「
満月を 恐いと言いし 瞳見る これより先の 修羅場を想い」、「もじる兄 いずれパロディは 全盛と 鮭を肴に 酒避けぬ日々」、「詩人とは 私人の思い 刺繍して 死人になるも 視認はされり」、「古写真 色をなくして セピア色 色をなすなよ 影あるうちは」

1968年7月21日に『モジリアニ名作展』を中学の同窓生ふたりと一緒に見たことは先日投稿した『天井桟敷の人々』に書いた。その投稿の際に用意を済ましておいた写真を今日は最初に使う。本展は5月から5月までのおよそ6週間、東京の西武百貨店で開催された。その後の京都国立近代美術館での開催と同じく、主催は同美術館と読売新聞であった。本展を見たいと思ったのは、当時読んでいた読売新聞に盛んに宣伝記事が載ったからだ。それらの切り抜きは本展図録に挟んである。同じ図録はネット・オークションで安価で入手出来るが、当時の新聞記事は図書館で縮刷版かマイクロフィルムを見る必要があるし、読売新聞の大阪版となると、マイクロフィルムを保存している図書館は大阪にもないかもしれない。今日の最初の写真は図録の表紙をめくった状態で、筆者は訪れた展覧会のチケットの半券をその写真のように扉に貼りつけることが習慣になった。やがてそれが面倒になったので半券は束にして保存し、菓子箱にびっしりと詰まっている。本展の入場券の半券は図録以上に珍しいだろう。チケットの文字は全部銀色で印刷されているのが何となく時代を感じさせて面白いのは、ビートルズの「ヘイ・ジュード」が発売された当時の「新しい時代」の雰囲気がこうした小さなデザインにも宿っていることを知るからだ。日本でのモジリアニの展覧会は79年代にも開催され、毎日新聞が主催した。秋に東京、次いで大阪の大丸百貨店で展覧され、筆者は見なかったが、上の妹が珍しくも見に行き、その図録を見せてくれた。妹の旦那は本の趣味が皆無で、その図録大きな家に一冊だけある本となった。その図録は明らかに68年展を意識し、表紙にモジリアニの絵を一点載せ、端にモジリアニのサインを天地いっぱいに引用し、本の背の「AMEDEO MODIGLIANI」のタイポグラフィも全く同じローマン体で、68年展の補遺を狙った展示内容であったと想像する。その二度の展覧会以降、モジリアニの大規模展の開催は日本ではないはずだ。作品が世界中に散らばっていて、集めるのが大変であることが68年展の図録の解説文からわかる。ところで、「モジリアニ」が68年展から数年後に発売された『ファブリ名画集』では「モディリアニ」と表記され、79年展はそれを踏襲し、以降「モジリアニ」の表記はなくなったと思う。「モジリアニ」は日本で最初に紹介された時からの伝統を守ったのではないか。それが「モディリアニ」に変わったのはよりイタリア語の発音に近いようにとの配慮だろう。

「MODIGLIANI」をどのように発音するかは難しい。アメリカ人なら「モディグリアーニ」と読むのではないか。「EIGHT」のように「G」は発音しない場合があるので、「モディリアーニ」と読むのは正しいと思うが、どうしても「G」を読むのであれば、「モディジリアーニ」があり得る。ここでは68年展に倣って「モジリアニ」とする。本展を見て56年経ち、筆者の知識は増えて当然だが、変化していない面もある。それを確認するために本カテゴリーの名前には全くふさわしくないが、本展、そしてモジリアニの作品について書くが、また多岐にわたり、まとまりがつかない予感がある。まず、本展に筆者はカメラを持参した。数か月前までわが家は生活保護を受給していたので、とてもカメラは買えなかったが、母がどこかからもらって来た。当時は物が溢れ始める時代で、中古のTVやオープン・リールのテープ・レコーダーなども母はもらって来た。母は交友関係が広く、わが家には多くの3、40代の人々が出入りしていた。中学を卒業して生活保護が打ち切られてからは筆者も妹もアルバイトに精を出して生活費の足しにした。母は筆者の本にだけは金を惜しまず、10代半ばから20歳頃までに母のお金で買った本のほとんどは今も所有する。68年のモジリアニ展を見に行く交通費や入場料、図録やポスター代も母からもらったはずだが、泉大津に住む叔父から経済的援助を受け始めていたので小遣いをもらったかもしれない。先日書いたように、筆者はSとTを誘った。Sだけでもよかったが、中3になってSはTと同じクラスになり、卒業して間もない頃はまだ仲がよかった。Sは並みの成績だが体育だけはよく、Tと馬が合った。筆者はTとは同じクラスになったことはない。学級で一番の成績、すなわち学年でトップ10位内の者は、当時の学級の学力を均等化する意図のために同じクラスにはならなかったからだ。上位10人はたいていいつもそうであるから、同じクラスでなくても顔も名前も知り、また放課後や休憩時に出会えば話すようになる。Tはさっぱりした性格で、天王寺高校から阪大に進んだ。筆者はほとんど遊び三昧の人生で何も成し遂げられなかったことを思うが、中学の3年間、美術のF先生が筆者に望んだ「美術教師」の「教師」ではないにしろ、「美術を教える立場」はごくわずかではあるが、たとえばこうしたブログでやっている気にはなっている。F先生からは中学の全学年で筆者が最も期待出来ると何度も声をかけていただいた。その言葉を忘れたことはない。Tは美術にも文学や音楽にも無関心であった。そういう「無駄なこと」に時間を費やすより、参考書の一冊でも読むほうが成績はよくなるが、筆者はそういう実利的な考えを嫌った。TもSもその後モジリアニを思い出して何か考えることがあったろうか。展覧会に行ったことも忘れているのではないか。

今日は美術館前の写真と、鑑賞後に訪れた平安神宮の写真を載せるが、どれもひどく褪色しているので画像加工ソフトで撮影当時の色合いに調整した。当時流行り始めたコクヨのフリーアルバムのセロファン越しに撮影したため、そして写真がたわんでもいるので、右手の方は光の歪んだ反射が目立つ。ピンボケはネガがハーフサイズでもあるからだ。ふたりで映るのがTとSだ。平安神宮に立ち寄ろうと言ったのは筆者だ。同神宮の片隅で筆者が立ち位置を決めて撮ってももらったのは、背後の壁の朱色と緑、そして白の対比が美しいと思ったからだ。小6の遠足で初めて訪れて以来のことで、同神宮が好きであった。現在筆者が平安講社に属し、毎年4,5回は同神宮を訪れるのであるから、縁があったのだ。平安神宮を訪れた後、喫茶店で休憩するのでもなく、三条通りを西に歩き、ナイトクラブのベラミの前を通り過ぎて三条大橋に着いた。川の水が少ないので裸足になって川に浸かろうとSが言い、三人でしばしそうしていると、右岸から若い父親が小学生低学年の男児を連れて降りて来た。その少年とTとSが話しているところを撮影した。たまたまだが、男児の父が写真左端に映り込んだ。撮影前か後か、自分の足元を見ると、鴨川の澄んだ水がきらきら光りながら筆者の後方に流れて行く。Sのおかげでその思い出が昨日のことのように鮮明だ。現在の同じ場所で同じように水遊びをする者がいるかどうか知らないが、当時の夏は近年ほどの猛暑ではなく、京都市内に観光客は少なかった。写真の右端に地上を走っていた京阪電車の三条駅がわずかに写っている。そこから特急で京橋まで行き、環状線に乗り変えて鶴橋で下車して帰途に着いた。焼いた写真を整理する際、上部に色紙を鋏で訪れた日付を「7.21.日」と切って貼りつけた。当時から筆者は切り絵に縁があったのだろう。今から20年ほど前にネットでたまたま見かけた左右対称の切り絵に触発されて自分なりにスタイルを決めて始めたが、最初の作から筆者は完成していたと思う。F先生からは美術の授業で筆者の制作の様子を見ながら、「大山くんはあまり考え過ぎずに描いたほうがええのが出来る。」と言われたことがある。これは無意識のほうがいいというのではなく、直感に頼って一気呵成にやるべし、すなわち自己の内部にあるものを信頼せよとの意味に受け取りたいが、それで筆者のブログはどれも即興で思いつくままパソコンのキーを連打している。それは素描の域を出ないが、素描が本画より劣ることはなく、本画にない味わいを獲得する場合はよくある。話を戻して、十代半ばの自分を想起しながら、あまりと言うか、ほとんど成長がなかったこと自覚する。ひょっとすれば退化の一方であったかもしれない。これは言い変えれば十代半ばでその後どういう大人になるかがほとんど決まっていることだ。
筆者の場合、展覧会を片っ端から見ること、ビートルズの音楽に夢中になったことからさまざまな音楽への関心、それに読書と、十代半ばから何ひとつ変わっていない。しかし芸術家を目指すのであれば、30半ばで代表作は作り終えていることを自覚すべきだ。モジリアニは35歳で死に、300点少々の油彩画を描いた。彼の熱量は十代半ばで傍目に悟られていたはずだ。表現の意欲を抑えられない者がいつの時代も出現し続ける。筆者はモジリアニの倍以上を生きているが、モジリアニが70歳まで生きればどれほど多くの名作、代表作を描いたかとの想像には答えがなく、愚問だ。300点ほどの油彩画と何枚あるかわからない素描、そしてわずかな彫刻作品とで制作は閉じているからだ。事故に巻き込まれたような突然死であっても、その死までに制作された作品が本人の全人生を表わしており、そこに突然死するような運命を鑑賞者は読み取るだろう。これは作品と人生が密接につながっていると考えるからだ。そのような考えは甘いロマンと思われがちだが、人生経験のないAIが絵を描いたところでロマンは宿るはずはなく、無味乾燥ないしどこか白々しい、怖さと言ってよいものが宿る。モジリアニは元来頑健な体ではなく、イタリアからパリに出て来た後、ヨーロッパ中の多くの芸術家と交友する中で酒や麻薬を覚えて行ったとされる。また画商に絵を買ってもらえないか、他のパトロンが見つけられない場合、生活費をどう稼ぐかの問題に日々直面し、満足に制作出来ないこととなる。モジリアニはそういう人生を歩んだ。美大、芸大の卒業者が制作三昧の生活を送りたいと考えた場合、まず経済問題に直面する。それで絵の才能を使える職業に従事するが、最も安定するのは美術の教師になることだ。そのひとつの近道として伝統のある公募展がある。そこで審査員の目に留まり、やがて同じ地位に上り詰めて高齢になると叙勲も待っているが、金と名誉に包まれて制作された作品がたとえばモジリアニのように破滅的に30代半ばで描くべきものを描いた後でさっさと世を去った芸術家のそれに比べて判官贔屓されないのは洋の東西を問わないだろう。作品だけが立派であることが大事とはわかっていても、鑑賞者は作品の背後の作者を作品から読み取ろう、あるいは結びつけようとするもので、作者がどういう人生を歩んだかに憧れる。長生きして勲章までもらった芸術家よりもゴッホのように生前顧みられることのなかった者の生き方により真実味があると感じたとして、それは人間として仕方のない話だ。世の中には前者が圧倒的に多く、彼らが芸術界を牛耳っているが、その現実があるだけにゴッホやモジリアニのような生前の名誉に恵まれなかった、しかし激しく生きて描いた画家の作品に芸術の真実がより多く宿ると感じ取る。それは一種の錯覚でもあるが、錯覚ではない、直感として正しいと感得する才能は誰にもある。
68年展の図録にモジリアニの伝記映画『モンパルナスの灯』のスチール写真が何枚か載っている。筆者はこの映画を見ていないが、その図録中の小さな写真にさらに小さくモジリアニが描いた女性の肖像画が写っている。一見してモジリアニの作でないことがわかるうえ、嫌な気にさせる。映画の小道具として本物の油彩画を用意することは出来ないので、誰かがモジリアニ様式で描いたのだが、そこに真作とは別種の印象が滲み出ている。これは言い変えればモジリアニの絵の記号性を模倣すれば誰でも似た絵は描けることを意味しつつ、モジリアニの絵にある聖性までは無理であることを意味する。その聖性をモジリアニは日々一方で生活苦にもがき続けながら獲得した。そう願ったからではなく、自ずとそうなったのだが、聖なるものとはそういうものだ。求めようとするほどに逃げ去る。家内はかなり昔にTVで『モンパルナスの灯』を見たそうで、今はDVDが安価で入手出来るだろうが、筆者は進んで見る気になれない。それは生前世間に認められなかった悲劇を主題とするからで、モジリアニの作品の造形の強固さに焦点を合わせた内容でないと思うからだ。妻のジャンヌ・エビュテルヌが後追い自殺したという悲劇が、モジリアニの作品にも刻印されているとの先入観を植えつけられるのはモジリアニにとっては不本意だろう。生前ほとんど認められなくても、モジリアニは唯一無二の個性を持っていることに自信を抱いて描いたはずだ。今回これを書くに当たって初めてベアトリス・ヘースティングについてネットで調べると、彼女の顔写真が確認出来た。本展図録には彼女を描いた、あるいはそれとおぼしき油彩画が3点ある。東洋的な顔で、実際はどうなのかと長年気になっていたが、写真からはモジリアニの絵よりもかなりの美人であることがわかる。そのため、2年モジリアニと同棲した彼女はこれらの性格がきつそうに描かれるモジリアニの絵に対してあまり好感を抱かなかったのではないかと想像させるが、実際モジリアニは彼女から酒や麻薬を教えられ、人生を早めたのだろう。勝気な彼女から気に入られたのは、それだけモジリアニが繊細で優しかったからだろう。そう考えると、モジリアニによる彼女の肖像画は、表面的な酷似よりも内面を表現することに意図があったのだろう。それに内面の強固さを画面のそれに呼応させることは造形的に挑戦のし甲斐があり、またモデルに同調すればいいので、モジリアニにとってはやりやすいことであったのではないか。それゆえ彼女を描いた絵には悲劇性は全くない。また3点とも瞳は描かないので、なおのこと東洋人らしく見えるが、ベアトリスはその写真から目が小さかったのではないことがわかり、あえてモジリアニは瞳を描かなかったことがわかる。そこで湧く疑問は、ほとんど肖像画を専門としたモジリアニがなぜ大半の作に瞳を描かなかったのかという理由だ。
このことに関しての論文はいくつもあるのだろうが、それらを一切読まずに続けて書くと、まず思うことは、モジリアニに自画像がないことだ。貧困に苦しんだ時期があればモデルを雇えずに、自分を描くしかない。モジリアニの写真は何枚かあって、本展図録には一頁大に真正面から撮影した頭部の写真があり、『モンパルナスの灯』で演じたジェラール・フィリップ以上に美男子であったと、交友の言葉も載る。美形を自覚していたはずなのに、なぜ自分の顔を描かなかったのか。鏡に映る自分を描くことは、客観性と自意識の双方に挟まれてのことで、自分の瞳を意識する。その視線に耐えられないほどに恥ずかしがり屋であったとは思えないが、他人の内面を瞳を通して覗き込もうとする図々しさもなかったのではないか。他者をまじまじと見ると、男同士であれば時に強い反感を買い、喧嘩に発展する。そのため、普段は他者の全体を視野に入れてことさら瞳を覗かない。それをするのは相手と密接な関係を望む場合だ。あるいは相手の存在があまりに圧倒的でその人物の肖像を描く場合は瞳がその象徴となる。となればモジリアニが描いた肖像画で瞳が描き込まれている作はモジリアニにとって特別の関係を示す状態下にあったと想像していいかもしれない。話は変わるが、コロナ禍の頃、あるいはそれが終わってからもマスクをしている人がよくいる。筆者はそういう人とすれ違う時、眉毛と目の区別がつかず、しばし意識が混乱することがよくある。それは無意識に目を探しているからだが、顔の下半分が隠されていると、目の位置が即座にわからず、眉毛を目と錯覚し、次の瞬間、それは顔相として不自然であるから、戸惑った挙句に目に意識を集中させるが、その目は存在感があまりにも少ない。目が小さいからではなく、マスクで顔半分を覆う人は匿名性を求めて目に力を宿そうとしないからだ。とすれば、視力は大事であるにもかかわらず、人間はたいていぼんやりと周囲を見ながら生きていて、眼力を意識している人は少ないことになる。前述のように、目力があって他者と目が合うと、相手は睨まれていると思う。これが肖像画であればどうか。美女を写実的に描いた絵であれば、ブロマイドと同じように男はその絵の美女の視線からいろいろと連想して喜ぶだろうが、美人ではない女性や男性の肖像画の場合、鑑賞者の眼差しと対峙する構図はあまり歓迎されないのではないか。物を言いたげな肖像画より、物思いにふけっているような、すなわち瞳を明確に描かないほうが、鑑賞者もモデルの人物を遠慮せずに吟味出来る。モジリアニがそう考えて多くの絵で瞳を描き込まなかったかどうかはわからない。しかし人物を物として表現する場合、瞳は描かないほうが効果的だ。そこには視線から導かれる情感を排除し、強固で美的な画面を構成する意図が優先するからだ。
『天井桟敷の人々』に出演したガストン・モドは、盲人を装って通行人の情けを得る贋盲人の役柄であった。その映画の制作時にはモジリアニが描く「ガストン・モドの肖像」はよく知られていた。その絵は瞳を描かずに笑みを浮かべてモジリアニすなわちその絵の鑑賞者を見つめている。これは瞳を描かなくてもモデルの存在感を描き尽くすことに支障はないことを意味している。同作に瞳を描き加えれば、絵はより強靭な印象を持つだろうか。特定の意味は強調されるが、その分、モドの普遍性は減じるのではないか。これは言い変えればモドの聖性を表現するのに瞳は必要がないことを意味する。本展図録の表紙はチケットと同じく「マルグリットの肖像」で、珍しく瞳が描かれる。図録の説明によると、モジリアニが描いた女性は先の同棲したベアトリスやその後モジリアニと結婚したジャンヌを除いてほとんどが素性はわからない。そうした女性がすべて瞳なしで描かれたかと言えば、「マルグリットの肖像」はそうではない。また戦前に日本にもたらされた「横たわる女」も鑑賞者を見つめる。後者のモデルは前者と同じくマルグリットのはずで、本展では同じ1917年頃に描かれた「ばらの花を飾る少女」もそうであろう。ということはベアトリスに交代する形でマルグリットがモジリアニと交際し、重要なモデルとなったと考えてよく、またベアトリスと違ってモジリアニが必ず瞳を描き込むほどにマルグリットとは特別な関係にあったことが想像される。それは彼女の瞳の印象が強烈で、例外的な女性であったためかもしれないが、少なくても自身の肖像画の画風のひとつの様式として瞳は描かないことを徹底していたのではないことがわかる。裸婦像の「横たわる女」はその太腿を強調した堂々たる構図とモデルの不敵な視線が相まって扇情性がきわめて濃厚で、生前モジリアニが開催した個展の際に当局から撤去を命じられた裸婦像群に含まれていたのではないかと思わせるが、哀愁が最大の持ち味と思っているモジリアニ・ファンにしても、この絵はモジリアニの女体をまじまじと見つめる視姦的視線とモデルの強靭な体躯にただ瞠目する肉体賛美の思いが露わで、モジリアニの裸婦像の代表作であることを認めざるを得ない。本展図録に今泉篤男が書くように、本展の出品作を選ぶのに、贋作らしき作は省いたとのことだが、例外的に同じ横たわる裸婦を描いた『ヴィーナス』は出品された。この作品のモジリアニらしくない部分は共作をしたことがわかっているキスリングの筆によるかもしれないとのことで、モジリアニの先品の真贋判定は専門家でも難しいようだ。研究者によって真作の数は異なり、また真作の油彩画が300点ほどしかないとなれば、没後早々に贋作が描かれたことが想像出来る。そうした作品の中に現在真作として通用している作品がどれほどあるのか。

これは「横たわる女」が89年5月に大阪市が西部百貨店から19億円で買い取ったという当時の新聞記事から想像出来るように、きわめて高額で買い取られて有名な機関に収まっている贋作を研究者がそうとは指摘しにくいことからして、数十点はあるのではないか。本展から10年ほど経った頃か、モジリアニの素描数点を購入した京都か東京の国立近代美術館がそれらを贋作であると認めた事件があった。その新聞の切り抜きはどこかに保存しているはずだが、当時発表されたそれらの図版からはモジリアニを真似たものであることは筆者にもわかった。本展には素描も多く出品され、ごくわずかな線でモデルの特徴を把握し、写真を見るかのような気にさせる作が何点もある。漫画並みに少ない線でモデルの特徴をあますところなく捉える才能がモジリアニにはあって、そういう素描を凝視すると、贋作の素描は簡単にわかる。贋作者はいくら努力してもモジリアニになり切ることは出来ない。技術的に出来てもモジリアニの心を込めることは不可能だ。これはたとえば日本の有名漫画家が多忙ゆえに弟子に手伝わせること、すなわち完成された記号的様式を用いれば手本と区別がつかないことを否定する考えだが、そこにモジリアニの絵画様式の不思議さがある。それはモデルによってモジリアニの反応が異なったことで、モデルを変えるたびに新たに様式のようなものを学び直す必要があった。完全に記号化されないその様式は、ピカソのような抽象画からは遠い。それは抽象画から見れば写実の残滓の混入に見えるが、モジリアニが純粋な抽象に踏み込まなかったことは、そしてほとんど風景を描かなかったことは、人間の顔に自然のすべてが宿ると思っていたかもしれない。人間は自然の中に生きるから、顔に自然からの影響が現われるのは当然ではないか。古い英詩に人間の顔を自然の丘や泉、その他にたとえたものがあるが、モジリアニがモデルを雇ってその顔や姿を描いた理由は、もっと単純に考えて人間好きであったからでもあろう。パリに集まった外国の画家たちは助け合わねば制作を続けることは難しかった。本展図録の最後の「モジリアニ頌」にヴラマンクの言葉として、1907年の冬のある朝、モジリアニがヴラマンクに上履きを売りつけた話を書く。『ぼくは君にこの上ばきを売ってあげよう。こいつはぼくには大きすぎる。君にはぴったりだろう。』その一方、モジリアニが友人を助けた話も書く。『ある夕べ、一人の友人が彼の食卓にやってきた。これから先、生活してゆけるかどうか危ぶまれるほど、食うや食わずの状態にその男があったときのことだ。モジリアニは、彼に気づかれないように、20フランの小切手を切り、むぞうさに立ち上がりながら、その小切手を落として言った。――おや、こいつは20フランの小切手だ。そして彼は、何か重大な用件でもあるかのように、せかせかと出て行った。』

当時のパリの美術評論家フロラン・フェルスはこう書く。『毎日、この気品から、女のような手の優雅さから傑作が生まれた。いささかのためらいもなく、そしてフラ・アンジェリコからその筆を借りたかと思わせる青からなりたっている。何回か鉛筆を動かせるだけで、彼は、真白な紙の上に、心理と相貌をはっきりとつかまえた肖像を湧き上がらせた。何フランかで、あるいは貧しいものたちにはただで、これらの傑作は、無名の所蔵者の手にわたっていった。』締めくくりはジャック・リプシッツの言葉だ。『モジリアニは、あんなに若くて死んでしまったが、彼の望むすべてをやってのけたのだ……。』モジリアニは金がある時はない者に分け与え、ない時は金を乞うた。お互い様の思いがあったのだろう。それでも上記のヴラマンクの記述はモジリアニが金に恬淡で、貧し物に優しかったことを伝える。同じような話はアクセル・ムンテの
『サン・ミケーレ物語』にもある。その「ジャイアント ラ・ボエーム」の章から引用する。『…モンマルトルや、モンパルナスには、いつも金の欠乏している芸術家の居留民がいる。画家、彫刻家、書かれざる傑作を夢見る散文家、詩人たち数百人は、さながらアンリ・ミュゲルの生けるラ・ボエームである。かれらのうちほんの数人は、…ストリンドベルクのような成功の戸口まで来ている。しかし大多数は、希望だけで生きているよりしようがなかった。その中には図体は一番大きく、お金は一番少ししか持っていないジャイアントという綽名の彫刻家の友だちがいた。かれは、ヴァイキングのような流れるようにふさふさしたブロンドのあごひげと、子どものようにあどけない青い眼を持っていた。…かれがその二メートルちかくもある大きな体を、どうやって養っているのかと、だれもが不思議がっていた。かれはモンパルナスの、氷のように冷たい大きな車庫を、彫刻のアトリエにして、住んでいた。…』これがいつ頃のことかわからないが、モジリアニがパリにやって来る1906年前後だろう。他の章ではパリの道路を舗装するのに大勢のイタリア人が働きに来ていて、貧困に沈んでいたこと、そしてムンテが同郷のスウェーデン人よりもイタリア人に親しみを覚えたことを書く。それは伝染病に感染して生死をさまよう危険がありながらも極貧の家族や同郷人を助ける人物と親しくなったからだが、ムンテはジャイアントにも感情を移入する。先の続きにはこうある。『かれは、そこで仕事をし、料理をし、シャツを洗い、かれの未来の成功を夢見るのだ。かれの造る彫像は、その超人的な大きさのために、いつも粘土が足りなくなって、完成されたことがなかった。ある日、かれは、わたしに、かれの結婚式の付添になってくれと、…たのみにやってきた。…かれのえらんだ花嫁は、かれの半分もないかよわい小柄なスウェーデンの女の画家だということだ。わたしは勿論承諾した。』

本展には点描風で未完成的な『画家パラノウスキー』と題する作品が展示された。解説にはその画家については不明とある。ムンテが親しくしたジャイアントと同じように無名のままで終わったのであろうか。未完成に見えながら、モジリアニ特有の素描の完成度が際立っている。つまりこれで充分、パラノウスキーの顔や人柄が伝わる。繊細な画家であったのだろう。話を戻して、リプシッツはモジリアニのデス・マスクを採った彫刻家で、本展にリプシッツ夫妻の素描が出品された。その白黒図版の横に、筆者が中学生の時の美術の教科書にあった同作の油彩画の小さな図版を切り抜いて貼りつけた。その行為のため、筆者が所有する図録は入場券の半券や新聞の切り抜きとともに、日本で一冊だけのものとなっているはずだ。『彫刻家リプシッツ夫妻』の油彩画は夫妻の結婚写真から想を得たものと解説にあるが、写真を見て描いたのではない。油彩は1日で描いたそうだが、夫妻のスケッチに数日費やし、その一点が本展に出品された。おそらく写真と同じ構図のはずで、写真を見て描いても同じ絵が出来たかもしれないが、数日の間に大量の素描を重ねたはずだ。解説には『デッサンの線は、完成作とほとんどちがわない。』とあって、モジリアニの素描は油彩画よりも書道的な面白さに満ち、やはり贋作は馬脚を現わすと思える。『彫刻家リプシッツ夫妻』の素描と油彩画を見比べると、勢いのある線を重視した素描に対し、それを元にした油彩画は絵具の布置が計算し尽くされ、イコン的な静謐さがある。両作とも夫婦の瞳は描かれないが、夫人は笑顔で目を細めているように見え、自己の内部に沈潜している雰囲気はない。写真を見て描くことは写真家の目を通す行為で、本人を目の前にしての素描はそうではない。またモジリアニにとって写真のように写実に忠実であることが次第に目的ではなくなって行き、写真以上に迫真性を求めた。写実を超えた写実は抽象になってしまいそうだが、モデルが特定出来るほどにモデルの特徴は残す。これは漫画的似顔絵と言っていいかもしれない。漫画は記号の集積だ。その集積具合の差異によって登場人物を描き分け、誇張がなされ、また流行の影響もあって、人物ないしキャラクターのおおまかな傾向はあるが、その差異が漫画家の個性の違いとなっている。写真で簡単に肖像が得られる時代となって、モジリアニのような肖像画家は写真では表現し得ない絵画独自の効果を表現する必要に迫られた。日本の漫画が登場するはるか以前、人物の顔や体を誇張した絵がドーミエその他によって新聞や雑誌用に描かれていた。ユーモアや皮肉を交えたそうしたイラスト絵とは違って、モジリアニは『彫刻家リプシッツ夫妻』からもわかるように、モデルと画家の出会いを刻印する肖像を目指した。それは陰影を伴なった写実主義を否定しながら、立体感があり、モデルの特徴をよく伝える。

となれば、独自の記号的表現を得たという確信があってのことだ。それはモジリアニが最初彫刻を目指し、数点作った経験が基礎になっている。ただし現代の日本の漫画家がたとえばパソコンを使って人物を画面に立体的に表示させ、それを自在な角度から眺めて写実風に描くこととは違って、意図する彫像は独自の様式に沿ったものだ。その先鋭的な例がルーマニア出身のブランクーシの彫刻にあり、モジリアニは彼と交友して独自の作品を目指したが、体力、資力の問題から絵画に専心することになった。そして彫像的人物画に瞳を描かないことが彫像と関係があるかとなれば、ギリシア時代の彫像は瞳を描いた場合があって、モジリアニの人物画に瞳がない場合の理由はやはりわからない。本展図録にはモジリアニがピカソと並ぶ写真が載る。ピカソはモジリアニをあまり相手にしていなかったらしいが、活力はピカソがモジリアニの何倍もあったことは明らかで、ピカソ「青の時代」にモジリアニの全生涯が収まってしまうと言ってよい。変貌を次々に遂げて行くことにかけてピカソはどのような画家とも比べられない。本展にはピカソの顔の素描が2点出品され、どちらも瞳ないしその場所は強調されていることは、ピカソの個性に圧倒されてのことだろう。ピカソとモジリアニの共通点はアフリカの仮面からの影響だ。ピカソの記念碑的な1907年の大作『アヴィニオンの娘たち』に描かれるアフリカの仮面の顔をした右端のふたりは、たとえばモジリアニの『マルグリットの肖像』のマグリットの顔の輪郭や鼻梁の三日月型に似るが、後者は1917年の作で、影響を受けたとすればモジリアニだ。一方、本展で特に印象的であった作は『カリアティード』と題された素描や油彩画で、1910年から17年頃まで描いていて、その画題は当初ギリシア彫刻に求められ、次第にモジリアニ特有の裸婦像に変化して行く。また最初の頃の『カリアティード』の着色素描の顔はブランクーシの代表作で1913年の金属彫刻『ポガニー譲』の顔にそっくりで、またブランクーシの1910年の有名な『眠れるミューズ』の卵型の頭部はその瞳がないことや鼻梁の曲線がモジリアニの女性を描く肖像画を思わせ、モジリアニがブランクーシの彫刻に影響を受け、その道に進まずに絵画に転身したことは幸運であったと言ってよい。カリアティードはギリシア神殿の円柱の柱を女性の立像としたものを指すが、モジリアニの『カリアティード』は画面上端に両手を支えて上からの圧力に抗している構図で、四角い画面に描く対象をどのように閉じ込めれば均衡を保ちつつ力を得ることが出来るかを考えたものだ。絵画は画面の中で構図を決める必要があるが、ブランクーシの彫刻はそういう制約となる枠からはみ出そうという意思がある。これは限界内で完璧を目指すことと、限界を考慮ない姿勢との差だ。

モジリアニは体力と資力があってもブランクーシのような才能を得ることは無理であったに違いない。モジリアニがカリアティードという題材に魅せられたのは、イタリア生まれであり、その出自ゆえの個性が求められる国際都市パリにおいて、ギリシア・ローマの古典を意識すべきと考えたからだろうが、モジリアニの描くカリアティードはギリシア・ローマの彫刻よりもアフリカ、特にコンゴの部族彫刻からの影響が大きい。それはピカソの『アヴィニオンの娘たち』も同じで、当時のパリでは黒人アフリカの芸術がフランスの伝統であるレアリスムの中に突如紹介されて衝撃を及ぼした。ゴッホは日本の浮世絵の影響を受けたが、ピカソの世代になると新たな外国の造形に芸術家は注目した。ピカソはさらに先に進んでギリシア・ローマやヴェラスケスやマネなどに遡って画題を引用しつつ独自の様式を次々に獲得して行ったが、35歳で死んだモジリアニはアフリカの彫刻からの影響を脱した後は独自の様式を形成した。瞳を描かない顔は日本の埴輪を思わせるが、モジリアニがそれを知った確証はない。しかし瞳を欠如は仮面的であり、モジリアニが相変わらず亡くなる直前までアフリカ芸術を愛好していたことはあり得る。現在のアフリカには百年前の部族の造形作品がどのように伝わっているのかいないのか知らないが、ネット時代になって情報の伝播は瞬時となり、また個々の芸術家が独自に受けた影響を消化して作品を生むので、「エコール・ド・パリ」のような流派と呼べるかどうかわからないが、ある地域でまとまって生まれた個性的な芸術家の集まりは出現しにくいかもしれない。あえて言えば日本のアニメや漫画が世界的に人気を博し、その要素を自国の伝統に加味して新しい絵画や彫刻を生む動きだが、それはすでに始まっているかもしれない。その時、モジリアニの絵画にある記号性とモデルの唯一の個性との融合がどのように新たになされるのかという関心はある。それは「ゆるキャラ」やキティ、ポケモンに代表されるような、あまりに経済に結びついた、つまり商品としてではないイメージの可能性だが、そもそもそういうもの、すなわちモジリアニ的な肖像画をもはや求めない無個性をよしとする時代にあるという見方もしておく必要はある。筆者は「ゆるキャラ」やキティは別の文脈に置けばいつでも不気味なものになり得る無個性の造形と思っている。そういうキャラクターが人気を博すほどに時代は個性を必要としていない、あるいは表向きの「かわいい」という言葉に同調すべきことがよしとされているのだろう。「かわいい」は無抵抗で愛らしいペットに似合う言葉だが、人は飽きればすぐに新しいペットをほしがる。それが事実であればモジリアニの絵画に感じ入る人は少なくなるし、そうなっても時代の流れと諦めるほかはないのかどうか。
ナム・ジュン・パイクは晩年、20世紀芸術は黒人の影響を受け続けたと言った。美術も音楽もそうで、その影響は21世紀に持ち越されている。日本ではここ10年ほどか、特にスポーツ選手に黒人との混血が目立って来ている。それはパリに百年遅れてのことで、ようやく日本も真に国際化を始めたと言ってよいが、優秀な能力のある黒人との混血は歓迎されても、そうではない者は無視、排除されるだろう。そのことは今後の推移を見つめる必要がある。モジリアニは『エコール・ド・パリ』(パリ派)で最も有名になった画家と言ってよく、20世紀初頭のパリは世界中から芸術家が集まったことは先のアクセル・ムンテの記述からもわかる。多国籍の街であったことはさまざまな文化が混じり合う。そこで突出した存在になるには自国の文化の伝統を基礎とし、それを強みとして活かす必要がある。モジリアニはユダヤ人ではあるが、イタリアという芸術大国に生まれたから、参照すべき伝統芸術は無数にあった。それを強く意識したか、しないにせよ、モジリアニの芸術はイタリアのそれとの関連を指摘される。ピカソがスペインから切り離せないのと同じだ。だが伝統の追従や模倣では新時代にはもてはやされるはずがない。そこには最先端の新しい要素が欠かせない。モジリアニにとってそのひとつの要素がアフリカ芸術であったとして、そこに間接的にピカソやブランクーシの影響を認めるとすれば、同様の影響関係は無数にあったろう。たとえばインドその他の国の芸術からも着想を得た芸術家はいたはずで、そこで思い出すのはオランダのエッシャーだ。彼はアラビアのタイル・パターンをヒントに独自の版画を制作した。一方で日本から渡仏した芸術家はこぞって現地の影響を受けて日本でもがきながら制作したが、そうした芸術家の作品が欧米の作家に影響を与えた話を聞かないのは、パリに生涯留まらずに自国で充足したからだろう。ムンテが書くジャイアントのような極限の生活を異国で送りながら制作を続けるという覚悟がなかったからと言えばそれまでだが、植民地にならなかった日本に帰ってくれば、洋行の芸術家という肩書で日本では食うことには困らなかった。そこでモジリアニを思うと、酒や阿片に溺れることはピカソとは正反対の軟弱性として、自分だけの芸術を生み出そうとする強い思いがあったことは作品が証明している。それは画商に大いに売れて生活が豊かになるかどうかを考えずになされたことだ。そしてゴッホと同じような悲劇性が加味されることで没後早々伝説の画家の立場が付与された。リプシッツが言うように、モジリアニはやるべき仕事を全部終えて死んだ。そこに悲劇は全くないどころか、大成功の芸術家であった。それはどんな経済状態にあろうが、常に創作を考え実行する態度でしか得られない。今日の写真で題名のない図版はピカソかブランクーシ、アフリカ彫刻で、説明は添えない。
