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●『浮き雲』
中し 長文綴り 気は晴れて 次の投稿 ことこと煮るや」、「人生は 一度限りと 管を巻き 今日も酒飲み 現実忘れ」、「矢を口に 喉ちんこ刺し 知る痛み 暮らしは辛し 七つの味の」、「炎天の 下に佇む 警備員 ピンハネのボス クーラー部屋に」
●『浮き雲』_d0053294_02422272.jpg
アキ・カウリスマキ監督の1996年制作の『浮き雲』について書く。長編第12作目とのことで、順に全部見て行くいいのだろうが、手元にはまだ見ていない2枚のDVDがあるのみだ。本作はカラーで、映画が始まってすぐ、画面の色合いの美しさに驚く。どの場面も北欧の絵画を見るかのように入念に配色が考えられ、監督の絵画の才能を感じさせる。実際主人公の夫婦が暮らすアパートには壁紙やテーブル・クロスや家具などの色合いによく似合った現代風な写実絵画が掛けられる。夫婦の暮らしは4年ローンでソニー製のブラウン管のカラー・テレビを購入した場面から始まるが、TV画面を見せずに音だけを伝える。外国の惨事を伝えるそのニュースの声を主人公の女性が掃除機の手を休めて聴き入る場面があって、それは本作の物語に全く関係がないものとして本作を見る者はすぐに忘れるだろうが、監督は無駄はものを含めていないはずで、そのニュースを伝える場面は通奏低音のように案外重要だ。夫婦は自家用車を所有し、テレビのローンが終われば本を買おうというセリフから伝わるように、裕福というほどでは決してないが、日本の同世代の夫婦とは違う文化生活の質が伝わる。さて、原題の『Drifting Clouds』を「き」を省いて『浮雲』とすれば林芙美子の同名小説と混同されるとの考えがあったかもしれない。本作の最後の場面では、フィンランドでヒットした曲なのかどうか、男性ヴォーカルの明るいポップ曲が流れる。その歌詞に「Drifting Clouds」の言葉があるようで、本作は林芙美子の小説とは関係がないだろう。DVDのジャケットには映画の最後の場面である、主人公の夫婦を見下ろす写真が使われる。これは彼らが晴れた空の漂う雲を見つめていることと暗に示し、背景に流れる音楽とふたりの表情と相まって、ハッピー・エンドであることを伝えている。しかし映画の大部分は職を失って金策に走る夫婦を描き、観客は90年代半ばのフィンランドの中年庶民の置かれた位置を知ることになる。そのため、最後の結末はひとまずは幸福が戻って来たことに観客は笑顔になるが、映画は監督の思いひとつでどうにでも描けるから、結末を最悪の状態にすることはもちろん出来たし、現実にはその可能性が大きい。だが職を失って自殺する人間を主人公にした映画は人気を博すはずがない。そこでドン底に落ちた主人公がいかに這い上がるかを描く物語がり続けられる。そこには友情を初めとした人間の優しさが付与されることが常套手段となるが、現在世界的に人気のある漫画やアニメはみなそのことを基本にしているのではないだろうか。
 そう考えると本作は漫画にぴったりの物語で、ハッピー・エンドは何となく騙された気分になる。とはいえ本作の主人公たちの結末が幸福としても翌日、翌月、翌年はわからない。アキ監督は観客がその心配をすることを知りながら、開店初日のレストランが大盛況のうちに終わる設定にした。となれば主人公ふたりが見上げる空に漂う雲は、人間の明日が不明で流動的であることを示しつつ、逆境にあっても諦めてはならないことを監督は伝えたかったことになるが、そういう漫画のような意図では陳腐な作品になる。いくら努力してもそれがかなうことはないのが世間の常識であるからだ。本作のハッピー・エンドは他者からの援助が舞い込むという幸運のおかげだ。これは宝くじに当たる確率で、本作はそのことから童話じみているが、主人公たちがその幸運に恵まれるのはそれまでの真面目な働きによることを本作は描き、結局幸運は真面目に生きてこその信頼によって訪れることを知る。筆者は徳には必ず隣りがあるという中国の古い名句を好むが、本作を一言すればそのことを描く。ところで、アキ監督の映画はセリフが少なめで、映像のみで伝える場面がよくある。映像の最大の様子は俳優の表情、演技で、同じ俳優をしばしば使う。本作の主人公の女性イロナを演じるカティ・オウティネンは『マッチ工場の少女』や『愛しのタチアナ』に登場し、アキの映画のファンはそのことで「またか」という気持ちよりも、「今度はどんな役か」との期待を抱く。本作には『愛しのタチアナ』に登場した母と暮らして縫製仕事に従事する男レイマンが中古自動車販売店の店員として、ほとんど同じ服装でわずかに姿を見せる。それもアキ作品をよく知る者は笑顔になる要素だ。ファスビンダーもそうであったが、気心の知れた仲間と何年にもわたって映画を撮る監督のこだわりの手法を確認することがファンの楽しみとなっている。これはザッパの「概念継続」の考えで、アキはおそらく一作の映画は必ず他作にどこかでつながりがあるように仕組んでいるだろう。それは配役だけではなしに、アキの場合は使用する音楽が特にそうだ。『愛しの…』ではチャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』が使われたが、本作にもそれは使われる。アキ監督がどういう場面でその曲を使用するのかと少々考えたが、使われる場面に共通性があるとは思えず、深い意味を込めていないのかもしれない。『愛しの』では自動車修理工のレイノがタチアナの横に座る場面と、レイマンがひとりで家に戻って来た時に流れる。そのふたつの場面のどちらもアキ監督が「悲愴」であると描きたかったのであれば、レイノとタチアナの愛の芽生えは悲劇の始まりになる。実際レイノが出会ったばかりのタチアナと彼女の国に暮らし、作家を目指したところで食べて行くことは無理な話だろう。それとも自動車修理工の傍ら、詩でも書いていた可能性はあるか。
 ともかく、レイノはタチアナにとって初めはよくても、しばらくすると幻滅する相手になるかもしれない。ウォッカを手放せないレイノとの設定からそう想像するのだが、タチアナも鞄の中に同じウォッカの瓶を忍ばせ、たまに飲む場面があったので、酒が原因で別れることは考えられないかもしれない。ともかくふたりは孤独を抱えた似た者同士で、それを見越しての『悲愴』のメロディの使用ではないかも思うが、前述のように誰でも先のことはわからず、決心した時点で幸福であればよしと考える。それは刹那的との謗りを受けやすいだろうが、アキ監督は「刹那の幸福」を信じているように見える。そのことについて書くと脱線が過ぎるので話を戻すと、レイマンは単調な生活に戻るから、『悲愴』の音楽を背後で鳴らすことは理にかなっている。本作では『悲愴』は3つの場面で使われる。最初は妻のイロナが夫のラウリの運転する車庫入り寸前の市電に乗車し、イロナが運転席のそばに立って満足な表情を浮かべる時だ。幸福を噛みしめている場面ゆえに『悲愴』はふさわしくないが、急速にふたりの人生は暗転するから、その予告と思えばいいか。その後に『悲愴』が使われる場面も同様に考えればそれなりに納得が行くが、自国にシベリウスがいたにもかかわらず、アキ監督はロシアの古典音楽を大いに好むことには理由があるのだろう。『悲愴』は交響曲であるから流行歌と違って長く、また歌を伴なわないので、引用する場合、かなり自由が利く。本作で使用される3つの場面で監督は同じメロディが使わず、それぞれ固有の意味をもたせたのだろう。そのことを仔細に分析する気力はないが、画面の絵画的な構成と俳優の演技、そして味付けと言ってよい音楽それぞれに厳密な計算はあるはずで、本作で使用される音楽が映像の理解を助ける重要な要素になっていることは『愛しの…』と同様だ。『マッチ工場の少女』ではレストランで楽団が演奏する場面があった。それは『愛しの』でも本作でも踏襲され、特に本作ではレストランが物語の中心となるので、生演奏は欠かせないとの監督の判断だ。実際本作の冒頭で黒人ピアニストのソロの演奏と歌が端折りなく披露される。また6人編成のバンドによる哀愁を帯びた歌と演奏の場合も一曲丸ごと使用して少々長いかと思わせるが、本作を現代版のオペラのように仕上げたかったのだろう。『愛しの』はロックンロールが主体にしながら、さびれたホテルのホールでは高齢の男性歌手がアコーディオンの伴奏ひとつで歌う場面があった。同曲では客がその歌に合わせて踊る場面が用意され、同様のことが本作では前述の6人バンドの生演奏場面にある。それはイロナが給仕主任として長年勤務して来た、ヘルシンキで最も古いレストランとされる「ドゥブロヴニク」が閉店する日のことだ。古くからの馴染み客が花束を持って駆けつけ、生演奏で多くの老人カップルがダンスをする。
 その場面の切なさは筆者のような高齢者には涙ものだ。アキ監督も同様の思いでその場面の挿入を脚本段階から決めていたに違いない。それは時代遅れになってお払い箱行きとなる存在に対する惜別の情だ。時代は常に更新するからどんなものでも必ず古くなる。用なしとなって壊されるか、人間であれば死ぬが、その事実の前で残って行くものがある。それを必要とする人がいる限りにおいてだが、チャイコフスキーや『悲愴』はたぶん今後何百年も安泰だろう。ミュージシャンの生演奏もそうだろうが、特別有名な人物が特別の金を取って演奏する場に限るかもしれない。本作では「ドゥブロヴニク」が雇っての、しかも基本は一夜だけの演奏との設定で、スーツを着た高齢のミュージシャンが切々と演奏する。男性歌手が歌う姿やその音楽で客が踊る様子が日本であったのは、昭和30年代までではなかったかと思う。フィンランドでも事情は同じだろうが、本作では「ドゥブロヴニク」の経営者の女性は夫亡き後、38年間経営を続けて来たとの設定で、彼女は閉店の区切りに豪華なバンドを呼んだ。それが時代にそぐわないことは知っているが、高齢の顧客への最後のサービスだ。そういう情の深い経営者であったので、レストランは細々ながらも経営が続けられて来たが、イロナを初め、働いている者はみな客の減少は自覚していて、それを最も敏感に感じているのは料理長のラウネンだ。彼はしばしば勤務中に酒を飲んで同僚に刃物をかざすまでになっている。本作では一か所のみデスクトップのパソコンが映る場面がある。そこから本作が制作された96年頃を描くことがわかる。20世紀の終わりとなればフィンランドでも時代が急速に変わって行ったことが想像出来る。路面電車の運転手であるラウリは40代との設定だが、突如人員整理のくじ引きで退職組となる。8人の運転手のうち半分が肩たたきに遭うのだが、その理由は運転手もよくわかっている。地下鉄が出来たうえ、自家用車を持つことが普通になったからだ。一方イロナは最初は美容師の免許を取って半年働き、その後結婚して子どもをひとり産んだが、その息子は2歳くらいで死んでしまう。そのことはセリフにはなく、イロナが悲し気に本棚に飾った息子の写真を眺める場面からわかる。その後は子どもが出来なかったのか、夫婦は犬を飼う。『愛しの』でも犬はわずかに登場し、またその場面は強い印象を与えるが、本作での犬はDVDのジャケット写真でラウリが抱くように、何度も大写しになり、またその寡黙で従順な態度は犬好きでなくても微笑む。「ドゥブロヴニク」で皿洗いから始めて給仕長になったイロナは38歳で職を失い、夫婦それぞれ職探しを始める。まだ40代であるとの自信たっぷりのラウリはロシアまで走る観光バスの運転手の職を見つけた途端、身体検査で左の耳の聴覚がないことを伝えられ、即座に失格となって免許を取り上げられる。
 イロナは「ドゥブロヴニク」で長年働いいて来たのに、面接の際にその古い店で働いて来たことが逆に失点とみなされ、38歳ではいつ倒れるかわからないとも言われる。40代と38歳の夫婦では、新しい時代にはまともな再就職先がないというのは日本でも同様だろう。よほどの能力があれば別だが、たいていは以前より賃金の低い仕事しかない。そういう不況であるから「ドゥブロヴニク」は閉店になった。外食する人が減り、金を使う若い世代は安価な食べ物を提供するチェーン店を利用する。そのことは本作でも語られるが、チェーン店ではクローク係は不要で、客筋は悪い。「ドゥブロヴニク」の女性経営者がイロナに言うように、もっと早く時代に合わせた改装をすべきであった。日本ではレトロな喫茶店が近隣の馴染み客で経営が維持出来ている様子がTVでたまに紹介される。それは店舗を所有し、家賃を気にする必要がないからだ。「ドゥブロヴニク」のように銀行に借金がある状態では、また客離れが目立つのであれば、いずれ店を閉めるのは当然だろう。弱っていると見える店を買収するのはどの国でも同じだ。店を拡大しようとするチェーン店が銀行と裏で取り引きして「ドゥブロヴニク」を乗っ取ったのだ。女性経営者は『愛しの』で郊外のホテルを経営する人物と同じく、エリナ・サロが演じた。彼女のかわいい童顔は筆者の好みだが、本作では『愛しの』とは違って出番は多く、重要な役割を演じる。さて、イロナは手を尽くした結果、妻に逃げられた男が所有するバーで給仕兼コックの働き口を見つける。「ドゥブロヴニク」の給仕長から何段階も下に落ちた形だが、これは現実だろう。風格のある店で長年働いていたことは却って新しい職場では煙たがられる。イロナはあるレストランでの面接で、若くて美しい女性たちがテーブル・クロスをかけている場面を目撃する。彼女らは見栄えからしてイロナにない華やかさがあり、先輩格となる彼女らと新入りのイロナが一緒に仕事することは無理だ。店主は少しでも若い人材を求める。それは食べ物商売だけに限らない。しかし40歳手前でどのような新しい仕事が出来るか。コック長であったラウネンは「ドゥブロヴニク」を去ってからはほぼホームレスで、アル中の姿でイロナが働くバーにたまたまやって来る。イロナがバーで働き始めて6週間経った時、税務署員ふたりがやって来て店の税金支払いについて質問する。イロナは店を所有する男からまとまった給料をもらっておらず、税金も納めていないことを知る。男は売り上げを持ち去ってはやくざ者と隠れ賭博をするような人物で、その賭博現場にラウリは妻の給料を得るために訪れるが袋叩きにされ、大けがをしたまま港近くの路上に放置される。怪我が治るまで安ホテルに逗留し、よくやく赤い薔薇の花束を持ってアパートに戻ると、妻がラウリの妹の部屋に転がり込んでいたことを知る。
 殴られた際にラウリの革靴の片方が崩壊状態になったのか、イロナはその靴を「ドゥブロヴニク」のクローク係であった男が勤める靴のスピード修理店に持ち込む。日本でもよくある店だ。彼も40代だろう。靴の修理をしたことがないではいつクビになるかわからず、また社会的信用もない。彼はイロナに提案する。イロナは「ドゥブロヴニク」の経営者ではないが、実質的には店を切り盛りしていた。その腕を買って新しいレストランを経営してはどうかと進言し、イロナも決心する。長年慣れた仕事に戻るのが一番なのだ。そしてイロナと一緒に彼はスーツを着て銀行を訪れるが、頭取はイロナらの手持ちの金の少なさと、保証人がスピード靴修理の仕事では金を貸さない。ローンが残っている家具やTVが持ち去られた後の部屋で、イロナは以前と同様に8人を雇うとして、新しいレストランのための準備資金の計算をする。しかしラウリの車を売ったお金では足りない。夫婦は一か八かのルーレット賭博でその元金を増やそうとするが、すべてを失ってしまう。アパートが売られるという話を聞いた夫婦はラウリの妹の部屋にでも転居しなければならない。車を売った金を一瞬で失うのは愚かな行為だが、切羽詰まった焦りからなおさら悪い状態に陥ることはよくある。結局また地道に職を探すイロナで、そこで思いついたのは昔半年だけ携わった美容院での勤めだ。ここから劇的に運が回って来る。とある美容院に働かせてもらえないかと入った時、たまたまかつての「ドゥブロヴニク」の女性経営者が店に入って来てイロナを見つける。そして彼女に出資を申し出る。イロナは「店が失敗して破産してもいいいか」と訊くと、彼女はイロナの采配を知っていて、「きっと儲かる」と言う。引退後の彼女は遺書まで書いたが、暇を持てあました。そして再婚寸前にまで行った男と出会ったが、最後にその男はボロを出したと言う。現在の日本でもよくある高齢者を狙った結婚詐欺だろう。ヘルシンキは日本とは全く異なる世界のようだが、本作は日本に置き換えてそのまま不自然さがない内容だ。しかしイロナの長年の勤務状態を見て来た経営者が、引退後にイロナのために一肌脱ぐ設定は現実的か。そこは俳優の顔つきや演技力が観客を納得させ、エリナ・サロの柔和な顔は観客に疑いを抱かせない。ドン底から這い上がれない夫婦は世間ではいくらでも例があるが、万にひとつはイロナの境遇のように救う神が現われるかもしれない。最初に書いたように、それは長年の真面目な働きぶりを見てのことだ。そういう真面目なイロナであったので給仕長になり、職場の他の者も上司として敬愛した。資金の目途がつき、イロナは早速店を探す。内装を手伝い、かつての同僚を全員集め、ラウネンを見つけてアル中の矯正施設に放り込み、彼が完治して戻って来てから店をオープンする。その名前は「レストラン・ワーク」だ。
 フィンランド語なので「WORK」かどうか確証はないが、そうだろう。「ワーク」は働けば食べられる、食べるには働くという真実を込めたものだ。これが本作におけるアキ監督の最大の思いではないか。しかし腕があっても時代の推移でそれを使う場所がなくなることはある。それは雇われの身であるからだ。ならば自分で営業すべきだが、飲食の商売ではやりやすいとして、他の専門職ではどうか。イロナがまた美容院に勤務しても、20年ほどの遅れがある。人生はやり直しが出来ない。若い間ではいいが、40前になると無理だ。それで頑張りが効くなるべく若い頃に一心不乱にやりたい仕事に没入せねばならない。そうしてもイロナやラウリのように職を失うことがよくある。培った腕を奮うには本作が示すようにまとまった資金が必要だ。かつかつの暮らしではラウリ夫婦のように、車を持ち、新しい家具やTVを買う程度の余裕があるだけで、店を持つほどの金は貯まらない。人並みの基準をうんと下げれば、低収入でもどうにか満足して生きられる。イロナとラウリはその立場に甘んじようと思ったのだろうが、幸い人脈、人望があった。普通に働いている人ならばたいていの人はそうだろう。もっと言えば、本作の結末を夢物語と受け取る人はイロナのような幸運は訪れない。そう捉えると、本作はレアリスムにロマン主義を加えたものに見えながら、レアリスムそのものと言っていいのではないか。現実は夢も希望もない厳しい世界であっても、人は夢や希望を持たねば生きていけない。それが現実だ。さて、本作がアキ監督の馴染みの俳優を起用している点で、レストラン「ワーク」は監督のチームのアナロジーと思える。映画作りは賭けだ。俳優や撮影隊に支払う賃金を賄って充分に余裕のある売り上げがなければ次作は撮れないどころか、大きな借金を抱える。そういう賭けの職業はレストランの経営以上に困難だ。監督や俳優、その他の裏方はみな「ワーク」に見合う仕事をするのは当然として、次がもうないかもしれない。本作は最後に「マッティ・ペロンパーに捧ぐ」と表示が出る。これが誰かと調べると、『愛しの』で自動車修理工を演じた俳優で、95年に44歳で心臓発作で死んだ。名優で切手にもなったそうだが、筆者は『愛しの』でしか彼の演技を知らない。しかし本作のラウリ役は『愛しの』との概念継続からすれば彼が演じてもよかったし、その方が印象深い作品になったように思う。本作のラウリ役もいいが、何となくイロナ役と比べて印象がうすい。しかしその平凡さがいいとも言える。というのは彼は妻が新たに経営する「ワーク」で会計係として働くからだ。そのことからして、圧倒的に妻のほうが生活力がある。「ドゥブロヴニク」と同じメンバーに加えてラウリの給料まで捻出するのでは、「ワーク」の前途は厳しいと思うが、とにかく船出したからには知恵を絞って店を繁盛させねばならない。
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 「ドゥブロヴニク」はかつてユーゴスラヴィアにあって「アドリア海の真珠」と呼ばれた古代からの歴史がある街だ。『週刊朝日百科 世界の地理』からその街が紹介される頁の写真を載せておく。90年代に入って本作が撮られる頃までボスニア・ヘルツェゴビナの紛争が続き、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は8つの国に分離した。そのうちのコソボの紛争はまだ続いているのか、グーグル・マップではセルビアとの国境は破線で記されている。紛争の原因はユーゴスラヴィアが多民族国家であったからで、そうなれば宗教がらみの問題も生じる。「ドゥブロヴニク」の都市はあまり破壊されずにクロアチアの最南端の飛び地となった。その名前のレストランがヘルシンキに実際にあったのかどうか知らないが、アキ監督がこの名称としたのは理由があるだろう。本作では女性経営者が夫の肖像画を眺める場面がある。戦前のものとおぼしきその白黒の絵画は容貌がはっきりとしないが、ユーゴスラヴィアからの移民であったかもしれない。そこまで想像させるのは、イロナが夫がローンで買ったばかりのTVでニュース映像を見る場面があるからだ。前述のようにそのTV画面は映されないが、監督はニュースの内容に関心があったと考えてよい。それは自然災害と思想弾圧のニュースで、たとえば日本のTVで毎日大量に流される芸能人やお笑い芸人が騒ぐような娯楽番組であれば、イロナの人格はたいしたことがない。監督は本作を撮影する背後で深刻なことが世界各地で起こっていることを伝えようとした。そうした災害や事件に比べてイロナとラウリの失業は取るに足らないことかもしれないが、生死にかかわる問題であることには変わりがない。ユーゴスラヴィアの分解は日本ではなかなか実感しにくかった。平和なフィンランドでもそうであったと想像するが、日本ほどの平和ではないだろう。ともかく監督は本作の背後に世界の悲劇の現状の一端をさりげなく示し、災難が庶民にいつ降りかかってもおかしくないことを伝える。平和は突然崩れる。しかし戦争の爆撃や虐殺があっても、庶民は働かねば食えないことを本作は言いたいのだろう。「ドゥブロヴニク」のレストランを閉店させる代わりに「ワーク」の名前の店が生まれることは、監督の社会主義思想への傾斜を示すようにも感じられる。ロシアに強い関心があるのは確かだ。『愛しの』ではクラウディアがロシアのコルホーズで13万キロのジャガイモを収穫出来たという話をする。ジャガイモはフィンランドでも主食で、そのことはミカ・カウリスマキの『世界で一番しあわせな食堂』でも描かれる。ウォッカ飲みが登場することもフィンランドのロシアとの親近性が見える。となればロシアとウクライナの戦争を監督がどう思っているかが気になるが、両国の戦争がフィンランドに及ぼす影響から新作が撮影された、あるいはされるかもしれない。
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by uuuzen | 2024-06-02 23:59 | ●その他の映画など
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