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●『天井桟敷の人々』
乱す 生徒を叱る 教師見て 親が飛び出し 警察騒ぎ」、「正直に 生きて呼ばれる 悪人と 時代変われば 罪も変わりて」、「野心なき ピエロ悲しき ひとり寝の 窓の月見て 初恋想う」、「何物も 恐れぬ女 輝けり 若さと美貌 失せればいかに」
●『天井桟敷の人々』_d0053294_23350233.jpg 2年前の1月下旬にNHKで放送された映画『天井桟敷の人々』をようやく先月に見た。2部構成で3時間少々の長編だ。一度見るだけでは本当の面白さはわからない。これを書くためにまた鑑賞したが、感想は多岐にわたりそうで、いつも以上に考えがまとまらない。昔から題名はよく知っている作品だが、見始めてすぐに意外な発見があって、一気にじっくりと見る気になった。まずそのことを書く。タイトルロールの俳優の名前にGASTON MODOTがあったので驚いた。この名前を最初に知ったのは、中学を卒業して最初の夏休み、しかもその初日の7月21日に中学の同窓生のTとSを誘って京都岡崎の京都国立近代美術館にモジリアニ展を見に行ってのことだ。当時筆者は17歳になる一か月前だ。同展では「ガストン・モドの肖像」と題する1916年制作の油彩画が展示されていた。すっかり感心し、売店で買った500円の図録に載るカラー図版をやがて水彩絵具で模写したほどだ。図録の説明には「…ちょうど、ベレー帽をかぶったこの人物は、びんの形をしている。…ガストン・モドは、最初画家であったが、のちに映画俳優となり、ブーレーズ・サンドラルスの映画などに出演したといわれている。」とある。当時はたぶん百科事典にガストン・モドのことは載っておらず、その肖像画が本人とどれほど似ているかを確認するすべがなかった。この肖像画を気に入ったのは、モデルがとても健康的で笑顔であることで、また顔が中学の美術のF先生に少し似ていたからでもある。それはともかく、58年も経って、ガストン・モドの素顔とその演技を『天井桟敷の人々』で見ることになった。これは日を改めて書いてもいいが、筆者のその後の美術館巡りの人生のほとんど出発点になったのはそのモジリアニ展と言ってよく、十代半ばで人生の方向性がおおむね定まることを思う。TとSは美術にほとんど無関心で、その後の人生もそうであったろう。そのため、筆者がこうして書いていることを夢にも思わないはずだが、無理して買った図録に掲載される「ガストン・モドの肖像」のモデルの俳優の顔と演技を見たいと思っていたことを70代の今頃かなえていることを知ると、「さすが大山やなあ」と呆れ顔になることを想像するが、TとSの消息はわからない。気がかりは放置すると長年そのままになる。ふとした拍子にその後の展開が始まり、一件落着となるが、まさか『天井桟敷の人々』の映画でガストン・モドのことを知るとは思いも寄らなかった。筆者は本作をいずれ見るべき運命にあったとして、60年近く経ってのことだ。歳月の経過の速さを実感する。
●『天井桟敷の人々』_d0053294_23360237.jpg ガストン・モドはモジリアニより3歳若い。モジリアニは35歳で死んだが、モドは82歳まで生きた。画家から俳優に転身して成功した経歴は珍しいと思うが、俳優は多才な人がままいて、美術の才能を持ち合わせることはよくある。もう何年もお会いしていないが、染色作家のK先生は若い頃に劇団の真似事を経験したらしく、「大山くん、染色家が画家の端くれとして、絵を描く商売は俳優のようにいわばやくざなことなんやで」と言われたことがある。富士正晴が小説家は芸能人とさして変わらない人気商売と言ったことと同じで、物書きや画家、俳優といった職業は、「アーティスト」と高尚的に言われ、時に本人も自称するが、簡単な言葉で言えば「芸人」で、どちらかと言えば尊敬されるよりも蔑まれる職業だ。組織に所属せず、基本はひとりで自由を標榜して生きるからだ。固い言葉を使えば全体主義からはみ出た存在で、政府としては始末に悪い連中だ。全体主義に対して自由主義として、フランスはそれを最初に代表した国だ。それで自由の女神像がアメリカに送られ、アメリカが自由主義の最大の国家となって今に至るが、みんなが自由で生きながらも国家としてまとまりがあるのが理想だ。国家が個人を監視し、自由に制限を加えるのは、全体主義かその傾向を孕んでいることであって、芸人は生きにくいかとなれば、芸人もさまざまだ。喜んで権力者に尻尾を振って人気者になり、莫大な蓄財をする者もいる。つまり政府は芸人を飼い馴らして全体主義につごうのよいように躾けることは簡単に出来る。それはさておき、K先生はあちこちの芸術大学の先生となって生活の糧を得たが、大学の先生が「芸人」を自称することは少し違うのではないかという思いが筆者にはある。K先生はテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』を大いに気に入り、その映画で描かれる旅芸人の過酷な暮らしが「芸人」にふさわしいと思っていた節があるが、そういう旅芸人は大学で教えて食べて行く立場からは遠く、それこそ芸のみで自力で生きて行く暮らしだ。そんな芸人がモジリアニでありモドであった。ようやく本作についての話に入り込むが、以上のことから想像出来るように、本作は社会主義国家では歓迎されないか、上映されても人気を得られないだろう。登場人物はほとんどが芸人で、みな好き勝手に、そしていつ死んでもかまわないという覚悟で生きているからで、本作の主張は「自由」と「愛」だ。「愛」の裏返しの「憎悪」も描かれるが、「自由」に対する「束縛」は結婚して家庭を持った妻の立場を代表として取り上げられ、「愛」にはそれが本来混じってはならないことを伝えている。第1部の終盤では本作の主役のひとりであるパントマイム役者バチストの父親が、「伝統は失われた。客は新しいものを求めるが、世界と同じく古いものが新しい」と呟く。それが戦時中に本作が撮影された理由だろう。
 WIKIPEDIAによれば本作は1942,3年にヴィシー政権下で撮られた。ヴィシー政権については、42年制作のアメリカ映画『カサブランカ』のほとんど最後でヴィシー政権下で作られたミネラル・ウォーターの瓶が登場することで筆者は昔その存在を知った。フランス南部におけるドイツの傀儡政権だ。戦時中のフランス内部にドイツに媚びを売る人々がいて、ドイツ兵と親しくした女性は戦後見せしめに丸坊主頭にされたことはよく知られる。その点、敗戦した日本ではアメリカ兵に積極的に性交渉を求めた山手の婦人はいて、どの国でも女性は戦争に勝った強い国の男に魅せられることは珍しくないだろう。それはさておき、本作がドイツに支配されていた状況下でなぜ巨費を投じて撮影されたのかの理由を上記に推察したが、ヒトラー政権の全体主義に対する個人主義の謳歌のみかと言えば、本作はセリフや画面の細部の作り込みが徹底していて、無駄のないセリフと相まって読み取りすべきことは多岐に広がり、この文章はいつも以上にまとまりがつきそうにない。これは名作を分析して論ずるのに、その文章が名作になり得ないことを自覚する意味であって、その欠点を補うために読み物の面白さを意図すべく筆者個人の経験、たとえば前述したガストン・モドにまつわる思い出を混ぜるのだが、それは自身を大切に思う心の反映として、そればかりではなく、作品の受容とは何かを考える場合、結局は完全には客観的にはなり切れないことを感じるからだ。またなり切れたとして、それはデータの再録であってその無味乾燥性を繰り返したところで自他ともに面白くない。つまるところ、自己表現すなわち自分をさらけ出すしかないゆえに自分が抱く興味の内部で当の作品がどういう位置を占めるのかに焦点を合わせる。これは人間関係を思えばよい。無数の人々がいる中で生涯に出会う、そして大いに縁のある人物はごくわずかだ。誰しもそうした人を大事に思うかその反対に嫌悪することで人生絵巻を形成する。それは個人の内部にある限り、作品とは呼べず、その個人が消え去ると同時に、あるいは認知症になれば忘れ去られる。他者が鑑賞出来る文章や絵画、音楽などの作品となれば、誤解も含めて他者に何らかの作用を及ぼす。もちろんそうならない場合も多々あるが、他者が触れた途端に作品は新たな生を起動し始める。筆者が本作を見てもやもやとしたものを感得するのはその一例だ。そのもやもやはそのままではやがて忘れるが、同じくいずれ忘れるにしてもこうして文章にしておくと、そのことがまた別の何かにつながる可能性を生む。それが有意義であるかどうかはひとまず問わない。では無目的かと言えば全くそうではない。自分でもよくわからぬままにとにかく感じたことを書いておきたいという一種の衝動だ。筆者にはまだそれがある。
 本作はモーパッサンの小説『女の一生』とほぼ同時代を扱うが、馬車がたくさん走るパリが終始舞台となり、鉄道は映し出さない。そう思うと、本作からわずか20数年後に撮られた『シェルブールの雨傘』はモータリゼーション時代のカラフルな現代劇で、本作とは隔世の感がある。また同作が現代版オペラの様相を呈していることに伝統を重んじる姿勢がうかがえる。それで本作がカラーで撮られていればという想像をするが、白黒であるので時代劇に似合うと思い込む。第2部ではモントレー伯爵に囲われた芸人のガランスが肩や背中を露わにした豪華なドレス姿で登場し、ダイヤモンドの小粒を散りばめたシースルーのヴェールで舞台を鑑賞する場面がある。撮影時の照明が反射してヴェールのダイヤモンドがあちこち順にきらきらと輝き、その美しさは白黒画面であるので強調されて印象深い。ガランスはアルレッティという女優が演じ、タイトルロールでは最初に表示され、彼女が本来の主人公で、彼女あっての作品と言ってよい。二番目に表示されるのは白服姿のパントマイム俳優役のバチストを演じるジャン・ルイ・バローで、この男女は「月」と「ピエロ」の対になっている。美女が月に比喩されることは月並みな象徴で、象徴主義と呼ぶほどのものではない。バチストはピエロに扮して本作中の舞台劇にしばしば登場するが、このふたりの対はシェーンベルクの楽曲『月に憑かれたピエロ』を想起させる。同曲はベルギーの象徴派の詩人アルベール・ジローが1884年に書いた同名の詩に伴奏をつけたもので、作曲は1912年だ。冷徹で氷のような曲で、よほどの現代音楽ファンでない限り、意識を集中して全曲を聴き通すことは難しい。となれば同作から30年経っての本作は、芸術の流行からすればあまりに逆行しているが、前述のように「古いものが新しい」という考えをマルセル・カルネ監督も脚本を担当したジャック・プレヴェールも持っていたのだろう。「月に憑かれた…」の詩の発表はモーパッサンの『女の一生』の翌年で、モーパッサンが象徴派の登場とその勢いを知っていたことの一端はこの詩にもあるだろう。ジローはプレヴェールが29歳の年に死んだので、当然のことながら同じ詩人でもあるプレヴェールは「月に憑かれたピエロ」をよく知っていたはずだ。しかしその詩を映画化することは出来ず、物語、ロマンが必要だ。そして月に焦がれるピエロを題材に脚本を書いた。その想像が正しいかどうかわからないが、一時期シュルレアリスムに染まったプレヴェールであり、ジローの「月に憑かれた…」の少なくても題名に込められる詩情は大いに理解したろう。それを大衆にわかりやすい映画、しかも巨費を投じて失敗は許されないという緊張の中で示す意欲が、本作に結実したとして、フランスの芸術の歴史は芸人が芸術家とつながって造り上げて来たという視点があったに違いない。
●『天井桟敷の人々』_d0053294_23392740.jpg
 シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』に漂う「新しい」音楽の冷たさは、大規模な戦争を経験する20世紀初頭のヨーロッパ特有のものだ。その曲の詩情をそのまま別の詩を用いてピエール・ブーレーズが『マルトー・サン・メートル』を作曲したが、『枯葉』のシャンソンの歌詞でよく知られるプレヴェールはそうした前衛音楽に背を向けたのではないだろうか。ついでに書いておくと、新潮社版『創造の小径』叢書の一冊にプレヴェールの『想像力の散歩』があって手元に置いているが、まだ読む気になれないでいる。これもついで書き添えておくと、このブログの毎月の満月の写真の投稿は、「月に憑かれた…」を念頭に置いてのことだ。話を戻して、ジローの「月に憑かれた…」が本作に影響を与えたかどうか、その実際のところはわからないとして、本作が『月に憑かれた…』のその題名から触発されたものであるとの推察はやはり正しいのではないか。ただしその詩文中に本作と関係する下りはなさそうで、本作は月に焦がれながらそれを自分のものに出来ないピエロの悲しさを主軸として物語を組み立てている。ガランスが月にたとえられる場面として、第1部の『犯罪大通り』と第2部『白い男』にわずかに示される三日月型の留め具がわかりやすい。シェイクスピアの『オセロ』を自分が主人公になって上演することを夢想する俳優のフレデリック・ルメートルが、ガランスとの思い出としてそれをガランスからもらい、大事にしていて他人に触らせない。ガランスから得た場面はないが、バチストは行く当てのなかったガランスを、自分と父が雇われる軽業を専門に披露するフュナンビュル座にしばし出演させ、白い彫像として彼女を無言で立たせる中、やがてギターを持ったアルルカン姿のフレデリックが白服姿のピエロ役のバチストから彼女を奪う形で舟に乗って去る場面があり、その劇中劇はガランスとバチストが初めて一緒に夜を迎えられるのに、尻込みして去ったバチストと入れ替わる形で宿の隣の部屋にたまたま泊ってシェイクスピアの『オセロ』を朗読していたフレデリックが、早速部屋を訪れてガランスをものにする場面を象徴している。これは女性を口説く経験のないうぶなバチストと、宿の女将を初め、手当たり次第に女を口説くフレデリックの違いを最も赤裸々に描く場面で、バチストとベッド・イン寸前にあったガランスの口惜しさがフレデリックの代用によってひとまず癒され、女の性欲の現実を描く。三日月型の簪状の小道具はガランスのギリシア風の長衣を留めていた金具だろうか。これは見逃しやすいが、ほかにもそういう細部の凝り具合はあって、画面を絵画の枠のように捉えて構図を見事に決めている。また本作は劇中劇の場面が多く、そうした劇は夜に上演されるから、本作全体が月のイメージをまとっているとも言える。
●『天井桟敷の人々』_d0053294_23383217.jpg ガランスを演じるアルレッティはバチスト役のバローより12歳年長の当時40代半ばだが、年増という第一印象は再度見ると違和感がなくなり、謎めいた色気に満ちた、つまり本作にはこれ以上ふさわしい女性はいないという思いに至る。彼女は本作の冒頭からほぼ上半身の裸体を見せる見世物小屋の芸人として登場し、やがて表向きの伯爵夫人となってからも宝石で飾られる上半身は傷やシミが皆無で、肌は実に滑らかで艶めかしく、天然の女性美とはこういうものかと改めて思う。蛇足ながらそこで思うことは女性の刺青だ。それは見事な自然美に蛇足を加えることで、誰しも視線をそこに集中させる。第1部の終盤でガランスは警察の刑事から質問される中、アングルのモデルをしたことがあると言う。刑事はその名前を知らず、彼女は「あなたに似ている」と返すが、画家アングルをその自画像で知る人は大笑いをするだろう。本作の監督があえてアングルに似た俳優を刑事役に当てたことがわかるからだが、彼女がアングルのモデルになったことは本作中の事実として、それはもっともであると納得させられるからでもある。アングルは1867年まで生きたので、ガランスが裸体をアングルの前に示したことはあり得る。アングルの最も有名な油彩画『泉』は、若い女性の全身裸像を描く。その絵は芸術であるので許されたとして、目のやり場に困る。またその全身裸像に刺青があれば台無しで、裸体の美を描く絵画に刺青の概念はない。本作はガランスが『泉』のモデルをしたとは言わないが、裸体モデルになったことは確かで、そのことはガランスが父を知らない捨て子で、15歳でやむなく男を知ったという設定からも首肯される。そういういわば最下層の美人であれば画家の裸体モデルを経験したことは当然だろう。その後は見世物小屋で樽に浸かって肌をさらす晒す仕事をしているという、いわば場末の落ちぶれた年増女となって、毎夜寝る場所も定まっていない。そしてやくざ者のラスネールもしくはフランソワと呼ばれる男と親しく、一方でまだ売れないバチストやフレデリックとも馴染み、やがて伯爵の目にも留まるという、男に求められれば誰とでも寝ながら、バチストに一途な恋情を持ち続ける存在として描かれる。性行為がなくてもそういう女性が現実にいるかいないかとなれば、いるだろう。死ぬまでそうかとなれば、筆者は懐疑的だが、そう思いたい女性、つまり自分の恋に忠実な女性はいないとは言えない。ガランスが富裕な伯爵の目に留まって贅沢三昧の生活が出来るようになることは女としてそれ以上の幸福はなさそうだが、第2部で彼女は6年ぶりに再会したフレデリックに、幸福でも不幸でもなく、壊れたオルゴールのようだと思いを述べる。そして伯爵にはいつも正直に思いを告げている中、やはり6年ぶりに再会したバチストを思い続けているとも言い、その率直さに伯爵はなおもガランスの愛をほしがる。
 ところで、モーパッサンの『野あそび』をもとに画家ルノワールの次男のジャン・ルノワール監督は『ピクニック』と題する映画を撮った。その物語は夫や許嫁の男がいるにもかかわらず、パリ郊外にピクニックに出かけた一家の母娘が、ともに現地で出会った男と性交渉を持ち、そのことが忘れられずに何度も現場を訪れることを描く。ガランスはバチストと性行為がないのにフレデリックと同棲し、バチストと再会するまでの6年の間は伯爵と暮らしながら、心はバチストにあったのだが、この設定は男には理解し難い女の本能を伝えつつ、ガランスが口先だけで純粋なバチストにそう言ったのではないかという懐疑も抱かせる。しかしガランスが男の疑いを少しでも感じ取ればその男を嘲笑するだろう。彼女は何物を持たずに育ち、何物も恐くない。宿無しのホームレス同然でありつつ、精神の気高さは失っていないという設定はかなり無理があるが、万にひとつはそういう女性はいるだろうという男性の夢想を駆り立てる。それでガランスは手の届かない「月」であるのだが、孤児同然に育っても社交界に出入りして言葉も上品になる女性はいないとは限らない。伯爵は金で心は買えないことを知っていて、自由に行動させているガランスに飽きることはないのだが、いわば永遠に自分のものにはならない精神の枯渇状態にある。ガランスはそういう男の本能を知り尽くしているが、現実問題として女性は何歳くらいまで自身の美貌や魅力に自信を抱き、男をつなぎ留められるのか。結婚しても三組に一組が離婚する現在の現実は、どれほど熱烈な恋愛をしてもいつかそれは冷めることを意味している。本作が終わった後、ガランスがどういう暮らしをするかは予想出来ない。いずれ老女になるが、別の幸福な暮らしが待っているかもしれない。本作に限れば、彼女は刹那的に生きつつ後悔せず、いつもバチストの純粋な眼差しを思い出している。バチストのように純粋でありたいと願っているからで、ガランスもバチストも互いに求めあっていると言える。しかしガランスは妻子を持ったバチストに挨拶だけして去る決心をしていて、「月に憑かれたピエロ」として未練を抱くのはバチストだ。そのことで傍迷惑が生じる。純粋さは尊いが、妻子を持つバチストの場合、それは世間から見れば浮気に過ぎず、単なるわがままに映る。そのことをバチストは自覚しながらも自分を制御出来ない。こうなれば通常は妻は愛想をつかして去ることになり、本作でも挿話の事件として描かれるように、場合によっては夫婦間で殺人が起こる。第2部の終盤でガランスはバチストと再会して初めて夜を明かす。そのことでガランスの心は乱されず、バチストの暮らしを壊すつもりもない。世間をよく知り、常識をわきまえているからだが、バチストは幼ない頃から父に殴られながらマイムの芸を覚えた世間知らずだ。そういう純心さがあるのでガランスは憧れ続けた。
 ガランスやバチスト、フレデリックはアウトローであるので、本作を見る、そして本作の劇中劇を見る大多数の観客は、『どうせ芸人で、好き勝手に生きて性のけじめもない』と思いながら安心する。だがその自由な生き方は一方で多くの人々の憧れでもあって、その欲望を劇場の娯楽は与えている。フュナンビュル劇場は入場料が1フランで、天井桟敷はその5分の1の4スーだが、バチストの人気が高まるとそれぞれ5割増しになる。天井桟敷は常に満員で、それだけ貧しくても楽しみを求める人が多かったことを示すが、映画の時代になって人間関係は希薄になった。劇場では演技者は直接観客の反応を知ることが出来た。ガランスは天井桟敷に詰める客を愛し、彼らは最大の批評家であると言う。それは元来「アーティスト」は安価な席しか買えないような貧乏人で、彼らはなけなしの金を使って芸の巧拙を吟味する楽しみを持っているからで、金持ちの1フランは貧しい人の4スーに比べられないほど安価であることを暗に示してもいる。さて、モントレー伯爵は高尚なシェイクスピア劇を好まないようで、友人とともにフュナンビュル劇場に行き、その舞台袖の桟敷席で、彫像として舞台に立っているガランスを目にしてその美貌に憑りつかれる。そしてすぐに楽屋に背丈ほどの花束を贈る。第2部では花形役者となってついに『オセロ』を演じることになったフレデリックが、伯爵とガランスが観劇する桟敷席に同様の大きな花束を贈る場面があって、それに添えた手紙にはガランスをデズスデモーナに見立てながら『もう嫉妬は消えた』と書いた。これは同じようにガランスを愛しながら、嫉妬に燃え続ける伯爵と違ってフレデリックは『オセロ』の初演でデズデモーナを殺す結末になっていることを見越しての、ついにガランスに対する嫉妬は消えたとの意味で、自分が望む芸にどこまでも迫真性を持たせるためにガランスを利用、あるいは彼女のおかげがあったことを自覚しての行為で、いわば役者の鑑として描かれる。それに引き換え、伯爵は金にものを言わせているだけの俗物で、それをフレデリックは見抜いている。伯爵がフュナンビュル座に足を運ぶのは芸人の優れた芸を見て楽しむためだが、場違いに美しいガランスに注目することは、芸以上に女に関心があるためだ。その点がフレデリックとは正反対だ。伯爵はガランスを囲いながらその心を自分のものに出来ないが、ガランスが仮に真に伯爵を愛すると、たぶん伯爵は間もなく別の女を求める。そういう男女の駆け引きについてガランスは男の本性を見抜いている。それで純心なバチストに魅せられ続けるのは伯爵と同じく、「ないものねだり」とも言える。結局ガランスとバチストは月夜に初めて一緒に入室した6年前と同じ宿の部屋で交わるが、その後のガランスは生まれ変わったように歓喜に満ちた表情になるかと言えば、そうではない。
 ガランスは伯爵やフレデリック、そしてバチストの男としての本性を見抜いていて、一夜を共にしたバチストにもはや興味を抱かないだろう。あるいはバチストの生活を乱さないために、彼を思い続けて来た6年間と同じ精神状態に戻る。バチストとガランスの出会いは本作では最初のほうに描かれるが、ふたりは言葉を交わさず、ガランスは一本の薔薇の花をバチストに投げかけて去る。それより先にフレデリックが登場し、またガランスに執拗に声をかける。この描き方はマイム役者のバチストとセリフのある演劇を目指すフレデリックの対比を見事に描く一方、ガランスがどちらの男に魅せられるかの理由も説明している。言葉の多いフレデリックにガランスはまともに対応しないが、ほとんど無言のバチストにはその優しい眼差しを見て取る。しかし無言では恋は始まらない。バチストが馴染みの宿に雨宿りのためにガランスを導いた時、彼女は色気を使ってバチストを誘おうとする。バチストの内気や羞恥心が珍しかったからだろう。バチストは彼女に魅せられていることをぎこちなく伝えると、ガランスは子どものようだとからかう。しかし次の瞬間バチストは詩文をセリフのように話す。その詩がバチストの創作か、有名な詩かわからないが、滑稽味があって、バチストは自虐的にそれらの言葉を発する。マイム役者であっても詩文のひとつふたつは発せられるとの設定は、「芸人」が「詩人」であり「芸術家」であるとの矜持を示している。またそのことを気づくからこそガランスにとってバチストは忘れ得ない人物となるが、その直後に部屋を訪れたフレデリックと一夜をともにし、その後同棲するのであるから、バチストは自分が本物のピエロであることを自覚し、怒りの持って行き場がない。そういうバチストをフュナンビュル劇場の座長の娘のナタリーは必ず自分のところへ来ると確信し、やがてガランスが伯爵と去った後、結婚に漕ぎつける。普段一緒に演技する同業者同士の結婚で、そこにロマンスはない。観客も夫婦が恋人同士として演技するのを見れば白ける。妻子を持ったバチストもガランスのことを忘れているが、彼女がパリに戻って来て自分の芸を毎夜ひとりで桟敷席で見ていることを久しぶりに会ったフレデリックから教えられ、一気に熱い思いが蘇る。しかし、月のように手が届かないので永遠の美への憧れとなり続けるのであって、自分のものにし終えれば興味は別の対象に移る。面白いのはバチストを演じたジャン・ルイ・バローは、本作の撮影に入る前に女優のマドレーヌ・ルノーと結婚し、生涯添い遂げたことだ。つまり本作に当てはめれば、ナタリーとバチストはガランスという存在に悩まされなかった格好だが、現実はどうであったかわからない。バローはバチスト役を演じながら、ナタリー役を妻のルノーと思ったか、あるいは恋人のガランスと思ったかだが、そのどちらでもあったろう。
 バチストもフレデリックも芸の磨きにかけては貪欲で、フレデリックはいくつかの偽名を持つ泥棒ラスネールに初対面で大金を与えるほどに金に関心がない。女についても同様で、ガランスと同棲はしても執着しない。やがて有名になってからは女に困らない暮らしぶりで、『オセロ』を演じたいと思い続けている。そこで6年ぶりに会ったガランスがバチストを想い続けていることを知ってようやくオセロの嫉妬が理解出来ることになり、その上演に漕ぎつける。「芸人」は「やくざ者」でありながら、これだけは譲れないという夢がある。バチストはマイム芸を極めることだ。ナタリーから執拗に言い寄られての結婚は本意ではなく、去ったガランスへの恋情は燻り続けていた。日本の歌舞伎界でもよくある話のようで、「純粋」は「自分勝手」と同義の面がある。本作が終わった後のバチストはいくつかの場面で示唆されている。彼は自殺するだろう。純粋であればそうするしかない。長々と書いたが、本作の面白さはガランスとバチスト、フレデリックの三角関係だけにあるのではない。どの登場人物もよく描かれ、彼らなりの「正直」な人生を歩む。ラスネールはモントルー伯爵を殺すが、ギロチン台に上がることを決心していて逃げない。この男のモデルは実在の人物らしく、文筆家として有名であったという。ラスネールは代書屋をしながら子分に窃盗をさせるが、自らもそうするかたわら、常に金をいかに得るかを考えている。ガランスとラスネールの最初の出会いは描かれないが、ラスネールは女に関心がなく、ガランスとの性交渉はない。社会の底辺をさまよって来たガランスであるから、ラスネールに近寄っても自然だ。ほとんど売春婦と言ってよいガランスが伯爵に見初められることも不思議ではなく、同様の話は当時は少なくなかったであろう。マネの有名な『フォリベルジェールの酒場』の中央に描かれるのは当時どこにでもいた市井の娘で、場合によっては性を売っていたとされるが、アングルのモデルになったというガランスもそういう女性であったと思えばよい。ラスネールがモントレー伯爵に敵意を抱く理由は、金持ちへの嫉妬からだが、無礼であるからでもある。ラスネールは暇を見つけて戯曲を書いている。そういう才能も趣味も伯爵にはない。その意味でラスネールは伯爵を内心侮蔑出来るが、対面すれば伯爵はラスネールを見下す。伯爵は代々その身分であったのでそうなっただけか、あるいは当時は金で買えた爵位だが、いずれにしても自分の才能に自惚れるラスネールからすれば裕福であるだけの伯爵は、社会の役に立たない人物だ。ラスネールは社会の掃除屋を自認し、敵とみなす相手に容赦しない。そういういかにも小説的な人物がいるとは思いにくいが、ラスネールのように殺人はしないまでも徹底的に貶めようとすることはよくあるだろう。
●『天井桟敷の人々』_d0053294_23363984.jpg 伯爵も実はラスネールに決闘を申し込んで殺そうとしたし、ガランスは伯爵がスコットランドで若者を決闘で殺したことを諭す。合法か違法の差があるだけで、伯爵も人殺しだ。ラスネールが子分を連れて伯爵を殺しに出かける場面では、街中は謝肉祭のカーニヴァルで人が溢れている。その雑沓を横切ってふたりは伯爵がいる浴場に入って行く。祭りの雑沓を横切る場面は『シェルブールの雨傘』にもあって、それは本作へのオマージュかもしれない。同作の結末は本作とは正反対だが、芸人と一般庶民の考えの差と思えば納得が行く。第1部ではフュナンビュル劇場の楽屋でガランスが着替える場面があって、彼女は衝立に脱いだ衣装をかけ、それを伯爵が見つめる。そこでガランスの美に打たれたと告白する伯爵は雷を鳴らす小道具のトタン板に物を投げつけて雷鳴を轟かせるが、それは本作がその後伯爵の運命が波瀾に満ちた展開をすることの予告にもなっていて、映画の中で現実を描く場面が劇のように描かれて象徴性を帯びている。その象徴性が祭りの雑沓にどのようにあるのかとなれば、殺人場面のない『シェルブールの雨傘』と本作とではかなり差があって筆者にはわからない。それはさておき、家内はガランスが屏風の背後で衣装を脱ぐ場面は、『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘップバーンが同じ行為をする言い、本作は後の映画にいろいろと影響を及ぼしたようだ。さて、他の登場人物についても触れておく。ガストン・モドは映画を見ながらどの役柄であるかわかった。それほどモジリアニの描いた彼の肖像画はそっくりだ。残念であるのはモドが演じる盲人の乞食は第1部に少々出番があるだけで、物語にほとんど絡まないことだ。盲人は演技で扮していて、実際は目が見えて貴金属の鑑定を生業とし、「絹糸」と呼ばれている。彼はたまたま路上で出会ったバチストを居酒屋に誘うが、ふたりでいるところに古着屋のジェリコがやって来て忠告する。純心なナタリーがこんな場所にいるバチストを見れば悲しむと説教するのだが、そこにラスネールが子分とガランスを連れて入店して来る。ガランスを見つめるバチストに「絹糸」は、「命が惜しければあの女に近づくな」と諭す。ガランスが人殺しを厭わないラスネールと親しいことを知ってのことだが、バチストはガランスがラスネールを愛していないことを見抜く。そしてバチストの誘いでガランスと踊るが、ラスネールの子分に痛い目に遭わされる。その後の「絹糸」の出番は劇場でバチストの演技に喝采を送る場面のみだ。「絹糸」がジェリコとつながることは現実的ではない。ジェリコは気前のいい「絹糸」とは違って、陰口を楽しみとし、手相占いに長け、またラスネールから盗品を買い取ってもいるからだ。ジェリコは本作の冒頭と最後、そして途中で何度も登場し、毎回異なる口上を述べるが、フランス語では韻文のようになっているのではないか。
 ジェリコの口上のひとつに「メデューズ号の筏」がある。これと同じ名前を持つ油彩の大作を80年代半ばに京都近代美術館で開催された『ジェリコー展』で見たが、本作が描く1820年代当時、世間で大いに話題になった画家ジェリコーの代表作に言及するところがさすがの詩人による脚本で、フランス芸術賛美がこういうわずかなセリフからも垣間見える。バチストは古着屋のジェリコを嫌悪していて、やがてマイム劇で古着屋を剣で刺して古着を奪い、それを着込んでナタリーが混じって踊る上流階級のダンス・パーティに侵入するという場面を設けて演じる。その劇中劇の結末はわからないが、劇の途中でバチストはナタリーから目を逸らして客席のガランスを認める。これとほとんど同じ場面は第1部にもあって、ナタリーは二度裏切られた形だ。しかし最初の裏切りからバチストはナタリーと結婚したので、ナタリーはバチストからどのような仕打ちを受けようが待ち続けるだろう。本作はナタリーとガランスという正反対の女性を描き、男は後者に身を滅ぼされることを描くが、貞淑一辺倒と本能のままに奔放に生きるふたつどちらの女も、惚れた男に一途であり続けるという、男にとっては理想的かもしれないが悩ましい性質を描き、そのふたつのタイプに共通する一途さを現代の女性がどう思うのかという興味が湧く。しかし、どうしようもない偏執的な恋情は何かの拍子に一気に冷める場合がある。ある男が夢中になっていた女性を何年か後に偶然見かけた際、全く平凡な女であると気づくことを描くフランス映画を昔見た。当の女性を演じたのはジュリエット・ビノシュで、彼女が出た映画を片っ端から確認すれば題名がわかるが、その時間も気力もない。それは筆者が彼女を好みの美人と思わないからだ。話を戻して、ジェリコは最初別の俳優が演じたが、彼がヒトラー政権と関係があることがわかり、画家ルノワールの長男ピエール・ルノワールが代役となり、本作では忘れ難い存在となっている。ジェリコは結婚経験がなく、女性がいわばルメートルやラスネールのような男になびくことを呪詛している。そしてさびしさのあまり、あちこちで情報を提供し、噂をばら撒くが、本作の制作当時、ジェリコのような人物はドイツとの戦時下においてスパイのような人物とみなされたのだろう。結婚未経験の男が社会的に妻帯者より信頼されないことは常識だ。ジェリコは「芸人」ではない。「アウトロー」だが殺人を厭わないラスネールほどの覚悟もない。しかし彼こそ最も多くの人種の間をわたり歩き、世の中の甘さも辛さも熟知しているのではないか。彼の立場になると、自分を忌み嫌って避け続けるバチストこそ罰当たりで、ナタリーを放置してガランスの後を追う姿を嘲笑する。本作はモーパッサンの小説と同じく、どの登場人物の立場からも見ることが出来るし、どの人物が真に正しいかは言い切れない。

by uuuzen | 2024-07-13 23:59 | ●その他の映画など
●『シェルブールの雨傘』 >> << ●「知らぬ街 地図を持たずに ...

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