「
若作り しても隠せぬ 顔の皺 せめて背筋を 伸ばして歩き」、「顔見れば 知性わかると 言いながら 手相大事と 信じる女」、「人生の やり直しには まず身なり 刺青隠し 無防備醸し」、「口説くには くどく言わずに 熱意込め 功徳あるよと 視線で伝え」

2002年制作のオムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』の「RED」盤の最初にアキ・カウリスマキの『結婚は10分で決める』が入っている。そのDVDのジャケット裏面にアキ監督名の横に表記される『過去のない男』は最新作ないし代表作の意味だろう。『結婚は10分…』は原題が『DOGS HAVE NO HELL』で、邦題がこの題名の直訳では同短編の内容にふさわしくないと考えられたのだが、先月買った本作を見て思うのは、この『犬に地獄はない』の題名は本作にふさわしいことだ。本作を撮る前に『結婚は10分…』が撮影されたことが本作の付録映像のひとつである主役女優のカティ・オウティネンへのインタヴューからわかる。アキ監督は本作を撮る前に本作の男女の主役を使って短編でふたりの相性を確認したのだが、本作が仕上がった後もカティは編集された『結婚は…』を監督から見せられていなかったことが同インタヴューからわかる。それはともかく、本作と『結婚は…』は主役ふたりが共通するだけで物語は全く別物で、『結婚は…』は『愛しのタチアナ』にかなり近い。ただし結婚という形でふたりが一緒になることは同じで、アキ監督には男女が仲よく暮らすことが幸福の最低条件と思っている節はある。これがキリスト教的な考えかどうかとなると、たぶんそうだろう。アキ監督の映画にさりげなくヘルシンキの教会が映り込む場面がままあって、深読みは禁物としてもアキ監督はキリスト教が貧者の救済に役立っている面を否定していないように見える。本作は特にそうだ。カティが演じるのは救世軍の一員だ。救世軍は京都の中京にもあるが、どういう援助で運営されているのか知らない。みんなの寄付によってであれば赤十字や共同募金のように自治会を通じて半ば強制的に寄付を募ってもいいようだが、キリスト教の勢力がフィンランドほどではない日本ではそれは無理で、したがって救世軍の組織に入る寄付金は微々たるものに思える。本作では救世軍が貧者への食事奉仕をしたり、古着を集めて配布したりするなど、ヘルシンキの最底辺の人々の生活をぎりぎり助ける組織として描かれ、救世軍のバンド・メンバーを含めて10人程度の職員の給料がどのように支払われているのかが気になるが、ヘルシンキ市内にいくつかある教会とつながって、市民からの寄付で運営されているのだろう。日本では救世軍の出番はクリスマスくらいしか市民には見えないが、その代わりのボランティアはあって、東京ではホームレス相手に食事や食材を提供している様子がたまにTVで紹介される。「子ども食堂」もその類で、日本では貧困者が増加しているのだろう。
日本では離婚が増え、母親が子育てに苦労し、子どもはが満足に食べられない様子がたまにTVで伝えられる。筆者の息子が小学生の頃にすでにそういう問題はあった。息子と同級生の太った男児は母子家庭で、母親はフル・タイムで働いているので鍵っ子であったが、学校から家に戻るとすぐに友だちの家に遊びに行き、そこで夕方まで過ごしていた。そして場合によっては炊飯器の中の御飯を勝手に全部平らげるほどの行為をあちこちで起こした。愛嬌があって明るい性質であったので、家で仕事をしている筆者はその子どもとそれなりに親しくなり、また授業参観でその子の母親を一度見たことがあって、生活が厳しいことがよくわかったので同情したものだ。その子は中学生になって転校したのでその後のことは知らないが、逞しかったので今は老人になった母親を助けていると思う。またそう想像したい。母子家庭は筆者も同様で、妹がふたりいたので、母は大変であった。ひとつの卵を割って水で薄め、それを御飯にかけてよく食べた記憶があるが、小学生であれば子どもは食の贅沢は気にしない。何を食べても腹が膨れればよく、生活の貧しさをさほど気にしなかった。それよりも働きづめの母の逞しさと、子どもを躾ける厳しさを毎日示され、うまく育てられたと思う。母からはあまりの貧困でガス自殺をしようと思ったこともあると聞かされた。一家心中を思い留まったのはそばで眠る幼ない3人の寝顔を見て我に返ったからだ。そうこうしているうちに母は近所のある年配の女性から区役所で生活保護を申請すればよく、保証人になってあげると言われた。そして筆者の義務教育の9年間は生活保護を受給した。数か月に一度は区役所から係員がやって来ては米櫃を覗き込むなど、財産隠しを調べられ、TVはもちろん洗濯機も所有は許されなかった。昭和30年代半ばまでのことで、その後は知らないが、母は生活保護の受給を屈辱的と常々捉え、筆者が全日性の高校に進学するのであればそれだけの経済力があるとの理由で生活保護は打ち切ると言われ、即座にその言葉にしたがい、「ようやく気分が清々した。生活保護は受けるもんではない」と晴れやかな顔で筆者に言った。400人近い生徒数の中学校では生活保護受給家庭は10数軒で、3パーセント程度は極貧家庭があったことがわかるが、現在の日本はその割合が増えているのではないか。満足に食べられない子どもをTVで見ると筆者は胸が苦しくなる。彼らは充分に勉強出来る状態にあるのか、またしたくなるのか。一方では子どもにいくつもの種類の習い事をさせる裕福な家庭もあるが、そういう境遇から真の芸術家が出ることよりも極貧家庭から生まれる割合のほうが多いと筆者は信じている。もっとも、その極貧家庭を餓死しない程度には援助する社会の仕組みがあってのことで、生活保護が屈辱的としても一時でもそれで生き延びなければ先はない。
本作の原題のフィンランド語を英訳すると『THE MAN WITHOUT PAST』となって、邦題はその直訳だ。『犬に地獄はない』は『犬に天国はない』と同じではないかと思うが、犬は野良にしろ飼われるにしろ、どうにか生きようとするだけだ。もちろん歓びや悲しみの感情はあるが、金を貯め込んで自慢しようとしたり、贅沢することは考えていない。その意味で犬に地獄はないとアキ監督は考えたのだろう。人間でも最底辺の生活者はそれより下に落ちようがないから、やはり地獄はない。少年時代の筆者は極貧ではあったが、自分の家が殺伐としているとは感じたことがなかった。むしろ近隣の金持ちの兄さんらの家に行くと、塵ひとつない広い畳敷きの部屋で食べたことのない珍しい菓子を出されたり、高価なゲームで遊ばされたりしたが、彼らはみなとても孤独に見えた。幼少にして筆者は本当の貧困は精神にあることを見抜いた。それは金をたくさん貯めるほどにそうなるのが普通だ。その理由は本人の資質によるのだが、ほしいものは何でも親から買い与えられ、甘やかされ育つとろくなことがないことをさんざん周囲で見ながら筆者は育った。それは他者を厳しく見過ぎる気質となったと自覚する。もちろん表向きはそれなりに平気で言葉を交わし合い、親しくは出来ても、努力出来る立場にありながら言うだけの人は好きではない。話を戻すと、アキ監督は犬が好きらしく、どの作品にも犬が登場する。『愛しのタチアナ』では車の修理工場の敷地の地面に寝そべって平らになっている犬が一瞬映った。アキ作品では本作が犬の出番が最も多いのでないだろうか。臆病さ丸出しの情けなさぶりで、犬嫌いな人でもその表情を見て顔をほころばせるだろう。アキ監督が起用する犬は俳優犬で、代々血を受け継いで、演技の心得を知っていると思わせる。犬が人間からひどい仕打ちを受ければ表情や態度は陰険になり、時に人間を襲うだろう。それは動物全般に言える。人間も虐げられ続けるといずれ抑圧者に反発し、暴力で仕返しすることはよくある。本作にはそういうところも描く。さて、本作は主人公の男性が記憶喪失になる場面から始まる。そこで思い出すのは韓国ドラマの『冬のソナタ』だ。それは2002年1月から3月まで韓国で放送され、アキ監督が見た可能性はある。ただし『冬のソナタ』と違うのは交通事故ではなく、フィンランド北部からヘルシンキにひとりで出て来た夜、人気のない場所で眠っていると、チンピラの3人組に殴打され、財布を奪われ、路上に放置されることだ。そういう不良は世界中にいて、ヘルシンキだけが物騒ではない。その3人組は本作の最後近くにも登場し、相変わらず路上で眠るホームレスたちを襲撃するが、日本では高校生がホームレスを殺した事件があった。社会の役立たずはゴミのように処分してよいというゴミ思想の持ち主の役立たずは世界中にいる。
野良の犬や猫を哀れと思って拾って帰って育てる人は大勢いるが、野良の人間となれば目を背ける。「犬に地獄はない」というたとえは、地獄同然の野良犬としての立場以下にひどい状態がないこととして、人間がホームレスになれば当人はそうは思っていなくても高校生から石を投げつけられると、自分の境遇を地獄と思うかもしれず、「人に地獄はある」と言い変えねばならない。しかしそれでは凄惨な内容の映画にしかなり得ないから、アキ監督はホームレスどころか記憶喪失になっても「救う神」があることを描く。こう書けばもう本作を見たいと思わない人がたぶん大勢いるだろう。社会のドン底に陥ってそこから這い上がり、人並みの幸福を得る話など、万のひとつの可能性と思っているからだ。その万にひとつの可能性を描くことでアキ監督は、どのような逆境に落ち込んでもそこから這い上がれとのメッセージを自作に込める。映画は前向き夢を与えるものと信じているからだろう。だがそこにアキ監督の評価が二分される理由はあろう。筆者は出来ればアキ監督の全作を見たいが、これまで見た限りにおいてどれもワン・パターン化していると思える。それは失意にある主人公が結末では明るい未来が約束されている姿で、前述のようにそれは万にひとつの可能性で、ほとんどの人は這い上がる気力を失うのではないか。またそうなればなったで、野良犬と同じく、諦念ゆえの地獄はないとの現状に満足する気分も生まれる場合があろうし、そうならない場合は自殺する。後者はよくあることでドラマになりにくい。それほどに人生の敗者は誰からも顧みられない。となれば前者を描くか、あるいはそこから進んで這い上がる人物を描くしか、金儲けの作品では方法がないことになる。映画は特にそうで、大勢の人と機材などを使っての仕事であるから、目論見が大きく外れて散々な評価を蒙ることは絶対に避けねばならない。それでも世の中は無慈悲であるから、思惑通りに行かないことはよくある。そこで重要となる点は、監督がいかに自分に正直であり続けるかだ。これは表現したい、これだけは外して描くことは出来ないというこだわりは作品に刻印され、必ずそれは他者に伝わる。また一旦そのような監督のこだわりを知ると、人は次作を期待するし、そこで同じような主題を看取して満足するか、あるいはマンネリ化しているなといった評価を下すが、繰り返すとアキ監督の場合、どれも社会的弱者にエールを送る内容で、そのワン・パターン化を好意的に見るかそうでないかで評価は変わる。現実があまりに殺伐としているからアキ監督はせめて映画で心を温めてほしいと思っているのかもしれない。映画の役割はその程度のことしか出来ないのは事実で、そのことは芸術全般に言える。作品は本物の人の温かみには及ぶはずがない。しかし作品を通じて作者の人間的温かみは感じることは出来る。その意味で作品は人を救う。

本作はこれまで見たアキ監督作品ではベストと思える。『冬のソナタ』と同じく、頭に大けがを負って記憶喪失となった主人公がその後どのようにして快復し、周囲の人々と良好な関係を築いて行くかの予想がつかないからだ。もちろん悲惨な結末にならないことはわかっていて、周囲の人々が主人公に心を許して行く様子が面白い。その場面は最初からある。暴漢に襲われた後、主人公は血みどろになりながら人の集まる繁華な場所まで歩き、トイレで倒れ込む。そして病院でミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされながら、医師は看護婦に対して、このまま植物人間になるから、いっそのこと死なせたほうがいいと言って処置を中断してその場を離れる。そのまま死ねば物語の先はないから、アキ監督は主人公を突如ベッドから起き上がらせる。その時点で本作のそれ以降はファンタジーと言ってよいし、またそのように思わせる描き方だ。翌朝、主人公は川べりか海べりで倒れ込んでいるところを貧しい少年ふたりに発見される。彼らは両親に報告し、母親はスープを作って主人公に飲ませる。一家はトレーラー・ハウスに住んでいて、ホームレスに毛の生えた程度の貧しさだ。ヘルシンキにそういう貧困層がいるのかとなれば、どの国でもホームレスはいるから、トレーラー・ハウスの住民の存在は事実だろう。そういう貧しい人が瀕死の見知らぬ男を看病する場面から本作は本格的に始まることは、冒頭のチンピラによる強盗傷害とは対照的で、経済的に貧しくとも心優しい人がいることを伝える。心優しいゆえに貧しい生活をしている人々はいつの時代にもいるが、そういう人に光が当たることはほとんどない。これは「風風の湯」の常連のFさんと85Mさんの話だが、85Mさんは貧困層がもっと恵まれた生活をするために政治家は働くべきと意見すると、Fさんは政治がどれほど優秀でもいつの時代でも貧困層はいるもので、それは仕方のないことだと言って話がかみ合わない。Fさんは株の売買で億り人になっていて、85Mさんはやんわりとそのことを揶揄しているので両者の意見はいつも対立するのだが、貧しい人がいくら自助努力をしても貧しいままというのは政治も本人にも原因があるだろう。同じように貧しくてもその状態から這い上がろうとして行動的になる人と、生活保護を受けてそれで満足してしまう人がいる。これは以前に書いたことがあるが、中学生の時に友人であったNは一級建築士の資格を持って京阪神の郵便局の設計をするなどして生計を立てていたが、40歳くらいに仕事がなくなって生活保護を受け始めた。大阪に出たついでにごくたまにNに会うと、ある夜はNの家の前で立っていると、自転車からスーパーから帰って来たNに会い、すきやきをするために肉を買って来たと言われ、その豪勢な食事に少々驚いた。Nは何歳になっても人生はやり直せると言いながら、生活保護受給状態で還暦過ぎに死んだ。
何歳になっても人生がやり直せることを本作は描き、それはアキ監督の終生のテーマだろう。しかし筆者の周囲に40代以降、職種をがらりと変えて成功した人はいない。Nは独身のまま死んだが、結婚していれば生活力があったかとなればそれはわからない。だが、生活保護受給状態から脱出しようとしなかったことは、最低限の生活でも働かずに済むことに満足していたことであって、そういう気概では結婚しても離婚に至った可能性が大きい。Nが筆者に「何歳になっても人生はやり直せるで」と言った時、返事しなかった。親の代からの借家に住み、事務所として借りていた一室の家賃を金持ちに嫁いだ姉からもらっていることを知っていたからで、人生をやり直す気概があれば自力でもっとどうにかしていたはずだ。実際にやり直すためには寸暇を惜しんで血の滲む努力をせねばならない。その覚悟も根性もない者が簡単に犯罪に手を染める。Nは真面目で小心であったから悪事を働くことは思いも寄らなかったが、結局肉親と生活保護の世話になりっ放しで人生を終えた。それはアキ監督から見ても映画の主人公にはならない生き方だろう。となると本作の主人公は暴漢に襲われて瀕死の重症を負いながら、好意的な人々に恵まれるだけ人間力があり、それゆえかどうか、相思相愛となる女性も現われた。そういう主人公をNが見ればどう思ったか。同じように社会の最底辺にありながら、浮上しようとする人と諦めてしまう人がある。後者はもがいても仕方がないと思っているのだが、その時点で浮かび上がる資格はなく、神も無視するだろう。となれば本作は弱者に希望を与えるとは限らず、努力は無駄と思い込んでいる弱者からすれば主人公は強者で強運の持ち主であると他人事のように思うであろうし、本作で救われると自覚する者は元より弱者ではない。あるいはそうでなければ映画を見た直後だけは勇気が与えられ、幸福感に浸れる。それを言えばNは死ぬ間際まで「まだやり直せる」と思っていたことはあり得るし、現実がどうであれ、そういう気持ちを抱くに限ることをアキ監督は言いたいのかもしれない。しかし「やり直せる」場合の条件としてアキ監督は異性の必要性を描く。その異性との出会いは互いに心引かれてのことだ。これがNにとって、また多くの40代以上にとっても仕事以上に困難なことではないか。アキ監督が描くのは似た者同士のカップルの誕生で、その点は現実的だ。もちろん他者が見て不釣り合いなカップルはあるが、そういう例外をアキ監督は採り上げない。その意味からアキ監督の映画は美男美女が登場しない。それでは元来嘘っぽい物語がますますそうなるからで、せめて俳優で現実感を高めるしかない。しかし本作の主人公と、彼とカップルになる女性の職業は、現実感を与えるために見事に設定されている。
主人公の男はトレーラー・ハウスの家族に助けられ、主人公がかなり快復した頃のある日、その家の主人は主人公をディナーに誘う。そのディナーとは救世軍が提供する無料の食事サービスのことで、その場所で主人公はカティが演じる救世軍の一員の女性と初めて出会う。そのディナーに行く前に主人は主人公を助けたふたりの男児が屋根に上って樋を通じて流す如雨露の湯で入湯する場面があり、また妻は夫に買い物を頼み、その金額以上の飲み代としてお金をわたす。夫は週に2日しか炭鉱に働き口がないのだが、妻は夫の最低限の酒代は許す。バーに入った主人公とその夫は対面してビールを飲むが、夫はビールのお替りをするのに、主人公のジョッキのビールはほとんど減らない。同様の場面は後半にもあって、主人公は酒をあまり好まないことがわかるが、この主人公役の男優は『浮き組』ではアル中のレストランのコック役であるのが面白い。また本作のほとんど最後で明かされるが、主人公はやはり酒をほとんど飲まないが、ギャンブル癖がひどいことがわかる。それで夫婦の喧嘩が絶えず、男はひとり家を出てヘルシンキに向かったことが明かされる。話を戻して、助けてくれたトレーラー・ハウスの一家の夫は主人公と対面してビールを飲みながら主人公の手を見て肉体労働をしていたことを悟る。それに読書を嗜む顔でもないことを言う。記憶喪失者の素性を知るうえで何か手がかりがないかと探る中でのこの人物評は、人生を長年経験した者の見方を如実に示している。本作を二度見て気づくことは、映画の冒頭でチンピラに襲われた時、そのひとりが主人公のスーツケースに入っていた鉄製の仮面を気を失った主人公の顔に被せる場面だ。そのロボットじみて見える場面は滑稽でありつつ人間がロボットのように黙って働く現実を示してもいるが、労働は別の人物か何かに代替が効くもので、壮年期を過ぎようとしている無職の男性に新たな働き口がなかなかないことの現実を突きつける。主人公がフィンランド北部から単身でヘルシンキに来たのは、仕事を見つけるためだろう。主人公は自分の専門とする職業を忘却しているが、たまたま溶接の現場を目撃し、そこに近寄ってその作業をわずかにさせてもらう。彼が溶接工であったことは、冒頭のチンピラから強奪された場面の溶接仮面を被せられたことから、わかる観客にはわかったことだが、アキ監督は最初のその布石を後になって主人公を救う持ち合わせた技術として明らかにする。現場監督は主人公の腕前を見て即座に雇うことを決めるが、名前も住所もない主人公ゆえに給料振り込みの銀行口座が開設出来ない。その後の展開はかなり作り物めくが、それは却って映画らしい面白さで、とんとん拍子に物語は意外な方向に進む。それはさておき、主人公が社会復帰するために必要であったことは手に職を持っていたことと対人関係で欠かせないまともな衣服だ。
主人公はトレーラー・ハウスの住民の助けで生き返ってもまともな服がない。それでカティ演ずる救世軍の女性から無料で選んでもらい、それを試着した姿を「見違えたわ」と褒められる場面は説得力がある。主人公は自活のために空いているトレーラー・ハウスを借りることにするが、その時にやり取りするのが地域を管理している人物で、彼は地主とどのような契約を交わしているのか、ホームレス同然の人々が住む地域の住民からは電気代込みで格安でトレーラー・ハウスを貸している。主人公が住むそれは以前の住民が凍死しために空いたもので、主人公はそこをきれいに掃除し、捨てられていたジューク・ボックスを持ち込んで地区の電気を電柱から勝手に引いている電気技師に修理してもらって使えるようにする。また主人公の音楽好きは、救世軍のバンドを日本のグループ・サウンズのように流行歌を演奏させるように丸め込み、やがてトレーラー・ハウス地区で入場料を徴収するライヴを企画することにもなる。その場面でのバンドは『結婚は…』にも登場したが、本作の日本公開に伴って来日し、東京でミニ・コンサートを開いた様子が本作DVDの付録映像に含まれる。ロックンロールにカントリー・アンド・ウェスタンを混ぜたような音楽性で、短調の曲を大半として日本の歌謡曲に通じるところが大きく、日本の60年代半ばのグループ・サウンズを思わせる。その音楽性はロシア民謡の影響もあって、フィンランド人の好みなのだろう。一方でフィンランドはアルゼンチン・タンゴを導入して独自のタンゴ曲の流行を見て、『マッチ工場の少女』ではそういう曲を演奏するバンドが出演したが、アキ作品には必ず生演奏バンドが出演し、音楽の重要性は他の監督にない特質となっている。本作の終盤に、フィンランド北部の家に多くのレコードがあったことを元妻が語る場面があって主人公の音楽好きが強調される。その主人公がギャンブル好きであることは、アキ監督の映画制作がギャンブルに近いことを側面から明かしてもいる。セリフがきわめて少ないアキ作品では音楽は重要だ。本作の最後に近い場面で主人公の男が列車の中で日本酒と寿司の食事をし、背後に日本語の男性歌手の歌が流れる。それは小津安二郎など日本映画への敬意と日本への自作の売り込みのためだろう。日本の若者の昭和レトロ・ブームにあって、本作に登場するバンドの曲が人気を博すことは今後あり得る。付録のカティへのインタヴューでは、アキの映画のセリフは若者が使わない古い言葉とのことで、あえて懐かしさを盛ろうとしている。別れた妻は何年も夫の消息を待ったが、やがて再婚し、そのことを主人公が家に戻って知る。そして主人公はヘルシンキに戻って求婚するが、その後のふたりの人生を想像する。記憶喪失を経験してギャンブルの味を忘れたのであればいいが、溶接の傍らバンドのプロモーターになったのならその心配はないか。
