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●『街のあかり』
々の 夢は砕けて まだ半ば 粘り続けて ナウ・オア・ネヴァー」、「カリスマが なき人描く 地味映画 カウリスマキの 滋味を映せし」、「負け犬の 自覚なきまま 古稀を過ぎ 金も名もなき 誇りもなきに」、「竹林に 七賢人の 去りし後 童遊びて 吾踏み込まず」
●『街のあかり』_d0053294_17170213.jpg 先月上旬に買った中古DVDのアキ・カウリスマキ監督の映画について書く。2006年の作品だ。アキ監督のDVDは中古でも作品によって1枚1万円ほどするが、2000円までなら買う。となれば見ないままになる作品が4,5作はありそうだ。何年か待つ間に中古で安価で出回るとして、その頃に筆者は生きていないかもしれない。それはそれで仕方がない。本作の原題『LIGHTS IN THE DUSK』を『街のあかり』と訳すのは誤訳と言ってよいほどにセンスがない。『夕暮れのあかり』とすべきで、この場合の『THE DUSK』は本作の主人公の、特に中年男を指す。人生の夕暮れが何歳代かと言えば、時代と国の平均寿命の違いで差があろうが、人生の先が見えている世代を指し、経済力がない状態では40代半ばというのが万国共通の意識ではないか。日本では氷河期世代がそれに該当する。非正規雇用で働いている現在の40代に正社員の道はあるだろうが、そうして働いても給料や待遇はあまり変わらないのではないか。むしろ責任が重くなる分、損という思いが強くなるかもしれない。それで非正規雇用者は低収入のために結婚出来ず、その気力も奪われている。どうにか結婚しても生活苦から離婚する確率は増えている気がする。先進国ではどこも同じかどうか、本作を見る限り、人口が日本よりはるかに少ないフィンランドでも事情は大差ないようだ。アキ監督の96年の『浮き雲』は失業した夫婦が再起する物語であった。本作は独身の30代後半から40代前半らしき男のコイスティネンが、3年勤務した夜間警備会社を美人局に遭って辞め、しかも強盗容疑で三か月服役し、その後自分を陥れた一味のボスに刃物で切りつけながら逆襲に遭う。その場面は『浮き雲』でもほとんど同じように登場し、本作でも傷めつけられた主人公が快復して新たな人生を歩み始めるところで終わる。社会的弱者が幸福をつかむために足掻いた結果、先の見通しが立つというハッピー・エンドで、そう描かなければ鑑賞者は夢も希望もない現実を実感して映画を見て損した気分になる。そう捉えると、アキ監督の作品はどれも生きて行くのに前向きになれば拾う神があるという信念に貫かれていることがわかるが、見た後にほんわかとした気分になってよい映画を見たと思える一方、珍しい展開は全くなく、印象に残りにくい。2,3日ですっかり忘れてしまうと言ってよいほどだ。そして再度見ると新たな発見があり、監督の計算に思いを馳せることになる。画面の造形や俳優の演技など、なるほど映画は芸術かと納得する。
●『街のあかり』_d0053294_17174673.jpg
 コイスティネンは酒は飲むが、どういう趣味があるのかわからない。アパートでひとり暮らしをして赤いセダンの車を持っている。警備会社の同僚からは「また女と会うのか」と揶揄され、酒場などでそれなりに女性に声をかけているようだが、相手にされたことはなさそうだ。会社に勤務して3年で、上役は「クビにしろ」と同僚に言うほどに、会社の同僚たちからは疎んじられている。彼は自分で警備会社を設立して見返してやりたいと思っているが、そのことは馴染みのキッチンカーで営業している冴えない女性にだけにこぼしている。コイスティネンは会社を作るために経営学を夜学で学んでいる。問題は資金力だ。同僚数人と協力して会社を立ち上げようと考えているものの、相談相手はいない。いつの時代も自分ひとりの暮らしはどうにか出来ても、雇う側になるにはハードルが高い。『浮き雲』では長年働いたレストランを解雇された主婦が同じ同僚を集めて別の場所でまたレストランを開店する。そこには偶然再会した元の店のオーナーの資金援助があった。コイスティネンは独身で夜警という冴えない仕事で、仕事の理屈がわかれば独立しようと考えるのはまともだろう。それほどに夢を諦めていない。そして銀行に行って20万ユーロの融資を申し込む。もちろん笑い話としてまともに応対してもらえない。この辺りは『浮き雲』と同じで、事業を始めるにはまずは金がものを言うという現実を突きつける。銀行からの融資を求める場面はアキ監督が新作を作るための現実の経験を反映したものではないか。以前にも書いたが、映画作りはギャンブルと同じで、やくざな商売と言ってよい。大ヒットすれば有名になり経済的にも潤うが、そうでなければ財産を失う。いくら名声が高くても毎回新作が大評判になるとは限らない。それどころか二番煎じやマンネリの度合いが高いとみなされれば一瞬のうちに凡庸な監督との評価を受ける。なぜなら常に新しい才能が出番を窺っていて、流行は常に変化する。その意味で本作を見れば、明らかに『浮き雲』とよく似た内容で、監督らしいと言えばそうだが、斬新な要素はない。50歳を手前にした作品なので、まだまだ冒険は出来るはずだが、すでに国際的評価が定まり、以前の作品から大きく外れた内容のものを撮りにくくなっていたのかもしれない。それにフィンランドの普通の暮らしをするかそれ以下の人々に目をやるという社会派としての立場を崩したくないのだろう。資本主義の歪みを告発するというのではないとしても、社会主義のよさも見据えている眼差しが感じられる。一方、本作でもまたバンドのライヴ場面があって、『愛しのタチアナ』で描かれたようにロック・ミュージシャンの生き方への憧れがあるように見える。瞬時の芸術である音楽を愛好することは、生きている今の瞬間の恍惚感を重視する刹那主義と言ってよく、それはあまり先のことを考えないことだ。
 刹那的という言葉はあまりいい意味では使わない。それはアウトロー、アウトサイダー、もっと言えばやくざ的であって、太くて短い人生をよしとする。ロッカーがたいてい短命であるのは、刹那を生きるのに誰よりも激しく燃えようとするからだ。そう言えばモーパッサンも刹那的で、短期間に大量の小説を書いて発狂して死んだ。まるでロッカーの生き方であった。アキ監督もそのようにありたいと思っているのかどうか、同じ俳優をよく起用することはロック・バンドの親分の立場でありながら、俳優よりかは責任重大で、映画制作に関係する全員を食べさせねばならない。次作をどういう内容にすべきかという芸術的葛藤以外に制作費用の心配もある。よほど冷静さを保たねばならず、早死にのロッカーに憧れがあっても同じような夭逝はしてはならない。その点、ファスビンダーは紛れもなく天才で、また同じような映画を撮らなかった。アキ監督は山田洋次監督に似ているかもしれない。本作もだが、『浮き雲』には映画館で映画を見る場面があった。2006年当時、カップルがデートに行く場所として映画が代表的であったとの描き方で、フィンランドではそうであっても日本ではどうか。そこに本作のレトロ感を意識した制作態度がある。その古さが監督のマンネリ、退行を伝えると言えば言いすぎかもしれないが、映画をDVDで見る時代になったことを知りながら、アキ監督は公開時に見てもらえることをあまり意識せず、たとえば筆者のように公開から20年近く経って見る人がいることを念頭に置いているのではないか。これは言い変えれば最初から古典となるべく作品を撮るという覚悟があることだ。その覚悟とは隙のない、完璧を求める態度で、また刹那的に生きるからこそ、永遠性を獲得出来るとの思いが根底にあるが、その刹那を誠実に生きることが条件だ。それは本作に登場するやくざのように人を騙さないことだが、映画はある意味では人を騙すものであり、監督や俳優はやくざものと表裏の関係にあるとも言える。本作が2006年の制作であることは文章を書き始めてからDVDのケースを調べて知った。それほどに筆者は何年の制作であるかを意識して映画を見ない。150年前のモーパッサンの小説を読むのと同じで、最先端の芸術にあまり関心がない。100の新しい作品が登場し、そこから古典となるものはひとつもない状態だ。ならば限られた時間の人生において安定した貫禄が認められている作品に接したい。評価が定まっているそうした作品を今さらつぶさに吟味したところで斬新な何かが把握出来るとは思わないが、筆者の興味は作品自体以上にその作家像だ。アキ監督は画家で言えばアンドレ・ドランのような逞しい面構えで、どっしりとした体格はロシアの敏腕の政治家か軍人のようだが、眼差しには繊細さと鋭さが感じられ、日本のTVに登場する有名人にはいないタイプだ。
 アキ監督の見た限りの作品においては、夫婦を描いても主人公と暮らす子どもは登場しない。本作もコイスティネンを始め、その登場人物も肉親は描かれない。これは大人になればひとりで生きて行くことはあたりまえという文化があるためか。『愛しのタチアナ』では母と暮らしてミシンを踏み続ける男が登場し、彼は親元を離れて暮らしてもよさそうだが、そうしない事情は描かれない。彼に比べれば身軽な独身のひとり住まいは先の人生に展望があると監督は思っているのかもしれない。とはいえ、コイスティネンのような男は日本にも大勢いて、結婚は出来ればしたいが、同意してくれる女性がいない。本作では彼がひとりでがらんとしたカフェでコーヒーを飲んでいると、金髪の若い女が入って来て、彼の真正面の席に座る。コイスティネンはほかにたくさん席が空いているのに、なぜ目の前に座るのかと質問する。女は彼がさびしそうに見えたと返答する。彼は「結婚しようか」といきなり口説き慣れた言葉を発する。この刹那的即決は監督の以前の短編『結婚は10分で決める』を思い出させる。女はまずは映画を見るデートをしてからと言う。コイスティネンはデートの経験がなく、結婚は簡単に出来るものと思っている。それは女が承諾すればいいだけのことだが、女がそうするのは男の価値を見定めてからだ。コイスティネンがもっと若ければ子どもがじゃれるように交際は始まるだろうが、さほど若くはなく、口達者でもなく、しかも作業着でカフェに出入りするのでは積極的に接近する女はいない。ところが男は元来自惚れが強い。近寄って来た女をものに出来ると勘違いする。その滑稽さを男は老齢になっても気づかない。本作はシリアスなドラマだが、どの場面も見方によっては滑稽さを感じることも出来るだろう。そのひとつの理由はどの登場人物もいかにも現実そのものに見えるいわば紋切り型であるからだ。その意味でも漫画に近いが、滑稽味の意図は人生を見る時の余裕を忘れないことを観客に喚起させるためだ。コイスティネンが最悪の状態になりながらも命だけは救われ、そして再起を手伝う人物が現われることは、「万事塞翁が馬」のたとえであって、何事もものは考えようで、最悪のことも好転する場合があるという真実をアキ監督が考えているためだろう。そのことはやはり映画制作で経験したことではないか。最悪の災難も笑い飛ばせることは、人生を軽く考えていることだ。また映画作りもそうなるが、芸術であってもしょせん映画や小説は根本では人を救うことは出来ない。ただしこれは軽い気持ちで制作してよいことではない。真剣を貫き通しながらなおも軽いことを自覚するという意味だ。大芸術を信じないことはないが、現代はそういう偉大な芸術を生み得ない。その視点からロシアの巨匠を見つめると、次に書く本作冒頭の3人の男の談笑の意味がわかるのではないか。
●『街のあかり』_d0053294_17180645.jpg
 本作はどの場面も監督の思いがあって、無駄はないだろう。それは「これは無駄か」と思える場面の意味を考えさせることであって、本作で気づいたそれらを挙げよう。本作はフィンランドの港に近い場所が舞台だ。タイトルロールは主人公の独身男コイスティネンが夜警の勤務を終えて退社する場面だ。それが終わった直後、夜道に3人の中年男が語り合いながら歩いて来る。その話の内容が面白い。トルストイやチャイコフスキー、プーシキンやゴーゴリなどのロシアの巨匠の名前を挙げながら短く思いを言い合う。普通の労働者に見える彼らの語りは意外だ。もうひとつ意外と言うか、改めて思うのはアキ監督のロシア好みだ。チャイコフスキーの名前を出すのは、『愛しのタチアナ』や『浮き雲』で使われた交響曲第6番から納得が行くが、そう言えば本作ではシベリウスらしき人物の指揮棒を持った肖像画が出て来る。ロシア文学の巨匠の名前の列挙については、アキ監督は処女作として『罪と罰』を撮っているので納得が行くが、フィンランドに文学の巨匠はいないのだろうか。話を戻して、コイスティネンは3人が歩き去るのを見ながら表情を変えない。飲み友だちらしき3人は仕事仲間だろうか。コイスティネンにはそのように親しく話す仲間がいない。彼はほとんど感情を露わにせず、セリフもほとんどない。それでは何を考えているのかわからない不気味な男になるが、パブの前に1週間もつなぎ止められっ放しの犬を見ると黙っていられない。それに女性を恨むことはなく、その女性を操った黒幕の男をナイフで刺そうと実行するほどに激情的なところがある。本作は善良なコイスティネンとやくざ者、またやくざ者の言いなりになる美女とキッチンカーを経営する普通の女というカップルの対照性がわかりやすく描かれる。あまりにそうで、子ども向きの漫画と言ってよい。同じ構図は『浮き雲』にもあって、本作の半分ほどはその焼き直しと言える。アキ監督はもちろんコイスティネンのような人物に温かい眼差しを注ぐ。才能も運も、また人望もない底辺の人物はそこから這い上がるのは40代になっていればもう無理だろう。コイスティネンはロシア文学論を戦わせる飲み仲間もおらず、そのままではただの飲んだくれの老人になって行くのが関の山だ。本作はそこまで描かず、いつもは無視していたキッチンカーの女性がやくざに袋叩きに遭った後、現場に駆けつけてくれ、彼女と手を握り合いながら、出所後の木賃宿で隣り合った男と相談して自動車整備工場を経営する夢を語る。それまでは顔馴染みでありながら無視していた女性から親切にされ、コイスティネンはその情にほだされたのだろう。新たな人生を歩む連れ合いが間近にいたとの設定は、その先は成功が待っているような描き方だが、そう世間は甘くないことを観客はよく知っている。しかしふたりの先のことはあらゆる可能性があって、観客はどう考えてもよい。
●『街のあかり』_d0053294_11432677.jpg
 コイスティネンを口先だけの男と思う人もあれば、女性と暮らして人生が一変すると想像する人もあるだろう。ともかく生活が一段落ついたところで映画を終え、しかも登場人物が見せる仕草によって以前よりは明るい未来が待っていることを本作は暗示的に描く。本作は脇役としての女性の人生をさりげなく描くことにも見どころがある。コイスティネンは仕事が終わって酒場に行く。そこで以前から目をつけ、また声をかけていたらしい美人に話しかようとするが、無視される。それどころかその女性はやくざの親分の女になったらしい。この描き方は若い女性の本能をよく示しているだろう。若い美女は自分の美貌を少しでも高く売りたいと考えている。それで身なりや風格からして金のありそうな強者に接近する。これは昔従姉の夫から耳にした話だが、仕事仲間4,5人とともにキャバレーに行くと、ホステスは一瞬で誰が金を払うのかを察知し、そのひとりの男の脇に群がるそうだ。顔馴染みではない店に行っても必ずそうで、水商売女は男の金の匂いを熟知している。それは生活がかかっているからでもあるが、一方では金をたくさんもらってお洒落などの贅沢をしたいからだ。商売女でなくても女には本能的に強い男を嗅ぎ分ける能力がある。その点、警備服のままでバーに行くコイスティネンは、最初から女には「負け犬」と映る。親分は彼女を使ってコイスティネンを陥れ、警備の隙を突いて宝石店に入り、20万ユーロの額に相当する貴金属を奪う。コイスティネンは女を信じ切っていたのだが、女は親分の言いなりになる。親分がビルの一室で手下とともにトランプ・カードをしている場面では、その賭博を邪魔しないように彼女は部屋をこまめに掃除機で掃除する。その何気ない場面は親分がものにした女を女中のように使っていることを示す。一方、親分が彼女を伴なってレストランに繰り出す場面では、女を装飾品のように派手な化粧と身なりにさせている。女はそういうお飾りの自分に酔いしれて悪人の女になることを厭わない。しかし本作ではその親分は少し前にはコイスティネンがバーで声をかけた美女を横にはべらせるのであるから、やくざは手当たり次第に美女をものにするという図だ。これは万国共通で、日本の芸能界でも美女はみなやくざかそれ同然の男が最初に手をつけるのではないか。しかしそういう虚飾の華美を好む女がいる一方で、そうではないまともな女ももちろんいる。しかし男は華麗に見える女に引き寄せられ、痛い目に遭って目を覚ます。本作の主題はそのことだ。それは身分相応の異性同士が引き合うことで、この場合の身分はやくざと軽薄な美女、そして負け犬的男と生活感のあるまともな女で、負け犬男が軽薄美女に惚れるとろくなことはないという教訓を描く。しかしコイスティネンのいいところは、女に騙されたことを知ったのに、警察にそのことを一切言わずに服役することだ。
 彼は彼女がやくざの女になったことを憐れんだのではないか。コイスティネンはやくざの飾り物的な生活が長く続かないことを知っているほどにまともだ。彼は初デートの時、靴を磨き、車の内部をガソリン・スタンドの掃除機で清掃する。掃除機を使う場面は『浮き雲』にもあった。掃除は穢れの除去動作で、アキ監督がそこにどういう意味を持たせたのか。やくざの親分が女に部屋を掃除させることは、やくざがいつも立派なスーツを着て金持ちであることを誇示するにふさわしい行為でありながら、アキ監督は世の中から一掃されるべき存在が彼らであるとの皮肉を込めたようにも思える。アキ作品の大きな特徴は複数の作品に共通して登場するそうした場面の記号性だ。それが他の場面とモンタージュされて別の意味が浮かび上がる。いつもそうではないだろうが、そのように注目させることは場面に強いこだわりがあるからだ。ならば、冒頭の3人の男がロシアの巨匠の名前を挙げながら歩き去る場面はどういう深い意味があるのか。コイスティネンもやがて彼らのように文学を語る仲間が出来るかと言えばそれはわからない。また3人は老いてホームレスになるかもしれない。そのようにさまざまな可能性を一瞬のうちに想像させる含蓄のある場面がアキ作品にはままある。その余韻というべきものは、観客が自由に考えてよいもので、作品に膨らみをもたらせている。漫画ではそういう一種意味不明の場面はない。あれば読者は不満を抱え込む。作者が一旦作り上げながら、その後の展開に困って放置した要素とみなすからだ。だが冒頭の3人の登場は必要不可欠な断片として挿入されたものだ。それはロシア文学を読んだことのない人が本作を見ても理解出来ないという高い意識からではない。3人の話は冗談で、本当に小説を読んだかどうかわからず、フィンランドの中年男が文学の話をすることのありそうな現実性が面白い。深読みすればロシア文学の伝統上にアキ監督がどういう物語を理想としているかが措定され、歴史に残る映画を撮ろうという意気込みが見える。そうしたことの一端はセリフがない場合、映像のみで伝えるという映画独特の手法を重視したもので、映像の細部の重視が特徴的となる。しかしコイスティネンのアパートの出入り口前にパトカーが到着する場面にはわずかな瑕疵があった。車体横のポリスの「P」の文字が半分以上欠けた状態で画面に収まったのを確認したカメラマンはごくわずかにカメラをそっと左に移動させて「P」の全部をフレームに収めたからだ。「P」の文字がフレーム左端ぎりぎりに収まるように車を正確に停めることが難しかったのかもしれない。本作ではタイトルロールの最初からヘルシンキ南部の現代的なビルが映る。道路の幅がかなり広く、また小さい街であるので、グーグル・マップで調べると場所がすぐにわかった。

by uuuzen | 2024-07-01 23:17 | ●その他の映画など
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