる名詩の条件をすべてかなえることを目指した詩が名作になるかどうかは保証されないだろう。名作の詩に具わる風格といったものをカイヨワは列挙したのであって、風格は恣意的には生まれない。ただし、カイヨワの挙げる名詩の条件は詩人だけではなく、創作に携わるすべての人に適用出来ることを伝える。その最大は前述したように、謙虚であるべきことだ。この言葉を嫌う芸術家は多いだろう。有名になって経済的に豊かになればそれは自分の努力の賜物で、誰も自分を追い越すことは出来ないと思いがちだ。そこにカイヨワは断面が美しいさまざまな石を持ち出し、それらが人間が出現するよりはるか昔から存在し、たまたま人間がその石を割ったことで現われた模様であることを示す。本書には図版はないが、『石が書く』には石の断面の原色図版がどの頁にもある。それゆえカイヨワの石についての著作を読む場合、同書は欠かせない。石の収集を趣味とする人は世界中にいる。カイヨワはそうした人々の間で名前をよく知られていたのかどうか知らないが、カイヨワが『石が書く』で石の鑑賞の醍醐味を語ることを石収集の趣味人はほとんど常識的なことと捉え、カイヨワを見上げるというよりも同族意識を抱くだろう。そしてカイヨワが石について書くことを石の専門書とは全く違った、詩や絵画の鑑賞を通じての宇宙や人生を考察する思索の書と同一視するだろうが、カイヨワの考えは石を趣味にする人たちには直感されることであって、カイヨワは石収集家の熱い思いを代弁したと言える。筆者は石を集める趣味はなく、『石が書く』を繙くだけで充分だが、同書を読めば、人間がたとえば絵画の歴史を進めながら、それらのイメージがことごとく石の内部にはるか昔から刻み込まれたであろうとの予測を知って確かに驚嘆する。ではカイヨワは人間の芸術の営みは徒労であると思っていたかとなると、それらの行為を「遊び」と捉える限りはそうではない。カイヨワは発明と認識の「遊び」と書いているが、この場合の発明の意味がわかりにくい。
発見ではなく発明となると、これまでにない何かを見出すことだ。カイヨワは石の断面を凝視し、思いを綴るのにふさわしい言葉やその組み合わせを発見しようとする。それは論文の一部を盗用ないし引用することとは違って、独自の詩文を組み立てるとの自負だ。そうなると「発明」の言葉を使うカイヨワに矛盾はないかとの疑問が湧く。まず謙虚には見えないからだが、『石が書く』でカイヨワが示唆したのは主に現代絵画に携わる画家の態度ではないか。独特の抽象画を描いたとしても、それとそっくりな石の断面がある。抽象に限らず、具象絵画でも同様のことがある程度言える。しかし石と詩となれば話は別だ。つまりカイヨワは無数の美しいイメージを見続けた果てに石に終着し、その凝固したイメージに釣り合う詩文を書こうとした。これは美女に捧げる詩と方法は同じで、いかに圧倒的な美を持つ対象を詩が称えられるかだ。そしてその詩の行為をカイヨワは「遊び」とするのは、カイヨワの有名な遊びについて分析した著作行為そのものが「遊び」であったことになる。またその知的な遊びはカイヨワが分類した遊びの4つのどのカテゴリーにも収まらないようだが、上記から容易に推察出来るように、カイヨワは何か気になったものを徹底的に収集する「オタク」に似たところがあった。これは子どもじみていることだが、カイヨワにそう指摘しても否定しないだろう。むしろ子どもの頃に抱いた関心を死ぬまで持続させ、「発明でもあると同時に認識でもある遊び」に終始したことを誇りに思うだろう。だが石の美に魅せられて行ったことは人間の小ささに幻滅を覚えたからではないかとの直感が筆者にはある。遊びは祭りにつながり、祭りは戦争の別の形でもある。カイヨワが言うようにどちらも徹底して消費するからだ。戦争はドイツ・ロマン主義の根本のひとつを成しているが、核戦争にロマンはない。しかし人類は核を手放さない。そういう時代にどういう知の遊びか可能か。戦争を尻目に、得意とする言葉の操りで永遠性を謳い上げるならば、そこには石の美しかなかったというのが真相だろう。謙虚になるべきとは、自惚れる画家や詩人だけに対してではなく、宗教家や為政者に対してではないか。その点、天候に左右される農業従事者は最も謙虚と言えようか。カイヨワは先祖が農民であったと言い、それゆえ地道にこつこつと思索し、それを言葉に移し替えることを厭わなかった。その果てに「石たちの無感覚性のとりこになった私にとって、人間にかかわるすべてはほとんど無縁のこととなったように思える。…この世に与えられてあるいかなる物とも自分はほとんど区別され得ないと感じる…」と書く境地に至ったことは、深酒に酔った夢の心地よさであったのかどうか、悟りの境地に至ったとして、筆者はまだランボーの「出発」の詩を思い浮かべる。
本書の最初「処方」は隕石についてで、原書では20行ほどで1頁に優に収まっている。本書では一行当たり32文字で1頁に9行、計3頁を費やして印刷される。翻訳文はかなり大きな活字で、行間に原書のフランス語がルビとして印刷されるが、どの行も本紙の上半分に収まっていて、天眼鏡がなければ読めず、なぜ翻訳文と同じく天地いっぱいに引き伸ばさなかったのかと思う。しかしそうすれば活字はかなり扁平にするか、あるいは単語間の空きを大きくする必要があった。そのことはわかるが、活字があまりに小さくて読みにくい原文はお飾りで、フランス語をある程度理解する人のためにもう少し大きな活字を使ってもよかった。それは原書を手元に置けばよいとの考えに立てば一蹴される意見だが、前述のようにカイヨワが阿部に直接手わたした原稿が元になっている場合があるので、本書に印刷されるフランス語の本文はそれなりに重要だ。さて、最初に隕石についての文章を載せるのは原書『碁盤の目』の第1部の第5章『鉱物』に倣ってのことだ。ついでながら、『鉱物』の章の第3節『Rose des sables.』(砂漠の薔薇)と第4節『Silice‐cilice』(二酸化珪素の毛織物)は本書から省かれた。前者は砂漠で見られる薔薇の花状に結晶化した石で、誰しもその画像を一度は見たことがあるだろう。後者はシリカ(二酸化珪素)を動物の羽毛で織った衣装のシリカに引っかけた題名で、僧衣の表面のように見える石についての文章だろう。カイヨワが本書の最初に隕石についての文章を持って来たのは、その断面の紋様が地球上では作り得ないほど特異なものであるからだ。カイヨワは隕石の断面紋様として「ウィドマンシュテッテンの図形」とさまざまな色合いの光沢が同居するものを挙げ、そのどちらも「人間の知る限りの紋様のうちで、地上のものならぬ唯一の紋様を与えてくれる。」と書く。地球外からもたらされた隕石が地球上ではどこにもない紋様を持っているのは当然のことだが、人間が描く抽象画にどのような突飛なものがあるとしても、それらの紋様は宇宙のどこかにあるとカイヨワは言いたいのだ。本書が書かれた当時、ネットは存在しなかったので、ウィドマンシュテッテンが発見したとされる隕石の断面模様や国別に色分けされた光沢のある地図のように見える隕石についての画像を確認は困難であったが、今ではネット検索に即座にそれがどういうものであるかがわかる。ウィドマンシュテッテンの図形から筆者はピラネージの銅版画「牢獄」を、後者のカラフルな地図状の紋様はパウル・クレーの絵画をそれぞれ想起し、カイヨワの驚嘆を共有出来るが、実はそうした隕石に内在する美は一部の鉱物愛好家には古くから知られていた。カイヨワの鉱物への関心は南米に滞在した若い頃からであったと思うが、晩年に至るにしたがい、人間への関心は石に向けられるようになった。

「黒い鉱物の描写のための覚書」も原書では1頁に収まるほどの文章で、筆者は1行もメモしなかったのでどういう訳文かは確認出来ないが、最後の文章は「le fil transparent et sombre de ⅼ’obsidienne,la nuit devenue couteau.(透明な糸と暗い黒曜石、刃物と化した夜。)」とあって、「刃物」は人間が金属を持たなかった時代の黒曜石で作られた矢じりを連想させる。10いくつの箇条書きから成り、カイヨワはもっと長い文章にするつもりがあったのだろうが、そのメモ的な短文が詩のように充分思いを盛っているとも考えたのではないか。それはすべての光を集めて凝固している「黒い鉱物」の寡黙さに倣ってのことか。筆者はマルローの『黒曜石の頭』を思い出したが、同書は73年4月のピカソの死以降に書かれ、74年3月に刊行されたので、カイヨワの『碁盤の目』より3年遅い。これはマルローが「黒い鉱物」である黒曜石(LE OBSIDIENNE)に着眼するきっかけがカイヨワの書にあったことを想像させる。カイヨワはマルローより一回り年下だが、小説家で美術史を専門としたマルローはカイヨワのように人間が作った以外の自然の造形美には着目せず、ふたりに交友はほとんどなかったのではないか。さて本書三番目の「ひとつの漢字」は森田子龍の書が本書に収録された理由を説明するだろう。10頁に及ぶ文章で、その最後しか書き写して来なかったので、原書を頼りにするしかないが、全文を訳すのは面倒なので筆者なりに考えたことを書く。まず、阿部は最初の行の後半「les figures des septaria sont rythmes」を「セプタリア(腹足軟体動物)の外形は律動(リズム)をなしている。」と訳す。筆者はこれを書き写しながら阿部がセプタリアについて知識がないことに気づき、正直な話、以降の訳文を読む気がしなくなった。丸括弧内の「腹足軟体動物」は辞書で調べたのだろうが、カイヨワの『石が書く』をわずかでも繙けばそれが何を意味しているかは即座にわかる。本書の解説に阿部が書くように、カイヨワは78年11月15日付けで最後の手紙を阿部に送った。また詩人論を主に集めた評論集『出会い』が届き、12月21日にカイヨワは亡くなった。本書の出版はその1年後だが、阿部はセプタリアが何を意味するかをカイヨワに直接訊くか、『石が書く』を読めばセプタリアのリズミカルな図形を容易に知り得た。本文がすでに印刷済みで訂正が間に合わなかった可能性はあるが、出版までに気づけば訂正文の封入は可能であった。正誤表なしで出版されたとすれば、阿部は27万円もする豪華本で誤訳をした。セプタリアはそのままでよかったかもしれないが、『石が書く』では岡谷は「亀甲石」と訳していて、しかもその言葉の下にイタリック体で「septaria」を挿入している。
阿部は本書が鉱物について書かれた文章であることを知りながら、なぜ軟体動物を持ち出したのだろう。訳文で理解するしかない大多数の読者のために、セプタリアでは意味不明なのでどうにか日本語に訳そうとしたのだが、それが誤訳であれば、続く「ひとつの漢字」の文章全体の意味を阿部がよく理解していなかった可能性はある。『石が書く』の「亀甲石」の冒頭はこう訳される。「方解石があちこち浸透している珪土質の団塊を亀甲石septariaと呼ぶ。さして珍しいものとは思われないのに、ほとんど知られていないようだ。辞書にものってはいない。管見の範囲では、それに言及している大百科辞典はただ一つしかなく、しかもその説明はいたって簡単である。」カイヨワがそのように書くからには阿部が首をひねったことは当然かもしれないが、カイヨワと手紙を交わす間柄であれば、わからないことは質問すべきだ。そうしなかったのは阿部がカイヨワを軽く見ていたか、翻訳家として訊くことを恥と思ったかだが、本書の訳文を読んだ岡谷や塚崎はどのように思ったことか。ボードレールの有名な翻訳家がフランス語で書かれたどの分野の本をも容易に訳せるとは限らない。ましてや研究範囲が途轍もなく広大であったカイヨワであったから、あまり研究されていない分野の専門用語や事項は少なくなかったろう。次に筆者が書き写した訳文を載せる。「「私は何も意味しはしないと図形は言う。だが私は、ひとつの文字体系をかたちづくる数少い象徴の特殊な構造を能く予見し得たのだ。それらの象徴は数えられるほどしかないが、それでもって、世界の中に存在する物ども、および、欲望や夢がそれに付け加える物どもの多数を、数えつくすのに十分である。それらの象徴のおかげで、どんなに複雑なまた長い言説であっても、書き写され得ず保存され得ぬということはない。」この引用文の冒頭には鍵括弧がふたつあるのは最初のそれが筆者の引用であることを示すためだが、文章の最後にはそれがひとつしかない。これはカイヨワがそのように書いているからで、文章を書く決まりとしては、「「私は何も意味しはしない」と図形は言う。…」とするのが正しいが、まあ意味は通ずる。それはさておき、カイヨワが言わんとすることは、やはり『石が書く』のしかも亀甲石のさまざまな図版を見ればおおよそわかる。まず亀甲石の紋様がリズムを成しているという点だ。それらはマティスが描くダンスをする人体か、燃え上がる炎のようで、また毛筆による書のようにも見える。カイヨワが京都市内の画廊で子龍の作品に目を留めたのは、それが亀甲石の断面を連想させたからであろう。もちろん子龍の書は漢字で、その成り立ちは六書という六つの方法があり、どの漢字も筆順は決まっている。亀甲石の断面模様はどれも異なるが、ある数少ない法則にしたがって生じたものだ。

意味を持たない亀甲石の紋様から、漢字のような文字体系を形成する数少ない象徴の特殊構造を予見することはカイヨワの発明と認識で、それが遊びということになるが、その「数少ない象徴(petit nombre des symbols)」の意味は理解しにくい。セプタリアはsepが頭につく単語なので、亀甲石のひび割れ紋様は「七」に関係したもので、その割れ具合の太細や色合いの差はあっても専門家が見れば亀甲石とわかる法則があるのだろう。それと漢字の成り立ちと結びつけるとして、文字体系を形成するその「象徴」は意味を持たない亀甲石の紋様からどのように予見出来るのか。これは「ある」文字体系であって、たとえば漢字を知らないイスラム圏の人々は漢字を亀甲石の紋様と似たものと思うであろうし、漢字を使う人はアラビア文字をまた同様に見るはずで、結局カイヨワが言いたいことは「ある体系」を形成している法則はごくわずかという思いだ。もっと言えば亀甲石の紋様は何も意味していないと人間は思うが、亀甲石に意思があれば、紋様や色合いが異なる亀甲石同士で同族と認識することであって、ある文字体系もその文字を知らない国の人にとっては亀甲石と同じに見えることを言いたいのだろう。そこまで考えながら、やはり「数少ない象徴」は筆者には理解しにくい。それを用いればどのようなどんな文章でも書けるということは正しく、またそうであるので筆者はこの文章を書くことが出来るが、たとえば漢字における「象徴」が「数少ない」とはどういうことかと言えば、前述した六書が正しいのかどうか自信はない。それはsymbolという言葉をどう捉えるかで、これを象徴と訳すことがこの場合に正しいかどうかだ。またそれを言えば本書の題名のchiffresを「印」と訳したこともそうかという疑問が湧く。「数字」と「暗号」の意味をカイヨワが込めたとすれば、セプタリアが内蔵する「七」の意味を、ある文字体系を形成する「数少ない象徴」になぞらえたかとの連想が働くが、「しるし」という言葉から導き出される漢字は「印」だけではない。ロラン・バルトの『表徴の帝国』における「表徴」はsigne(サイン)で、これは「記号」と訳すほうがわかりやすいが、カイヨワは石の断面紋様は「石が書いた印」と認識し、それに意味を持たせるために、すなわち言葉を選んで詩文を作り上げるために「象徴」を読み取ったということだろう。そう考えるとランボーの詩から引用してエピグラフとしたことの意味もわかる。ランボーの詩は象徴的であるからだ。そしてカイヨワの「ひとつの漢字」の文章が「亀甲石」を扱いながら、人間のどのような文字体系も数少ない象徴を元にしてどんな考えでも書き記すことが出来ると考えているところに、人間が自然に包括されながらそれと同じか、あるいは遅れた存在であることを主張したがっているように思える。
4番目の「印」は化石についての文章だ。「ある日、金属だけが、かつて生きものによって分泌された砕けやすい外皮にとって代ってその跡に残る。…このような刻印はおそらく、流行の気まぐれだとか道行く人の束の間の思いつきほどの値打ちしかない。そこかしこでは、殻が、変ることなき実質と化する前に砕けてしまった――時代の波に抗して生き残る画像もやはり、地質学の彼方に、生命のはかなさを証言するものではある。…石の中に散らばり、漂う残骸はしかしながら、最初に在った滅びやすい鎧、巨大な圧力によって破壊されたお笑い草同然の隠れ家の、痕跡を後々まで留める。…」アンモナイトの化石は小さなものなら安価だ。それほどにたくさんあって、生息していた時代の特筆すべきアンモナイトというものはおそらくないか、カイヨワの墓に埋め込まれたものがそのひとつかもしれないが、いずれにしても化石は偶然の産物で、名詩や名画のように人間が特別大事にしたものではない。遠い未来に人間の何が化石として発掘されるかとなれば、せいぜい人の骨であろうが、それは偉人とは全く限らない。たまたま化石となる条件下にあっただけの存在で、その意味でカイヨワはそれを「お笑い草」と言うが、そこには人間のたゆまぬ努力やそれによって生み出される芸術も長い年月を経れば何も残らず、ごくありきたりの平凡なものがアンモナイトと同じようにごくわずかに石に記録されるという、ニヒリズムがある。アンモナイトが謙虚に生きたかどうか知らないが、人間は謙虚ではない者が権力を持ち、死後は誇らしげな銅像にされる。そういう人間の普遍的な営みもカイヨワは冷笑していたかもしれない。見事な大きさのアンモナイトを見ればそう思うだろう。名画でも石のように長生きはせず、隕石におけるウィドマンシュテッテン模様のようには幻想的ではない。天体観測を趣味とする男性はあまり結婚しないと聞いたことがあるが、女性に興味を失うことはわかる気がする。人生が一瞬であると感じると、永遠に関心がなくなるのではないか。しかし、永遠のことを考えても仕方がない。それで大多数の人は現在を謳歌しようとする。そこに欲望や嫉妬が入り込み、時に傲慢にもなる。筆者がよく考えることは、自分の人生は海の中で、泳ぐ範囲はごくごく狭いが、危険があまり及ばず、いわば桃源郷のように満ち足りた気分で暮らすことが出来る。それは微小な魚としての生き方で、たとえば鮫には無視されるが、小魚なりの役割がある。鮫ばかりでは海はないからだ。それに小魚であっても生命体系の一部を成し、それを形成する象徴の特殊な構造をよく予言し得るはずだ。そのことをこの投稿が示しているかどうかは自分ではわからない。筆者は自分の存在の「印」をこうした投稿で成している。それを他者がお笑い草であると読むのかどうか、ともかく読まれることをさして望まない謙虚さは持っていたい。
